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君といる夜は、めまいを感じる。第五夜、

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君といる夜は、めまいを感じる。
第五夜、



 何ヶ月ぶりだろうか。それが思い出せないくらい久しぶりに、昨夜は日付変更までに寝ていた。あまりにも突然の睡眠だったから起きた時に夢ではないかと、頬をつねってしまったくらいだ。だけど、相変わらず、起床時間は寝坊と言われる時間で朝食を摂る事は出来ない。今日もまた執拗に言われるソレを背中で感じ、荒っぽく玄関のドアを扱う………事はせずに家を出たのだ。家の小さな門を開いた瞬間、今日という日に限って鮮やかな色が町に着いていた。駅までの道が不思議なくらいに圧迫感がなく広く感じ、歩いてきた道を振り返っても、同じ。そこもまた広く鮮やか。

「……どうなってるんだ?」

 ただ歩いていただけの通学路をあちこち見るようになり、息を殺して乗っていたはずの電車も胸を張り、背筋を伸ばして乗ってみる。今日も電車の中は人で蒸れている。揺れる吊り革、車内広告、下らない雑誌の見出しに、誰かの、どこかの、どうでもいい下世話な話が仰々しく飾られ、誰かの給料になっている。周りを見渡し、昨日までそこにいたはずの、同じスーツの色で、同じ髪型の、同じスマートフォンを持っていた人たちが、それぞれに違うのだと気が付いた。ぼくは、こんな当たり前の事すら見えなくなっていたのか。久しぶりに見る景色を、もっと透明な色彩で澄んだ感覚で感じたいと思い、六月の梅雨が始まる前に鼓膜の近くで鳴らし始めたきみを………外した。

「なんだか、今日は顔色がいいねー?」

 今日も学年成績トップ10位以内の女子が絡んでくる。久しぶりに机に突っ伏していなかったから話しかけやすかったのだろう。君の言葉に何も応えないのが気まずいから「君のおかげかもね」と冷やかしたつもりで呟いた。だけど、君はヨルの反対側にある笑顔で「ふふっ、人と話すって大事な事なんだよ」と目を閉じて、その唇を大きな三日月にした。確かに学年成績トップ10女子に“日記が続かない事”を話した後、少しだが気分が楽になったような気がしていた。君に指摘された“つまらないはずだった毎日”に諦める事なく何かを探してみると、そこには様々な出来事や発見があり、日記として書くには充分な事が当たり前のようにあったのだ。
 朝、同じ電車に乗る乗客が陣取っている場所は毎回同じだけど、たまに違う時がある。毎日居たはずの乗客が居なくなる時がある。前者は乗るタイミングや他の客との掛け合いや気分なんだろう。後者は乗る時間が前後したか車輌を変えた。もしくは電車に乗らなくてもいい理由が出来た。車通勤になった、勤務時間が変わった、勤務地が変わった、会社を辞めた。昨日は今日と同じではないから、もしかしたら………。

 昨日、会った誰かが、今日ここに“いない”事だってある。

「やっぱりいた」

 帰宅時の電車の中で声に振り返ると、学年成績トップ10女子が笑顔で立っていたから顔をしかめる。

「傷付くなあ。そんなー……顔っ、しなくてもっ?」
「何?ぼくに何の用?」
「君は、本当にさあ………まあ、いいや」

 彼女は、ぼくが同じ電車に乗っているであろうと確信していたらしく、先頭車両から一輌一輌見て回ったらしい。なんだろう……ストーカー…………じゃないだろうな。また、きみの少し掠れた声で『それは恋じゃないのか』という言葉が聞こえた。

 恋?どうして?

 その夜、なんだかヨルが上機嫌に迎えてくれた。昨晩は会いに来なかったじゃないか、少年、と言って「おいで」と両手を広げる。仕方がないよ、なんだか眠たくなって寝てしまったんだからさ、と言ったぼくを、ふわっと抱きしめてくれる。その華奢で心地の良い微熱に安心し気持ちが良くなるのだ。耳元で囁かれるぼくの好きなきみの少し掠れた声。

「少年は目を覚まそうとしているから来ないと思ったよ」

 目を覚まそうとしている?寝たのに?

 きみが「覚めるというのはいい事だ、少年」と言って「ふふっ、いつもの“どういう事だよ”は、禁止だ」と小さく笑いながら、質問は一切受け付けないと言った。

 隣でヨルが出来る限りの危険が取り除かれたブランコを軽く漕いでいた。その隣のブランコに座り、前に後ろに行ったり来たりする“きみ”を見つめる。今夜は、きみと一緒にあの曲が聴きたいと思い、久しぶりにスマートフォンとイヤホンの接続を解除した。スマートフォンの小さなスピーカーから流れる叩くように弾くピアノが響き、少し掠れた歌声が鳴る。きみがブランコを漕ぐのを止めると、惰性で行ったり来たりする振り幅が小さくなっていった。その表情は、いつもの左右非対称の表情ではなく、対称的な表情で伏せ目がちの悲しそうな顔を初めて見たのだ。

「この曲に出会って、ぼくは救われたんだよ。ヨル」
「曲名は知っているのか?」

 知らない。調べる気も無い。英語だから何を唄っているかくらいなら分かる。それをウェブで検索にかければ、アーティストの名前くらいは分かるだろう。でも、そんな事は重要じゃなくて、これと出会い、初めて夜に外に出て、驚くほど安い炭酸飲料を思い出して、それを飲みながらやってきた公園でヨルと出会ったから、今日という日たちが大切に感じるようになった。まずはそれを大切にしたいと思っている。

「だから、まだ知らなくていいんだ」

 ふふっ、そうか。と、小さく笑い、珍しくきみがうつむく。

「彼女たちにも孤独に飲まれた娘がいる」
「彼女たち?」

 ヨルは、この歌を唄った娘と同じ世代をよく知ると言った。ぼくと同じように、この星が回っている事に気付き、想像よりも世界が広かった事に驚いて、そこに独りだと知り、めまいを起こして、眠れなくなった彼女たち。そのめまいに彼女たちは、人と何かが違うと苛まれた“大事な友達”だと言って微笑む。きみに『私の愛を受け入れるか、私を手放すか』と迫るくらいに寂しがり屋な友達は、ぼくと同じように毎晩を共に過ごしていた。その娘はよく独りで泣いていたからヨルを頼り、よくふたりで遊び、夜を明かしたのだと言う。

「たが、二十七の夜は越えられなかった」
「越えられなかった?…………死んだの?」

 さあ?どうであろうが、わたしには興味がないね、と、夜空を見上げる。そして「ただ、自らを殺めないといけないほどの孤独なんて想像を絶する」と月に呟く。ぼくには越えられないほどの夜があるなんて信じられない。今まで寂しいとも死のうとも思った事がないから、その孤独が分からない。

「皆、そう言う。だが、その夜が来れば、今の言葉を悔いるよ。少年のように振る舞いながら堕ちて、越えた人間をあまり見ない」
「もし………ぼくにそんな夜が来たら、どうなるのかな?」
「そんな事を言っていては怪しいな。気をつけろよ、少年」

 ヨルは戯けて慣れないステップを踏み、灯りの下へ行くと外灯のスポットライトで、くるりと回って、ぺこりとお辞儀をしてみせた。

「わたしの性格は最悪だ。少年の心を弄び、愛を玩具にして遊んでいる。わたしを受け入れるか、手放すか」

 前にきみは“わたしに惚れるな、性的に犯し飽きたら、爪先から脳髄まで順に食す”と言っていた。ぼくは、いまでもきみを…………。

 今日は学年成績トップ10位女子と会う事なく、この町に来ることが出来た。ほっとしたような、少し…………いや、ぼくはひとりがいい。ヨルと話していたなかで、日記を続けているという話題になった時に「そろそろ新しい遊びを考えなければいけないな」と言われ、提案された遊びをしながら歩いている。それは猫を九匹見つけないと帰られない、という遊び。この遊びの本質は、よく周りを見て発見を重ねる事なんだろう。ヨルが考えそうな事だ。きょろきょろと町を観察しながら歩いていると、ある事に気付いた。こんなにも………こんなにも町って汚れているんだな。絵に描かれたように道が真っ直ぐでも、真っ平らでもなくて、色んな配管や段ボール箱、溝やマンホールに、何の穴なのか分からない所に、はめ込まれた蓋があるのは知っていた。それよりも空き缶や小さなゴミ、雑誌、新聞、コンビニの袋に入れられ置かれた何かで、多くの『要らない物』が町に溢れている。一人の人間が一度に大量のゴミを捨てる事は考えにくいから、このひとつひとつが、ひとりひとりと考えていいのだろう。

「意外と大多数の人間がルールを守らずゴミを捨てんだな」

 この町は大多数が決めたルールで廻っているんじゃなかったのか。もし、ぼくの頭の中で駆け巡る言語にならないあいつが、これに気付いていたとして暴れているとすると、ぼくは……、

「なんだか、……変なの」

 きみは「そんなものさ。誰もが『自分がよければ、それでいい。バレなければ悪い事をしていない』と思っている」と左右非対称の笑みで意地悪に言った。いや、でもそれは自分勝手だ。汚れていれば、誰かが困るはずだから、と思い言葉にしようとした時、ぼくの口を塞ぐように強く「いつか、少年もバレなければ悪いことでは無かったと言っていたな」と、ぼくが『見つからなければ悪いことでは無かった』という旨の発言をした事を取り上げた。

「いいか、少年。この世界の不条理は身近にある。人間に至っては動物として、不愉快、危機を感じる距離を切る半径一メートル以内に、或いはもっと近くにそれがある。無論、少年の“中”にもあるかもしれない」

「ぼくの中に?」

 そう、人間は“獣”だから、いつも意識していないと簡単に破綻するぞ。気をつけろよ、少年、と言われ………なんだか嫌な気分になる。ぼくはそんな人間じゃない、そんな人間になるのは嫌だ、と。

 それから、ぼくはゴミが入れられる袋を持つようになり、学校の帰りに目についたゴミを拾うようになった。こんなのは気休めだ。或いは、ぼくの自尊心やエゴの類から来る自己肯定だ。…………でも、気付いたぼくがやらなくて、誰がするんだろう。

「ふふっ、それがいつか言った“規律の中で訴える”だよ。何も訴えるための反抗は暴力に頼るだけではないんだ。少年が行なっている事も“社会に対する反抗”だ。平気で町を汚す輩への“問題提起”なのだよ」

「ぼくにも誰かを動かす事が出来るのだろうか?」

「さあ?続けてみれば答えが分かる。少年が誰かを共感させられる事をしているのなら、仲間は集まるさ」
「……明日は、先の公園まで行ってみる」

「ふふっ、好きにすればいい。辞めようが続けようが、全ては少年の意思と選択。まあ、続けなければ意味は無いが」

 きみが意地悪に微笑む。

 どうしてこうなった…………のだろう。背後から「ねえ!これって拾うのっ?」と呼ぶ声に「ああっ?今日、それは拾わない。ゴミの種類が混ざって効率が悪い!」と叫ぶ。夕暮れ前に二人の高校生が制服姿で軍手をはめて、公園のゴミを拾っている光景というのは、どう映るのだろうか。

「いや……誰がどう見ているか、とか」

 そう呟いて、相変わらず、ぼくは誰かの評価や視線を気にしている事に気が付いた。ぼくは独りになりたいんじゃなかったのか。ここまで気にしてしまうなんて、まるで誰かに頭の中を支配されているみたいだ。もしかして、頭の中を駆け巡り捉まえる事の出来ないお前は………。
 三日前、ヨルがぼくを試すように『続けなければ意味がない』と嘲笑したゴミを拾うという行為は、昨日「えっ?君は清掃活動なんてしてるのっ!?」と背後から学年成績トップ10位以内女子に声をかけられ驚き、変な声を出して笑われ、何故か、今日は一緒にゴミを拾っている。

「ねえっ!…………これはー………………?拾うー………のー……?」

 何度も同じ事を聞くから、しかめっ面で「ああっ!?どれ?」と不機嫌な声を出しながら見に行く。それは本来、こんな所に落ちていてはいけないはずである男女の営みを終えた後の残りカスだった。頭の中に多くの疑問が浮かび、こんな所でそんな事をする奴がいるのが信じられないという事と、法律とか条例、卑猥物なんとかに抵触するんじゃないのかとか、あまりにも他人の事を考えない履き違えた自由さに呆れ返ってしまった。

 自由には責任を伴う。

 何もかも自分の好き勝手に出来るのが、自由ではないという事すら守られていない。それでもするなら他人に迷惑にならないように後片付けくらいするのが、自由を行使する最低条件だ。まあ、しかし、こんなだだっ広い公園でするなんて、全く呆れる………獣かよ。

「君はこんなの触んな」

 そう言って、学年成績トップ10位以内女子を押しのけて、顔を引きつらせたままつまみ上げた。

 次の日もまた、ゴミを拾いに町をうろうろとしていて発見した事があった。それは気を張っていないと気付かないくらいに細い路地が至る所にあるという事。地元の住民は使うのだろうか。建物と建物の間、路地とは言い難い隙間という名の路地があるのだ。そして、その多くに猫がいて、その幾つかは猫の道となっていた。だから、一日に猫を九匹発見するという遊びは軽々とクリアする事が出来ていた。また、ある日、軍手をはめてゴミ袋を片手に歩いていると、暗く細い路地の前で猫がこちらを見て座っていたから足を止めた。目が合ったから息まで止めてしまう。なんだか………ぼくを待っているようだった。すると、猫は路地の奥へと逃げる。そりゃ、そうか。犬じゃないんだし、猫が人間に愛想を振り撒くなん………………暗い路地の奥で光る目。

「着いていけばいいのか?」
「なごーう」

 人ひとり通れるくらいの細い路地なのに、飲食店の裏口であろう扉の横にはビールケースが積まれていたり、食用油の缶が転がっていたりする。速足で歩く猫を見失わぬよう、少しでも速く歩く。いつかの『廊下を怒られないように速く歩く遊び』が役に立つ。積まれた箱やケース、缶を避けるリズムと歩く速度を合わせ、気持ち良く避けながら着いていくと光の中に猫が消えた。ぼくも光の中に飛び込む。そこは周囲を雑居ビルで四角に囲まれた空間で、切り取られた四角い光の中に小さな公園があり、ひとつだけ置かれたベンチの周りに猫が十匹ほど集まって日向ぼっこをしていた。

「なんだ?ここ?」

 存在すら忘れられたような公園と憩いの場というには程遠い背の高いコンクリートの建物に囲まれた空間。ここに連れてきてくれた猫がこちらを見ていたから“ああ、そうか。ぼくはこの町の仲間になったのか”と腑に落ちた。ぼくが最初に行動した反抗はゴミ拾いだった。ヨルに何かがおかしいと思うなら規律を守りながら行動し、誰かの心を動かして仲間を集めてみろ、と言われて出来た最初の仲間は学年成績トップ10位以内女子で、次は猫だ。お前は、ぼくを仲間に紹介しようと連れてきてくれたんだろう?これって『猫会議』ってヤツだよな。そんな大切な仲間との交流に招待してくれたのか。

「ありがとな」

 人間以外の友達が出来るなんて夢にも思わなかったよ。

「夢にも思わない?…………夢。……夢か」

 夜、あと三十分もすれば家を出ようと思っていた。まだ午前零時三十四分の出来事。何となくベッドに寝転び、何となくスマートフォンを触って、あの曲を鼓膜で感じようとしていた。いつものように鍵盤を叩くように強く響くピアノの音と、少し掠れた歌声で始まる揺れ。それが昨日、いや、日中に聴いた時と全く違う揺れに聴こえたんだ。それが何なのか目を閉じて分析しようとした。しばらく、思考してみても分からないから、ヨルに会いに行こうとベッドの縁に座る。身体が重く、ぼやける視界と妙に眩しい部屋の灯り、そして、握っていたスマートフォンに示された“04:47”の数字。ああ、また寝てしまっていたのか。ヨルが『会いに来ないとは、どういう了見か』とか言って拗ねたり、寂しくしていないかな………。でも、彼女は、ぼく以外にもたくさん友達がいるって言っていたから、きっと、ぼくひとり会いに行かなくたって、きっと君は寂しくなんか………………。

 君といる夜の事を考えていると、めまいを感じたから、そのままベッドに倒れ、目を閉じ、再び眠りについた。

君といる夜は、めまいを感じる。
第五夜、終わり。
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