月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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 午後六時半。西浦さんがクリエイター発掘部に戻ってきた。
「お疲れ様。仕事の調子はどう?」
 彼女は自身の机の上のファイルを漁りながらそう言った。
「お疲れ様です。えーと……。とりあえず急ぎの仕事は片付きました」
「そう、なら今日はもう帰りなさい。明日は一日掛かりになるんだから休めるときは休むのよ!」
 西浦さんはそう言うと「サボるのも仕事の内」と付け加えた。鬼軍曹の言葉とは思えない。何か裏でもあるのか? と彼女の善意を疑いたくなる。
 西浦さんはそのまま慌ただしく会議に戻っていった。やれやれ、とりあえず今日は帰るとしよう。
 帰り支度をパパッと済ませてクリエイター発掘部を出た。心なしか足取りが軽い。京介との早めの夕飯。そんなささやかな幸せが実現すると思うと自然と気分が高揚した。我ながら安い上がりな女だと思う。
 
 帰りがけに企画部を覗くと皆パソコンと睨めっこしていた。あの要領の良いあかりでさえ必死に社内誌の入稿原稿を作り込んでいるようだ。当然だろう。ついこの前までアレは私の仕事だったのだ。急に仕事が増えるのは自明の理だと思う。
「春川!」
 企画部の前で彼らの様子を伺っていると後ろから声を掛けられた。明らかに不機嫌な声。そして私が今一番聞きたくない人間の声だ。
「高野部長。お疲れ様です」
「お疲れ! なんだ? 今日はもう帰るのか?」
 高野部長はそう言うと私の書類の入ったバッグに目を遣った。
「はい。今日はこれで失礼します」
 私は愛想笑いして会釈した。早く帰りたい。この人に絡まれると面倒くさいことになる。
「そうか……。いいなぁ。新部署の部長代理殿は!」
 高野部長はそんな風に明らかな嫌味を言うと「なぁ?」と嫌味のダメ押しをした。本当に勘弁して貰いたい。
「あ、あの……」
 私は思わず言い淀む。言い返すこともできるけれど、ここでそれをするのは果たして正解なのだろうか?
 私がそんな不毛な自問自答をしていると企画部のドアが開いた。そして課長が顔を覗かせる。
「高野部長。新栄堂の高橋さんからお電話入ってます。見積もりの件で相談があるとか……」
 課長は落ち着いた調子で言うと企画部の部長のデスクに目を遣った。
「ああ、分かった」
 高野部長は私を睨んだままそう返事をした。そして「お前、少しは考えろよな」と捨て台詞を吐くと小走りで企画部に入った。
 部長が行ってしまうと企画部の前で私と課長の二人きりになってしまった。正直、気まずい。
「あのな。春川」
 私が黙っていると課長は穏やかに口を開いた。その声にはどこか父親っぽい響きがある。
「はい……」
「いや、なんだ……。あんま気にすんなよ。部長はああいう人だからさ。確かにお前が抜けて大変は大変だよ? でもそれはお前が頑張ってくれてた証拠だと思う」
「はい」
 私は課長の言葉に返事しかできなかった。課長は続ける。
「マジで頑張れ! 少なくとも二課は全員お前の味方だからな」
 課長はそう言うと私の肩をポンと叩いた。
「はい……。ありがとうございます。頑張ります」
 私はそれだけ返事をすると頭を下げた――。

 会社を出るとすぐに新宿駅へ向かった。まだ日は沈みきってはいない。それは私にとって希有なことだった。高野部長の言うとおり日が沈む前に会社を出るのは非常識なのかも? そう思えるくらい日の入りが美しい。
 新宿駅はいつも私が帰る時間よりだいぶと混み合っている。学生が多い。女子高校生たちはスマホ片手に何やら難しい顔をしている。恋人からの連絡に一喜一憂。その表情にはそんな色が浮かんでいるようだ。
 改札を抜け中央線のホームに向かう。酷い人混みだ。私がもし地方民だったなら堪えられないだろう。そう考えると東京生まれ東京育ちで良かったと心底思う。
 それから私は一日の疲れが充満した満員電車に揺られて帰路についた。スーツ姿の男性たちは眉間に皺を寄せスマホをいじっていた。彼らはさっきの女子高生たちとは対照的に現実的な苦い顔をしている。スマホの普及で彼らの時間はガチガチに会社に拘束されているのだろう。苦い顔をしたい気持ちは十二分に分かる。私だって帰宅中に上司からLINEが入ったら眉間に皺が寄るはずだ。
 私がそんなことを考えているとあんなに綺麗だった夕日が闇に溶け始めた。刻一刻と夜が空を覆い尽くそうとしている。トワイライトタイム――。私が思うにこの時間帯が一日で最も幻想的で不気味な時間だと思う。
 そんなことを考えていると電車は私の最寄り駅に停車した。今日もお疲れ様。私は心の中で自分にそんな労いの言葉を掛けた――。
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