月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 透子さんが帰ると私はソファーに身体を埋めた。そして深いため息を吐いた。会社の件で手一杯なのに勘弁して。本気でそう思う。
「お疲れ」
 京介は洗い物しながら私に優しい言葉を掛けてくれた。『うちの母親がごめん』。そんな言葉が聞こえてきそうな言い方だ。
「透子さんついに結婚かぁ」
 私は今知った事実を確認するように言うとテレビのチャンネルを変えた。時刻は二〇時四五分。アナウンサーが今日あった出来事を話している。
 テレビから流れる話題はどれも暗いものだった。都内では殺人事件が起き、北海道では大規模な鉄道火災があったらしい。さらに政治家は不正献金疑惑で記者会見を開き、中東の情勢は不安定なようだ。よくもまあこんなにも不幸な出来事が起きるだ。私は呆れたようにそんなことを思った。
「今日は母さんけっこう上機嫌だったねぇ」
 京介は皿を洗いながら鼻歌交じりにそんなことを言った。
「そうね。おめでたい報告できて嬉しかったんじゃない?」
「だね。ま、これで年末の結婚式絡みで少し面倒ごと増えるかも知んないけどね」
「本当にね。あーあ、あんたの兄貴も結婚式来るみたいだしさ……。私もやっぱ出なきゃまずいよね?」
 私がそう言うと京介の洗い物の手が一瞬止まった。そして一呼吸置いてから続ける。
「無理なら行かなくても良いよ。まだ俺たち夫婦ってわけじゃないからね。母さんだって俺だけ出てれば文句は言わないと思うよ? ま、兄貴には『春川はこねーんだ』くらい言われそうだけど」
 京介はそこまで話すと皿洗いを再開した。
「京介としてはどうなの? 私は参加した方がいい?」
「うーん。そうだね」
 私の質問に京介の手が再び止まった。マルチタスクが得意な京介の手が止まるのは珍しい。きっとそれだけ彼にとってこの結婚式は大きなイベントなのだろう。
「本心を言えば出て欲しいかな。ほら、一応俺たち結婚前提の付き合いだからさ……。顔会わせってわけじゃないけど、親戚連中にも紹介しときたいんだ」
 実に真っ当な意見だ。京介らしい。私は感心と呆れからそんなことを思った。
「……いいよ。出るよ」
 私はそれだけ言うとテレビのチャンネルを変えた。暗いニュースはもううんざりだ。もっとカルガモの赤ちゃんが元気です。みたいな明るいニュースが欲しい。
「ああ、勘違いしないで欲しいんだけど、別に京介の顔を立てて出るわけじゃないよ。ただ……。京介の言うことももっともだなぁって思ったからさ」
 私は彼の方を向くと言い訳じみた言葉を付け加えた。これは本心だ。京介の言うとおりそう遠くない未来に結婚するなら透子さんの結婚式には参加したほうがいいと思う。
「ありがとう。本当に助かるよ」
 京介はそう言うと肩の力を抜いた。どうやら彼は私が思っている以上に今回の結婚式を大切にしたいらしい――。
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