月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 それから私たちは喫茶木菟へ向かった。時刻は九時四五分。約束の時間の一五分前だ。
「一〇時の約束だからちょうどいいね」
 私は腕時計に目を遣って独り言のように呟いた。やはり私の一五分前行動はかなり正確らしい。
 二子玉川の街は朝の喧噪が止み、落ち着きを取り戻し始めていた。電線に留まるムクドリたちも一息吐いているように見える。街路樹の葉が風に揺れ、カサカサと堅い音を鳴らしていた。ついこの間まで柔らかかった新芽も夏の暑さに耐えられるように堅くなったようだ。それは確実に進む季節を象徴しているように感じる。
「冬木紫苑さんってけっこうな有名人ですよね?」
 喫茶木菟が視界に入るとジュンくんは思い出したようにそんなことを言った。
「らしいね。私はあんまりWEB小説読まないからこの仕事受けるまで知らなかったけど」
「まぁ、そうですよね。有名と言ってもある界隈に詳しくないと知らないと思うので」
 ある界隈。そこにはある種の専門性があるように聞こえた。文壇ってやつだろうか?
「ジュンくんは彼女の作品読んだことある?」
 私はそんな何気ない質問を彼に投げかけた。
「ええ、……というより結構な読者です」
 ジュンくんはそう言うとトートバッグから三冊の本を取り出して私に差し出した。
 
『異世界奇譚 冬木紫苑』
『妖精達の平行世界戦争 半井のべる』
『一六歳の私 川村本子』
 
 彼の手にはその三冊が握られている。
「熱心ね」
「熱心……。というよりも元々好きなんですよね。空き時間あるといつも読んじゃいます」
 ジュンくんは恥ずかしそうに言いながら本をバッグにしまった。
「あ、今日は三人ともいるからサイン貰えば?」
 私がそう言うとジュンくんは「……もちろん、そのつもりです」と真顔で答えた。どうやらジュンくんは本当に彼女たちのファンのようだ――。

 喫茶木菟に着くと私たちは顔を見合わせた。そして私が「じゃあ行こうか」と言ってそのドアを開いた。ドアが開くと前回同様、木材の香りが鼻孔に飛び込んでくる。
「こんにちはー。お世話になっております」
 私たちはそう言いながら店内に入った。
「あら、春川さん……。だったよね。いらっしゃい」
 中に入ると店主の女性……。川村本子さんが私たちを出迎えてくれた。
「先日はご馳走様でした。本当に美味しかったです」
「ハハハ、いいのよ。あれぐらいなんてことないわ。……ちょっと待っててね」
 川村さんはそう言うと店の奥の住居スペースに向かって「文子ー! 春川さん来てくれたわよー」と叫んだ。
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