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【番外編】運命の人(チェスター視点)
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「何回見ても可愛いな」
僕は毎朝妻のジェシカを抱き締めた状態で、目を覚ます。そして彼女を起こさないようにそっと片肘をつき、ベストポジションを見つける。よく眠っている彼女のあどけない顔を眺めるためだ。
すーすーという小さくて規則的な寝息すら、愛おしいと思える。以前ジェシカに『寝息も可愛い』と伝えたら、複雑な顔をされたのでそれ以来は言っていないけれど。だけど、本当の気持ちなのだ。
「愛してるよ」
まだ眠っている彼女の頬にキスを落とした。
昨夜もジェシカに無理をさせた自覚がある。結婚して三ヵ月が経過したが、この気持ちが落ち着くはずもない。むしろ毎日毎時間毎秒……どんどんジェシカのことを好きになっている気がする。
最初は女らしくないから見ないでと恥ずかしがってばかりだった彼女が、僕の手で可愛く綺麗に……そして色っぽく変わっていく姿は、夫にしか見られない特別な姿だ。
「チェスター」
甘い声で彼女に名前を呼ばれると、嬉しくて心が震えた。
「ジェシカ」
僕も姉さんではなく、呼び捨てで呼べることがこんなに幸せなのかと感じていた。
結婚式を終えて……長い時間をかけてやっと一つになった時は、自然と涙が溢れてきた。
しかし、ここに至るまでが長かった。僕はもし過去に戻れるのなら、自分に言いたいことがある。
それは間違っても好きな女性に『姉さん』なんて絶対に呼ぶなということだ。
こんな呼び方をしていては、男ではなく弟にしか思われず長い時間苦しむことになるからだ。
♢♢♢
いつジェシカ姉さんと出逢ったかなんて覚えていない。お互いの両親が仲が良く領地も近かったため、僕は赤子の頃から彼女と一緒に過ごしていた。
女の子のような可愛らしい顔と小さな身体だった僕は、同年代の子どもたちからよく虐められていた。
「やーい、悔しかったらお前もここから飛び降りてみろよ」
「うっうっ、無理だよ。怖いもん」
「そんな女みたいな顔してるから、できねぇんだろ! ほら、やれよ」
「やだよ。ううっ……うわーん」
そんな風に泣いていると、いつもジェシカ姉さんが助けに来てくれる。
「こら! チェスターを虐めるな」
「うわ、ジェシカが来たぞ」
「逃げろ」
木の棒を振り回しながら、いじめっ子たちを追い払ってくれるのだ。
「チェスター、もう大丈夫よ」
「ジェシカ姉さん……ありがと」
「こんな危ない所から飛びおりなくてもいいの。チェスターは可愛くて、賢い良い子なんだから」
泣いている僕をぎゅうっと抱き締めて、よしよしと優しく頭を撫でてくれるのだ。
ジェシカ姉さんの胸の中はとても温かくて、いい匂いがするので僕は大好きだった。
「ほら、私が本を読んであげるわ。元気出してね」
「うん」
僕はジェシカ姉さんに毎日本を読んでもらった。冒険ものやホラー、歴史ものなど色んなものを読み聞かせてくれた。
それはどれも面白くて、僕は自分でも進んで本を読むようになった。そして内容を理解するために勉強も頑張るようになり、自然と学ぶことが好きになった。
「チェスターは頭がいいわね。すごいわ」
「へへへ、そうかな」
ジェシカ姉さんに褒めてもらうと、ものすごく嬉しかった。
そして彼女は何もできなかった幼い僕に、馬の乗り方や木登りの仕方、森で食べられる木の実や薬草なんかを根気よく教えてくれた。
「ほら、できた。馬って怖くないでしょう? これは私の愛馬リリーよ」
「うん、可愛いね。ジェシカ姉さんと一緒なら……ぜんぜん怖くないや」
「ふふ、きっとすぐに一人でも乗れるようになるわ」
ジェシカ姉さんはそう言ってくれたけど、僕はずっと彼女の腕の中にいたいなと思っていた。きっとその時には、もう好きになっていた。
僕の世界はジェシカ姉さん一色だった。彼女がいれば、僕の世界は楽しくてキラキラと輝いていたからだ。
すくすく成長して、十歳になる頃には僕は周囲から美少年だと持て囃されるようになっていた。
背が伸びたことで運動神経も良くなり、昔から好きだった勉強も続けていたので学校の成績も良かった。そうなると、虐められるどころか褒められることばかりになった。
――もう昔の弱い僕じゃないんだ。これならジェシカ姉さんも、きっと僕を好きになってくれる。
最初に恋心を自覚して、もう五年。僕のジェシカ姉さんへの想いは子どもながらに真剣だった。
「こら、小さい子を虐めないの!」
だけど僕は大きくなるにつれて、ジェシカ姉さんが自分だけのものじゃないことに気がついた。
彼女は基本的に誰にでも優しく、面倒見がいい。昔の僕のような弱い子には、すぐに手を差し伸べる。
「うわーん」
「大丈夫よ。私が守ってあげるからね」
ジェシカ姉さんに抱き締められている子を見て、僕は不安になった。だって、彼女は……きっと誰でも助けるだろうことがわかったから。
――僕はジェシカ姉さんの特別じゃない。
その優しさが大好きなはずなのに、その優しさが苦しかった。
それから僕はとても頑張った。勉強もスポーツも……武道も習い、全て好成績を残した。
ジェシカ姉さんを守れるような強い男になって、彼女と結婚したいと目標を決めたからだ。
「ジェシカ姉さん、好きだよ」
僕は十二歳の時に一世一代の気持ちで、初めてジェシカ姉さんに告白をした。きっと真っ赤に頬が染まっていたと思う。
「ありがとう。私もチェスターが大好きよ。だって、あなたは私の可愛い可愛い弟だもの!」
その言葉に、僕は全く異性として認識されていないのだとショックを受けた。
「そろそろ……姉さんって呼ぶのはやめようかな」
「ええっ! そんな。寂しいわ。やめたら嫌よ」
ジェシカ姉さんがすごく哀しい顔をしたので、僕は呼び方を改めるタイミングを失った。
どうしてこんな呼び方をしたのかと、僕はとても後悔した。姉さんなんて呼んだら……そりゃ弟扱いしかされないだろう。
彼女は昔から『年上のダンディなおじさまが好き』なんて言っていたが、それは現実的ではないことはわかっていた。
ジェシカ姉さんの父親のラルフさんは、かなり伝統を重んじるタイプの貴族だ。それにお転婆なジェシカ姉さんを、いつも口煩く怒ってはいるが本当は娘思いの父親だ。
だから、そんな年の差婚を認めるはずがないからだ。
「どうしてジェシカ姉さんは年上が好きなの?」
「私のお転婆を優しく許してくれるのなんて、うんと年上の方だけだわ」
「……そうとは限らないんじゃない?」
「限るの! だって同じ年頃の子は、ピアノや刺繍が好きな御令嬢じゃないと結婚してくれないもの」
はあとため息をついたジェシカ姉さんを、僕はチラリと横目で盗み見ていた。
――僕は年下だけど、馬に乗って外を駆け抜けているジェシカ姉さんが好きなのに。
そう思いながらも、僕は黙っていた。長い年月をかけて、僕はジェシカ姉さんに一番近い場所にいることができているのだから。
このぬるま湯のような居心地の良さを、自分から壊す勇気はなかった。
それからも特に大きな変化もないまま、時間ばかりが経過していった。
大きな転機はジェシカ姉さんが十九歳、僕が十七歳の時。なんと彼女がマッチングで年上の男性との出逢いを探していることを知ったのだ。
僕はそれを知って目の前が真っ暗になった。ショックで倒れそうになったくらいだ。
あの時倒れずに、冷静に彼女の魔電を見てマッチングのプロフィール情報を一瞬で覚えた自分を褒めてやりたい。
それがあったからこそ、同じ『ベリー』というニックネームを使用している女性がたくさんいる中でどれがジェシカ姉さんかを判別することができたからだ。
そして僕は『ブルー』というニックネームで、彼女の理想である年上男だと偽って接触をした。
年齢を偽ってしまえば、彼女はブルー……つまり僕に惹かれていった。
その事実は僕を浮かれさせ、調子にのって毎日のようにメッセージのやりとりをした。彼女と恋人になればこんな感じなのかと、一人でニマニマしていたものだ。
「チェスター様、これからみんなで遊びに行きますの。ご一緒にどうですか」
授業が終わったので帰ろうとしていると、同じクラスの御令嬢たちに囲まれてしまった。
「……忙しいから遠慮するよ」
ジェシカ姉さんが卒業した学校なんて、授業が終わればいる意味がない。
「そんなぁ! たまにはいいではありませんか」
猫撫で声で、腕に纏わりついてくるのがとても不愉快だ。よほど自分に自信があるのか、上目遣いでこちらを見つめてくる。
「離してくれ」
「もう、つれないですわねぇ。チェスター様のそんなクールなところが素敵なんですけれど」
僕にとっては、ジェシカ姉さん以外の女性はみんな同じに見えた。みんな『より良い条件の夫』を見つけるために、最大限に着飾り、大人しそうなフリをしながら将来有望な男に擦り寄っていく。
今僕に近付いてきた御令嬢は、確か一つ年上の婚約者がいたはずだ。常に上を目指す強かさが、透けてみえてしまう。
ピコン
メッセージを知らせる通知音に、僕は慌てて自分の魔電をポケットから取り出した。
【私は今日は愛馬のルルーとお出かけしてきました。天気が良くて、とても良い気分です! 調子にのって大きなサンドウィッチを三つも食べてしまいました。ブルー様も素敵な一日になりますように】
僕はジェシカ姉さんからのメッセージを読んで、フッと微笑んだ。
「チェスター様が笑っていらっしゃるわ。珍しいわね」
「うわぁ、笑顔も素敵」
「あんな表情をなさるなんて、誰からかしら」
普段無表情な僕が、魔電を見て笑っているのを見て周囲がザワザワとうるさくなった。
「チェスター様……ど、どなたからですか?」
誘ってきた御令嬢の顔が引き攣っているのがわかる。僕は面倒になって、ハッキリと宣言することにした。
「世界一愛する人からだよ。僕、もう帰るね」
振り返らずに教室を出たが、中からは「キャー」と悲鳴が聞こえてきた。
「……うるさい」
普段なら気分が最悪になるところだが、僕はジェシカ姉さんからメッセージが来たからそれだけでご機嫌だ。自分でもかなり現金だと思うけれど、仕方がない。
【お出かけ羨ましいです。今日は本当にいい天気でしたね。私も食べることが好きなので、たくさん食べる女性は素敵だと思います。あなたのメッセージを見て、私もいい日になりました】
家に帰って、すぐに返事を送った。ジェシカ姉さんは、こんな時でも自分を偽ろうとはしない。
普通の御令嬢なら『少食』で『か弱い』女性と思われたいので、外に馬で出かけたことやサンドウィッチをたくさん食べたことなんて書くはずがない。
だけど、ジェシカ姉さんは自分が良いと思ったことや感じたことを『ブルー』に素直に伝えたいのだ。そこには何の企みや、思惑もない。
「……可愛い」
外でもぐもぐサンドウィッチを頬張っているジェシカ姉さんを想像し、僕はため息をついた。
――そんな姿、絶対可愛いに決まってる。僕も一緒に行きたかったな。
「ブルーのこと……好きだよな。好きじゃなかったら、こんなにメッセージのやり取りしないもんな」
そろそろ『実はあれは僕なんだ』と伝えようと思っていたが……彼女はブルーが僕だとは全く思っておらず、真剣に悩み恋をしている姿を見て言い出せる雰囲気ではなくなっていた。
それならばブルーという存在自体を消そうと思い連絡を絶ったが、結局ジェシカを泣かせて傷つけてしまった。
――僕はなにしてるんだ。愛する人を傷つけて。
こんなことをして近付こうとしたことを悔い、ブルーとして最後に【もう終わりにしましょう。今までありがとうございました。さようなら】とメッセージを送った。
彼女を諦めたくない。だけど、これだけ相手にされないのだ。もう……無理なのかもしれない。
弱気になった僕は、昔から嫌なことがあった時に行く湖のほとりに来ていた。
幼い頃、虐められた時はよくここで泣いていた。誰にも見つからないから。
だけど、彼女だけはいつもここに来て『大丈夫だ』と優しく抱き締めてくれたのだ。
「さよならなんて嫌だわ!」
大好きなジェシカの声に驚いて、僕は振り返った。
「どうしてここが……?」
「わかるわよ。あなたは傷付いた時はいつも湖のほとりに隠れているもの」
「そっか。やっぱりジェシカ姉さんには敵わないな」
ジェシカは昔と同じように、僕を抱き締めてくれた。
「ブルー様はあなただったのね、チェスター」
「そうだよ。ごめんね、嘘をついて」
「私こそ今まで気が付かなくてごめんなさい」
どうやら彼女は、ブルーが僕だと気が付いてくれたらしい。
そして信じられないことに、ジェシカは僕のことが好きだと言ってくれた。
「……本当に僕のこと好き?」
「ええ、大好きよ」
「嬉しい。どうしよう……夢みたいだ」
僕の目から涙が流れて止まらなくなった。ジェシカ姉さんの前では格好良い男でいたいのに、どうしてこんなことになってしまうのか。
しかし、格好悪い僕のことも彼女はそのまま包み込んでくれた。
♢♢♢
それからはもう逃さないとばかりに、すぐに婚約してあっという間に結婚まで一気に進めた。ジェシカは少し戸惑っていたが、そのまま笑顔で押し切った。
だって、僕はもう待てなかったから。
お互いの両親が仲が良いため、何の問題も起きずトントン拍子に話は進んだ。
僕が彼女のドレスを選んで一緒に舞踏会にも参加し、周囲の男への牽制もしっかり行った。
ドレスや宝石に興味のないジェシカを、僕は思う存分着飾らせた。化粧も普段よりしっかりめに。
スタイルの良さがわかる細身のマーメイドラインのドレスは、彼女の良さを倍増させ誰が見てもとても美しかった。
ドレスの色はもちろん、僕の瞳と同じブルーにしている。これはジェシカの全部が僕のものだという証だ。
両親には『さすがに独占欲を出しすぎだ』と笑われたが、僕はそれの何が悪いと開き直っていた。
『ジェシカ様ってこんなに綺麗だったの?』
『普段地味だからわからなかったわ』
『腰が細いな。乗馬をされるとは聞いているが……』
『スタイル抜群だな』
周囲は今更彼女の魅力に気が付いたらしい。男たちの視線が鬱陶しいので、僕は彼女のくびれた腰を抱き寄せた。
「みんなが綺麗なジェシカに見惚れてるよ。今夜は僕から絶対離れないでね」
「何言ってるの。見られているのは、あなたでしょう?」
不思議そうに首を傾げたジェシカに、僕は「そうかな」とにっこりと微笑んだ。どうやら彼女は全くわかっていないようだ。相変わらず、鈍くて嫌になる。
だけど、それでいい。彼女は僕が守ればいいのだから。他の男の視線など、気にしないで欲しい。
――全部僕のものだ。
ジェシカにはわからないように、僕は彼女に見惚れていた男たちをギロリと睨みつけた。顔と名前は覚えたので、何か変なことをしようものなら……許しはしない。
皆が視線を逸らしたので、僕は満足して彼女と舞踏会を楽しんだ。
結婚式のウェディングドレス姿も、とても綺麗だった。この世のものとは思えないほど美しくて、女神がこの地に舞い降りたのかと思ったほどだ。
「褒めすぎだから」
そう伝えるとジェシカは真っ赤になって恥ずかしがっていたが、僕は本当の気持ちだった。
だけど、本当に美しいのは素顔のジェシカだ。彼女の存在が美しいのだから、本当は化粧も、煌びやかなドレスも必要ない。
そのことをわかっているのは、きっと僕だけだ。
「んんっ……」
ジェシカがゆっくりと目を開けたので、僕はそっと頭を撫でた。
「ジェシカ、おはよう」
「お、おはよう」
「今朝も可愛いね」
「……何言ってるのよ。チェスターの方が眩しいくらいキラキラしてる」
どうやら彼女は、僕の『顔』に弱いらしいのだ。女顔だと言われることもあるこの顔を、自分ではそんなに気に入っていない。
だけどジェシカが好きだと思ってくれるなら、自分のこの顔も好きになるので不思議なものだ。
「この顔、好きだもんね」
「……」
「あれ、嫌いだった?」
僕はわざと哀しそうな顔をして、彼女を覗き込んだ。彼女が僕に上から見下ろされるのが好きなことも知っているから、あえてこの角度だ。
「……好き」
そう言われて、僕は顔がつい緩んでしまう。答えがわかっていても、やっぱり嬉しいものだ。
「か、顔じゃなくて……チェスター自身が好き」
ジェシカは頬を染めて小さな声で呟き、恥ずかしそうにシーツを頭から被った。
――今、なんて言った?
僕は数秒フリーズした。そして言葉の意味を理解した瞬間、彼女のシーツを剥ぎ取った。
「きゃあっ!」
「……今のはジェシカが悪い」
「え、なんのこと」
「可愛すぎる」
無自覚に僕の心を翻弄してくるジェシカを、もう一度愛することになったのは仕方のないことだろう。
幼馴染として出逢い、マッチングを通して別人として仲を深め……そして今は想いが通じ合って夫婦になれた。
ここに来るまでかなり遠回りをしたが、やはり僕にとってはジェシカこそが運命の相手だったのだ。
またすーすーと静かな寝息をたて始めた彼女を見つめながら、僕も幸せな気持ちでゆっくりと目を閉じた。
番外編END
僕は毎朝妻のジェシカを抱き締めた状態で、目を覚ます。そして彼女を起こさないようにそっと片肘をつき、ベストポジションを見つける。よく眠っている彼女のあどけない顔を眺めるためだ。
すーすーという小さくて規則的な寝息すら、愛おしいと思える。以前ジェシカに『寝息も可愛い』と伝えたら、複雑な顔をされたのでそれ以来は言っていないけれど。だけど、本当の気持ちなのだ。
「愛してるよ」
まだ眠っている彼女の頬にキスを落とした。
昨夜もジェシカに無理をさせた自覚がある。結婚して三ヵ月が経過したが、この気持ちが落ち着くはずもない。むしろ毎日毎時間毎秒……どんどんジェシカのことを好きになっている気がする。
最初は女らしくないから見ないでと恥ずかしがってばかりだった彼女が、僕の手で可愛く綺麗に……そして色っぽく変わっていく姿は、夫にしか見られない特別な姿だ。
「チェスター」
甘い声で彼女に名前を呼ばれると、嬉しくて心が震えた。
「ジェシカ」
僕も姉さんではなく、呼び捨てで呼べることがこんなに幸せなのかと感じていた。
結婚式を終えて……長い時間をかけてやっと一つになった時は、自然と涙が溢れてきた。
しかし、ここに至るまでが長かった。僕はもし過去に戻れるのなら、自分に言いたいことがある。
それは間違っても好きな女性に『姉さん』なんて絶対に呼ぶなということだ。
こんな呼び方をしていては、男ではなく弟にしか思われず長い時間苦しむことになるからだ。
♢♢♢
いつジェシカ姉さんと出逢ったかなんて覚えていない。お互いの両親が仲が良く領地も近かったため、僕は赤子の頃から彼女と一緒に過ごしていた。
女の子のような可愛らしい顔と小さな身体だった僕は、同年代の子どもたちからよく虐められていた。
「やーい、悔しかったらお前もここから飛び降りてみろよ」
「うっうっ、無理だよ。怖いもん」
「そんな女みたいな顔してるから、できねぇんだろ! ほら、やれよ」
「やだよ。ううっ……うわーん」
そんな風に泣いていると、いつもジェシカ姉さんが助けに来てくれる。
「こら! チェスターを虐めるな」
「うわ、ジェシカが来たぞ」
「逃げろ」
木の棒を振り回しながら、いじめっ子たちを追い払ってくれるのだ。
「チェスター、もう大丈夫よ」
「ジェシカ姉さん……ありがと」
「こんな危ない所から飛びおりなくてもいいの。チェスターは可愛くて、賢い良い子なんだから」
泣いている僕をぎゅうっと抱き締めて、よしよしと優しく頭を撫でてくれるのだ。
ジェシカ姉さんの胸の中はとても温かくて、いい匂いがするので僕は大好きだった。
「ほら、私が本を読んであげるわ。元気出してね」
「うん」
僕はジェシカ姉さんに毎日本を読んでもらった。冒険ものやホラー、歴史ものなど色んなものを読み聞かせてくれた。
それはどれも面白くて、僕は自分でも進んで本を読むようになった。そして内容を理解するために勉強も頑張るようになり、自然と学ぶことが好きになった。
「チェスターは頭がいいわね。すごいわ」
「へへへ、そうかな」
ジェシカ姉さんに褒めてもらうと、ものすごく嬉しかった。
そして彼女は何もできなかった幼い僕に、馬の乗り方や木登りの仕方、森で食べられる木の実や薬草なんかを根気よく教えてくれた。
「ほら、できた。馬って怖くないでしょう? これは私の愛馬リリーよ」
「うん、可愛いね。ジェシカ姉さんと一緒なら……ぜんぜん怖くないや」
「ふふ、きっとすぐに一人でも乗れるようになるわ」
ジェシカ姉さんはそう言ってくれたけど、僕はずっと彼女の腕の中にいたいなと思っていた。きっとその時には、もう好きになっていた。
僕の世界はジェシカ姉さん一色だった。彼女がいれば、僕の世界は楽しくてキラキラと輝いていたからだ。
すくすく成長して、十歳になる頃には僕は周囲から美少年だと持て囃されるようになっていた。
背が伸びたことで運動神経も良くなり、昔から好きだった勉強も続けていたので学校の成績も良かった。そうなると、虐められるどころか褒められることばかりになった。
――もう昔の弱い僕じゃないんだ。これならジェシカ姉さんも、きっと僕を好きになってくれる。
最初に恋心を自覚して、もう五年。僕のジェシカ姉さんへの想いは子どもながらに真剣だった。
「こら、小さい子を虐めないの!」
だけど僕は大きくなるにつれて、ジェシカ姉さんが自分だけのものじゃないことに気がついた。
彼女は基本的に誰にでも優しく、面倒見がいい。昔の僕のような弱い子には、すぐに手を差し伸べる。
「うわーん」
「大丈夫よ。私が守ってあげるからね」
ジェシカ姉さんに抱き締められている子を見て、僕は不安になった。だって、彼女は……きっと誰でも助けるだろうことがわかったから。
――僕はジェシカ姉さんの特別じゃない。
その優しさが大好きなはずなのに、その優しさが苦しかった。
それから僕はとても頑張った。勉強もスポーツも……武道も習い、全て好成績を残した。
ジェシカ姉さんを守れるような強い男になって、彼女と結婚したいと目標を決めたからだ。
「ジェシカ姉さん、好きだよ」
僕は十二歳の時に一世一代の気持ちで、初めてジェシカ姉さんに告白をした。きっと真っ赤に頬が染まっていたと思う。
「ありがとう。私もチェスターが大好きよ。だって、あなたは私の可愛い可愛い弟だもの!」
その言葉に、僕は全く異性として認識されていないのだとショックを受けた。
「そろそろ……姉さんって呼ぶのはやめようかな」
「ええっ! そんな。寂しいわ。やめたら嫌よ」
ジェシカ姉さんがすごく哀しい顔をしたので、僕は呼び方を改めるタイミングを失った。
どうしてこんな呼び方をしたのかと、僕はとても後悔した。姉さんなんて呼んだら……そりゃ弟扱いしかされないだろう。
彼女は昔から『年上のダンディなおじさまが好き』なんて言っていたが、それは現実的ではないことはわかっていた。
ジェシカ姉さんの父親のラルフさんは、かなり伝統を重んじるタイプの貴族だ。それにお転婆なジェシカ姉さんを、いつも口煩く怒ってはいるが本当は娘思いの父親だ。
だから、そんな年の差婚を認めるはずがないからだ。
「どうしてジェシカ姉さんは年上が好きなの?」
「私のお転婆を優しく許してくれるのなんて、うんと年上の方だけだわ」
「……そうとは限らないんじゃない?」
「限るの! だって同じ年頃の子は、ピアノや刺繍が好きな御令嬢じゃないと結婚してくれないもの」
はあとため息をついたジェシカ姉さんを、僕はチラリと横目で盗み見ていた。
――僕は年下だけど、馬に乗って外を駆け抜けているジェシカ姉さんが好きなのに。
そう思いながらも、僕は黙っていた。長い年月をかけて、僕はジェシカ姉さんに一番近い場所にいることができているのだから。
このぬるま湯のような居心地の良さを、自分から壊す勇気はなかった。
それからも特に大きな変化もないまま、時間ばかりが経過していった。
大きな転機はジェシカ姉さんが十九歳、僕が十七歳の時。なんと彼女がマッチングで年上の男性との出逢いを探していることを知ったのだ。
僕はそれを知って目の前が真っ暗になった。ショックで倒れそうになったくらいだ。
あの時倒れずに、冷静に彼女の魔電を見てマッチングのプロフィール情報を一瞬で覚えた自分を褒めてやりたい。
それがあったからこそ、同じ『ベリー』というニックネームを使用している女性がたくさんいる中でどれがジェシカ姉さんかを判別することができたからだ。
そして僕は『ブルー』というニックネームで、彼女の理想である年上男だと偽って接触をした。
年齢を偽ってしまえば、彼女はブルー……つまり僕に惹かれていった。
その事実は僕を浮かれさせ、調子にのって毎日のようにメッセージのやりとりをした。彼女と恋人になればこんな感じなのかと、一人でニマニマしていたものだ。
「チェスター様、これからみんなで遊びに行きますの。ご一緒にどうですか」
授業が終わったので帰ろうとしていると、同じクラスの御令嬢たちに囲まれてしまった。
「……忙しいから遠慮するよ」
ジェシカ姉さんが卒業した学校なんて、授業が終わればいる意味がない。
「そんなぁ! たまにはいいではありませんか」
猫撫で声で、腕に纏わりついてくるのがとても不愉快だ。よほど自分に自信があるのか、上目遣いでこちらを見つめてくる。
「離してくれ」
「もう、つれないですわねぇ。チェスター様のそんなクールなところが素敵なんですけれど」
僕にとっては、ジェシカ姉さん以外の女性はみんな同じに見えた。みんな『より良い条件の夫』を見つけるために、最大限に着飾り、大人しそうなフリをしながら将来有望な男に擦り寄っていく。
今僕に近付いてきた御令嬢は、確か一つ年上の婚約者がいたはずだ。常に上を目指す強かさが、透けてみえてしまう。
ピコン
メッセージを知らせる通知音に、僕は慌てて自分の魔電をポケットから取り出した。
【私は今日は愛馬のルルーとお出かけしてきました。天気が良くて、とても良い気分です! 調子にのって大きなサンドウィッチを三つも食べてしまいました。ブルー様も素敵な一日になりますように】
僕はジェシカ姉さんからのメッセージを読んで、フッと微笑んだ。
「チェスター様が笑っていらっしゃるわ。珍しいわね」
「うわぁ、笑顔も素敵」
「あんな表情をなさるなんて、誰からかしら」
普段無表情な僕が、魔電を見て笑っているのを見て周囲がザワザワとうるさくなった。
「チェスター様……ど、どなたからですか?」
誘ってきた御令嬢の顔が引き攣っているのがわかる。僕は面倒になって、ハッキリと宣言することにした。
「世界一愛する人からだよ。僕、もう帰るね」
振り返らずに教室を出たが、中からは「キャー」と悲鳴が聞こえてきた。
「……うるさい」
普段なら気分が最悪になるところだが、僕はジェシカ姉さんからメッセージが来たからそれだけでご機嫌だ。自分でもかなり現金だと思うけれど、仕方がない。
【お出かけ羨ましいです。今日は本当にいい天気でしたね。私も食べることが好きなので、たくさん食べる女性は素敵だと思います。あなたのメッセージを見て、私もいい日になりました】
家に帰って、すぐに返事を送った。ジェシカ姉さんは、こんな時でも自分を偽ろうとはしない。
普通の御令嬢なら『少食』で『か弱い』女性と思われたいので、外に馬で出かけたことやサンドウィッチをたくさん食べたことなんて書くはずがない。
だけど、ジェシカ姉さんは自分が良いと思ったことや感じたことを『ブルー』に素直に伝えたいのだ。そこには何の企みや、思惑もない。
「……可愛い」
外でもぐもぐサンドウィッチを頬張っているジェシカ姉さんを想像し、僕はため息をついた。
――そんな姿、絶対可愛いに決まってる。僕も一緒に行きたかったな。
「ブルーのこと……好きだよな。好きじゃなかったら、こんなにメッセージのやり取りしないもんな」
そろそろ『実はあれは僕なんだ』と伝えようと思っていたが……彼女はブルーが僕だとは全く思っておらず、真剣に悩み恋をしている姿を見て言い出せる雰囲気ではなくなっていた。
それならばブルーという存在自体を消そうと思い連絡を絶ったが、結局ジェシカを泣かせて傷つけてしまった。
――僕はなにしてるんだ。愛する人を傷つけて。
こんなことをして近付こうとしたことを悔い、ブルーとして最後に【もう終わりにしましょう。今までありがとうございました。さようなら】とメッセージを送った。
彼女を諦めたくない。だけど、これだけ相手にされないのだ。もう……無理なのかもしれない。
弱気になった僕は、昔から嫌なことがあった時に行く湖のほとりに来ていた。
幼い頃、虐められた時はよくここで泣いていた。誰にも見つからないから。
だけど、彼女だけはいつもここに来て『大丈夫だ』と優しく抱き締めてくれたのだ。
「さよならなんて嫌だわ!」
大好きなジェシカの声に驚いて、僕は振り返った。
「どうしてここが……?」
「わかるわよ。あなたは傷付いた時はいつも湖のほとりに隠れているもの」
「そっか。やっぱりジェシカ姉さんには敵わないな」
ジェシカは昔と同じように、僕を抱き締めてくれた。
「ブルー様はあなただったのね、チェスター」
「そうだよ。ごめんね、嘘をついて」
「私こそ今まで気が付かなくてごめんなさい」
どうやら彼女は、ブルーが僕だと気が付いてくれたらしい。
そして信じられないことに、ジェシカは僕のことが好きだと言ってくれた。
「……本当に僕のこと好き?」
「ええ、大好きよ」
「嬉しい。どうしよう……夢みたいだ」
僕の目から涙が流れて止まらなくなった。ジェシカ姉さんの前では格好良い男でいたいのに、どうしてこんなことになってしまうのか。
しかし、格好悪い僕のことも彼女はそのまま包み込んでくれた。
♢♢♢
それからはもう逃さないとばかりに、すぐに婚約してあっという間に結婚まで一気に進めた。ジェシカは少し戸惑っていたが、そのまま笑顔で押し切った。
だって、僕はもう待てなかったから。
お互いの両親が仲が良いため、何の問題も起きずトントン拍子に話は進んだ。
僕が彼女のドレスを選んで一緒に舞踏会にも参加し、周囲の男への牽制もしっかり行った。
ドレスや宝石に興味のないジェシカを、僕は思う存分着飾らせた。化粧も普段よりしっかりめに。
スタイルの良さがわかる細身のマーメイドラインのドレスは、彼女の良さを倍増させ誰が見てもとても美しかった。
ドレスの色はもちろん、僕の瞳と同じブルーにしている。これはジェシカの全部が僕のものだという証だ。
両親には『さすがに独占欲を出しすぎだ』と笑われたが、僕はそれの何が悪いと開き直っていた。
『ジェシカ様ってこんなに綺麗だったの?』
『普段地味だからわからなかったわ』
『腰が細いな。乗馬をされるとは聞いているが……』
『スタイル抜群だな』
周囲は今更彼女の魅力に気が付いたらしい。男たちの視線が鬱陶しいので、僕は彼女のくびれた腰を抱き寄せた。
「みんなが綺麗なジェシカに見惚れてるよ。今夜は僕から絶対離れないでね」
「何言ってるの。見られているのは、あなたでしょう?」
不思議そうに首を傾げたジェシカに、僕は「そうかな」とにっこりと微笑んだ。どうやら彼女は全くわかっていないようだ。相変わらず、鈍くて嫌になる。
だけど、それでいい。彼女は僕が守ればいいのだから。他の男の視線など、気にしないで欲しい。
――全部僕のものだ。
ジェシカにはわからないように、僕は彼女に見惚れていた男たちをギロリと睨みつけた。顔と名前は覚えたので、何か変なことをしようものなら……許しはしない。
皆が視線を逸らしたので、僕は満足して彼女と舞踏会を楽しんだ。
結婚式のウェディングドレス姿も、とても綺麗だった。この世のものとは思えないほど美しくて、女神がこの地に舞い降りたのかと思ったほどだ。
「褒めすぎだから」
そう伝えるとジェシカは真っ赤になって恥ずかしがっていたが、僕は本当の気持ちだった。
だけど、本当に美しいのは素顔のジェシカだ。彼女の存在が美しいのだから、本当は化粧も、煌びやかなドレスも必要ない。
そのことをわかっているのは、きっと僕だけだ。
「んんっ……」
ジェシカがゆっくりと目を開けたので、僕はそっと頭を撫でた。
「ジェシカ、おはよう」
「お、おはよう」
「今朝も可愛いね」
「……何言ってるのよ。チェスターの方が眩しいくらいキラキラしてる」
どうやら彼女は、僕の『顔』に弱いらしいのだ。女顔だと言われることもあるこの顔を、自分ではそんなに気に入っていない。
だけどジェシカが好きだと思ってくれるなら、自分のこの顔も好きになるので不思議なものだ。
「この顔、好きだもんね」
「……」
「あれ、嫌いだった?」
僕はわざと哀しそうな顔をして、彼女を覗き込んだ。彼女が僕に上から見下ろされるのが好きなことも知っているから、あえてこの角度だ。
「……好き」
そう言われて、僕は顔がつい緩んでしまう。答えがわかっていても、やっぱり嬉しいものだ。
「か、顔じゃなくて……チェスター自身が好き」
ジェシカは頬を染めて小さな声で呟き、恥ずかしそうにシーツを頭から被った。
――今、なんて言った?
僕は数秒フリーズした。そして言葉の意味を理解した瞬間、彼女のシーツを剥ぎ取った。
「きゃあっ!」
「……今のはジェシカが悪い」
「え、なんのこと」
「可愛すぎる」
無自覚に僕の心を翻弄してくるジェシカを、もう一度愛することになったのは仕方のないことだろう。
幼馴染として出逢い、マッチングを通して別人として仲を深め……そして今は想いが通じ合って夫婦になれた。
ここに来るまでかなり遠回りをしたが、やはり僕にとってはジェシカこそが運命の相手だったのだ。
またすーすーと静かな寝息をたて始めた彼女を見つめながら、僕も幸せな気持ちでゆっくりと目を閉じた。
番外編END
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みんなの感想(1件)
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楽しくお読みいただきありがとうございます!感想とても嬉しいです(^^)
チェスターみたいな年下いいですよね♡
そうです……彼は策士です。
名前は完全に私のミスです。ご指摘ありがとうございます。
別作品の名前が途中で混じっていました。
大事なシーンで申し訳ありませんでした。修正しています。