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第十幕 その幸福を、その毒を

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 目覚ましを掛けずに体が望むまま睡眠を摂取していたら、起きた時はもう昼前だった。シャワーを浴びて、テレビを点けると丁度午後の天気予報。今日明日は曇り、来週には梅雨明けが期待されるとの事だった。

 いつも通り掃除や洗濯、買い物を済ませる。大学を卒業してもうすぐ三カ月、友達はほとんどみんな正社員で就職していて、土日は貴重な遊ぶ時間だ。明日の夜いつもの焼肉食べ放行こーぜとグループラインが入ったから、もちろんOKの返事を返す。

 明日の夜に予定が入った。ならば、今日の夜だ。

 夜八時。
 ラインを掛けても繋がらないから、仕方なく家電の方に電話する。

「はい小峰ー!」

 勢いの良い声で出たのはお袋だった。

「あーお袋?俺、俺ー」
「オレオレ詐欺?!」
「ちげーよ!優生だよ!」
「ああ、なんだ優生か」
 
 なんだとはなんだ。ってかいきなりオレオレ詐欺?!はないだろ。

「どうしたのよ。金なら無いよ!」

 なんで金の無心だと思うんだよ。正社員で就職しなかったからか?

「親父いるー?」
「ああ、お父さん?ちょっと待って」
 
 お父さん、長男!と叫ぶ声が筒抜けだ。恥ずかしいから良い加減保留の使い方覚えろ。しかも長男って…。何かが動く音の後に親父の声が聞こえた。

「優生か?どうした、元気か?仕事は順調か?」
 
 ああ、フツー親ってこうだよなあ。

「元気、元気。仕事も楽しいよ。親父も病気とかしてないか?」
「はは、大丈夫だよ。チロの散歩しているからな」

 チロは俺が小学校四年の時に、学校の帰り道にあるスーパーの駐車場に捨てられていたのを拾った我が家の愛犬だ。名前を聞くと会いたくなる。

「あ、そうだ。親父、さっきラインに電話したんだけど」
「ああ、スマホどこやったかなあ」
 
 親父は昔から携帯をよく見失うから、携帯が携帯の役目を果たさなくて困る。

「どうした、何か長い話なのか?」
「あーちょっとさ、相談、じゃないんだけど意見を聞きたい事があって…」
「そうか、じゃあお前の方に掛け直すよ」
 
 さすが親父だ。のんびりしているが相手が何を求めているかすぐに察する。ものの数秒で俺のスマホが鳴った。

「あーありがとう」
「いや、いいよ。どうしたんだ」
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど…」

 困ったな。いざ聞いてみようとするとどう切り出せばいいものか。

「ちょっと変な質問になると思うんだけど…」
「どうした、何か深刻な話か?」
「いや、深刻ではないんだけど、親父の周りにさあ」
「うん?」
「結婚して子どももいるのに若い女の子に手出しまくるオッサンっている?」
「どうした、何のトラブルだ」

 って、なるよね。

「いや、違くて…実はさ」

 俺は一から順に、真優莉が「初恋」の舞台に出演する事、それに伴い原作や台本を読んだり演技レッスンをしてもらった事、しかしどうしても父のキャラクターが好きになれないしウラジ少年が父を慕う理由も見つけられない事を説明した。

「だからさ、俺のタメはまだ結婚とか子どもとかいないから、親父の周りにはこういうウラジ父みたいなのいるかなーと思ってさ…」
「はあ、なるほどな」

 久し振りの電話なのになんつー会話だろうか。

「そういう類の男なら、結構多いと思うぞ」
「ええ?!」
 
 そうなのか?!

「結構ってどれくらい?!」
「十人に一人はそうじゃないか?」

 多いな‼

「その具体的な数字はどうやって出るんだよ?!」
「いや、父さんの職場に父さんと同年代十人位いるけど、一人が総務の若い子に手出した」

 リアル‼

「え、それでどうなった?!」
「奥さんとお嬢さんが会社に乗りこんできて露呈した」

 そんなドラマみたいな話があったとは!

「え、な、何で奥さんも子どももいるのにそんな若い子にちょっかい出しちゃったんだよ!」
「結婚は仏門に入る事ではないからな」

 そ、そうなのか…。

「え、でも何でそんな事に?結婚が失敗だった?結婚した途端に奥さんが豹変?」
 
 よく聞くパターンだ。

 付き合っている時は可愛かった女性が、ゴールインした途端に性格が変わり恐妻家と化す。さらに娘もお父さんをウザい、キモい、クサいだの言って爪弾きにし、家に居場所もなくATM扱いも耐えられず、同僚に誘われふらりと立ち寄ったスナックの可愛らしいホステスさんに優しくされ気持ちのウエイトが彼女の方に傾き…っていう流れでお父さんが殺されるサスペンスを狐塚さんが前にやっていたな。

「結婚が失敗じゃなかったからだろう」
「ん?どゆ事?」
「本当にマズい相手と結婚してしまったと思ったら、さっさと離婚するだろう。一般的に男の方が経済力があるし、女性と違って出産もないからな。奥さんにも子どもにも非はない。だからこそ、他にいいと思う女性を目にしたら、隠れて遊んでしまうんだよ」
「ダメだな」
「ダメだよ。自分が家族を養っているという事実がある分、悪びれない所がまたタチが悪い」

 田舎でこの調子なら、東京はもっとすごいんだろうな。テレビの修羅場モノなんて完全なフィクションだと思っていたが、実体験がなけりゃ創作もできないって事か。

「それで、お前の悩みの種の父というキャラクターは、令嬢と駆け落ちでもするのか?」
「いや、結局ジナイーダが捨てられるんだよ」

 親父は「初恋」を読んだ事がないので、俺がどういうストーリーなのか説明した。最初は、ほお、とか、ふうん、とか相槌を打っていた親父も、段々何も言わなくなっていった。

「まあだからさ、俺がウラジ少年が父を慕う気持ちが理解できないのはウラジ少年の役作りが出来ていないってだけなんだと思うけど、でもどう考えたって無理だろ、こんな男」
「そうだな、よくいる浮気男の典型だ」
「そもそも浮気性の男ってなんでそんなに浮気したがるんだ?」
「それは自分の価値を、女にモテるか、でしか測れないからだろう」

 なんだそれ?

「男は単純だからな、資産の大きさか寄ってくる女の数の多さで自分という人間を評価しようとする所があるだろう。その父は金目当てで結婚したと言ったな?」
「うん」
 
 そうなのだ。このウラジ父、なんと金欲しさにウラジ母と結婚して悠々自適な生活を楽しんでいるヒモ男なのだ。こういう所もイヤ。

「それでいて顔がいいんだろう?」
「うん」

 そうなのだ。このウラジ父、なんとロクデナシのクセしてイケメンで女遊びをしまくりジナイーダまで引っかける天性のクズ男なのだ。ああもう本当イヤ。

「金を手にしたんならあとはどれだけ女を振り向かせられるかが大事になってくるんだろう。つまり女とは自分の自尊心を満たすための道具に過ぎない、と考えるタイプだな」

 いっぺん三途の川を渡った方がいいな。あ、結局渡るか。はっ!ざまあみや…ん?

「え、じゃあ何で父は死ぬ前にあんな事言ったんだろ」
「何がだ?」
 
 別荘からモスクワへ帰った後、父はジナイーダとの関係を清算し、少年も大学へ入学する。しかし少年が大学へ入学した半年後、父は脳溢血で亡くなってしまう。死の直前、父は少年へ手紙を書いていて、そこにはこう書かれていた。


 “女の愛を恐れよ、その幸福を、その毒を、恐れよ”


「女を道具にしか思ってない奴が、恐れよとか変じゃないか?」
 
 親父は少し黙って、それから

「優生、最後の所もう一回詳しく教えてくれ」

 と言うので俺は原作を開き、ほぼ朗読の様に一家がモスクワに帰った後の内容を話した。

「これ、女ってジナイーダの事か?弄んで捨てたくせに、恐れよってどういう事だ?」

 全く訳ワカメである。だから文学は好きになれないし、ロシア文学なんて…と思っていたら

「愛してたんじゃないか?」

 と言う親父の一言で、俺の思考は固まった。

「…え?」
「その少年の父は、令嬢を本気で愛してしまったんじゃないか?」
「いや、そんなまさか…」
 
 そんな事あるか?

 父がジナイーダとの関係を清算する時、イラついた父はジナイーダを鞭で打つんだぞ?それはつまりジナイーダが聞き訳がなくて…
 
 俺はもう一度、原作のページに綴られた文字を凝視する。
 
 ジナイーダは悲しげで、真剣で、心からの献身と嘆きと絶望の表情で微笑んでいる。
 イラついた父はジナイーダに言う。

“あなたは思い切らなくてはいけない、そんな無理な…”

 俺はずっと、この言葉は、ジナイーダが父と別れようとしないから出たものだと思っていた。でももし父が彼女を愛していたのなら、この言葉の前にはこんな会話があったのかもしれない。

“私と一緒になろう。お互い家族を捨てて、二人だけで生きていこう”
“できませんわ。そんな事”
“なぜだ、私を愛しているだろう”
“だからこそ”

 俺の心臓が、静かに鳴り始める。

「父が少年の元にもどった時、鞭を持っていない事を“捨てた”と言ったのは、令嬢への気持ちの事なんじゃないか?」

 “捨てた”

 吐き捨てる様に言ったそのセリフが俺は嫌いだった。
 でも、もし、もしそうなら、あの手紙の内容はどういう事だ?父が亡くなる二、三日前、モスクワから届いた一通の手紙を読んで父は興奮し、母に泣きながら何かを頼み込んだ。そして例の言葉を手紙に遺し父は亡くなり、その後母はまとまった金額をモスクワへ送ったのだ。

「…子どもが産まれたんじゃないかなあ」

 親父はポツリと呟く。

「会いに行きたいと母に頼んだんじゃないかな。でも脳溢血で死ぬ三日前なら動く事は出来ないから、叶わなかったんだろう。送金は父の指示かは分からないが、養育費かもしくは母の判断での口止め料かもしれんな」

 

 関東地方は梅雨明けとなり、夏空は本気を出して暑さと眩しさを地上めがけて叩き付けてくる。肌寒かったのに一転して日中は冷房を入れないと仕事が出来ない程の気温になった。

 今週から真優莉の演技レッスンは無しになった。俺がやらかしたからではなく、立ち稽古が詰まって来たのと同時に他にも仕事が入り、俺に割く時間が物理的に無くなったからだ。

 だから俺には時間ができた。考える時間が。
 
 父が、ジナイーダを愛していた。
 
 オセロが白から黒へ一気にひっくり返る、という物の例えを、こんな形で実感する事になるとは。
 
 正直にわかにはそう思い難い。財産目当てで母と結婚する男。独りよがりで、自惚れが強い男。人の手に操られるな、自分が自分自身のものである事、人生で大事な事はそれだけだ、とまで宣う男。

 “女の愛を恐れよ、その幸福を、その毒を、恐れよ”

 父は、毒されたんだろうか。
 恐れるに足りないと思っていたものに。
 ジナイーダとの愛に。

 どれだけ考えても答えなんて分かる由もない。ツルゲーネフが正解を遺している訳ではないから想像するだけだ。だけどこの想像のループにはまる事が、毒のようだ。ロシアの偉大なる作家が仕掛けた罠に掛かって、毒はゆっくりと体を巡り俺はこの問いから逃れられない。怖くなった俺は、切り替えて普通の日常に戻る事に努めた。

 それからしばらく経ったある日の夕方。

 綾辻社長も三崎さんも用事で出掛けていて、一人で仕事をしながら電話番をしていたところへ真優莉が来た。

「あれ、お疲れ…って稽古は?」
「…今日は終わり。夜から別の仕事があるわ」

 時間が空いたから寄ったんだろうか。しかし少し様子がおかしい気がする。いつもより緊張した面持ちだし、陣地のソファにも直行しない。
 
 …もしかして最後に会った時のアレを警戒されている?

「…あ、暑かっただろ、外。麦茶飲むか?」

 俺はいつも通り接してみた。本番を控えている女優が精神的に参ってしまうなんて事を、同じ事務所のバイトの俺がきっかけになってはならない。

「…大丈夫よ、長居はしないから…」

 本当にどうしたんだろう。この前までイキイキしていたのに。
 もしかして俺に特訓していたから、ここに来て疲労がピークに達したんだろうか。それなら次の仕事に行くまでソファで休んでいれば…と思った時だった。

 バッグを床に置いた真優莉が俺の方に近づき、俺に向けて腕を伸ばした。

「…ん?」

 なぜ腕を出すんだ?

「…ねえ…」

 さっきまで俯いていた真優莉が、俺の顔を見て言った。

「叩いて欲しいんだけど…」
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