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第十一幕 私は、経験がないの…
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一瞬何を言われているのか、分からなかった。
外は狂ったような暑さ。オレンジの西日が全てを染める夕暮れ。
「え?え、何で?」
真優莉が差し出した腕、真っ白な手首の内側に数本の青い血管が透けて浮いているのが見える。
「ど、どうしたんだよ、急に。暑さでおかしくなったのか?」
「…そんな訳ないでしょ」
真優莉はため息をついて、冷静に話し始めた。
「前に分からない所が一ヶ所あるって言ったでしょう?ジナイーダが鞭で打たれる所、そのシーンがちょっと私の中で腑に落ちなかったから」
「あー…そういやそんな事言ってたっけ…」
自分の課題ばかりに気を取られすっかり忘れていたのだが、元はといえば真優莉がジナイーダの役作りに苦戦しているとか綾辻社長が言ったのが事の始まりだったな。まあ本人は苦戦しているのは役作りではないと言っていたが、そうか、鞭で打たれるシーンの事だったのか。
「いや、でもだからって何で実際に叩くんだよ」
リアルな打たれ方でも研究しているのか?
「鞭で打たれた後、ジナイーダは傷跡に口付けをするでしょう?」
「ん?ああ、そういえば」
「それがちょっと分からないから、実際にやってみれば何か掴めるかもしれないと思って…」
「分からないって、どんな風に腕にキスするかが?」
「動きじゃなくて、その時の心情よ」
そういう事か。
ウラジ父との最後の密会、木造の小さな家の窓辺にジナイーダが立っていて、父は窓の外側から話をしている。話が平行線を辿りイラついた父に向かってジナイーダはむき出しの腕を差し出し、父はその腕を乗馬で使う鞭で打ち付ける。当然腕には打たれた跡ができるが、ジナイーダはその腕に口付けをし、その光景を目にした父は彼女がいる家の中に入って行く。部屋の中で何が起こっているかは描かれていないが、まあ抱き合って別れを告げて…とそんなとこだろう。
その後に、例の“捨てた”発言があるのだ。
「でもこのシーンはそこまで深堀する必要があるのか?ジナイーダの心情なんてあんまり重要じゃないと思うんだけど…」
「私にとっては大アリよ」
へえ、そうなんだ。
「…何よ」
「いや…だってジナイーダは入っているって言ってたから…」
「ここだけ分からないわ」
真優莉はなんだか恥ずかしそうな表情で、
「…私は、経験がないの…」
と小声で呟き恥ずかしそうに下を向く。
いや、普通誰だって鞭で打たれる経験なんてないんだから、そんなに恥ずかしがる事はないと思うのだが…?
「でもだからってなんで俺が叩くんだよ」
こういうのはウラジ父役の長谷川克己さんにでも頼めばいいんじゃないか?ドラマやCMでもよく見る長谷川さんは女性に人気のイケメン俳優だ。イケメンに打たれるならダメージも少なそうと思うのは勝手だろうか。
「…別にいいじゃない。つべこべ言ってないで、ほら」
そんな事言われても、俺はこれまでの人生で意図的に誰かを叩いたりした事がないから心理的抵抗がある。それに事務所に鞭なんてないのだが。
「何で叩けばいいんだよ」
真優莉は部屋の中を見渡して、テーブルの上にあるペン立てから定規を取り出した。
「これでいいんじゃない」
それはどこにでもある、何の変哲もないプラスチックの三十センチ定規。これで叩けと言うのか。
「いや、これ結構痛いんじゃ…」
「いいわよ。やりなさい」
真優莉が譲らないから、俺にも選択肢は一つしかない。差し出された白い腕に向かって、俺は定規を振るった。
ペん!という音が肌の上で鳴る。
しかし俺が力を込めなかったから、皮膚にはなんの変化も起こらず当然真優莉も痛みという痛みは感じなかっただろう。
「ダメよ、そんなんじゃ。もっとちゃんと力を込めて!」
「いや、マズいだろそんなの!万一怪我でもしたらどうすんだよ!」
「大丈夫だからほらやって!」
どうすりゃいいんだこんなの。自分の意思では力なんて込められそうにない。
「…じゃあこれでいいか?」
俺は左手で定規の端を持ち縦にして、真優莉が差し出す腕の側まで持って行く。そして右手の人差し指で定規の上に触れ、手前に曲げると定規は弓なりに反り始めた。俺が指を離せばそのまま定規は真優莉の腕に向かって打ち付けられ、弓なりのカーブが反れている程その威力は強くなる。
「…いいわよ。しっかり反らせてから離すのよ」
真優莉は差し出した腕の先、拳をぐっと握った。本人がその気だから、俺は定規を反らせる指に力を入れる。少しずつ、少しずつ、定規は反れていく。この辺だろうか。あまり反らすと折れてしまうかもしれない。
だけど本当にいいんだろうか。
真優莉の役者精神は素晴らしいと思うが、女優の、モデル業だってやっている女の子の腕に定規を叩き付けたりなんかして。当たる角度が悪ければ切り傷だってできるかもしれないのに、なぜこんなになれるんだろう。理解できない事のために、どうして自分の腕を犠牲にできるんだろう。
余計な事を考えたからだろうか。指先から、定規がすり抜けた。あっ、と思った瞬間、柔らかい皮膚の上で定規が弾け飛び、部屋中に乾いた音が響いた。
「大丈夫か?!」
真優莉は定規が当たった腕を抑えていて、顔の歪み具合からそれがどれほどの衝撃と痛みかが見てとれる。
「血出てないか?!」
ゆっくりと、抑えていた手を離す。露わになった腕の内側には、血こそ出ていないがくっきりと赤く、滲むような跡が残っていた。
「ご、ごめん真優莉!今氷持ってくるから!」
急いで冷凍庫の製氷皿の氷をビニール袋に入れる。
「ほら、これ当てて…」
振り向くと、微動だにせず腕に付いた跡を見つめる真優莉がいた。
「真優莉…?」
俺は不安になった。氷の入った袋を持って近づいても俺の存在が意識に入っていない。
「大丈夫か…?」
顔を覗き込んだ瞬間、もう一度定規で打たれ意識が弾き返されたかのように真優莉は体を震わせた。
「真優莉、本当に大丈夫か?」
真優莉は腕を抑え、俯いた。やっぱりかなり痛かったんだろう。
「ほら、しばらくこれで冷やして…」
「…いわ」
「え?」
聞き取ろうと耳を近づけようとした瞬間、真優莉はキッと睨み
「こんなの頭がおかしいわ!」
と叫ぶやそのままバッグを掴んで事務所を出て行った。
ヤバい。
怒らせた。
またやらかしてしまった。
「俺、クビ…?」
外は狂ったような暑さ。オレンジの西日が全てを染める夕暮れ。
「え?え、何で?」
真優莉が差し出した腕、真っ白な手首の内側に数本の青い血管が透けて浮いているのが見える。
「ど、どうしたんだよ、急に。暑さでおかしくなったのか?」
「…そんな訳ないでしょ」
真優莉はため息をついて、冷静に話し始めた。
「前に分からない所が一ヶ所あるって言ったでしょう?ジナイーダが鞭で打たれる所、そのシーンがちょっと私の中で腑に落ちなかったから」
「あー…そういやそんな事言ってたっけ…」
自分の課題ばかりに気を取られすっかり忘れていたのだが、元はといえば真優莉がジナイーダの役作りに苦戦しているとか綾辻社長が言ったのが事の始まりだったな。まあ本人は苦戦しているのは役作りではないと言っていたが、そうか、鞭で打たれるシーンの事だったのか。
「いや、でもだからって何で実際に叩くんだよ」
リアルな打たれ方でも研究しているのか?
「鞭で打たれた後、ジナイーダは傷跡に口付けをするでしょう?」
「ん?ああ、そういえば」
「それがちょっと分からないから、実際にやってみれば何か掴めるかもしれないと思って…」
「分からないって、どんな風に腕にキスするかが?」
「動きじゃなくて、その時の心情よ」
そういう事か。
ウラジ父との最後の密会、木造の小さな家の窓辺にジナイーダが立っていて、父は窓の外側から話をしている。話が平行線を辿りイラついた父に向かってジナイーダはむき出しの腕を差し出し、父はその腕を乗馬で使う鞭で打ち付ける。当然腕には打たれた跡ができるが、ジナイーダはその腕に口付けをし、その光景を目にした父は彼女がいる家の中に入って行く。部屋の中で何が起こっているかは描かれていないが、まあ抱き合って別れを告げて…とそんなとこだろう。
その後に、例の“捨てた”発言があるのだ。
「でもこのシーンはそこまで深堀する必要があるのか?ジナイーダの心情なんてあんまり重要じゃないと思うんだけど…」
「私にとっては大アリよ」
へえ、そうなんだ。
「…何よ」
「いや…だってジナイーダは入っているって言ってたから…」
「ここだけ分からないわ」
真優莉はなんだか恥ずかしそうな表情で、
「…私は、経験がないの…」
と小声で呟き恥ずかしそうに下を向く。
いや、普通誰だって鞭で打たれる経験なんてないんだから、そんなに恥ずかしがる事はないと思うのだが…?
「でもだからってなんで俺が叩くんだよ」
こういうのはウラジ父役の長谷川克己さんにでも頼めばいいんじゃないか?ドラマやCMでもよく見る長谷川さんは女性に人気のイケメン俳優だ。イケメンに打たれるならダメージも少なそうと思うのは勝手だろうか。
「…別にいいじゃない。つべこべ言ってないで、ほら」
そんな事言われても、俺はこれまでの人生で意図的に誰かを叩いたりした事がないから心理的抵抗がある。それに事務所に鞭なんてないのだが。
「何で叩けばいいんだよ」
真優莉は部屋の中を見渡して、テーブルの上にあるペン立てから定規を取り出した。
「これでいいんじゃない」
それはどこにでもある、何の変哲もないプラスチックの三十センチ定規。これで叩けと言うのか。
「いや、これ結構痛いんじゃ…」
「いいわよ。やりなさい」
真優莉が譲らないから、俺にも選択肢は一つしかない。差し出された白い腕に向かって、俺は定規を振るった。
ペん!という音が肌の上で鳴る。
しかし俺が力を込めなかったから、皮膚にはなんの変化も起こらず当然真優莉も痛みという痛みは感じなかっただろう。
「ダメよ、そんなんじゃ。もっとちゃんと力を込めて!」
「いや、マズいだろそんなの!万一怪我でもしたらどうすんだよ!」
「大丈夫だからほらやって!」
どうすりゃいいんだこんなの。自分の意思では力なんて込められそうにない。
「…じゃあこれでいいか?」
俺は左手で定規の端を持ち縦にして、真優莉が差し出す腕の側まで持って行く。そして右手の人差し指で定規の上に触れ、手前に曲げると定規は弓なりに反り始めた。俺が指を離せばそのまま定規は真優莉の腕に向かって打ち付けられ、弓なりのカーブが反れている程その威力は強くなる。
「…いいわよ。しっかり反らせてから離すのよ」
真優莉は差し出した腕の先、拳をぐっと握った。本人がその気だから、俺は定規を反らせる指に力を入れる。少しずつ、少しずつ、定規は反れていく。この辺だろうか。あまり反らすと折れてしまうかもしれない。
だけど本当にいいんだろうか。
真優莉の役者精神は素晴らしいと思うが、女優の、モデル業だってやっている女の子の腕に定規を叩き付けたりなんかして。当たる角度が悪ければ切り傷だってできるかもしれないのに、なぜこんなになれるんだろう。理解できない事のために、どうして自分の腕を犠牲にできるんだろう。
余計な事を考えたからだろうか。指先から、定規がすり抜けた。あっ、と思った瞬間、柔らかい皮膚の上で定規が弾け飛び、部屋中に乾いた音が響いた。
「大丈夫か?!」
真優莉は定規が当たった腕を抑えていて、顔の歪み具合からそれがどれほどの衝撃と痛みかが見てとれる。
「血出てないか?!」
ゆっくりと、抑えていた手を離す。露わになった腕の内側には、血こそ出ていないがくっきりと赤く、滲むような跡が残っていた。
「ご、ごめん真優莉!今氷持ってくるから!」
急いで冷凍庫の製氷皿の氷をビニール袋に入れる。
「ほら、これ当てて…」
振り向くと、微動だにせず腕に付いた跡を見つめる真優莉がいた。
「真優莉…?」
俺は不安になった。氷の入った袋を持って近づいても俺の存在が意識に入っていない。
「大丈夫か…?」
顔を覗き込んだ瞬間、もう一度定規で打たれ意識が弾き返されたかのように真優莉は体を震わせた。
「真優莉、本当に大丈夫か?」
真優莉は腕を抑え、俯いた。やっぱりかなり痛かったんだろう。
「ほら、しばらくこれで冷やして…」
「…いわ」
「え?」
聞き取ろうと耳を近づけようとした瞬間、真優莉はキッと睨み
「こんなの頭がおかしいわ!」
と叫ぶやそのままバッグを掴んで事務所を出て行った。
ヤバい。
怒らせた。
またやらかしてしまった。
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