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第三章 秋川千鶴の場合

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 深夜。ふと目が覚めた。真っ暗な天井が視界に広がり、壁掛け時計の秒針を刻む音だけが耳に響いた。チッチッチッ。そんなよく訓練された兵隊の靴音のような音だ。ああ、また長い夜が始まった……。私は諦めて瞳を閉じた――。

 朝が訪れた。正確には夜が終わった。ずっと意識があっただけに変な気分だ。日の光、雀の声、マンションの通路を掃く音。朝のフルコースが徐々に五感に染み渡る。
 これだから深夜って嫌いだ。誰にも会えず、誰とも話せない。そんな時間が大嫌いだ。ひとりぼっちの夜は私を酷く孤独な気持ちにさせる。それこそ孤島にでも送られたみたいに。
 起き上がると朝のルーティンを熟していった。洗顔、メイク、朝食、新聞のチェック。その流れが身体に染みついている。新聞広告には私の会社の製品の広告が小さく載っていた。私がデザインした女性用下着。実用性と美しさを兼ね備えたブラとショーツだ。
 私はその紙面を見て思わず顔をしかめた。女性用下着の広告の横に男性用シェービングジェルの広告が掲載されている。信じられない。私の作り上げた下着の横に男が顎を撫でる写真が載っているなんて。
 断固抗議せねば。新聞社と弊社広報部の怠慢を許すわけにはいかない。私の作った下着が男に汚されるなんて絶対に許せない。
 それから私は新聞をバッグに仕舞って自宅を後にした――。

 会社に着くとエレベーターホールで後輩の水原さんに会った。彼女は歪な笑みを浮かべながら「おはようございます!」と挨拶してきた。彼女なりの気遣いなのだろうけれど正直うんざりだ。挨拶だけ出来たって何の意味もない。お前みたいな使えない女、さっさと辞めてしまえ。頼むから私に関わらないで。そんなどうしようもなく自分勝手な考えが一瞬で脳内を駆け巡った。まぁ実際は不機嫌に「おはよう」と返しただけだけれど。
 それから私と水原さんはエレベーターに乗った。同じ空間に居たくない。おそらく水原さんも同じことを思っているはずだ。そういうところだけは気が合うのだ。出来れば関わりたくない。同じ学校だったら絶対の絶対に友達になんかなれない。そんな関係だと思う。
 エレベーターを降りて自分のオフィスに入るとすぐにタイムカードを切った。七時四〇分。毎日のように刻まれる始業二〇分前の印字。退勤時間はともかく出勤時間は測ったように揃うのだ。きっと規則正しい生活のお陰だろう。
 自分のデスクに着くとすぐに広報部の担当者にメールを送った。
『お疲れ様です。企画部の秋川です。新都新聞掲載の広告の件で緊急の相談があります。お忙しい中恐れ入りますがご連絡お願いします。』
 と半ば喧嘩腰に。おそらくこれだけ強い口調で打ち込めばすぐに連絡くれるはずだ。
 そしてふと思い出す。広報部の担当者は男だったな……と。これだから男はどうしようもないのだ。あいつらは私たちの敵だ。男尊女卑を当たり前のように考えているに違いない。そんな考えが浮かぶ。
 女性の権利を守らなければ。私は改めてそう思った。そうしなければ男はすぐに権利の侵害を起こす。さも当たり前のように。土足で女性の聖域を侵すのだ。
 メールを送り終わる頃には他の社員たちも出社してきた。さて、今日も一日が始まる。
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