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君といる夜は、めまいを感じる。第四夜、

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君といる夜は、めまいを感じる。
第四夜、



 夏休みに入り、学校では夏期講習が始まった。出席は任意とはゆえ、それに“無意味”に参加する無意味な行動を選ばなければいけないという、ぼくの人生はつまらないものだ。窓から肌がヒリヒリする光が入ってきていて、ガラスで隔てたられた向こう側の気温は三十五度を超える猛暑だというのに、ぼくのいるこっち側は適度に空調が効いた世界だ。無意味だと分かっていても出席している理由は、そうした方が色々と有利だろうから、という下心すらあるのだから、本当につまらない人間だと思う。ガラスに隔てられ、守られながら、無意味を選択し続ける毎日。結局、高校を辞めるどころか、任意の登校すらやめる勇気すらない。

 初めて、夜に飛び出した時は独りになりたい、誰にも人生を邪魔されたくない、“学校”には価値を見出せない、用意された道は歩きたくない、誰にも縛られていない“自由”を証明する為に家を出たのだ。あの時、誰もいない夜の町に踏み出したから、ヨルと出会えたというのに………どうして、家を出る前、一瞬でも評定の事を気にしてしまったんだ?補導され、親や学校に行くであろう連絡や同級生の間で起きる噂話なんかを心配したのか。そうやって、気にしてしまった弱い自分を『考えるもの面倒だ』という理由付けで投げ出したそれこそ“無責任”なんじゃないだろうか。夜になって、きみと話す度、諭される度に、何も見えていないのは自分だという事を知り………情けなくなっていく。

 夏期講習の帰り道は電車を五駅手前で降りバスに乗って帰っていた。以前、ヨルが提案した“バスの降車ボタンを、誰よりも早く押す遊び”を始めたからだ。遊び始めて二週間程経つが、なかなかコツが掴めずにいる。しかし、乗客を観察するなかで発見した事は、降りる乗客の大半が目当てのバス停のひとつ前のバス停が告げられると、肩からかけたバッグや鞄を持ち直す仕草をしたり、交通系決済が出来るであろうスマートフォンやICカードを手の中で遊ばせたり、無意味に裏や表を確認したりする。また伏せていた顔で窓の外を見るという行動をする人も多いというのが分かってきた。だけど…………、

「まあ……そう上手くはいかないよな」

 まだペナルティーとして一日に何度かはバスから降りる。バス停に記載された時刻表が、次のバスは二十四分後に来るのだと教えてくれた。特に何が出来る訳でも無い微妙な時間が空いてしまったな、と、暇潰しにスマートフォンを触り始めた時に声をかけられた。

「あれっ?君もこっち方面に住んでんの!?」

 どうして………こうなったんだろう。今、あの学年成績トップ10位以内を誇る女子と、テーブルを挟んで向かい合っている。眉をひそめながらプレートの上に置かれたフライドポテトを一本取って、指先に感じた熱で軽く火傷した事を知った。

「この前、聴かせてくれた曲さ。最近、私もよく聴くんだー」
「あー……そうなん……だ?」

 だから、何。そう思ったが口には出さなかった。そういう小さな同調で求めてくる“仲良しごっこ”が嫌いだ。誰かがやっているから同じ事をするとか、同じ事をしているから仲が良いとか、そういうのが本当に理解できなくて苦しい。ぼくと同じ曲を聞いているなんて、いちいち報告する事じゃないだろう?もしかして、この同調が普通として求められるもので、今まで嫌って避けてきたから何となく周りから浮いていたのだろうか。いや、浮いてるとか浮いていないとか、ぼくには関係ないだろ。でも、おかしいと思っている世界の方が正常だとして、ぼくの方が違っていると考えれば、色んな事に辻褄が合うこ………、

「……んだよねー。ねえ、君はどう思う?」
「……え?……あー…………え、と?」

 まるで話を聞いていなかった。頭の中のある言語化出来ないあいつに似た、言葉にならない考えと追いかけっこをしていて、成績トップ10位以内女子の話す事など、どうでもよかったから………だが、気まずい。面倒くさい事になりそうだと思った時、

「君さ、大丈夫?ちゃんと……寝てる?」
「あ?………………いや…………あまり?」
「やっぱりか。ちょっと気になってたんだ」

 ぼくが、この女子に心配されている事に驚いてしまった。そもそも関係が無いだろ。友達でも、彼女でも無いんだ。どうして、いちいち他人の問題に首を突っ込むんだよ。

「それで……?何?ぼくに何の用?」
「ん?何が?特に用とかはないよ」

 ヨルの反対側で美しく笑った学年成績トップ10位以内の女子が「いや、まあ……用はないんだけどさ、でもね?」と枕詞を置き「夜は……寝なよ?あまり身体に良くないからさ」と八十センチメート先で作られた笑顔が、美しいと思っていたはずの心の何かを冷まさせた。君も、ぼくの人生に勝手に介入して正そうとし、小さな同調で騙す側の人間か。どうして、夜に眠れない事が『間違い』で、夜に睡眠を取れる君たちが『正しい』と接してくるんだろう。ぼくが夜に眠れていたら寝ているし、睡眠不足で辛い思いをしている事を考えずにアドバイスとか……少しは人の立場になって考えろよ。

「それは少年の方が至らない」

 ヨルが並べた言葉は相変わらず、ぼくを否定する言葉から入った。ヨル曰く、もし学年成績トップ10位以内女子が、本当に体調を気にかけていたとしたら、失礼なのはぼくの方ではないか、と言う。話しかける口実まで作り、警戒心を解きながら伝えたい事を伝えたと考えれば『大きなお世話だ』の一言で済ますのは、当を得ないのではないかと言うのだ。

「少年は恋人を作った事がなかったな」
「それが何か関係があんの?」
「ふふっ。可愛いな、少年」
「だから、何なの!?」

 相変わらず考えない頭だ、と、きみが白く細い指で、ぼくの額を小突きベンチの上に立つ。

「ベンチの上に立つなよ。次に座る人の迷惑だ」

 ふふっ、と小さく笑い「バレなければ、していないのと同じ……という趣旨の発言をしたのは、誰か」と差異を持った表情をし、きみが夜空に浮かび上がる程に白く長い髪で、闇に汚されそうなくらい純白の身体で存在した。誰にでも溶け、誰にでも汚されるから、ずっと何色にも染まらないまま白いんだろ。やっぱり、ぼくはきみが……………。いつかの見下すような角度で、ぼくの目の奥を見る。きみの手が頬に触れ、それが心地良いから目を閉じた。

「その少女に『恋』をしていないるな、少年」
「え……?はっ!?……え、……えっ!!?」

 全くもって、きみが言いそうに無い言葉だったから驚き、開いた目に映ったきみの背中に三日月がぶら下がっていた。きみは「少年は恋を知らない。だから、その視界の広さに戸惑っているのだよ」と言って、見た事のない笑顔を浮かべる。

「いやっ!でも!ぼくはっ!!…………ぼくは!」

 きみが腰から前屈みに顔を近付け、主従関係が築かれているそれのように視線で抑え付け、鼻先で、ふふっ、と小さく笑う。






「わたしに恋をするな、と言ったはずだ。喰うぞ」
「えっ……いや…………っ、えと……!?」

「わたしの“喰らう”は、性的な意味だけではないよ」
「いや…………えっ!?それ…って!?」

「食す、という事だ。性的に犯し、使い物にならなくなったら爪先から順に脳髄まで食す」

 きみが嘘を言った事は無い。そして、ぼくの頬を両手で包み、少し持ち上げる。鼻先が触れそうな左右非対称に歪む微笑みは、あの夢の中で見た闇から手を伸ばす女に似ていた。でも、あの女の顔なんて覚え…………いや、こうやって、知ったから分かった事なんて、きみといて驚く程あっただろう。やっぱり、きみは、お…………、

「ふふっ、凄い汗だぞ。少年?」

 頬を包んでいた両手が解かれ、浮かせていた腰をベンチに落とす。ヨルの力が強かった訳じゃない。痛かった訳じゃない。ただ、きみの両手が望むようにしなければ“いけない”気がしたんだ。あの夜のように酷く喉が渇く、手で拭う不快は学校の休憩時間で夢を見た時の不快だった。きみがベンチから公園を見渡せる階段の方へと歩き「わたしに犯され、まともな思考が出来なくなった大人はたくさんいるのだよ」と言って立ち止まり、純白のワンピースの裾で、ふわり、花を咲かせて、振り返る。

「わたしとの交わりに、その手軽に得られる激しい快楽に、人生まで狂った人間もいる」

 いつでも人間は狂い堕ちる事が出来るから、健全なうちは健全な恋に溺れておけ、と言ってヨルが語尾に付けた「少年」という言葉が、何故か、少し寂しそうだった。

「そうだ、少年。日記を書いてみろ」
「え…………日記?どうして?……心理セラピー的なやつか?」
「ほう?精神衛生面でいいのか。それは知らなかったな」

 それから、またしつこく必要性について説いてくるのだと思ったのだが、何も言わなかった。だから、それが気になって日記を書いてみる事にしたのだ。始めて一週間は発見や出来事が多く書ける事があったのだけれど、八日目から毎日、同じ事を繰り返しているだけなのだと気付いてしまい、止めた。朝、学校に行って、夕方に帰って、食事を摂り、勉強をして、深夜にヨルと会う、という一日の繰り返し。ぼくは、毎日、毎日、毎日、ずっと同じ一日を繰り返している。そこから得られる事なんて………。

 耳に蓋をするイヤホンからきみが鳴っていて、教師がいない間の教室で腕の中で溺れていた。何故だろう、いつものように目を閉じ沈む暗闇に白い影のヨルを探すのだけど、いつの間にか暗闇は鮮やかに浮かぶ学年成績トップ10位以内女子に置き換わっていた。その笑顔はヨルと違って、はっきりとまぶたの裏側に映るんだ。

『それは恋じゃないのか』

 きみの声が聞こえる。違う、多分、相手の好意を利用して手軽に欲をどうにかしようとしているだけだ。ぼくも都合良く誰かを使って欲を発散しようとする汚らしい人間だ。

 組んだ腕に小さな感覚が二回。そして、また二回。その違和感にゆっくりと上げた頭。眠たまなこを保護するまぶたの隙間から外の様子を伺うと、そこには人差し指で腕を突く学年成績トップ10位以内女子がいた。

「……何?何の用?」
「ふふっ、本当に君は反応薄いなあ。今日さー……」

 なんだか君は、ぼくに干渉しすぎじゃないか?

 どうしてこうなった………んだろうか。ぼくは学年成績トップ10位以内女子と一緒に“バスの降車ボタンを誰よりも早く押す”遊びで、ペナルティとして降りた町を歩いている。しかも、あろう事か、会話が続かない気まずさから「日記が続かない」なんて、どうでもいい話をしてしまった。

『それは恋じゃないのか』

 念を押すように、またヨルの声が聞こえる。横目に見る学年成績トップ10位以内女子が目を閉じ、微笑み「ふふっ、日記が続かないくらいの事が悩みなの?」と言ってヨルの反対側にある笑顔で、くすくす、と可愛らしく笑う。それが………あまりにも太陽みたいに眩しくて、顔が熱くなったから背を向けた。

「ぼくはつまらない人間だ。何も無い。本当につまらないと思う」

 そう不機嫌に伝えたのは、きっと、ぼくはこのまま何も気付かず、何も変わらない。そんな、つまらない人間だから。

「そうかなあ?じゃあさ、来年も同じなの?」
「変わらない」
「十年後は?」

 なんだよ、なんでそんなに突っかかってくるんだよ。十年後は働いているだろうから……場所が学校から会社になっているだけで、今と大して出来事は変わっていないとしか想像できない。

「じゃあ五十年後はどうなの?」
「じいちゃんになってんじゃないの?」
「ふふっ、じゃあ変わっているねえ?」
「そりゃあ歳を取るんだ、変わるさ」

 君が大きく笑おうとするのを我慢して肩が震えていた。そして、ヨルとは正反対の意地悪な顔で「変わらなかったんじゃなかったの?それともダラダラと明日も明後日も同じだなんて、そんなに毎日が平和に続くとでも思ってる?」と我慢できずに大きな口で笑い始めた。そう……か。この後、帰り道にでも事故とかで死ぬかもしれないし、頭の上を戦闘機が飛ぶかもしれない。もしかしたら、五十年後なんて地球が存在していないかもしれない。そもそも、仕事に就けていないかもしれない。あれ…………?ぼくの毎日って…………小さな選択と変化が連続していて…………?

「ふふっ、君は毎日がつまらない、同じだ、と言いつつ、未来には希望を持っていて矛盾しているね」
「……っ」
「日記が続かないのは“毎日がくだらない”と決めつけているからじゃない?」
「…………そう……かな」
「幸せに慣れ過ぎて変化にすら気付かなくなっている、とか?」

 ふふっ、本当に君は面白いね、と言ってから四歩前へ跳ね「ねえ?」と振り返り、

「昨日の天気は今日だった?明日の気温も一週間先と同じかな?
 いつも行っているコンビニの店員さんは、何時に行っても同じで、お客さんも同じ物を同じ時間に買う。
 ずっと花は枯れていて、桜も咲くのに、どこかの森は無くなっているらしいよ?」

「……なんだよ、それ」

「君の言いたい事は分かるよ。でも案外さ、小さく変わり続けているんだよ。だから、もっと…………」

「もっと目一杯に楽しんで、悦んで。世界が擦り切れるまで」
『もっと最大限に楽しみ、悦べ。世界が擦り切れるまで』

「常識の範囲内で遊び尽くしてみたら、君も」
『規律を守り遊び尽くしてみろ、少年』

 まさか、学年成績トップ10位以内に名を連ねる女子が、今夜のきみと同じ事を言うなんて思わなかった。

「明日から楽しみだな、少年」
『明日から楽しみだね、君』

 その夜、夏期講習からの帰り道にあった学年成績トップ10位以内女子との会話を、ヨルに話すと左右対称の顔で微笑み、静かに、やさしく、少し掠れた声でゆっくりと言った。その言葉もまた、学年成績トップ10位以内女子が言った言葉と一緒なんだよ。

 君といる夜にデジャヴがあったから、めまいを感じたんだ。

第四夜、終わり。
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