月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 自宅に帰るとそこには予期せぬ訪問者がいた。浦井透子――。京介の母親だ。
「おかえりー。陽子ちゃんひさしぶりー。お邪魔してるよー」
 透子さんはだらしない格好で言うと缶ビールを喉に流し込んだ。その様子に一瞬ここが本当に自宅なのか疑いたくなる。それくらい彼女はだらしかったのだ。くつろぎ方が来客のそれではない。
「お久しぶりです……。どうも」
 私は戸惑い半分、呆れ半分の気持ちでそう応えると京介の姿を探して部屋を見渡した。
「ああ、京介は買い出し行ってるよー」
「そ、そうですか」
 透子さんはまるで家主みたいに言うと「まぁ、とりあえず着替えてきたら?」とさらに家主みたいなことを言った。あまりに非常識すぎて言い返す気力も起きない。
 それから私はスーツを脱いで少しだけ小綺麗な服に着替えた。一応は彼氏の母親だ。相手が非常識だからって私までそれに合わせるわけにもいかないだろう。
「今日はどうしたんですか?」
 私は彼女の前の席に着くと単刀直入に話を切り出した。
「ん? ああ、そうよね。ごめんなさい」
 透子さんはまるで今までの非礼全てを詫びるみたいに言って私と向き直る。真っ直ぐな視線。そして整った造形の顔。こうしてみるとやはり透子さんは若作りだと思う。目の周りの小じわも少ないし、ほうれい線に至っては見えないくらいだ。本当に五〇手前の女性とは思えない。
「あのね。京介が帰ってきたら詳しい話はするけど……。そうね。端的に言うわ」
「はぁ……」
 透子さんはそこで一旦話を区切ると一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。そして「うん」と自分に言い聞かせるように頷く。
「この歳で恥ずかしいんだけど、好きな人できたのよ。それでね。年末に籍入れようと思うの」
 透子さんはそこまで話すと「ハハハ、この歳で再婚とか笑っちゃうでしょ?」と照れ隠しのように付け加えた。
 正直に言おう。そうなるであろうことは京介から聞いていたのでそれほど驚きはなかった。透子さんならあり得る……。逆に再婚しないほうがおかしいまであると思う。
 ああ、また先を越された。私はそんなわけの分からない気持ちになった。義母が先に結婚するとか言葉にすると意味不明だけれど――。

 透子さんとこうして会うのは一年ぶりだ。たしか前回もこうして私の家にやってきて、好き勝手言って帰っていった気がする。この人は毎回こうなのだ。自由奔放で猫みたいな人。少しだけ羨ましく思う。
 それでも私は不思議と透子さんに嫌悪感を持つことは少なかった。いや、むしろかなり好感を持っていると思う。その感覚は京極裏月に対して私が抱いている感覚に近い。手の掛かる子ほど可愛いのだ。まぁ透子さんに限っては私よりずっと年上なのだけれど。
「あなたはどうなの?」
 ふいに透子さんにそう聞かれた。
「ふぇ?」
 急な質問に変な声が出る。
「……京介とのことよ。あなたたち付き合ってもうけっこう経つでしょ?」
「ああ、まぁ……。そうですね」
 私は彼女のストレートな物言いに気圧されて言い淀んだ。京介との関係について彼の母親に話すのはかなり抵抗がある。
「別にタイミングじゃないなら良いのよ? でもね。あなたがもし京介との将来を本気で考えるならそろそろ時期だと思うのよ」
 透子さんはいつになく真剣な口調で話すとビールを口に含んだ。
「私は……。京介さんとは結婚したいと思っています。確認はしてませんが彼もたぶんそう思ってくれているでしょう。……ただ、まだ踏ん切りが付かないんです。別にタイミング見計らってるってわけでもないんです。なんとなく先延ばしになってて」
 私は最悪に歯切れ悪く言って下唇を噛んだ。私の反応に透子さんは「あ、そう」とだけ言うとそれ以上何も言わなかった。ネチネチとした追求はない。でも今はそれが逆にキツかった。この人は分かっているのだ。相手を追い詰めるためにどう言葉を吐けばいいかを。
 少しの間、私たちの間に沈黙が流れた。テレビから流れるバラエティ番組のポップなBGMだけが場違いに流れている。
「あの……」
 私は沈黙に堪えきれず口を開いたその瞬間。
「ただいまー。あ、陽子帰ってたんだ」
 そう言って京介が帰ってきた。その声を聞いて急に身体の力が抜ける。
「おかえり」
 私より先に透子さんが京介に返事をした。私もワンテンポ遅れて「ただいま、おかえりなさい」と返事する。
「ごめんごめん。今から夕飯作るからね!」
 京介は買い物袋をキッチンに下ろすとそのまま椅子に掛けてあったエプロンを着けた。
「あ、京介」
 私は透子さんから逃げるように立ち上がる京介の側に駆け寄った。そして「私も手伝うよ」と矢継ぎ早に言った。
「お、そうだね。ひさしぶりに一緒に作ろうか」
 京介は嬉しそうに言うと一瞬透子さんに視線を向けた。そしてすぐに私に視線を戻すと口の動きだけで『だいじょうぶだよ』と言った。音はない。私にだけ伝わる言葉だ。
 ああ、私は京介のこういうところが好きだ。気遣いなんて陳腐な言葉で片付けたくないくらいの。彼の持つこの最上の思いやりがたまらなく愛おしい。
 そんな京介の思いを知ってか知らずか透子さんは上機嫌に「京介の料理久々ねぇ」と言った。最高に白々しい。そんな言い方だ。
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