26 / 136
第二章 フユシオン
8
しおりを挟む
翌日。私は早朝出社して今日の分のデスクワークを済ませた。そして自分のデスクから必要になるであろう備品をバッグに詰めた。ノートPCと今回の企画書でバッグがパンパンだ。
その足で新宿駅へ向かう。時刻は七時半。我ながら几帳面な時間管理だと思う。きっとこれは母親の教育の賜だろう。
『一五分前行動しなさい』
そんな母の言葉が思い出された。別に母は教育熱心というわけではなかったけれど礼儀と人としての正しさは彼女から嫌というほどたたき込まれた気がする。幼い頃はそれを煩わしく感じることが多かった。思春期の頃はそのせいで何回も母と喧嘩した。まぁ、今となっては母の言葉に同意せざるえないのだけれど。
やはり社会で生き抜くためには礼節は大切なのだと思う。礼儀正しくいれば不必要な苦労をせずに済むし、何よりお互いに気持ちよく過ごせるのだから――。
新宿駅に着いた時間は七時四五分だった。安定の一五分前行動。我ながら自分の正確さに感心する。
「春川さん」
私が五分ほど新宿駅前の紀伊國屋の前で待っているとジュンくんがやってきた。彼も時間前行動する人間なのだ。(ちなみに『バービナ』のメンバーは比較的時間には正確な方だと思う)
「おはよう」
「おはようございます。春川さん早いですね……」
ジュンくんはそう言うと腕時計に目を遣った。彼としては私より先にここに到着しているつもりだったのだろう。
「いやいや、私は毎度こんな感じだから気にしないで。じゃあ行こうか」
それから私たちは田園都市線の改札へ向かった。やはりと言うか何というか、改札もホームも人でごった返している。
「ありゃりゃ。また満員電車か……」
「ですね。春川さん大丈夫ですか?」
「ん? 大丈夫だよー。てか子供の頃からずっと満員電車には乗ってるから問題ないよー」
そう言いながら高校時代をふと思い出した。思えばあの頃から私はずっと満員電車に乗っている気がする。
「私よりジュンくんのが大丈夫? 顔バレしたら面倒じゃない?」
「ご心配なく。これでもほとんど顔バレしたことないんですよ。……ま、僕らのバンドがそこまで人気ではないって事なのかも知れませんけどね」
ジュンくんはそんな自虐を言うと戯けたように笑った。笑い事ではない。もし誰も彼に気づかないとしたらニンヒア的には死活問題だ。今の発言を広報部長が聞いたら怒鳴り散らすかもしれない。
「そう? まぁいいわ」
私は腹の中にあるそんな思いを飲み込むとそれだけ返した――。
二子玉川に着くと最終打ち合わせのために近くのカフェに入った。幸いなことに約束の時間まではまだ少し余裕がある。
「春川さんって本当に几帳面ですよね」
ジュンくんはコーヒーを飲みながら感心したように言った。
「そうかなぁ? 私けっこうズボラよ?」
「いやいや、曲者揃いのうちの事務所の中ではかなりマトモだと思いますよ? だってあの京極さんでさえ春川さんの前では大人しくなるんですから」
あの京極さんですら。なかなか酷い言い草だ。一応は自分たちのバンドの看板だろうに。
「アハハハ! 京極さんにそれ聞かれたらきっと怒られるよ?」
「でしょうね。いくらかは大人しくなったけどアレでなかなか血の気多いですからね」
血の気が多い。それは京極さんを象徴する言葉だと思う。私は知らないけれど一〇代の彼女は相当ヤバかったのだ。京極さん曰く、盗みと危ないクスリと殺人以外はある程度経験済みらしい……。
「しっかし、西浦さんも不思議なこと考えるよねぇ。普通に考えればジュンくんが作曲のサポだと思うんだけど?」
「ですよね。僕もそう思いました……。まぁ西浦さんが突飛なこと言うのは今に始まったことじゃないので」
ジュンくんは少し呆れたように言うと苦い笑顔を浮かべた。どうやら彼も『西浦有栖被害者の会』のメンバーらしい。
言い得て妙だけれど西浦さんはニンヒア最大の功労者であると同時に社員みんなの嫌われ者なのだ。会社の利益を最大化するための犠牲をいかに払うか、その判断に関して西浦有栖はあまりにも優秀すぎたのだと思う。
「はぁ、私もこれから先のこと考えると憂鬱だよ。将来はさぁ、企画二課長になりたかったのにさ」
「本当にお疲れ様です……。僕は企画部の春川さんも好きだったんですけどね。みんなのお姉さんみたいで」
「みんなのお姉さんね……。まぁアレはアレで疲れんのよ? 気がついたら私が企画部の新人教育係みたいになってたしさ。……しかもなぜか私がアーティスト連中の面倒まで見るんだよ? はぁ」
愚痴を吐きため息をこぼす。ジュンくんと一緒だといつもこうだ。なぜかジュンくんには京介以上に弱い面を見せてしまう。
「きっと春川さんは人を放って置けない性格なんでしょうね。つまり……。良い人なんですよ。根っからの」
ジュンくんは私を褒めるように言うと「そんな性分ですね」と嫌味とも同情とも取れるような言葉を付け加えた――。
それから私たちは三〇分くらい最終打ち合わせしてカフェを出た。心なしか来たときより気持ちが軽く感じる。
「ねぇジュンくん?」
「はい?」
「今日はありがとね」
私はそうお礼を言って彼の肩を軽く叩いた。ああ、私はいつも年下男子に甘えっぱなしだ。
その足で新宿駅へ向かう。時刻は七時半。我ながら几帳面な時間管理だと思う。きっとこれは母親の教育の賜だろう。
『一五分前行動しなさい』
そんな母の言葉が思い出された。別に母は教育熱心というわけではなかったけれど礼儀と人としての正しさは彼女から嫌というほどたたき込まれた気がする。幼い頃はそれを煩わしく感じることが多かった。思春期の頃はそのせいで何回も母と喧嘩した。まぁ、今となっては母の言葉に同意せざるえないのだけれど。
やはり社会で生き抜くためには礼節は大切なのだと思う。礼儀正しくいれば不必要な苦労をせずに済むし、何よりお互いに気持ちよく過ごせるのだから――。
新宿駅に着いた時間は七時四五分だった。安定の一五分前行動。我ながら自分の正確さに感心する。
「春川さん」
私が五分ほど新宿駅前の紀伊國屋の前で待っているとジュンくんがやってきた。彼も時間前行動する人間なのだ。(ちなみに『バービナ』のメンバーは比較的時間には正確な方だと思う)
「おはよう」
「おはようございます。春川さん早いですね……」
ジュンくんはそう言うと腕時計に目を遣った。彼としては私より先にここに到着しているつもりだったのだろう。
「いやいや、私は毎度こんな感じだから気にしないで。じゃあ行こうか」
それから私たちは田園都市線の改札へ向かった。やはりと言うか何というか、改札もホームも人でごった返している。
「ありゃりゃ。また満員電車か……」
「ですね。春川さん大丈夫ですか?」
「ん? 大丈夫だよー。てか子供の頃からずっと満員電車には乗ってるから問題ないよー」
そう言いながら高校時代をふと思い出した。思えばあの頃から私はずっと満員電車に乗っている気がする。
「私よりジュンくんのが大丈夫? 顔バレしたら面倒じゃない?」
「ご心配なく。これでもほとんど顔バレしたことないんですよ。……ま、僕らのバンドがそこまで人気ではないって事なのかも知れませんけどね」
ジュンくんはそんな自虐を言うと戯けたように笑った。笑い事ではない。もし誰も彼に気づかないとしたらニンヒア的には死活問題だ。今の発言を広報部長が聞いたら怒鳴り散らすかもしれない。
「そう? まぁいいわ」
私は腹の中にあるそんな思いを飲み込むとそれだけ返した――。
二子玉川に着くと最終打ち合わせのために近くのカフェに入った。幸いなことに約束の時間まではまだ少し余裕がある。
「春川さんって本当に几帳面ですよね」
ジュンくんはコーヒーを飲みながら感心したように言った。
「そうかなぁ? 私けっこうズボラよ?」
「いやいや、曲者揃いのうちの事務所の中ではかなりマトモだと思いますよ? だってあの京極さんでさえ春川さんの前では大人しくなるんですから」
あの京極さんですら。なかなか酷い言い草だ。一応は自分たちのバンドの看板だろうに。
「アハハハ! 京極さんにそれ聞かれたらきっと怒られるよ?」
「でしょうね。いくらかは大人しくなったけどアレでなかなか血の気多いですからね」
血の気が多い。それは京極さんを象徴する言葉だと思う。私は知らないけれど一〇代の彼女は相当ヤバかったのだ。京極さん曰く、盗みと危ないクスリと殺人以外はある程度経験済みらしい……。
「しっかし、西浦さんも不思議なこと考えるよねぇ。普通に考えればジュンくんが作曲のサポだと思うんだけど?」
「ですよね。僕もそう思いました……。まぁ西浦さんが突飛なこと言うのは今に始まったことじゃないので」
ジュンくんは少し呆れたように言うと苦い笑顔を浮かべた。どうやら彼も『西浦有栖被害者の会』のメンバーらしい。
言い得て妙だけれど西浦さんはニンヒア最大の功労者であると同時に社員みんなの嫌われ者なのだ。会社の利益を最大化するための犠牲をいかに払うか、その判断に関して西浦有栖はあまりにも優秀すぎたのだと思う。
「はぁ、私もこれから先のこと考えると憂鬱だよ。将来はさぁ、企画二課長になりたかったのにさ」
「本当にお疲れ様です……。僕は企画部の春川さんも好きだったんですけどね。みんなのお姉さんみたいで」
「みんなのお姉さんね……。まぁアレはアレで疲れんのよ? 気がついたら私が企画部の新人教育係みたいになってたしさ。……しかもなぜか私がアーティスト連中の面倒まで見るんだよ? はぁ」
愚痴を吐きため息をこぼす。ジュンくんと一緒だといつもこうだ。なぜかジュンくんには京介以上に弱い面を見せてしまう。
「きっと春川さんは人を放って置けない性格なんでしょうね。つまり……。良い人なんですよ。根っからの」
ジュンくんは私を褒めるように言うと「そんな性分ですね」と嫌味とも同情とも取れるような言葉を付け加えた――。
それから私たちは三〇分くらい最終打ち合わせしてカフェを出た。心なしか来たときより気持ちが軽く感じる。
「ねぇジュンくん?」
「はい?」
「今日はありがとね」
私はそうお礼を言って彼の肩を軽く叩いた。ああ、私はいつも年下男子に甘えっぱなしだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
9
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる