境界線のモノクローム

常葉㮈枯

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始まりの町・リンデンベルグ

6.白の世界と黒の世界

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「白の世界はブドウの木、あたしやヘリオ君がそれぞれ生活している世界はブドウの実。想像できる?」
「うん」

ヘリオへの"授業"は滞りなく始めることができた。

彼はシリスの話にしっかり耳を傾けている。その様子がとても子供らしく可愛く思えて、彼女はついつい教師の真似事を続けてしまう。

「じゃあここでヘリオ君が嫌な思いをしました。嫌な思いはもうパンパンの実の中には詰め込めません。どうなると思う?」
「実が弾ける!」

シリスは思わず失笑した。普通に考えるのであれば当たり前だ。だが、これはあくまで例えだ。

「皮が硬くて破れないブドウなんだけど、他にはどういう風になるって考えられるかな?」
「んー……溢れちゃうとか?」
「そうだね。───グレゴリーさん、紙とペン貸して」

机の上に借りたメモ紙を広げる。シリスはそこにブドウの木を1本と、そこにぶら下がるブドウの実を描く。

───誰もお世辞にも「上手い」とは言わなかった。

結露したグラスを指でひと撫ですると、濡れた指で実の部分に触れる。そのままブドウの木の下に滑らせれば、滲んだインクが彼女の指をなぞって黒く筋を作っていく。
木の下までその黒線を引いたところで、シリスはその周囲に黒く塗りつぶした円形を描いた。

「溢れちゃった嫌な感情は木の外に溜まって、池を作る。こうして出来たのが"黒の世界"」

黒い池、それの中心から生えるブドウの木。
池の上のあたりにグラスを置いて、シリスはその中に指をつけた。

「ブドウの実からは絶えず嫌なことが溢れる。みんな、喧嘩もすれば嫉妬もするし悪い人に騙されたりもするからね。ヘリオ君は喧嘩はしたことある?」
「……ある」
「喧嘩すると嫌な気持ちになるよね。そうするとヘリオ君の嫌な気持ちも実から溢れて池の中に落ちちゃうの」

指を静かに水面から揚げると、シリスの指先に溜まった雫が水滴となってグラスの中に落ち、小さな波紋を広げた。

「ちっちゃな嫌な気持ちは、池の中に落ちても少ししか跳ねないよね。でも、例えばヘリオ君が悪い人に騙されて凄く嫌な気持ちになった時……」

次に、卓に備え付けられたティースプーンで少しだけ水を掬う。シリスは語りながら、サッとそれを傾けた。ポチャン、と軽い音がして僅かな飛沫が上がった。

「嫌な気持ちが池に落ちたときに上がった飛沫、それが鏡像って言われるさっきの化け物だよ」
「さっきの……黒いの?」
「そう。嫌な気持ちが大きいほど、飛沫は大きくなる。鏡像は、嫌な気持ちが大きいほど強く生まれる」

次はティースプーン一杯の水を。
先程よりも上がった飛沫は大きかった。

「鏡像は自分を切り離した本物が憎くて、実の中に戻りたくて、本能的に自分を生んだヒトの元を目指すの。池から出て幹を登る間に、お互いに共食いして、少しずつ成長したりして、最終的に実の中に入り込む」

トン、とシリスがペン先でブドウの実を叩いた。

「共食いをするから、弱い鏡像はそうそう生き残れない。平和な世界では大体弱い鏡像しか生まれないから、運良く生き残る数も少ない、つまり出てくる数も少ないの」

語られる内容を自分なりに理解するように、絵とシリスの指の動きを見比べるヘリオ。外の世界のことを聞いて輝いていた瞳の光は少しなりを潜め、今や真剣な表情で"授業"を聞いていた。

自分にとって当たり前の知識を子供に教える難しさをひしひし感じながら、シリスはその様子を眺めて困ったように微笑む。上手く説明できているのか。噛み砕いて説明するのも、強い言葉をなるべく使わないのも難しいところだ。
しかしヘリオは思った以上に理解したようで、紙と指から上げた顔に特に困惑は浮かんでいないように見えた。

「さっきの黒いのは、僕の鏡像なの?」
「それは分からない、かな。弱い鏡像は手当たり次第でヒトを襲う知能しかないって言われてるから」

そう言ってシリスは説明に使ったグラスを手にした。
滴った結露が黒い池の上に落ちる。じわり、と拡がる黒いインク。




「あれが弱いなら……強い鏡像はどれだけ大きくて怖いの?」

震えるヘリオの声。

「……こうやって怖がるのも鏡像を生むのかな?僕、喧嘩もしたことあるし悪口を言ったこともある。どうしよう……」

一息ついて水を飲もうとしたシリスが慌てて答えようとする。しかし流石に任せきりの自覚はあったのか、グラスを置こうとしたシリスの手を制しヴェルが言葉を引き継いだ。

「鏡像はさ、"偽物"とも呼ばれてんだ。なんでか分かるか?」
「僕たちの嫌な気持ちから生まれるから?」
「それもそうなんだけどな、もう一つ理由があって───強い鏡像ほど、自分を生んだ奴に姿形が似るんだ」

ヴェルがシリスの前に置かれたままのペンを手に取り、ブドウの横にヒトを描いた。───お世辞にも「上手い」とは言えない出来だった。
彼はティースプーンを立てるようにして先端を絵の足元に寄せると、ヘリオに指で示して覗き込ませる。スプーンのツボの曲線で歪んではいるものの、当たり前だがそこにはヴェルの描いた人型が反転して写っていた。



「鏡に映った自分の姿に似ている。あいつらは世界に侵入するときに鏡を媒介にする。だから"偽物"、だから"鏡像"だ。そういう奴らはヒトと近い知能を持ってるし、手当たり次第襲ったりしないで虎視眈々こしたんたんと"本物"に成り変わるタイミングを狙ってるんだ」
「成り変わる?」
んだよ。さっきの鏡像がお前を食べようとしたみたいに」

ひっ、とヘリオの喉が渇いた音を鳴らした。出来るだけ怯えさせないようにと配慮をしていたシリスがヴェルを睨む。

「ちょっと」
「まどろっこしいんだよ。配慮したって、いつか理解するなら、それが遅いか早いかの違いしかないだろ?」
「それは、そうだけど」

シリスの非難を受けてもヴェルの態度は変わらない。彼の言ってることが間違ってはいないことは、シリスも十分理解はしていた。
それでも怯えさせた事自体は申し訳なく思っているようで、ヴェルは首をすくませて小さく震えるヘリオの頭を少し乱暴に撫でる。

「その為に俺たち守護者が居るんだ。色んな世界に自由に行けて、鏡像の行動パターンもある程度把握できる。グレ……このおじちゃんみたいにたまに見回りもしてる。それに、俺たちがさっき鏡像を倒すの見たろ?」
「……うん……」
「守護者はな、鏡像を倒すことを考えて色んな勉強と訓練をしてるんだ。ヒトそっくりの奴なんて、戦争してるような世界でも滅多に見ないらしいからさ。もし現れても退治するから安心しろよ?俺たち、強かっただろ?」
「うん」
「カッコよかったろ?」
「うん」
「いい子だなー、よしよし」

実際、もしヒト型の鏡像なんて出たらヴェルやシリスの手には負えないだろう。それでも、方便で子供の気持ちが楽になるのであれば、シリスもわざわざ指摘しない。
しばらくヘリオの頭を撫でくりまわし、めちゃくちゃにされるヘリオが気を緩めて笑みを見せると、ヴェルはその手をゆっくり離した。

「それに嫌な気持ちなんて、誰だって持つことあるさ。それ自体は悪いことじゃないんだから、悩むよりも楽しいこと考えて上書きしような?」
「───うん!」

最後の一言が決め手になったのか、明らかにヘリオの表情から怯えが抜けていく。先程の恐怖が心の底に深い傷を残したのは確かだろうが、それでもヴェルの言葉に安心したのがわかった。

分からないものに対する恐怖は、正しく理解することが克服への近道だ。

「ちゃんと俺が教えたことが身になってるようで何よりだよ」
「当たり前っすよ~」

一番最後の良い部分だけ持って行ったくせに……と、シリスは小さくぼやく。しかしその言葉は、満足げな表情のグレゴリーと調子よく笑うヴェルには届かない。
文字通り気を取り直したのだろう。グレゴリーの眉間の皺はすっかり消え、その表情に険しさはなくなっていた。

会話がひと段落ついたところで、奥からヘリオの母が盆に色とりどりの料理を乗せてやって来る。

「さあさあ、話はそこまでにして一旦お腹を満たしてはいかが?」

父親よりは気が強そうな雰囲気は、実際ハキハキした声にも表れていた。
恰幅がいいというわけではないが、体つきはしっかりしておりふくよかだ。腹のあたりが膨らんでるように見えるところから、もしかしたら赤子がいるのかもしれない。

「グレゴリーさん、それにヴェル君とシリスさん?今回は本当にありがとうございます」
「それはもういい。御主人にこれ以上ないほど頭を下げられたからな」
「当たり前のことをしただけですし、ヘリオ君が無事で良かったです」

この店に入って何回目だろう感謝の言葉だが、あまりに言われ過ぎると有り難みもなくなってくる。そう言わんばかりにグレゴリーはそこで彼女の感謝を終わらせ、シリスもそれに倣って笑みで返す。
ヴェルはといえば、ヘリオの母が持ってきた盆を受け取って料理を卓に並べ出した。

「俺たちも割安でグレゴリーさんのお墨付き料理を食べれるし、お互い良かったってことで終わりにしません?」
「ええ、そうですね。ヘリオ、奥にまだ料理があるの。取ってきてくれる?」
「はーい」

元気よく答えてヘリオが店の奥へ走り去ったが、盆2つ分の料理が並べられた卓はもういっぱいいっぱいだ。
並べられた皿は彩りよく、海鮮と野菜で出来た料理はどれも美味しそうだが、既にその量は3人が十分満足できるように見える。
ヴェルの方を向けばシリスと同じように顔を引き攣らせているが、逆にグレゴリーの方を向けばなんともない表情を浮かべていることから、恐らくこの男がよく食べるのだろう。顔に似合わない頭脳タイプのくせに、食べる量は体格見たままだ。
……と、思ったとしてもそれは口には出さないでおいた。


グレゴリーに聞いて期待した以上に、料理は美味しかった。
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