井の頭第三貯水池のラッコ

海獺屋ぼの

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第二章 菱沼浩之の場合

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 貯水池の横の立て札には行政らしいフォントで『井の頭第三貯水池』と書かれていた。立て札から察するにここは防火用の貯水池らしい。
「そうそう。ラッコさんに見て欲しいものがあってさぁ」
 いをりさんはそう言うとバッグから書類の束を取り出した。
「なんだ? またブログの添削か?」
「うん。メールでも良かったんだけど量が多くなっちゃったからさぁ」
「ふぅーん。まあ、いいよ。預かる。出来上がったらいをりの仕事場まで持って行かせるよ」
「助かるー。じゃあこれ前金ね」
 いをりさんは財布から数万円取り出してラッコさんに手渡した。領収書不要の現金。ラッコさんは受け取るなりそれを脇の下に仕舞った。
「ああ。毎度あり。そうだね……。この量なら今月中には仕上がると思う。川村くんにいをりの住所教えても良いかい?」
「川村くんってラッコさんの担当さんだっけ?」
「そうそう。お使いは彼に頼んでるんだ」
 川村くん。どうやらその人物がラッコの小間使いをする担当編集者らしい。
「菱沼さん。今日は聞いてくれてありがとうね。気が向いたらまた来てね。だいたい貯水池の中にいるから」
 そう言うとラッコさんは小さな肉球のついた前足を僕に差し出した。僕はそれは黙って握り返した。握手した手に肉球の柔らかい感触が伝わった――。

「驚いたでしょ?」
 貯水池からの帰り道。いをりさんにそう尋ねられた。
「ええ。すごく」
「だろうねぇ。ま、彼は良い奴だよ。少なくともそこらの男よりは男前だしさ」
「それは……。分かる気がします」
 確かに彼は一般的な男性よりもずっと男前だったと思う。語り口は非常に作家じみていたし、哲学的な考え方をする人だと思う。――いや、違う。ラッコだ。人間じゃない。
 ふと空を見上げるとそこには三日月が浮かんでいた。ラッコさんの話に登場したシャチ。それを象徴するかのような三日月が――。 終
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