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第五夜。
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いつものようにスーツを身に着け、マンションを出る。
狭い通路を歩き、階段を降りて街に出る。
駅に近づけば同じような人が黙々と流れを作って歩いてく。人は波となって駅に押し寄せ、車両から吐き出された人と交代で、そのなかに飲み込まれていく。
私もその波の一部となって流れていく。
人ごみという、大きな塊の一部となって、街の一風景となっていく。
誰もそのことに文句は言わない。小さなしぶきのようなカプセルとなって、自分という世界に閉じこもったまま波となる。
人は唯一言語を話せる生き物なのに、その口を開くことなく、言葉を失くしたまま塊となって街のなかを蠢いていく。
昨日、今日、そして明日。
先月、今月、そして来月。
一年前も、一年後、十年後も変わらずそこにあるもの。
私も、昨日と今日と明日の境目を感じることもなく、その波の一部となって、くり返しくり返し時間の上を、街のなかを流れていく。
あれから。
瀬田が、私の部屋に来ることはなくなった。
まあ、あんなことがあったのだ。どの面下げて会えばいいのかわからない。
会社で顔を会すこともほとんどない。
彼に会いにくいから。そんな理由で、例の請求書に対してもかなり譲歩した結果を出してやった。石山はそれなりに満足気だったけど、もうそんなこともどうでもいい。
右から流されてきた仕事をこなして、左へと流してゆく。
考えることもイヤだ。
考えたくない。
心を失くした機械のように、ただそこにある日々を過ごす。
瀬田との関係を切り落としてしまった私は、ずっとこのまま同じ日々を過ごしていくのだろう。
多分、明日も来年も十年後も同じように。
女として、せっかくのチャンスを逃してしまった。瀬田みたいに、私に好意を抱いてくれる男は、この先現れないかもしれないのに。
今年、28歳。
そういう焦りがないと言えばウソになる。
だったら、瀬田でよかったじゃん。体の相性もいいし、性格だって顔だって悪くない。収入だってそれなりにあるのだから、カレシ→ダンナにしたってよかったのに。
それを、よくわからない感情のままに切り落としてしまった。
――違う、と思った。
瀬田じゃない。私が欲しいのは瀬田じゃない。
――チガウ、チガウ、カレジャナイ。
毎日、同じ時間に家を出て、同じような仕事をこなして、同じように家に帰る。
酒は飲まない。
ご飯は、あるものを適当につまむ。
決められたルーティンワークのように、シャワーを浴びてベッドに入る。外で使い終わった充電切れのような体をリセットするために寝る。
眠るのは、気持ちいい。
何も考えなくてもいいから。
最近は起きて涙を流すこともなくなった。起きて残るは「悲しい」よりも「寂しい」。
目覚めたことで訪れる「別れ」。それが寂しい。
夢見ることを願って目を閉じる。
現実逃避と言われるかもしれない。だけど今の私には、その夢だけが生きてる証になっていた。眠るために起きて生きる。いや、夢見る時だけ、私は生きてる。
小指をそっと噛んだ。
指は、切ない味がした。
* * * *
「ああ、お待ちしておりました」
いつもの昏い乳白色の世界で。いつものように彼は私を待っていた。
訪れた私を見て、彼が相好を崩す。
捜さなくても彼に逢える。
それだけで、私もうれしくなる。
時代がかった衣装の彼。藍染の素襖直垂。大河ドラマとかでよく見るやつ。腰には太刀。
私は、そんな彼を違和感なく受け入れる。
だって。私も似たような姿だったから。
小袖に打掛。薄い桜色と濃い目の桃色の取り合わせ。私の一番のお気に入りの衣装だった。
「清四郎さま」
その愛しい名前を呼んで、彼を見上げる。
間近に立ってみれば、彼は、私より頭一つ分ぐらい背が高い。私を見下ろすその目線。彼を見上げる首の角度。
そのすべてが体に馴染んだもので、当たり前のものだった。
ただ向き合って微笑み合い、目と目で想いをつなぐ。口づけも包容もいらない。
それだけで十分だ。それ以上は求めない。
涼やかな切れ長の瞳。その瞳に自分の姿が映るだけで、幸せな気分になる。満たされる。
「姫さま……」
私を呼ぶ優しい声が耳朶を打つ。
そう。
私、姫だった。お姫様だった。
彼に出会ったことで、すべての情報が、パズルのピースのようにストンストンと自分のなかに落ち着いていく。
数百年前。
私は、とある武家の姫君だった。
清四郎さまは、その家に仕える武士で、あまり身分の高い方ではなかった。けれど、私たちはともに惹かれ合い愛し合った。
――戦で手柄を立てて、アナタにふさわしい男になります。
清四郎さまは、そう言って武勲を立て続けてくれた。
あと少し。あと少しで、父上も兄上も、私たちの仲をお認めくださる。
そう思っていた矢先だった。
清四郎さまが、戦で命を落とされたのは。
功を焦った。
そう言われても仕方ない。
敵陣まで斬りこんだ彼は、矢に射貫かれて絶命した。
その知らせを聞いた私は、彼の後を追いたいと願うほど哀しみにくれていた。
それなのに、父上たちは非情にも私を他家へと嫁がせる。清四郎さまに出会う前、すでに決められていた相手だと言う。
清四郎さまではない、他の男に抱かれながらも、私は彼のことを想い続けていた。悲嘆にくれたままの心は、やがて体とともに衰弱してゆく。
清四郎さまを失って二年。嫁して一年。
私は、その短い生涯を終えた。
それが私の前世。
こうして再会できたことで思い出したこと。
「清四郎さま……」
数百年の時を超えて、再び出会った愛しい人の名を呼ぶ。
やっと会えた。やっと巡り合えた。
こうして会えるのは夢の中だけ。それでもようやく再会できたうれしさに胸がはちきれそう。その喜びに我慢できなくなって、彼に抱きつき背中に腕をまわす。
「姫さま……」
清四郎さまの逞しい腕が私を包む。
もうそれだけで、幸せに溶けていってしまいそうだった。
* * * *
》今日も休んでるって、大丈夫か?
大丈夫《
熱とか風邪じゃないから《
仮病だよ《
瀬田のラインに、とりあえず返信しておく。
ゴトリとテーブルの上にスマホを投げ出す。
スマホを持つことすら面倒くさい。
返信という義理は果たした。なら、もういいだろう。
ゴロンと体勢を直して、目を閉じる。
返信でしたとおり、熱があるわけでも風邪をひいてるわけでもない。
ただ、動きたくない。眠っていたい。
そんな理由で仕事を休むわけにもいかないから、会社には、「風邪」と伝えておいた。
こうして心配してくれたのは瀬田だけ。
さすがに一週間も私が休んでるって聞けば、気まずかろうがなんだろうが、ラインぐらいはしてくれる。それぐらい、アイツはホントにいいヤツなのだ。
だけど。
正直、その心配ですら煩わしい。
放っておいてよ。
言っちゃいけないセリフだと、わかっているから黙ってるけど、本音はそこにある。
仕事のことも、瀬田のことも、これからのことも。
もう何も考えたくない。
ただ、眠る。
ご飯も何もいらない。
この体すら煩わしくなってきそうなほどに、眠りだけを求める。
眠れば、またあの人に逢えるから。
* * * *
――姫、愛しております。
愛しい彼の声が私を呼ぶ。
――ずっと、わたくしとともにいてくださる?
彼に抱き寄せられながら、ウットリと私は目を閉じる。
――ええ。未来永劫、アナタだけを。私の、私だけの愛しい姫。
狭い通路を歩き、階段を降りて街に出る。
駅に近づけば同じような人が黙々と流れを作って歩いてく。人は波となって駅に押し寄せ、車両から吐き出された人と交代で、そのなかに飲み込まれていく。
私もその波の一部となって流れていく。
人ごみという、大きな塊の一部となって、街の一風景となっていく。
誰もそのことに文句は言わない。小さなしぶきのようなカプセルとなって、自分という世界に閉じこもったまま波となる。
人は唯一言語を話せる生き物なのに、その口を開くことなく、言葉を失くしたまま塊となって街のなかを蠢いていく。
昨日、今日、そして明日。
先月、今月、そして来月。
一年前も、一年後、十年後も変わらずそこにあるもの。
私も、昨日と今日と明日の境目を感じることもなく、その波の一部となって、くり返しくり返し時間の上を、街のなかを流れていく。
あれから。
瀬田が、私の部屋に来ることはなくなった。
まあ、あんなことがあったのだ。どの面下げて会えばいいのかわからない。
会社で顔を会すこともほとんどない。
彼に会いにくいから。そんな理由で、例の請求書に対してもかなり譲歩した結果を出してやった。石山はそれなりに満足気だったけど、もうそんなこともどうでもいい。
右から流されてきた仕事をこなして、左へと流してゆく。
考えることもイヤだ。
考えたくない。
心を失くした機械のように、ただそこにある日々を過ごす。
瀬田との関係を切り落としてしまった私は、ずっとこのまま同じ日々を過ごしていくのだろう。
多分、明日も来年も十年後も同じように。
女として、せっかくのチャンスを逃してしまった。瀬田みたいに、私に好意を抱いてくれる男は、この先現れないかもしれないのに。
今年、28歳。
そういう焦りがないと言えばウソになる。
だったら、瀬田でよかったじゃん。体の相性もいいし、性格だって顔だって悪くない。収入だってそれなりにあるのだから、カレシ→ダンナにしたってよかったのに。
それを、よくわからない感情のままに切り落としてしまった。
――違う、と思った。
瀬田じゃない。私が欲しいのは瀬田じゃない。
――チガウ、チガウ、カレジャナイ。
毎日、同じ時間に家を出て、同じような仕事をこなして、同じように家に帰る。
酒は飲まない。
ご飯は、あるものを適当につまむ。
決められたルーティンワークのように、シャワーを浴びてベッドに入る。外で使い終わった充電切れのような体をリセットするために寝る。
眠るのは、気持ちいい。
何も考えなくてもいいから。
最近は起きて涙を流すこともなくなった。起きて残るは「悲しい」よりも「寂しい」。
目覚めたことで訪れる「別れ」。それが寂しい。
夢見ることを願って目を閉じる。
現実逃避と言われるかもしれない。だけど今の私には、その夢だけが生きてる証になっていた。眠るために起きて生きる。いや、夢見る時だけ、私は生きてる。
小指をそっと噛んだ。
指は、切ない味がした。
* * * *
「ああ、お待ちしておりました」
いつもの昏い乳白色の世界で。いつものように彼は私を待っていた。
訪れた私を見て、彼が相好を崩す。
捜さなくても彼に逢える。
それだけで、私もうれしくなる。
時代がかった衣装の彼。藍染の素襖直垂。大河ドラマとかでよく見るやつ。腰には太刀。
私は、そんな彼を違和感なく受け入れる。
だって。私も似たような姿だったから。
小袖に打掛。薄い桜色と濃い目の桃色の取り合わせ。私の一番のお気に入りの衣装だった。
「清四郎さま」
その愛しい名前を呼んで、彼を見上げる。
間近に立ってみれば、彼は、私より頭一つ分ぐらい背が高い。私を見下ろすその目線。彼を見上げる首の角度。
そのすべてが体に馴染んだもので、当たり前のものだった。
ただ向き合って微笑み合い、目と目で想いをつなぐ。口づけも包容もいらない。
それだけで十分だ。それ以上は求めない。
涼やかな切れ長の瞳。その瞳に自分の姿が映るだけで、幸せな気分になる。満たされる。
「姫さま……」
私を呼ぶ優しい声が耳朶を打つ。
そう。
私、姫だった。お姫様だった。
彼に出会ったことで、すべての情報が、パズルのピースのようにストンストンと自分のなかに落ち着いていく。
数百年前。
私は、とある武家の姫君だった。
清四郎さまは、その家に仕える武士で、あまり身分の高い方ではなかった。けれど、私たちはともに惹かれ合い愛し合った。
――戦で手柄を立てて、アナタにふさわしい男になります。
清四郎さまは、そう言って武勲を立て続けてくれた。
あと少し。あと少しで、父上も兄上も、私たちの仲をお認めくださる。
そう思っていた矢先だった。
清四郎さまが、戦で命を落とされたのは。
功を焦った。
そう言われても仕方ない。
敵陣まで斬りこんだ彼は、矢に射貫かれて絶命した。
その知らせを聞いた私は、彼の後を追いたいと願うほど哀しみにくれていた。
それなのに、父上たちは非情にも私を他家へと嫁がせる。清四郎さまに出会う前、すでに決められていた相手だと言う。
清四郎さまではない、他の男に抱かれながらも、私は彼のことを想い続けていた。悲嘆にくれたままの心は、やがて体とともに衰弱してゆく。
清四郎さまを失って二年。嫁して一年。
私は、その短い生涯を終えた。
それが私の前世。
こうして再会できたことで思い出したこと。
「清四郎さま……」
数百年の時を超えて、再び出会った愛しい人の名を呼ぶ。
やっと会えた。やっと巡り合えた。
こうして会えるのは夢の中だけ。それでもようやく再会できたうれしさに胸がはちきれそう。その喜びに我慢できなくなって、彼に抱きつき背中に腕をまわす。
「姫さま……」
清四郎さまの逞しい腕が私を包む。
もうそれだけで、幸せに溶けていってしまいそうだった。
* * * *
》今日も休んでるって、大丈夫か?
大丈夫《
熱とか風邪じゃないから《
仮病だよ《
瀬田のラインに、とりあえず返信しておく。
ゴトリとテーブルの上にスマホを投げ出す。
スマホを持つことすら面倒くさい。
返信という義理は果たした。なら、もういいだろう。
ゴロンと体勢を直して、目を閉じる。
返信でしたとおり、熱があるわけでも風邪をひいてるわけでもない。
ただ、動きたくない。眠っていたい。
そんな理由で仕事を休むわけにもいかないから、会社には、「風邪」と伝えておいた。
こうして心配してくれたのは瀬田だけ。
さすがに一週間も私が休んでるって聞けば、気まずかろうがなんだろうが、ラインぐらいはしてくれる。それぐらい、アイツはホントにいいヤツなのだ。
だけど。
正直、その心配ですら煩わしい。
放っておいてよ。
言っちゃいけないセリフだと、わかっているから黙ってるけど、本音はそこにある。
仕事のことも、瀬田のことも、これからのことも。
もう何も考えたくない。
ただ、眠る。
ご飯も何もいらない。
この体すら煩わしくなってきそうなほどに、眠りだけを求める。
眠れば、またあの人に逢えるから。
* * * *
――姫、愛しております。
愛しい彼の声が私を呼ぶ。
――ずっと、わたくしとともにいてくださる?
彼に抱き寄せられながら、ウットリと私は目を閉じる。
――ええ。未来永劫、アナタだけを。私の、私だけの愛しい姫。
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