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六、番鳥

(二)

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 「おう、よし。いいぞ。あ、でもあんまギューッと目をつぶるなよ。薬が流れちまうからな」

 目の前で、顔を仰向けて立つ子どもに言う。

 「そうだ。ゆっくり、ゆっくりな。ゆっくりパチパチするんだ」

 「……こう?」

 「そうだ。上手いぞ」

 目に点した薬が流れないように。薬が目全体に行き渡るように。

 「あ、痛くない」

 「よっしゃ。よかったな。もういいぞ」

 子どもがまばたきをくり返しながら、こちらを見る。

 「いいか。次からはちゃんと手を洗ってから目に触るんだぞ。でないと、目が開かなくなっちまうからな」

 「うん。ありがとう!」

 ニコッと笑った子ども。目の痛みがとれ、うれしそうに走っていく姿を、手を振って見送る。

 「すまないねえ、いつも」

 「いや、あんなぐらい構わねえよ」

 さっき診た子どもの親から言われた礼に、軽く笑って答える。
 
 「目の病とかじゃなくってよかった」

 目が開かない。目が痛い。
 そう訴えてやって来た親子。最初は病気かと疑ったが、結果は「泥遊びの最中に目を触った」だった。泥が目に入ったのだろう。真っ赤に充血していたが、目を洗い、薬をさせば問題無い程度だった。

 「ただ、ああいうのをくり返すとよくねえから。泥遊びしてる時は気をつけるようにしてやってくれ」

 薬で治せるといっても、くり返していいわけじゃない。これからのこともあるし、ちゃんと伝えておく。

 「……先生、いるかい?」

 子どもの出ていった扉。軽く叩かれ、中年の男が入れ替わりやって来た。

 「俺の母ちゃんがさ、腰が痛え痛えって、床から起き上がれなくなってるんだ。いっちょ診てやってくれねえか」

 「オバさん、またか」

 「ああ、まただ。『リュカちゃんはまだか~、まだか』って朝からうるさいんだよ」

 うんざり顔のオッサン。
 母親の腰痛の心配よりも、毎度の口癖に辟易としてるらしい。

 「母ちゃん、リュカの顔を見たら『治った!』だもんなあ。勘弁してほしいぜ」

 「ハハッ……」

 オレの顔にそんな効用あるわけねえだろって言いたいけど、頼る相手の顔を見たら良くなったってのは、まあまああることだからオレも文句は言わない。それに、そこまで頼られてる、信用されてるってのは、悪い気はしない。皇都に居た時も、じいちゃんの顔を見たら「治った!」って言ってる患者がいたし。同じことになってるのなら、むしろ治癒師として誇らしいぐらいだ。
 オッサンに先導されるようにして、階段を降りる。
 オレが逗留しているのは、村に一軒しかない宿屋の二階。一階が飯屋になってるここで、治癒師として村の人達の面倒を見ている。
 皇都から遠く離れた東の村。薬師すらいない村で、オレの腕はかなり重宝された。まあ、行く宛もない旅だし、必要とされるのならそれでいいかと、ここに留まっている。

 (じいちゃん、元気かなあ)

 都から放逐されて五年。
 いきなりの出立、追放だったから、じいちゃんに顔を合わせることも出来なかった。まあ、あのじいちゃんだから、心配しなくても元気に患者を診てるだろうけど。
 皇都に戻りたくない、じいちゃんに会いたくないって言えば嘘になるけど、オレが戻ったりしたら、じいちゃんにも迷惑かけちまうから、どうしようもない。

 (ま、じいちゃんなら元気だろ)

 都から放逐されて五年。
 皇国のいろんなところを旅した。北の山脈へ、西の街道へ、南の大河へ、そして東の海へ。皇都には立ち寄れねえけど、その代わりにいろんなところを見て、いろんなことを知った。珍しい薬草にも出会えたし、書でしか知らないような症例も診た。
 その昔、じいちゃんもそうやって旅して治癒師としての研鑽を積んだって言ってたし、死んだ父ちゃんも同じように旅してて、そこで薬師の母ちゃんと出会ったってノロケを聞いたことあったし。だからオレも、これを機会に、じいちゃんや父ちゃんを真似て、方々を旅した。
 この先、父ちゃんみたいに伴侶を見つけてそこで落ち着くか、それとももっと旅してじいちゃんみたいに腕利きの治癒師を目指すか。まだ何も決めてねえけど。

 (なるようになるさ)

 この先の人生、目的地も何もかも。
 若いんだし、治癒師なんだから、オレ一人の食い扶持ぐらいなんとかなる。とりあえず、この村には冬を越して春になるまで留まるつもりだけど、そのまま夏を迎えても問題ない。困ってる人がいて、必要とされる限り、どこででも生きていける。

 「よお、リュカ。これから診察かい?」

 階段を降りていった先で、顔なじみのヒゲモジャ行商人、ロンガに声をかけられる。

 「そうだけど。ロンガさん、お帰り。またいろいろ仕入れてきたのか?」

 「おう。お前さんの好きそうなもんもいっぱい集めてきたぜ。このあたりじゃ手に入らねえ、珍しい薬草もあるぞ」

 「うわ。それ見たいけど、――ちょっといいか?」

 「そう言うと思ったぜ」

 「治癒師バカだからな、リュカはよう」

 ロンガが卓の上に広げた商品。それに飛びついたオレを見て、呼びに来たオッサンとロンガが笑い合う。
 東の村々では手に入らない、大小ざまざまな草。葉。根。種。どれも必要になりそうだし、どれも欲しいけど、そうすると懐具合が不安になるから、本当に必要なものだけを買うとするか、どうするか――。

 「そういや、都でのこと、聞いたか?」

 オレが吟味している間、ロンガが切り出した。

 「ああ、皇帝が死んだって話だろ? それぐらい、村の誰もが知ってるさ」

 皇帝陛下の薨去は一ヶ月ぐらい前の話。こんな僻地にある村でも、時間差はあるけど、それぐらいの情報は回ってくる。厨房から顔を出した宿屋の主人が話に加わった。

 「なんでも女の腹の上で、ポックリ逝ったんだろ?」

 「俺は、若い姫さんもらって、張り切りすぎて腎虚になって死んだって聞いたぞ?」

 皇都から遠く離れた村。この先は海しかないような場所では、皇帝を敬うとかそういう感覚が存在しない。この国で一番偉い人物、この国の為政者と言われてもピンとこないんだろう。「崩御」「薨去」を「死んだ」と言ってのけ、腹上死という噂に、男として最高の死に方だなと、密かに笑いを含む。

 「その話じゃねえんだよ。そりゃ、皇帝は女の腹の上で死んだけどよ。俺が言いたいのはその後のことだよ、後の」

 「後の?」

 聞き手となった二人が首を傾げると、ロンガがフンッと鼻を鳴らした。偉っそうに話すわりに、ロンガも「尊敬の念」という意味では、宿の主人たちと大して変わらない。

 「おい、どうした、リュカ。お前もいっちょ前に興味があるのか?」

 「いや、別に……」

 薬草を取るオレの手が止まったことを、目ざとくロンガが見つけた。

 「腎虚になるまで女とヤッて、その最中に死んだとなれば、気にもなるだろうさ。リュカだって、いい年だしなぁ。治癒師バカでも女に興味ぐらいあるだろうさ」

 アッハッハ。
 宿の主人が豪快に笑う。

 「そんなんじゃねえよ。ただ、あっちには残してきた家族がいるからさ。気になっただけだ」

 「そうか、リュカはあっちにじいちゃんを残して旅してるんだったな」

 苦しい言い訳だったが、そこにいる誰にも疑われずにすんだ。
 本当は、気になったのは、じいちゃんじゃなかったってことを。
 納得してもらえたことで、また何ごともなかったように薬草に視線を戻す。

 「あのな。皇帝様には二人の皇子がいたんだけどよ。どっちが次の皇帝様になるかってので、ひどく荒れたらしいんだよ」

 声をひそめた話題。ここだけの話と、再び始まったヒソヒソ話に、薬草に集中してるフリしたオレの全身が耳となる。

 「普通、跡継ぎって言ったら兄弟の兄が継ぐもんだろ? だけどな、後妻だった皇后が権力を握ってたらしくてな。自分の産んだ弟の方を皇帝様にしようってしたらしいんだよ」

 乾燥した根、紫根を持った手がピクリと揺れた。
 ルーシュン皇子とジェス皇子。青い目と赤い目の異母兄弟。
 二人の懐かしい顔が、脳裏をよぎる。
 彼らの父親、皇帝陛下が薨去されたことは知っていた。知っていたけれど、その先は――。

 「で、どうなったんだよ? 兄弟で争ったりしたのか?」

 オレの代わりに、宿の主人がロンガに結論を求める。

 「それがよ。俺も詳しく知らねえんだよ」

 「なんだよそりゃ。もったいぶりやがって」

 聞き入ってたオッサンが悪態をつく。


 「俺が知ってるのは、兄弟のどっちかが勝って、負けた方は僧院に送られたってことだけだ。あと、元号が『朱烏しゅう』になったと聞いた」

 「朱烏しゅう……?」

 赤いからす
 確か前の元号が「黄嘉」。皇帝陛下の目が琥珀色、土の力を持っていたからそう名付けれていた。元号に使われる文字は、皇帝の目の色と同じ。だとすると、勝ったのは――?

 「――オッサン、悪いけどオバさんの腰はこれを使ってやってくれ」

 「リュカ?」

 驚くオッサンの前に薬を置いて、一人階段へと歩き出す。

 「オレ、行かなきゃいけねえ場所ができた」

 それが二度と踏み入れてはならない禁忌の場所だったとしても。
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