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第九幕 どうしてあなたは私の言う事を聞くの

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 次の日からは二人での特訓になった。

 三崎さんも綾辻社長も飽きたのか用事があるのか知らないが、俺と真優莉は二人っきりで読みだけの練習や動きを付けての練習をしていく。一日で劇的な変化など当然起こるはずもなく、相変わらず俺の演技はポンコツそのものだったのだが、対して真優莉のジナイーダは魅力的以外の何物でもなかった。

 俺がこの「初恋」の原作を初めて読んで面白いと思えなかったのは、一つに父だけでなくジナイーダのキャラクターがあまり好きではない、という点にもある。

 寄ってくる男は次々翻弄するくせに、自分がいざ恋に落ちたら相手が妻子持ちだからという理由で悲劇のヒロインの如くふさぎ込む。そのくせウラジーミルの事はブンブン振り回す自分勝手な女なのだ。およそ友達にはなれそうもない。

 それなのに目の前で真優莉に演じられてしまうと、「拒否」はたちまち「受容」に転換する。

 彼女の興味が自分に向けられているのが嬉しい。
 他の男を肯定されるのが悔しい。
 その笑顔の理由になりたい。
 悲しみの理由を殺してしまいたい。

 真優莉のくるくると変わる表情に合わせて、そんな気持ちが俺の中では次々と浮かんでは消えていく。

 そして演技レッスンがⅮAY5を迎えた時には、俺の中で悪役は父だけになっていた。

 どんなに少年が父を敬愛する理由を探しても、真優莉の演じるジナイーダを見る度に、こんなに魅力的な彼女を傷付ける父をひどい男だと蔑む理由は見つかっても、慕う理由なんてどこにもなかった。

 雨降りの金曜の夕方は、都心の道路はどこも混みあって渋滞する。稽古を終えてタクシーに乗ったはいいがちっとも進まないから遅れると、事務所の電話に連絡があったので俺は台本を読みながら待っていた。

「ごめんなさい、遅くなったわ」

 七時前に真優莉は到着し、着替えなどが入っている大きめのバッグを椅子の上に置き台本を取り出すと、すぐにレッスンを始めた。

 よくよく考えればコイツは毎日稽古を朝からやっていて、この一週間夜は俺の特訓をしている。それなのに疲労の色が見えずイキイキとしているのは、やはり体力も並みではないという事なのだろう。

「さあ、やるわよ。今日はここから、髪の毛をむしり取られるシーンから」

 レッスン着に着替える時間も惜しいのか、私服のまま演技し始める。だけど今日着ている膝下までの長さのワンピースは少しくすんだ白地に花柄がプリントされた華やかなものでジナイーダらしい。コーラルピンクのカーディガンがこれまたよく合っている。

「このシーンは、ジナイーダの感情の高ぶりに合わせて少年も表情や反応が変わるの。それを上手く表現できなきゃダメよ」

 俺にとってはセリフを言うのも一苦労だが、この微妙に異なる表情を表現するというのが何よりも難しい。普段自分がどういう表情で生活しているかなんて気に掛けて生きていないからだ。

「そうじゃないわ、ただビックリするだけじゃダメ」
「好きな女性が泣いているけどどう声を掛ければいいか分からない躊躇いを表現して」
「彼女の意味不明な行動を目の当りにして引くんじゃないの。むしろ気持ちは踏み込んで行くのよ」
 
 真優莉はあらゆる角度から、あらゆる言葉でウラジーミル少年を表現するための指導をしてくれ、その内に俺は気付く。懇切丁寧な解説で落とし込むよりも、相手に演じてもらうほうが理解しやすい。
 
 実際に動きを付けて通してみた時、真優莉が本当に流した涙や苦しそうな表情、俺の髪を指でぐるぐる回して引っ張る動作、
『私は痛くないって言うの?私は何にも苦しんでいないって言うの?』
 と俺を責める声、一転して
『ごめんなさい、許してね。私、あなたの髪をロケットに入れてずっと持ち歩くわ。そうすれば私もあなたも報われるわね』
 と泣きながら漏らす呟き、それらジナイーダの悲しみの雨に打たれる事で俺の頭の中に響く声が大きくなっていく。

「じゃあ、次。塀から飛び降りる所をちょっとやってみるわよ」

 庭の塀の上で考え事をしている少年の元へジナイーダが通りかかり、私を愛しているなら飛び降りてみろと命令し、なんと少年は本当に飛び降りて一瞬気を失う。驚いたジナイーダは駆け寄り少年の顔中にキスをするのだ。

「私が駆け寄ってセリフを言って、キスする直前まででいいわ」

 真優莉はそう言って大胆にもテーブルの上に椅子を乗っける。

「優生はこの椅子の上からジャンプしてね。大した高さはないけど怪我しないように飛ぶのよ。床に着地したらそのまま転がってて」
 
 俺はテーブルによじ登り椅子の上に座る。確かに大した高さではないけど、上から見下ろすと想像よりも高い。真優莉は入口のドアまで下がってから、傘立てから自分の傘を取り出し開いて肩まで持ってくる。このシーンで、ジナイーダはパラソルを差しているからだ。

「行くわよ」

 そう言った瞬間、真優莉はもうジナイーダになっていた。

『そんな所で一体何をしてるの?』

 ジナイーダは怪訝な表情で俺を見つめる。この時にはもう父との不適切な関係の沼にはまり込み、最初の覇気は全て失われている。

(僕が何をしているか、ですって?あなたの事しか考えていません)

 また声がした。

『全くあなたって可笑しな子』

 ジナイーダが苦しそうな笑みを浮かべる。俺まで苦しくなる笑顔だ。

『あなたはいつも私の後を付いて回るわよね。そんなに私を愛しているの?そうね、それならここまで飛び降りてみて。私の事を本当に愛しているなら』

 最後の方なんて聞こえてなかった。

 真優莉が言い終わると同時に俺の足はテーブルを蹴り、体は空中を飛んでそのまま衝撃と共に床に落下した。思ったよりも派手な大ジャンプとなり、想像以上の痛みが両脚に走る。
 演技ではなく本当にそのまま転がってしまった。

『何やっているの!』

 ジナイーダがパラソルを放り投げ駆け寄ってくる。

(だってあなたが飛び降りろと言ったから)

 ひっくり返っている俺の体を両腕で抱え、自分の方を向かせる。

『坊や、何でこんな事するの』

 美しい顔が、上から俺を見つめる。

『どうしてこんな事ができるの。どうしてあなたは私の言う事を聞くの』


 どうしてあなたは私の言う事を聞くの。


 結末を知る人間なら、この言葉にどんな意味が含まれているかが分かるだろう。父の姿が脳裏をよぎる。愛する女性を、こんなにも傷つける父の姿が。

 俺の髪を撫でながら、彼女の口からついにその一言が漏れた。


『私だって、あなたの事を愛しているのよ』


 今にも泣きそうな顔で、自分を見つめる目の奥に、本当は誰を見ているのか。




(…僕に向けられた言葉だったら良かったのに…)




「ジナイーダさん…」




 俺の上に、何かがのしかかる。

 細くて、重みがあるけど軽くて、艶やかでくすぐったい。

 漂う甘い花のような香りに、一瞬本当に様々な植物が咲き乱れる庭の草花の中に倒れ込んでいるのかと錯覚する。

 柔らかい日差し、虫の羽音、見渡す限り続く森、その中で憧れのジナイーダを胸に抱きしめ…




 ん?





 俺今何してんだ?





「…何してんのよこの変態‼」
「ぐふおっ‼」

 丁度胸の真ん中に真優莉の握りこぶしが叩き付けられたと同時に、無意識のうちに真優莉を抱きしめていた事を俺は認識した。

「いや、ちょっ、違う!」
「何が違うのよ!ここは私がキスしてもアンタが手を出すシーンじゃないわよ!」

 素早く俺から離れた真優莉は胸元を両手でガッチリとガードしている。確かにこの状況じゃ、俺が演技の特訓を言い訳にチ○チ○を荒ぶらせるタダの発情野郎だ。

「本当に違う!誤解なんだ!」
「何がどうなれば誤解になるのよ!」

 パニックになった真優莉は手あたり次第に色々なものを投げ、それらを避ける度ガッチャンガッチャンと音がする。

「いや、マジで!悪気はなくて!」
「犯罪者はみんな悪気はなかったって言い訳するって聞くわよ!」
「本当に違うんだって!ほら、アレだ、真優莉が魅力的だったから!」
「は?」

 そうだ!真優莉演じるジナイーダがあまりにも魅力的過ぎるから…いや、それも犯罪者の言い訳の常套句だ…あ、そうか!演技だった事にしよう!真優莉の演じるジナイーダがあまりに魅力的で、尚且つリアルだったから俺はウラジ少年の気持ちが分かっちゃって、つい慰めたくなった!コレだ!

「アドリブだよ、アドリブ!なんか、真優莉のジナイーダを見ていたら俺、少年の気持ちが分かっちゃってさ!乗り移られたんだよ!」


 完璧!


「…バカな事言ってんじゃないわよ‼」


 ではなかった。

 結局俺はそのまま真優莉の強力な往復ビンタでフルボッコにされ、真優莉の気が済むまで土下座で謝罪を繰り返し、お腹が空いたと言う真優莉のために近くのタイ料理屋のアロイ・チンチンまで夕飯を買いにパシりに行く事で、なんとか恩赦していただけた。


 レッスンが終わって家に帰り着くと、この一週間の疲れと真優莉に殴られまくったダメージがダンベルの様に全身にのしかかってくる。押し入れから布団を引っ張り出し、その上にダイブするともう動く気力が残っていない。

 眠い。
 疲れた。
 眠い。
 疲れた。

 体が俺にそう訴える。
 しかし頭の芯の、辛うじてまだ働いている部分がずっと一つの事を考えていた。

 なぜ少年は、父を慕っているのか。

 この一週間、台本や原作を読みながら、真優莉の演技レッスンを受けながら、俺は可能な限りウラジーミル少年と向き合ってきた。

 しかし一向に答えは見つからない。

 それどころか、ジナイーダに気持ちが流れる事でますます父というキャラクターへの嫌悪感が増していく。

 目を閉じると、さっき真優莉が演じたジナイーダがありありと瞼の裏に浮かんでくる。高慢で、高飛車で、意地悪なジナイーダの、抑えの効かない悲しみの表情。力なく呟かれた『私だって、あなたの事を愛しているのよ』というセリフ。

「…あんな切ない愛してるがあるか‼」

 思わず飛び起きて叫んでしまった。
 
 やっぱり俺は父が好きになれない。ジナイーダを傷つける父が。人の心がどんなに複雑怪奇な構造をしていようが、こんな父を慕う時点でやっぱりウラジーミル少年もどっかマトモでない部分があるに違いない。
 
 そもそも俺は自分がモテるのを利用して、女をとっかえひっかえする男というのが好きではないのだ。二十代位なら若気の至りで許される部分もあるだろうが、この父はもう結婚していて子どももいる四十代のいい歳のオッサンだ。つくづく俺の親父がこういうタイプじゃなくて良かったと思う。

 ウチの親父は口数は少ない控えめな所謂イエスマンタイプで、典型的なオバちゃんタイプのお袋と我も腕力も強いゴリラの様な姉貴の尻に敷かれているフシはあるが、家族円満のために一歩も二歩も引いて愚痴の一つも漏らさない所が尊敬できる実に素晴らしい男なのだ…

 ん?待てよ?

 そういえば、俺はどちらかと言うと年齢の近いウラジ少年、つまり子ども目線で父をジャッジしている。当たり前だけど俺はまだ二十代で結婚もしてないし子どもを持った経験もない。だから俺はウラジ少年の目でしか物語を見る事ができない。

 これ、「父親」の立場にある人が見たら、また違って見えるのか?
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