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第8話:名前

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「寒くないですか?」
「大丈夫です」
 
 冬のパーティー会場のテラスは囲い窓があって、直接外の冷気に触れることはない。
 窓とカーテンを閉めれば会場の喧騒はほとんど聞こえなくなった。ここから一望できる王宮の庭園はとても綺麗だし、確かに愛し合う恋人達にとってはもってこいの場所だ。
 
「……あの、本当に大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「ロザリーの結婚式の件です。お忙しいのでは……」
「年末はそこまで忙しくありません。夫人の大切な人は、俺も尊重したいと思っています」
「! ありがとうございます」

 ロザリーの結婚式に一緒に参列してくれるというのはどうやら本気らしい。
 基本的に考えの読めない公爵のことを、潔癖症の噂もあって勝手に気難しい人なんだと思い込んでしまっていた。でも実際、彼の言動はいつだって私のことを尊重してくれていた。
 私も彼を尊重していきたい。もちろん、彼の潔癖という性格も、「子供をつくらない」という選択も。

「……まだ、俺のことは嫌いですか」
「……え!?」

 ぼそりと投げ掛けられた公爵の言葉が一瞬理解できなかった。

「き、嫌いなわけありません!!」

 嫌いだなんてとんでもない。まさかそんな誤解をされてるなんて思わなくて、力強く否定した。

「昨日とても嫌がっていたので……」
「あ、あれは公爵に私なんかの汚い足を触らせるのが申し訳なくて……!」

 昨日足を挫いた時、公爵が手当てしようとしたのを嫌がってしまったことを言われた。あれは嫌がるというより、とにかく申し訳ないという気持ちが強かった。
 他人の足なんて普通の人でさえ触るのに抵抗あるのに、潔癖である公爵が気にしないわけがない。

「あの、エスコートも……無理していませんか?」
「?」
「私に触られるの、嫌じゃないですか……?」
「嫌じゃないです」

 エスコートだって、私に触られる嫌悪感を抑えているに違いない……そう思っていたのに、あっさり否定された。
 手袋越しなら気にしないということだろうか。でも、昨日は私が手袋越しに皇太子に手を握られたのをすごく嫌がっているように見えた。公爵の基準がわからない……。

「一つ提案があるのですが……」
「何でしょう?」
「お互いに名前で呼び合うようにしませんか」
「!」
「多くの夫婦はそうすると聞きました」

 確かに夫婦であれば一般的には名前で呼び合うのかもしれない。私の両親はお互いに名前で呼び合っていた。
 名前で呼ぶなと言われたわけじゃない。ごく自然に私は「公爵様」と呼んでいるし、公爵は私のことを「夫人」と呼んでいる。そのことについて特に疑問も持たなかった。
 人と信頼関係を築く第一歩は名前を呼ぶこと。公爵の提案は、母から教わった信条に背いていない。私は公爵と信頼関係を築いていきたい。
 
「そ、そうですね……公爵様がよければ」
「名前でお願いします」
「あ……」

 頷いた矢先に「公爵様」と呼んでしまったのをすかさず指摘された。
 いざ名前を呼ぼうとすると緊張してなかなか口が開かない。

「…………シルヴァン様」
「様はいりません」
「でも……」
「ナタリー」
「!!」

 頑張って絞り出しても、「様」は付けなくていいと言われてしまった。
 そんな、いきなり呼び捨てだなんてハードルが高すぎる。口ごもる私に、公爵はお手本を示すかのように私の名前を呼んだ。
 私のことを呼び捨てで呼ぶのはお父様とお母様以外にいない。名前で呼ばれると、確かに家族のような親近感をグッと感じた。

「シ……シルヴァン……」
「はい。これからはそれでお願いします」

 初めて口にした彼の名前はまだまだ馴染まない。
 あとどれくらい経ったら自然に呼べるようになるんだろう。今のところ想像できなかった。

「私からも提案していいですか?」
「はい」
「こ……シルヴァンは、私に敬語を使わないでください」

 もののついでに、私もずっと言いたかったことを伝えた。
 公爵は出会った時から丁寧な言葉遣いで私に接してくれていた。でも本来、公爵である彼が私に敬語を使う必要はない。

「俺の方が年下ですし」
「えっ」
「俺は今年で22です」
「そうだったんですね……」

 公爵が私よりも2つ年下だったのは知らなかった。というか、年齢を気にしたことがなかった。
 いやでも年下だからって公爵が私に敬語を使う理由にはならない。

「敬語は癖のようなものなので、できればこのままがいいです」
「でも……」
「どうしてもというなら、ナタリーにも敬語をやめてもらいます」
「なっ……じゃあ、このままで……」
「はい、そうしましょう」
 
 なんだかうまく言いくるめられたような気もするけど、そんな条件を出されたら私が折れるしかない。

「……準備ができたみたいですね」
「え……あ!」

 公爵の視線を辿って窓の外に視線を向けると、門前に公爵家の馬車が停まっていた。そしてこちらに向かって大きくマルのジェスチャーをしているのはおそらくディオンだ。

「帰りましょう」

 本当に最低限の挨拶だけ済ませて帰るつもりだったんだ……。

「ほ、本当にいいんでしょうか……?」
「ナタリーはまだここに残りたいですか?」
「いえ……帰りたいです」

 貴族達が多く集まる場所は居心地が悪い。自然と出た「帰りたい」という言葉に自分でも少し驚いた。もう公爵邸は私の帰る場所になってるんだ。

「では行きましょう」
「はい」

 差し出されたエスコートの手を取る。彼……シルヴァンが隣にいれば大丈夫。私は背筋を伸ばし、しっかり前を見据えた。
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