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三、慈鳥

(五)

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 「皇子~、散歩に出かけるぞ~。……って、すまん。仕事中だったか?」

 卓に向かい、書を手にする皇子の姿。
 バアンと扉を開けた勢いが、その姿にいくらか削がれる。

 「いや。もうそんな時刻か」

 「ああ。そうだけど……待った方がいいか?」

 「そうしてくれると助かる。切りの良いところまで読んでおきたい」

 「わかった」

 言って、手近にあった牀に腰掛ける。
 皇子の室を訪れたのは、皇子を外に、庭園に誘い出すため。
 「愛しの姫と一緒に散策したい」とかなんとかぬかすから、毎日こうして散歩に誘いに来てる。――〝愛しの姫〟っての、いい加減、マジでやめてくれねえかな。
 まあ、治癒師として、患者の具合を診なくちゃいけねえから、一緒に歩くってのは構えわねえんだけど、その〝姫〟ってのがなあ。

 ――ほら、あちらが殿下の……。
 ――あの近侍の……。

 ってのはまだいい。殿下のために料理をするかいがいしい姫ってのも、……まあ、許す。オッサンの〝娘〟ってのも問題ない。けど。

 ――殿下は、姫を片時も手離さないほど寵愛されておられる。姫のために新しく調理場を設けるほどだからな。
 ――初めての相手に溺れていらっしゃるのだろう。殿下もまだ十三。お若いですからな。ハッハッハッ。

 ……その「ハッハッハッ」に含まれる部分に怖気が走る。そして。

 ――あんなチンクシャぺったんこのどこがいいのかしら。
 ――ヒョロッとして顔も十人並みですし。なんの色香も感じられませんわ。

 感じられるわけねえだろ。オレは男だ。色気なんてあってたまるか!

 皇宮内で聞こえてくる噂、ヒソヒソ話にうんざりする。
 まあ、「皇太子殿下のご寵姫」ともなれば、気にならないやつなんていないだろうけど。
 今の皇宮。
 政治を牛耳ってるのが現皇后とその一族だったとしても、どれだけこちらが冷遇されていたとしても、コイツが世継ぎなことは変わらなくて。コイツが皇帝に即位すれば、国内の勢力図は一気に書き変わる。
 オレはあくまで「閨事指南の姫」、コイツの筆おろし役だから皇后になることはない。けど、オレを見て、皇子の性癖を知っておくことは、自分の血筋から皇后を輩出したい連中にとって、どんな姫を差し出したらいいのか、いい傾向と対策になるだろう。

 (注目されて、うれしくもねえけどな)

 お手本にされても、正直困る。

 (って、コイツの皇后、嫁さんかあ……)

 牀の上に胡座をかいて、皇子の横顔を眺める。
 室の北側、高い所にある窓から差し込む、柔らかい午後の日差しが、熱心に書を読む皇子に陰影をつける。
 日に当たった肌は、以前と変わらず透き通るように白いけど、病的な白さじゃない。薬と食事の効果か、頬もほんのり桃色になってる。唇も赤くプルンッと潤ってるし、全体的に肌の張りもいい。ちょっとぐらいのことで倒れる心配はなくなった。

 (にしても……)

 日差しが照らし出す、ほっそりとした首筋。そこに、後頭部で結い上げそびれた後れ毛が影を作って落ちる。
 書に視線を落としてるせいか、伏せ目がちの青い瞳を、長いまつげが覆い隠す。スッと整った鼻梁。秀でた額。時折、かすかに出張りはじめた喉仏が上下する。

 「どうした? 何を見ている?」

 「えっ、あ、やっ、なんか、キレイだなって」

 「キレイ?」

 「その目、目だよ! 真っ青で、透き通って、硝子玉みたいでさ! そんなに青かったら、どんなふうに見えてんのかな~って思ってさ」

 向けられた皇子の視線にシドロモドロ。って、え? あ? オレ、何言ってんだ? 硝子玉ってちょっと安っぽかったか? 宝石のがよかったか? あ、いや、そういうことじゃなくてだな。えっと……。

 「きみは、世界が真っ黒に見えるのか?」

 うん、そうだよ、そうだよな。バカを言ったって自覚あるから、あんま突っ込むな。そんでもって、呆れた顔すんな。キレイな顔の分、呆れが強調されて、一層自分がバカに思えてくるから。

 「僕は、きみのその黒い瞳がうらやましいよ」

 「この黒目が?」

 首を傾げ、自分の目を指し示す。

 「うん。僕もきみと同じ目の色で生まれたかった」

 軽く笑って、息を吐き出した皇子。青い目を少しだけ細められた。

 「そりゃあ、ないものねだりだな。オレからしたら、その青い目の方が何倍もうらやましいけどな。めちゃくちゃキレイだし」

 顔立ちもそうなんだけど、一番キレイだって思えるのは、その目だった。青い青い、空や水の青さをギュッと濃縮したような青さ。それでいて一つも濁ったところはなく、どこまでも澄んでる。
 「キレイ」としか言えない自分が歯がゆい、そういうキレイさを持ってる、青い瞳。

 「きみにそう言ってもらえるのなら、この目も悪くない……か」

 へ?

 「でも、本当にきれいなのは、きみの方だよ、リュカ」

 書を置き、皇子が席を立つ。

 「つややかな濡羽色の髪、黒曜石を思わせる黒の瞳。愛らしい声。その姿を目にして、その声で名を呼ばれるたび、僕はどうにかなってしまいそうなほど、胸が高鳴ってしまうよ」

 「って、コラ! オイッ!」

 目の前にズズイッと迫る皇子。オレの視界が皇子でいっぱいになって、その硝子玉のような目にオレが映って……。

 「うぎゃあっ! なにすんだっ!」

 皇子がその細い指でオレの髪を撫でる。吐息が肌に触れそうな距離に、オレの心拍、バク上がり。

 「こうして囁いていけば、自然と身を委ねるようになると、指南書にあったが。きみは、そうならないのか?」

 「なるかあっ! ってか、そんなの読んでたのかよっ!」

 真面目に勉強でもしてるのかって思ってたのに。

 「うん。これから必要なことだからね」

 ……必要じゃない。絶対、必要じゃない。少なくともオレに対しては必要ない。
 笑顔になった皇子に舌打ちしたくなる。

 「だって、きみ。今、ときめいてるだろ? 顔、赤いよ?」

 え、いや、それは、あの……。
 自覚させられると、余計にカッカと顔が火照ってくる。耳の奥に心臓ができたみたいにドクドクと血流がうるさくなる。

 「そうやって、ときめきを重ねていけば、そのうちウットリとボクに身を委ねたくなるはずだ。僕に身を委ねて、その足を開いて――」
 「開かねえっ! 絶対、開かねえっ!」
 
 即座に否定。
 開いてたまるか、オレの股。
 胡座をやめて、キュッと股を閉じる。

 「プッ、アハハハ……」

 オレの動きを見て、一瞬、目を丸くした皇子が、そのまま笑い出す。
 
 (か、からかわれた?)

 そう思ったけど、お腹を押さえて笑うその姿に、不思議と嫌な気はしなかった。室に響く、年相応の皇子の笑い声。
 コイツが笑うなら、まあ……。それでいいか。
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