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第七章
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そんな会話をしていた時、若い捜査員の一人が部屋に入って来た。二人がいることを確認した彼が言った。
「やはりこちらにいらっしゃいましたか。お二人に会って話がしたいと、三郷真理亜が本部に来ています。彼女はお二人が担当されている、重要参考人の一人でしたよね」
「彼女が? 判った。どこで待たせている?」
松ヶ根の問いに、彼が答えた。
「一階の待合室です。どこか別の部屋に案内しますか」
「できれば、空いている会議室があれば良いな。わざわざ向こうから来たんだ。何か重要な話があるに違いない。せっかくだから、じっくりと話せる場所があれば助かる」
「今なら二階の会議室が、開いていたと思います。そこで良ければ、お二人がお待ちいただいている間に、私が部屋まで連れてきます」
「よし、頼んだ」
三人で空いている会議室を確認した後、彼はすぐに一階へと降りていった。吉良達は部屋に入り、置かれていた長机と椅子をセットし直す。話がしやすいように場所づくりをした後、腰を降ろして彼女が来るのを待った。その間吉良は松ヶ根に言った。
「彼女はどんな話をする為に、わざわざ来たのでしょうか」
「う~、おそらく一久と菜月が、警察から本格的な取り調べを受けていると耳にしたのだろう。一久には松方弁護士が付いている。菜月の方も、寺内の関係からPA社を通した弁護士が、今後の対応窓口になるらしい。彼女はその両方から、情報を得たのだろう」
吉良は思わず首を捻った。
「菜月の弁護を、PA社から依頼したんですか。何故そんなことを」
「母親が社員だからだろう。しかも事件自体が、う~、会社が借りていた物件で起きたんだ。社員とその身内が関係しているとなれば、事の成り行き次第では会社のイメージダウンにも繋がる。その危険を少しでも回避する必要があると、判断したのかもしれない」
そうしている間に、部屋の扉をノックする音と、先程の捜査員の声が聞こえた。
「三郷真理亜さんをお連れしました。今、よろしいですか」
「入って貰ってくれ」
松ヶ根の指示に従い、彼は扉を開けた。その後ろに、彼女の姿が見えた。俯き加減だったが、これまでと違って気落ちしているかのようだ。もしかすると、もう一人の人格で現れたのかもしれない。
二人も立ち上がり、彼女を迎え入れた。部屋には一人だけが入り、案内してくれた捜査員は頭を下げ、そのまま去っていった。松ヶ根が気を効かせ、彼女を招いた。
「わざわざ来て頂いて、申し訳ありませんね。どうぞそこの椅子におかけください」
吉良がドア側で、窓際に席を取った彼との間に彼女を座らせた。二人も腰を下ろし、少し間を置いてから彼は言った。
「私達に何か話があると聞きましたが、どういったことでしょうか」
彼女は顔を上げて言った。
「一久氏と菜月ちゃんが、取り調べを受けていると伺いました。久宗氏を殺害したのは、彼女だったのですか。一久氏はその共犯だったのですか」
吉良と目を合わせた彼は、首を振った。
「それは現在取り調べ中ですから、お答え出来ません。それより我々に質問をする前に、あなたは話すべきことがある。違いますか」
単に事件の情報を聞きに来ただけならば、帰って貰うしかない。だが彼女は未だ何かを隠している事は確かだ。彼は当初からそれが、今回の事件における鍵になるかもしれないと言っていた。よってその事を口にしない限り、こちらから現在の状況は教えないという態度を見せたのだろう。
その意味を理解したのか、彼女は口を開いた。
「以前ご指摘を受けた時は認めませんでしたが、おっしゃる通り私は解離性同一性障害を患っております。そう一口で言っても症状は様々ですが、私の場合はいわゆる二重人格です。そうなった原因も松ヶ根さんがご指摘されたように、二つの大きな精神的ダメージを受けたからだろうと、精神科医の先生より診断を受けております。主に今まであなた方とお話させていただいていたのは、主人格の三郷です。今ご説明しているのはもう一人の私ですが、判りやすいように“マリア”とでも呼んで頂ければ結構です」
やはりそうだったのか。松ヶ根が気付いてからそうなのだろうとは思っていたものの、実際に本人の口から認める証言が出た事に戸惑った。しかも何となく感じ取っていた第二の人格が、今話をしているとの告白にも驚いた、吉良の勘は当たっていたらしい。
しかし彼は、動じずに対応した。
「正直にお話頂いて、有難うございます。それではマリアさんにお伺いします。あなたと三郷さんとの間では、意思の疎通ができていると考えて宜しいでしょうか」
「はい。今こうして話している間も、三郷の意識はあります。よって二人の記憶は互いに共有しており、もう一人の人物が知らない間に勝手な行動をする等ということは、未だかつてありません。もちろん今回の事件について、私や三郷のどちらも関係していなかった事は、既に証明されていると思います」
「というのは、どう言う意味でしょうか?」
「先日提出したSDカードで、アリバイが証明された私には久宗氏を殺すことは出来ません。さらに今回菜月ちゃんが事情聴取を受けている事で、彼女が寺内さんのカードキーを使ったことは明らかでしょう。それとも彼女はその事について、否認しているのですか」
一瞬躊躇していた彼だが、先程と同様に首を振った。
「現在取り調べ中の内容に関して、お話することは出来ません」
彼女は少し落胆したように見えたが、直ぐに気を取り直したのか話し出した。
「私がいけないのです。自分のアリバイ証明になるSDカードの提出をしないよう三郷を説得したから、重要参考人となって何度も刑事さん達の手を煩わせることになってしまいました。申し訳ございません」
「なるほど。やはりもう一人の人格が寺内菜月を庇おうとして、SDカードの提出を遅らせたのですね。決して一久が写っていたからでは無かった」
「はい。当初は彼女が一久氏と良からぬ関係にあると、二人を見た瞬間から気付いていました。それが公になることを、私は恐れたのです。三郷は九竜家の名誉を守る為と、事件とは関係ない事だと判断し、問題ないと考えて同意してくれました。しかし犯行時間が一時間遅れる可能性があると聞いてからは、明らかにあの二人の行動がおかしいと思いました。彼らが蔵から車で出た後向かった先は、彼女の家と反対だったからです。しかも、事件があったあの事務所のある方向でした。そこでもしかすると、事件に関係しているのではないかと疑い始めました。でもまさか彼女が、と思っていたのも事実です」
「そうですか。しかし何故今になって、二重人格の事を告白しようとされたのですか」
「菜月ちゃん達が捕まったと聞いて、もう隠し事をしている場合では無いと気付いたからです。事件を解決させる為には、私が知り得る全てを話す必要があると思い直しました。信じて頂けますか」
「もちろんです。三郷さんは何かを隠していらっしゃいましたが、嘘はついていなかったと思います。同様に今のマリアさんも、そのようには思えません。お前はどうだ」
急に振られたが、強く頷いた。また演技する必要もないと考え、口調を元に戻した。
「嘘だとすれば、後で直ぐにばれるでしょう。そんな事を、頭の良い三郷さんがするはずありません。あとマリアさんが言っている事も、筋は通っています。子供が関係していたから、寺内菜月を庇ったのですね」
チャラ語を話さない吉良に一瞬戸惑っていた彼女だが、静かに首を縦に振った。
「はい。どうしても子供を産めなかった私にとって、彼女の事は守りたいと思いました」
そこで彼女は不妊治療している際、同じく治療を受けていた寺内と会った事を話してくれた。その説明を受け、何故彼女が顧客を殺したと疑われる危険を犯したのかという理由が、ようやく腑に落ちた。
そこで松ヶ根が質問をした。
「ところでもう少しお伺いしたいのですが、宜しいですか。ちなみに今は、三郷さんに戻られていますよね」
言われてみれば、顔付きがまた変わっている。当たっていたようで、彼女は頷いた。
「はい。マリアが人前で表に出てくることは、まずありません。私が余程追い詰められていると心配して、出てきたのでしょう。彼女は、私の過去のトラウマが生み出した人格です。そうした経緯から考えれば、ご理解いただきやすいかもしれません」
「なるほど。失礼ですが、いつからマリアさんが現れるようになったのですか」
「離婚する、しないで前の夫と揉めていた頃からだと思います。当初私は気づいていませんでした。しかし後に会社でのトラブル等が原因で体調を崩し、精神科に罹ってしばらく経ってから、解離性同一障害があると医師から指摘を受け初めて知ったのです」
「そうですか。以前お話の中で仕事に支障が無いと仰っていましたし、先程意思の疎通も出来ていると言いましたね。多くの人の場合は別人格になると、記憶が無い場合があるようですけど、あなた達は違うようだ」
「おっしゃる通りです。私達の場合は過去の記憶が抜け落ちたり、異常行動を起こしたりすることはありませんでした。中には知覚の一部を感じなくなったり、感情が麻痺したりする方もいらっしゃるようですね。そうした症状が深刻で、日常生活に支障をきたす状態を解離性障害と言うようですが、厳密にいえば私の場合は当て嵌まりません。何故なら別人格がいることは確かですが、生活をする上で何か支障があったことなどなかったのです。彼女が表に出てきても、記憶は残っていましたから。ただそれが別人格であるとの意識が無かっただけです。医師によればこういう解離現象は、軽くて一時的なものであれば健康な人にも現れることがあると伺いました」
「医師の診断で気付かれたとなれば、かなり以前からということですね」
彼女は大きく頷いた。
「休職中の頃ですから、もう十五年は経っています。ただ医師によると、それ以前から症状が出ていたはずだと言われました。そこでかつての夫に連絡を入れて確認した所、言われてみれば思い当たる節があるとのことでしたが、それ程酷いものではなかったようです」
「思い当たる節というのは私達が以前見たように、お茶の入れ方が変わるといった日常的な変化があったということでしょうか」
「はい。遡ればもう二十年近くになります。その間で判ったことは、彼女が現れると何故か家庭的になり、料理などが上手くなるようです。本来の私の苦手としていたことでした」
これも医師による見解らしいが、主となる人格は知的で明るく正義感が強いけれど、家庭的でないという。一方の人格は、どちらかといえば暗く物静かだけれど料理等が得意で、他人に細やかな気遣いができるタイプだと指摘されたそうだ。
恐らくそういった真逆に近い人格が表に出るのは、心理的ストレスを強く感じた場合それらを和らげようと、自己防衛本能が働くからだろう。そうすることで、乱れた心のバランスを彼女はこれまで取ってきたらしい。
「そういうケースは、珍しくないのですか」
「稀にあるそうですが、多くはないとのことでした。別人格の現れる間、たいてい記憶は無いらしく、生活上支障をきたす場合がほとんどのようです。それでも私の場合これほど長い間、別人格を出し続けながらも特に支障がないのなら、受け入れて生活しても良いかもしれないと言われました。しかしいつこの症状が悪い方に変化する可能性も、無いとは言えません。よって定期観察は必要だろうと考え、クリニックへは通い続けています」
「今の所は問題ない、ということですか」
「はい。互いの存在を意識し、意思の疎通が取れるようになって十年以上になります。その為どういった場合に現れるか判るようになりましたし、その場合の対処の仕方も今では理解しています。ですから再就職もでき、今まで大きなトラブルを起こすこと等ありませんでした。それにかかりつけの医師以外の方で、別人格に気づかれたこともありません。あなたが初めてです」
「そうでしたか。このことは、敏子夫人も知らないのですね」
彼の質問に、彼女は意外にも首を振った。
「いいえ。九竜夫妻には、自分から説明したのでご存じです。こういう仕事をしていると、かなりプライベートな部分に踏み込まざるを得ないことが多々あります。そうした話題になった際、打ち明けた方が良いと思ってご説明しました。ただこの十年の間で、あの方々が初めてでした。つまりこの事を知っているのは、医師の他には今の所敏子夫人とあなた方だけです」
話を聞きながら、そんなことがあるのかと動揺しつつ吉良は納得もしていた。するとその点について彼は言及した。
「そんな特殊事情まで話すことが出来る程、親密になっていたのですね。信頼が厚かったのは、そういう理由もあったのでしょう」
「そうかもしれません。もしご必要であれば、私が通っているかかりつけのクリニックの医師から、話を聞いて頂いても構いません。診断書も必要だというのなら取り寄せます」
「いえ、今となってはその必要もないでしょう。以前の時点では、まだ実行犯または共犯の疑いが晴れていませんでしたからね」
「という事は、やはり菜月ちゃんが寺内さんのカードキーを使って、あの部屋に入ったことを認めたのですね」
もういいだろうと判断したようだ。彼は頷いた。
「はい。ですからあなたや相原さんが実行犯で無い事はもちろん、共犯の線も消えました」
「実行犯は彼女ですね。一久氏は、利用されただけではありませんか」
「何故そう思われたのですか」
「以前もお話したと思いますが、一久氏が実行犯である訳がありません。久宗氏とは体格も違いますし、いくら隙をついたとしても殺すまでの力は無かったはずです。そうなると可能性としては、菜月ちゃんが実行犯だった場合です。小学生の彼女が相手なら、さすがの久宗氏でも油断するでしょう。それに彼女なら、お金を得る為という動機があります。一久氏と関係を持ち、強請って協力させたのだろうと私は考えました。彼女の家の経済事情は、そちらでも調べられていますよね」
「もちろんです。そこまでお判りなら、お話ししましょう。私達もそう考えています。しかし彼女は殺害自体を認めていますが、故意ではなく正当防衛だと主張している」
三郷は目を丸くして言った。
「正当防衛ですか。もしかして久宗氏に襲われたと言っているのですか」
「そうです。確かに被害者のパンツは下げられていました。しかしそれは彼女による偽装工作だと、私達は睨んでいます」
彼女の口調が、今までになく強くなった。
「どうしてそんな事を。久宗氏が女性を、しかも菜月ちゃんのような子に対して、襲うような真似をする訳がありません。それは断言できます」
「そういえば、以前も久宗氏の女性関係を聞いた時、絶対にあり得ないと言われていましたね。何か根拠がおありなんですか」
彼女は一瞬言葉に詰まった。それでも悩んだ末に打ち明けようと口を開いた。
「久宗氏と敏子夫人の間にお子さんがいらっしゃらないことは、ご存知ですよね」
「もちろんです。色々な取り組みをされたけれど、断念したと聞いています」
「私も経験しているからこそ判りますが、不妊治療というのはとても辛いものです。それは女性だけに限りません。男性にも、かなりの精神的な負荷が掛かります。協力的だった久宗氏もそうだったのでしょう。ある時期からそうした機能が失われたと聞いています」
吉良達は意外な告白に唖然とした。司法解剖の結果からは、そうした所見は出ていなかったからだ。しかも国内における被害者の健康状態を調べても、そうした事実は見つかっていない。
「そうした機能というのはED、つまり性的行為ができなくなったという事ですか」
「はい。精子を何度も採取するという行為が、EDに繋がったのでしょう。ただ精子や卵子を取り出す事さえできれば、体外受精が可能です。それでも失敗に終わった。その時のショックは、相当だったと思います」
「その話を知っていたから、女性を襲うどころか寺内菜月のような子供に手を出す真似などしないと、あなたは断言されていたのですね」
「はい。当時の診断書も残っています」
彼女は持っていたバックから、それを出した。どうやらアメリカの病院で出されたものらしい。どうりで警察が調べても判らなかったはずだ。しかし何故彼女が持っているのかと尋ねた所、事件が起こり九竜家へ駆け付けた際に彼女がこっそり隠したのだと白状した。
けれど松ヶ根は悔しそうに言った。
「これが本当なら、彼女の主張を覆す証拠の一つにはなるでしょう。だが決定的なものとまではいえない。やはり犯行時に着ていた服や、持ち去った携帯と財布の行方を探さない限り、彼女の計画的犯行だったことを立証するのは難しいでしょう」
「彼女や一久氏は、何と言っているのですか」
本来ならこれまでと同じく、答えられないと首を振る所だ。けれども彼は何か考えがあったのだろう。吉良が報告した取り調べと、自身が見た菜月の様子を彼女に説明し始めた。しばらく黙って聞いていた彼女だったが、聞き終わると思いもかけないことを言い出した。
「彼女が妊娠をしている、ということは無いでしょうか。またはしていなくても妊娠していると言った言葉を、一久氏に告げていたかもしれません。それを聞いたからこそ、久宗氏は一人で行動を取ったのではないでしょうか。もし一久氏と関係を持っていただけだとすると、私が知っている久宗氏ならば九竜家の名が汚れようと企業価値が下がろうと、公にすることを覚悟して行動したはずです。例えば松方弁護士を通じ、しかるべき対処をしていたでしょう。それをしなかったのは、子供が絡んでいたとしか思えません。それなら久宗氏らしくない行動を取った理由が、腑に落ちるのです」
「被害者は、そういう方だったのですね」
「はい。外聞を気にして、下手な隠蔽工作をするような人ではありませんでした」
そこで彼は強く頷き、吉良に指示を出した。
「これはいい話を聞いた。早速両方の取調官に耳打ちして、確認するよう言って来てくれないか。その前に一応本部の上層部には、今の話を報告しておいてくれ。もしそうだったとするならば、状況は大きく変わってくる」
「了解しました」
席を立って部屋を出た吉良は、まず捜査本部がある大会議室に向かい上司を掴まえ、彼の指示通り報告した。その後取調室へと走り、それぞれの被疑者に質問するように伝えた。
まずは一久の様子がどうなるかを、隣室で待機し確認した。すると明らかに動揺を見せていた。しかし先程と変わらず肉体関係を認めていない彼は、あくまで否定していた。一方の菜月も同様で、妊娠などしていないし、そんな事を言う訳ないでしょうと答えていた。
念のため、別室にいた彼女の母親にその件を尋ねた。すると確かに今年の初め頃、初潮を迎えている事を認めたが、最近生理用品を使っていたばかりだという。よって妊娠していることは無いはず、と証言したのだ。
松ヶ根達のいる部屋に戻りその事を告げると、彼らは満足げに頷いた。
「一久が動揺していたなら、子供ができたと嘘をつき、強請った可能性は高いな」
「寺内菜月に関しては、一応病院で検査するそうです。元々性行為をしていたかどうか調べる予定だったと言っていました」
「そうだろうな。それよりお前がいない間に、衝撃の事実を彼女から教えられたぞ」
「何ですか」
席に座った吉良がそこで耳にしたことは、本当に突拍子もない事だった。本来ならすぐには信用できない情報だ。しかし彼女は先程見せてくれた久宗氏の診断書の他に、その証拠となるものを机上へ出していた。これも同じく隠し持っていたらしい。
内容は同じく英語で書かれていたので詳細は理解できなかったものの、間違いなく彼女の証言が嘘でないことは、一緒に同封されていた画像診断を見れば判った。そうなるとこれまで抱えていたいくつかの謎が、一気に解ける。
この事を信用させる為に二重人格の件から告白したのかと、ようやく納得した。さらに吉良がいない間に二人はそれぞれが持つ情報を出し合い、今回の事件の真相について話し合ったようだ。
そこでこれまでの推理を見直した上で、一つの共通した結論に至ったらしい。それを聞かされ、恐らくそれで間違いないだろうと確信を持った。松ヶ根の洞察力がすごい事は十分理解していたつもりだが、彼女の推理力はそれに勝るとも劣らなかったからだ。
「申し訳ありません。もっと早くこの件を皆さんにお知らせしていれば、このような事件は起こらなかったかもしれません。少なくとも長谷さんが、日香里さんを殺そうと考えることはなかったはずです。ただ敏子夫人が無事帰国されるまでは油断できないと、久宗氏が判断されました。当然だと思います。万が一のことがあれば、全て計画は白紙、または大きく違ったものになっていたでしょう」
松ヶ根は深く頷いた。
「裏目に出てしまった事は、とても残念です。しかし奥様が帰国されるまで公にしないと決めた判断が、間違っていたとも思えません。悪いのは九竜家の財産を狙った、浅ましい奴らです」
「どうしますか。この話も本部に伝えていいんですか」
吉良が思わず尋ねた所、彼女は強く頷いた。
「敏子夫人が帰国できる日程は、まだ決まっていません。ただこうなった以上、今取調べを受けている二人には伝えた方が良いでしょう。これは奥様からも、承諾を得ています。またこれ以上長谷さんのような行動を取る方が出ないよう、これから九竜家の関係者にも説明するつもりです」
「それがいいでしょう。ここにいるあの二人も、今回の話を聞けば良からぬ計画を諦め、自供し始めるかもしれない。少なくとも一久は話すだろう。彼が正直に証言し始めれば、寺内菜月の態度も変わる可能性が出てくる。駄目だったら現場から彼女の家の間を徹底的に洗い、物証を発見するしか手は無い」
彼女との話を終えた吉良達は、直ぐに本部へ向かい報告をした。上層部達もにわかには信じられないと、驚きを見せていた。だが確かな証拠がある。しかもこの情報を聴取中の二人に告げれば、何らかの進展が見られるはずとの松ヶ根の見解は受け入れられた。
しかも更なる自白を引き出してこいと、現在担当している取調官に代わるよう指示を受けたのだ。それだけ重要な情報を入手したと評価されたらしい。しっかり手柄に繋がる役目を授かったと言える。
吉良にとっては有難い事だった。松ヶ根と組んでいたからこそ、得られたチャンスだ。三郷が二重人格者であると見破った事や、これまでの彼女を追及する手法が鋭かっただけではない。おそらく彼の過去における経験が、彼女の共感を呼び信頼を得たからこそ、手に入れることが出来たのだろう。
二人は一旦三郷には帰って貰うことにして、早速取調室へと向かった。最初は一久からだった。担当取調官は交代することを渋っていたが、上の命令だから仕方がないと席を譲ってくれた。
そこで松ヶ根が椅子に座り、吉良は被疑者の斜め後ろに立った。事情聴取の相手が突然変わったことに戸惑っている相手を無視し、彼は話し始めた。
「先程三郷真理亜さんから、大変重要な事実を教えて頂きました。その事を取り急ぎお伝えした上で、あなたから真実を聞き出す為に私達が来たのです。その前にお伺いしますが、あなたは久宗氏の殺害に関与していましたね。動機は寺内菜月から妊娠したと聞かされ、認知するよう脅されていた。そのことが久宗氏にバレた。違いますか」
「な、何を馬鹿な。私と彼女がいくつ離れていると思っているんだ。それに二人はそういう関係など無いと、何度も言っているじゃないか」
「まだ惚けるつもりですか。念のため今後病院で検査する予定ですが、彼女の母親によると、最近生理を迎えたばかりだと聞きました。よって妊娠しているというのは嘘でしょう。一応お伝えしておきます。ですが例えあなたの子を彼女が身籠っていたとしても、久宗氏の資産があなた達に渡ることは決してありません」
「な、なんだと? 本当か?」
「それはどちらに対しての質問でしょう。寺内菜月が妊娠していないという事ですか。それともあなたが資産を受け取ることは無いという件ですか」
狼狽えた彼は、慌てて言った。
「も、もちろん後者だ」
「おかしいですね。あなたは元々持っていた資産を、わざわざ息子に引き継いだとおっしゃっていました。なのに何故今になって資産を受け取ることは無いと言われ、本当かどうかを確認しようと、そんなに慌てて尋ねるのですか。おかしいでしょう」
「そ、それは久宗が破棄した遺言書以外に、別のものを用意していたと思ったからだ。あいつがなんと書き残したか、知りたかっただけだ」
「本当ですか。妊娠していないと聞いて、安心したのではないですか。その上で遺産が手に入らないのは何故か、を知りたかった」
「ち、違う」
「まあいいでしょう。彼女が妊娠していないことは、病院での正式な検査結果が出てからになりますが、今の段階で母親が嘘をつく理由はありません。よって妊娠は嘘でしょう。あなたから、お金を引き出すための方便だったと考えられます。また遺産の件ですが、新たな遺言書が見つかった訳ではありません。久宗氏がこれまで作成していた遺言書を破棄されたのは、必要が無くなったからだと判りました」
「どういう意味だ」
そこで松ヶ根は先程三郷から聞いた情報を、彼に伝えた。当然知らされていなかったからだろう。驚愕の余り言葉を失っていた。しばらく経って、ようやく口を開いた。
「ほ、本当なのか」
「本当です。だから敏子夫人は愛する夫が殺されたというのに、涙を飲んで帰国を諦めた。その理由が何故なのか、あなたも聞かされていなかったはずだ。不思議に思ったでしょう。でも今の話を聞いて、ようやく納得されたのではないですか。先程まで話していた全ての理由が、これで理解できたでしょう」
「そういうことだったのか」
「そうです。ただ万が一ということもあるので、時期が来るまで口外しなかった。それが災いし、今回の事件が起きてしまったようですね。あなたがこの事を知っていれば、十二歳の子に惑わされる必要などなかったでしょう」
一久は頭を抱え震え出し、大声で叫びながら机に顔を伏せた。
「あああああああああ! 私は何てことをしてしまったんだ!」
心の奥底から湧き出ただろう慟哭が止むまで、吉良達は黙って彼の姿を見守っていた。どれくらい経っただろう。ようやく彼が顔を上げた。その涙を拭いて貰おうと、吉良が自分の持っていたハンカチを手渡す。彼は小さく頭を下げて受け取り、目頭を押さえた。
落ち着きを取り戻した様子を見て、松ヶ根が質問をした。
「久宗氏はもういませんが、敏子夫人が無事帰国されたなら、ご夫婦が望まれていた穏やかな老後を過ごして頂きたいとは思いませんか。その為だけでなく、あなたや寺内菜月の将来の事を考えても、全て正直にお話頂いた方が良いのではないでしょうか」
彼は頷いて、ポツポツと話し出した。
「私は馬鹿だったよ。申し訳ない事をした。素直に自らの罪を償う必要がありそうだ。刑事さんの言う通りですよ。私はあの子と関係を持った。最初は本当にパパ活とやらで、若い子と話をしたかっただけだったんだ。お金さえ支払えば、彼女達は私を邪険にすることもなく、優しく接してくれたからな。寂しかったんだ」
早くに大事な娘を事故で亡くし、幼かった孫二人と疎遠になったことも影響していたらしい。後継ぎとなる息子夫婦に子供ができなかった為、余計そう感じたのだろう。その分唯一の孫として、日香里の事は可愛がったという。
しかし子供の成長は早い。彼女もすぐに大きくなってしまった。その間に妻を失い、その上次女まで三年前に病死したのだ。また息子の久宗は仕事が忙しく、妻の敏子夫人は体の調子を見てもらう為にと詳しい事を告げられないまま、海外に行ったっきりになってしまった。一年近く帰って来ず、彼の近くには家政婦の稲川だけしかいなくなったことも孤独感に拍車をかけたようだ。
「だから出会い系サイトを、利用するようになったのですね」
「そうだ。使い方は、通っているリハビリセンター仲間から教えて貰った。同じような年の男達でも、そういった欲はあるものだ。私も麻痺していた体が順調に回復し、車の運転に支障がない程だった。それで試してみようと思って始めたんだ」
「寺内菜月と会ったのは、半年前とおっしゃいましたね」
「ああ。その前に三人ほど会った。それなりに楽しめたが、もう一度会いたいとは思わなかったよ。しかし彼女は違った。初めて会った時には驚いた。余りにも幼いので、自分の立場も忘れて説教をしたくらいだ。それまでの子は、皆大学生かせいぜい高校生ぐらいだったからな」
「そんな彼女と何故、頻繁に会うようになったのですか」
「身の上話を打ち明けられたからだ。可哀そうだと思ったよ。自分の意思でなく、親の見栄で受験させられた学校を、今度は親の都合で辞めさせられるかもしれないとな」
「彼女の父親が体調を崩し、会社を休み始めたからですね」
「ああ。それでも彼女は、夜遅くまで学習塾に通っていた。授業について行くには必要だと言ってな。だがいずれ学校を辞めるのなら、必要無くなる。だったらさっさと辞めたい、と彼女は思っていたようだ。それでも母親はまだ大丈夫だと言い続け、塾通いをさせていたらしい」
「そこで反抗をしだした。塾をサボり、夜遊びし始めたのですね。やがて友人に誘われて出会い系サイトでパパ活をするようになり、自分でお金を稼ぐ事を覚えた」
「そうらしい。だがあのようなものには危険が伴う。彼女も酷い男に捕まり、無理やり肉体関係を持たされたこともあるそうだ。それから会う相手は、万が一の事が起こっても抵抗できる、高齢者ばかりを選ぶようになったと言っていた。そんな中で私と出会ったんだ」
「あなたがこの周辺の大地主だということを、彼女は最初から知っていたのですか」
彼は首を振った。
「いや、最初はお互いサイトに記載したハンドルネームしか教えなかったから、知らなかったと思う。何度か会って話す内に、気を許したのだろう。向こうから、家庭の事情を話してくれたんだ。そこで私も家のことを喋った。すると母親から、九竜家の存在を聞いた事があったらしい。すごいお金持ちなんだね、と言われたよ」
そこから今は資産のほとんどが、息子夫婦や彼らが経営する会社のものになっていると説明したらしい。よってお金については、多少持っている程度だと教えたそうだ。すると彼女は勉強熱心で、相続の事などをネットで調べ出したという。そこで彼は色々質問されたので、答えていたと供述した。
「そうやってあなたが家の事情を話していく中で、どうすれば莫大な資産を手にすることが出来るか、彼女は考えていたのでしょう」
「今思えば、そうかもしれない。子供がいる場合やいない場合、兄弟がいる場合や先に子供が亡くなったたらどうなるか等についても、聞かれた事がある。彼女の家は経済的な事情で、苦しんでいた。お金さえあれば、幸せに暮らしていけると考えたのだろう。だから私と関係を持って子供を妊娠すれば、少なくとも金銭で困ることはないと思ったはずだ」
松ヶ根はさらに質問した。
「彼女から、関係を迫って来たのですか」
戸惑いながらも彼は言った。
「最初はそうだった。もちろん断ったよ。孫どころか、ひ孫だっておかしくない年齢だったからな。しかし男というものは、いくつになっても馬鹿な生き物だ。大好きだと抱きしめられ、目の前で裸になった彼女を見て恥ずかしながら反応してしまった。そこからは、私の方から求めるようになった。気付いた時には遅かったよ」
妊娠したかもしれないと言われた時に、ようやく自分のした行為が愚かな事だったと目が覚めたという。どうすればよいか途方に暮れたらしい。恥ずかしくて息子達に話せる訳もなく、まして堕ろせなどと言えるはずもないと悩んだらしい。息子達が子供を産もうと、どれだけ苦労したかを知っていたからだろう。
そんな一久を見て様子がおかしいと気付いた久宗は、彼が出かけた後を付け彼女と会っていることを知ったようだ。
「あなた達が口論をしていたというのは、彼女とのことだったのですね」
一久は頷いて言った。
「全てあいつに話したよ。そうしたら、俺が何とかすると言い出した。どうするつもりだと聞いたところ、妊娠が本当かどうかをまず確かめてからだと言うから、私は怒ったんだ。そんな嘘をつく訳がないと。しかしあいつの言ったことが正しかったようだな。私は心のどこかで年甲斐もなく、自分に子供が出来ることを望んでいたのだろう。娘を二人と妻を失って空いた心の穴を、埋めたかったのかもしれない」
「久宗氏と話した事を、あなたは寺内菜月に告げましたね。それはいつのことですか」
「二カ月ほど前だ。今考えるとその頃から、いやそれ以前から久宗を殺すつもりだったのかもしれない。彼女は私に色々な事を、要求するようになった。お金だけでなく、フットカバーや電波時計もそうだ。言う事を聞かなければ、二人の関係を警察に言うと脅されたよ。十二歳以下の女性と性行為をしたのなら、間違いなく逮捕されるとね」
「あの事件が起こるまで、久宗氏は彼女と何度か会っていたのですか」
「確か二度ほど会ったと聞いている。久宗は妊娠なんてしていないと言っていた。だからすぐ別れろと迫って来た。だが私は断った。そんな事をすれば逮捕されてしまう。そう答えたら、それも覚悟しなければいけないだろうとあいつは言ったんだ」
そこで一久は激怒したらしい。他人事のように言うがこの事が公になれば、九竜家の名にも傷がつくだけでなく、会社も大きな損害を受けるだろうと反論したようだ。それでも久宗はそれもしょうがないと言った為、そんなことは出来ないと揉めたという。
三郷が推測していた通りの証言に、吉良は驚いていた。松ヶ根が質問を続ける。
「それで殺そうと考えたのですか」
彼は躊躇しながらも認めた。
「邪魔者には消えて貰おうと、彼女が計画を説明し出した。私は半信半疑だったよ。アリバイ工作についても、警察を騙せるなんて無理だろうと思ったさ。しかも実行するのは、彼女だというじゃないか。絶対に失敗すると思ったよ。彼女と息子の体格差からして、そんなことが出来る訳ないと私は止めた。それでもやると彼女が言ってきかないから、協力だけはすると言ったんだ。まさか本当にあんな事が起こるなんて、思わなかったんだよ」
「それでも心のどこかで、成功するかもしれないとは考えませんでしたか」
彼は言葉を詰まらせた。しばらく間を開けた後に頷いた。
「考えたよ。もし計画が上手くいったなら、彼女と私の子にも遺産を渡すことが出来る。しかも警察に捕まった場合、彼女は正当防衛と言い張るから絶対に逮捕され無い。それに十二歳だから、最悪でも少年院へ送られるだけとの悪魔の囁きに、私は負けた。その上二人が捕まっても、あくまで肉体関係が無かったと主張するようにと彼女から言われて、それならと思ってしまったんだ」
「肉体関係が無いのに、子供を妊娠していたら言い訳できないでしょう」
「そこは無理やり関係を迫られた他の男の子だと言い張るから、と彼女は言っていた。その代わり子供が生まれたら、認知することを約束されたんだ。しかし妊娠自体が嘘だったら、彼女はどうやって遺産を手に入れるつもりだったのかは知らない」
本当に理解していなかったのだろう。盛んに首を捻る彼に、松ヶ根が言った。
「恐らく子供は流れたとでも言って、誤魔化すつもりだったのでしょう。それでも遺産を手にしたあなたから、これまで以上のお金を脅し手に入れるつもりだったと思われます。彼女のスマホには、事件当夜の様子を隠し撮りしていた映像が残っていました。肉体関係を持っていた証拠と共に、殺人事件の共犯者だというネタがあれば、いくらだって金を引き出せると考えていたのかもしれません」
ようやく気付いたらしい。彼は再び天井を見上げていった。
「そういう事だったのか。私は十二歳の小娘に、踊らされていたんだな」
「そのようですね。ちなみにお通夜の席で、あなたは騒ぎを起こされた、あれはわざとですね。今回の殺人事件は、遺産相続を狙った長谷家または兵頭家の人間の可能性があると騒ぎ、アリバイがあるあなたから警察の目を更に逸らせようとした。違いますか」
この見解は、三郷が言い出したものらしい。そこから彼女は、一久が利用されただけとの当初の考えを改め、共犯説を唱え始めていた。どうやらその推理は当たっていたようだ。
「良く判ったな。そうだ。警察があいつらの事を疑っていると知って、葬儀に現れたからここぞとばかりに言ってやったんだ」
だが遺言書の破棄の話は予想外だったらしい。一久も知らなかった為驚いたという。
「ただそのおかげで、遺産目的の殺人かもしれない、と本当に思わせることが出来た。しかもあの時の話をきっかけに、長谷卓也が日香里さんを襲った訳ですからね」
「ああ。これで長谷が最有力候補に挙がったと思ったよ」
「お通夜の席で騒ぐことも、彼女からの入れ知恵ですか」
「ああ、そうだ。そうすれば、少しでも警察の目逸らせると言われたからな」
菜月の案ではないかと言ったのも三郷だ。吉良達はさすがにどうかと疑っていたが、彼女の推理力の方が勝っていたらしい。彼はため息をつきながら言った。
「それにしても恐ろしい子ですね。あの子の取り調べの様子を、私はずっと見ていましたが、十二歳とはとても思えない知能と度胸の持ち主ですよ。あのような小学生は、なかなかいません。あなたが騙されたのも、理解できます。それほどの悪党です」
これに一久も同意した。
「そうかもしれない。彼女の誘導で、私は大事な息子をも失うことになったんだからな。だがこれだけは言わせてくれ。あの子は根っからの悪党じゃない。あそこまで追い込んだのは、経済的な困難のせいだ。それが無ければ、こんな事にはならなかっただろう」
これには松ヶ根も頷いた。
「経済的困難に追い込まれた事が、幼気な少女を悪魔に変えたのかもしれませんね」
「そうだ。しかし私に久宗の遺産が入らないと判った。だったら自由にできる金など、そう大した額じゃない。彼女の計画も、完全に元から崩れる。これ以上黙っていても、しょうがない。それに刑事さん達が言われる通り、ずっと彼女に脅され続け金を払う位なら、愚かな行いを公にして、罪を償う方を選ぶよ」
完全に覚悟を決めたらしい。九竜家の名が傷ついても、敏子夫人達がいれば大丈夫だと彼は言った。会社の信用も一時的には失うだろうが、元々売却する予定だったのだ。それなら会社における損害は最小限に食い止められる。
別の会社が引き継ぐのなら、社員達に迷惑を掛けなくて済む為、逆に良い機会かもしれないとまで言い出した。久宗が告げた言葉が、今になってようやく彼に通じたらしい。
「そうかもしれませんね。しかしよく正直に話して頂きました。まだいくつか、お聞きしたいことがあります。けれどそれは、先に彼女から話を伺ってからにしましょう。ここからは、また先程まで話していた取調官と交代をします。おそらく今話していた事と同様の質問を、何度もされることになるでしょう。ですが繰り返し伺うことで、間違いがないか確認する必要がありますのでご容赦ください。それでは失礼いたします」
松ヶ根はそう言い残して席を立ち、吉良はその後に続いた。二人と入れ替わるようにして、取調官が部屋に入って来た。ずっと隣の部屋で、マジックミラー越しに話を聞いていたはずだ。
松ヶ根に告げた事は間違いないかを、彼らは確認しなければならない。まだ尋ねたい件がいくつか残っていた。それでも彼女の取り調べが優先だと判断したらしい。ただでさえこれまでの拘束時間は、相当長くなってる。よって早期に片を付けたいのだろう。
だが吉良は、一抹の不安を持っていた。あの事実を耳にして、一久は真実を話してくれた。けれども彼女は、それでも白を切り続けるかもしれない。あくまで正当防衛だと言い張る恐れがある。その場合、松ヶ根はどう出るつもりだろう。不謹慎だが彼の腕前を見られると考えただけで、武者震いがした。
菜月が取り調べを受けている部屋に到着し、二人は中に入った。あの女性取調官には既に伝わっていたのだろう。吉良達の姿を見て直ぐに席を立ち、松ヶ根に譲った。だが相手は十二歳の女性の為、先程のように吉良達二人だけとはいかない。彼女も吉良と同様に、立ったまま同席することとなった。
吉良が横目で見ると、彼女はどこかホッとした表情を浮かべていた。明らかに疲労が隠せない顔色をしている。それと対照的に、菜月は先程と変わらず堂々としていた。松ヶ根とミラー越しに覗いていた時から、少なくとも二時間以上経っている。その間ベテランの取調官によりあらゆる角度から、何度も質問をしたり雑談をしたりしながら追及を受けて来たはずだ。
それでも彼女は、当初の主張を曲げずにいるらしい。十二歳にしてそのような度胸を持ち続けられるのは、余程強い精神力がなければ無理だろう。またはそれだけ、確固たる自信と信念を持っているとしか考えられなかった。
さて彼女はどう出るか。吉良は息を呑んで松ヶ根の第一声を見守っていた。対峙する彼女は、突然強面の中年男性が顔を出したことに一瞬怯んだ様子を見せた。しかし直ぐに態勢を立て直し、どんな質問が来るのかと身構えているようだ。
そんな状況の中で、彼が口を開いた。
「急にこんなおっさんが来て驚いたかもしれないが、心配しなくていい。君は正直にありのまま話してくれさえすればいいだけだからね。早速本題に入ろう。九竜一久が、先程君との肉体関係を認めたよ。その事をネタに脅され、フットカバーや被害者の持つ電波時計を、君に渡したことも白状した。妊娠したと告げられたこともね。すでに説明されていると思うが、君には病院で検査を受けて貰う。彼の話によれば、君は出会い系サイトで他の男から乱暴な目に合っているようだから、その検査も必要だ。そこで明らかになると思うが、妊娠しているというのは嘘だね」
彼女はあどけない表情を歪めて言った。
「嘘も何もあのお爺ちゃんとは、そんな関係じゃないから妊娠なんてする訳がありません」
「では彼を脅し、二人の関係を知って別れさせようとした被害者が邪魔になり、アリバイ工作までして殺した事は認めるね。もちろん彼は自白したよ。これは嘘じゃない」
彼女はすぐに否定した。
「そんな事はしていません。あのお爺ちゃん、余りのショックにボケちゃったのかな」
「そうではない。彼はようやく気が付いたんだ。自分がどれだけ愚かな事をしてしまったのか、悔いていたよ。だから九竜家の名が傷つこうとも、会社に迷惑が掛かることも覚悟して本当の事を話してくれた」
今度は膨れた顔をして、首を横に振った。
「あり得ません。どうしてそんな事を言い出したのですか。警察が強引に嘘をつくよう、暴力でも振るったんじゃないですか」
「そんな事はしていない。被害者が亡くなっても遺産は手に入らないと知って、ようやく我に返ったのだろう。君との関係を黙り続け、計画殺人の共犯者であることを隠しても無駄だと判ったからだ。君は彼から遺産相続に関して、色々と教わったそうだね。それなら判るだろう。何故久宗氏が死んでも、遺産が父親の手に渡らないか」
そこで一久に告げた内容を彼女にも伝えた。念の為スマホのネットで検索し、相続関係を解説している個所が記されている画面を彼女に見せた。その上で諭すように言った。
「おじさんの言っていることが判るかい。これは嘘じゃないよ。だから被害者が殺されたというのに、奥様が葬儀にも顔を出さず帰国しなかったんだ。君だって、おかしいと思わなかったかな。例えば君のお父さんが、誰かに殺されたとしよう。そうしたらお母さんはどうする。涙を流して、早く犯人を掴まえてくれと我々警察に抗議するのではないかな」
彼女は突き付けられた事実を受け止められないのか、じっと画面を眺めていた。その顔付きは、明らかに先程まで持っていた余裕を失っていた。ようやく現在自分が置かれている状況を把握したのだろう。
しばらく経って大きく息を吐いた後、開き直ったかのように態度ががらりと変わった。
「あの人はそんなこと、しないよ。保険代理店に勤めているせいか、生命保険にかなり加入しているって言ってたから、死んでくれた方が喜ぶんじゃないかな。たくさんお金が入るし、これ以上世話をしなくて済むんだったらホッとするでしょ」
どうやら彼女の本性が現れてきたようだ。松ヶ根はそのまま話を続けた。
「君もそう思うのかな。経済的に困らなくなれば、学校にも通い続けることができる。そうすればパパ活や売春で、お金を稼がなくても済むからね」
彼女は唇を噛むように、顔をしかめながら言った。
「そうよ。お金さえあれば、こんな思いをしなくて済んだのに」
「こんな思いとは、どんなことかな」
「おかしな男に無理やり押し倒されて痛い思いをしたり、あんな爺さんの相手をしたりしなくて済んだのよ」
「好きでやっていたわけじゃないってことかな」
彼女は机を叩いた。ここまで興奮した感情を見せたのは、今回の取り調べで初めてだ。
「当たり前でしょ。どうして自分の体を売ってまで、お金を稼がなくちゃいけないのよ。これも全部、あいつらが悪いんだ」
それでも彼は淡々と質問を続けた。
「それは体を壊し、会社に通えなくなった君の父親や、代わりに家計を支えることになった母親の事を言っているのかな」
「そうよ。小さい頃から勉強しなさい、いい学校に行けば将来必ず役立つって言われ続けてきた。お父さんもお母さんも、いい学校を卒業していい会社に入ることが出来たから、高い給料が貰えるようになったんだってね。それを信じて言われた通り一生懸命頑張って、今の学校に入ったのに。それが会社に行けなくなって、一日中部屋に引き籠ってしまったのよ。体を壊したっていっても、ガンになったとかなら判るけど、そうじゃない。精神的な病気だとか言っているけど、結局会社の仕事についていけなくなっただけじゃない」
彼女による両親への不満が爆発した。母親も結婚する前は、大手の保険会社に勤めていて給料は良かったというが、今は違うじゃないかとも言いだした。父親の代わりに家を支えられる程、稼いでいないと馬鹿にし始めたのだ。
余所の会社に買収されてしまうような、小さい会社の事務員にしか過ぎないと判ったからだろう。いい学校を出ていい会社に入ったら、お金がたくさん貰えて将来安泰だなんて嘘ばっかりだと彼女は怒りだした。それなのに金の心配はしなくていい、学校の勉強についていけるよう塾通いは続けろと言い聞かされた事に、我慢ならなかったようだ。
しかしこのままだったら暮らしていけない、菜月の学校も辞めさせなければならなくなると、両親はしょっちゅう喧嘩していたようだ。そのくせ今までの生活レベルは下げたくないからと無理している親達を、心の底から軽蔑していたと吐き出すように言った。
「だから自分で何とかしようと思ったのか」
一度話し出すと、止まらなくなったのだろう。堰を切ったように彼女は喋り続けた。
「そうよ。私だってせっかく入った学校だもの。辞めたくなかった。お金さえあれば、大学まで行ける。授業についていくのは大変だけど、学歴があったってあいつらみたいになるんだったら、無理して勉強する必要もないしね。だったら今の学校に居続けて、大学まで進んだ方がまし。その後にお金持ちの人を見つけて、結婚すれば良いんだから。お嬢様学校としても有名だし、うちの大学を卒業した子なら、そういう人達の受けもいいって言うからね。下手に自分で稼ごうなんて、思わなくてもいいでしょ。お父さんみたいなサラリーマンじゃない、倒れてもお金に困らない人と結婚すれば、将来は安定じゃない」
「だから九竜一久と知り合って、この人だと思ったのか」
「そうよ。条件にピッタリじゃない。最初は抵抗があったけど、だんだん慣れてきたし。それにもうお爺ちゃんだから、そう長生きもできないでしょ。私が高校を卒業する頃まで我慢すればいいんだから。そうすれば、一生生活に困らないと思ったの」
「しかし話を聞いているうちに、そうじゃないって判ってきた。そこで相続について勉強したんだね」
彼女の気持ちが落ち着いてきたのか、徐々に声が小さくなった。
「最初は、意味が判んなかった。お金がないってそんな訳ないって言ったら、説明してくれたの。それで本当だと理解できた。お金持ちも楽じゃないのね。色々面倒なことがあるんだって、いい勉強になったよ」
ここが勝負どころだと思ったのだろう。彼は核心に触れ始めた。
「だったら判るね。いくら正当防衛で殺したと言い張っても、君が九竜家の持つ莫大な資産を受け取る可能性はゼロだ。せいぜい九竜一久が持っている金を、脅し取るしかできない。だが彼が殺人の共犯を認めた今となっては、それも無理だ。君と肉体関係を持ったことも自白している。刑務所に入れられるだろう彼から、お金をむしり取ることは不可能だ。お金の管理は、残された家族や弁護士達がすることになる。罪を告白した以上、脅迫する意味もない。君に金を支払う必要など無くなった。いくら君が否認しても同じだよ」
「なんで言っちゃうかなって思ったけど、そういう事ならしょうがないね。私が妊娠なんかしていないから、ごまかせるって思ったんだけどな」
吉良は心の中で、これはいけるとこぶしを握った。だが彼は慎重に質問を続けた。
「やはりそうか。だけど九竜一久には妊娠したと嘘をついた。そうだね」
意外にも彼女はさらりと認めた。
「そう。初めは驚いて困っていたけど、本当に自分の子供が出来たら嬉しいかもしれないって、段々と思い始めてくれたの。ラッキーだと思った。何度も関係を続けていれば、本当に妊娠するかもしれない。そうすれば、もう一生苦労することなんてないからね」
「しかしそこに邪魔が入った。久宗氏に二人の関係がばれたんだな。なんて言われたんだ」
「別れろって。妊娠も嘘だろうって言われた。こっそり調べていたみたい。でも妊娠は本当だ、絶対別れない、これ以上そんな事を言うなら二人の関係を世間にばらすって脅してやったの」
「それでどうなった」
「最悪の場合、それもしょうがないって。父親は逮捕されるだろうけど、それだけの事をしたのだから、罪は償う必要がある。私みたいな子供に手を出したんだからって、すごく怒っていた。あと公にする事は覚悟しているけど、そうなったら私の将来に傷がつく。出来れば穏便に済ませたいって言われた」
この辺りは一久の供述とも一致する。松ヶ根はさらに尋ねた。
「それで君は、なんて答えたんだ」
「穏便になんて、済ませられない。十二歳以下の子と肉体関係を持ったんだから、ただで済むはずがないでしょって。それ相応のお金を貰わないと駄目だって言ってやった。慰謝料ってやつ? そういうのが必要じゃないのって」
「久宗氏は、何て答えた」
「いくら欲しいんだって聞かれたから、私や私の子供が働かないでも一生困らないだけって言ったら、それは脅迫だってまた怒られた。それ相応の罪には問われるだろうし、慰謝料も払うことになるけど、多くてせいぜい数百万円程度だって。だからそんな大金が支払われることはないって断られた」
彼は容赦なく追及を続けた。余り追い込み過ぎると逆効果ではないかと、吉良はハラハラしながら聞いていた。
「そう言われて、君はどう思った」
「この人は邪魔な人だと思った」
「それで、どうしようとしたんだ」
「この人が今死ねば、遺産の三分の一がお爺ちゃんの手に入る。そう以前に教わっていたから、死んでくれるといいなあと思った。でも結局無駄だったんだね」
「それを知っていたとしたら、君はどうしていた」
「判んない。でも殺そうとまでは、思わなかったんじゃないかな。持っていないとは言っても、お爺ちゃんだって私に払う程度のお金はそれなりにあったからね。面倒くさいけど粘れるところまで粘って、もう無理だと思ったところで慰謝料を貰って別れていたかも。私だって売春していたことがばれたら、学校を退学になっちゃう。それにその後もここでは住めなくなると思うし。一生困らないお金が入らないなら、危ない橋は渡れないでしょ」
やはり三郷が悔やんでいた通りだった。遺言書を破棄したのが、確か事件の起きる二か月程前だったはずだ。その時に事実を公表していれば、今回のような悲劇は起こらなかったことになる。
しかし被害者も、まさかこのような事態になるとは想像もしなかっただろう。事故に巻き込まれたり、急病に罹って命を失ったりする可能性は予測していたかもしれない。だからこそ万が一に備えて余計な混乱を招かないようにと、遺言書を破棄したと思われる。
といってその後、状況が急変することも十分あり得ると危惧したはずだ。よって慎重を期し、全て無事に終わるまで公表を差し控えることにしたのだろう。よって九竜夫妻以外で唯一事情を知らされていた三郷にも、秘密厳守を言い渡したに違いない。
決して彼らの判断が間違っていたと、誰も責めることは出来ないだろう。ただそれが仇になったことは確かだ。最も不幸だったのは、今の目の前にいる寺内菜月という恐ろしい人物に、一久が出会ってしまったことかも知れない。
しかし彼もこんな小学生の小娘の心の奥に、恐ろしい悪魔のような人格が潜んでいるとは思いもよらなかっただろう。出会い系サイトでは危険を伴うことなど、吉良自身もそれなりに理解している。だが今回のような場合も起こり得るとなれば、今後手を出すことは辞めようと、こっそり心の中で誓った。
松ヶ根はやけくそになったと見える彼女の様子から、真相を聞き出すことが出来ると踏んだらしい。質問が具体的になり出した。
「今真実を知っていたら、殺そうとまでは思わなかったと言ったね。つまり知らなかった君は邪魔になった久宗氏を、計画的に殺した。そうだね」
「あれは正当防衛だって言ったじゃない」
まだ惚けるつもりらしいが、その声はこれまでより明らかに弱弱しく、自信の無い呟きにしか聞こえなかった。あわよくば逃げたいと思う気持ちが、まだどこかに残っているのだろう。だが彼はそれを許さなかった。
「被害者に犯されそうになった、とあくまで言い張るつもりかな」
「そ、そうよ」
「それはあり得ない。何故なら被害者は、それが出来ない体質だったからだ」
「どういう意味?」
「ED、つまり男性機能が失われていたんだ。九竜一久は八十三歳と高齢ながら、性行為ができる機能を備えていた。だから君と関係を持てたんだよね。それが無ければ、妊娠をしたなんて、脅す話もできないだろう。だけど被害者夫婦はかつて、子供を産もうと必死に努力した。そうしたことがストレスになったのだろう。性行為が出来ない体になってしまった。だから君を犯そうするなんて、できるはずがなかったんだ」
彼女は信じられなかったらしい、首を横に振りながら言った。
「子供を産むのに苦労したとは聞いていたけど、そんな話、お爺ちゃんから聞いていない」
「本当だ。これはほんの一部の人しか知らない事実で、父親にも黙っていたらしい。まあそういうことを、わざわざ親に告げる必要などなかったからだろう。診断書も出ているから間違いない」
「そんなことってあるの?」
彼女の問いに、彼は優しい口調で答えた。
「EDは四十代の男性でも五人に一人いると言われる程、身近な疾患だ。ましてや不妊治療なんてストレスのかかることをしていたなら、そうなってしまう確率はさらに高まるだろう。確か君の両親も、かつて不妊治療をしていたようだね。その苦労が実って、君が生まれたんだ。そんな話は聞いたことが無いかな」
話が自分自身の事に及んだからか、彼女は戸惑いながら言った。
「産むまで大変だったと聞いたことがあるけど、詳しくは知らない」
「君のお母さんは気付いていないらしいけど、今同じ職場で働いている人が二十年程前に同じく不妊治療している時に会ったことがあるらしい。その人は二年前に偶然再会し、子供がいると聞いて我が事のように嬉しかったそうだ。何故ならその人は、子供を産むことを諦めていたから。同じ苦労していた人で、自分が出来なかった奇跡を達成したことに、喜びを感じたんだろうね。当たり前のように捉えている人も多いようだが、実際に子供を産むということは、大変なんだよ」
そう言われて何か心当たりがあったのか、彼女の表情が変わった。俯いて何か考え込み始めた。それでも松ヶ根は構わず話し続けた。
「この世に生まれるということは、君も含めて色んな人の思いが詰まっている大事なものなんだ。命が何よりも尊いと言われるのも、そういった背景があるからだろう。だが君は大切な命を奪った。その罪は重い。君は十二歳だから、刑務所や少年院に入ることはないだろう。しかしこれまでの同様な事件から考えれば鑑別所に入り精神鑑定を受けた後、自立支援学校などへ入ることになる。もちろん今の学校も、辞めなければならないはずだ。君があくまで正当防衛を主張し一久氏との関係を否定したとしても、似たような処遇を受けるだろう。それならばいっそ、全てを正直に話した上で現実と向き合い、更生の道を歩むべきなんじゃないかな」
しばらく間を置いて、顔を上げた彼女は軽く頷いた。どうやら今度こそ観念したらしい。そこで間髪を入れず、質問を投げかけた。しかし口調はさらに柔らかくなっていた。
「ではあなたが、九竜久宗氏を計画的に殺害したことは認めますね」
「はい」
彼女が素直に認めた為、危惧していた事態は杞憂に終わりそうだ。吉良は胸を撫で下ろす。だがまだ油断できない。よって引き続き動静を見守った。
「それでは事件当夜、どのようなことが起こったのか教えてくれますか」
「あの日、あの人とあのビルで十時半頃に会う約束をしました。以前からもう一度会って話がしたいと何度も言われていたので、その場所を指定しました」
「何故、あの場所を選んだのですか」
「あの場所の近辺には防犯カメラが無いことを、以前からお爺ちゃんに教えて貰っていたからです。いつも家と反対方向にあるあの場所の近くで待ち合わせをして、近くにある蔵で会うようになったのはその為です。そこであのビルの中なら、人に見られなくて済むだろうと思いました。中に入る為のカードキーを母が持っていることも知っていたので、使えると考えました」
今のところ順調だ。生意気な口調でなく、ですます調に変わったことからも判る。
「あの部屋を犯行現場に選んだ理由は、他にありますか」
「あの場所は二年前まで、母が仕事で通っていた事務所です。私も学校帰りなどで何度か入った事がありました。その後事務所が別の場所に移ってから、倉庫として使われるようになったと聞きました。また主にあの場所を、母が管理をするようになったことも知っていました。そこでもしあの場所で事件が起これば、母が真っ先に疑われると考えました」
「母親に疑いの目が向けられるから、あの場所を選んだということかな」
「それも一つです。まさか愛莉のお母さんと長電話していて、アリバイが成立するなんて思わなかったから」
「それほど君は、母親を憎んでいたのかな」
ここで再び怒りの感情が湧いてきたようだ。彼女の口調が再び荒れ始めた。
「大っ嫌い。家も近いし、警察から疑われて相当辛い目に遭うだろうと思っていたのに、アリバイがない別の人が疑われるなんて計算が狂っちゃった」
「母親が疑われていたとしても、実際にはやっていない。そうすると君が疑われるとは思っていなかったのかな」
「他にもカードキーを持っている人がいるって聞いていたから、私が疑われるまでは時間がかかると思ってた。でもその時の為に証拠を残さないようにしたし、万が一捕まっても正当防衛だったって言い張れば、通用するように計画したの」
「だから足跡を残さないようにフットカバーを手に入れ、被害者のパンツを脱がすような細工をしたんだね」
「うん。他にも髪の毛が落ちたり、返り血を浴びたりして困らないようにもした」
「それはどうやったのかな」
「レインコートを着て、全身を覆ったの。そうすれば、あの部屋にある水道で血を洗い流せると思ったから。実際にそうして洗剤でも綺麗に洗った後に外へ出て、コートを脱いで使っていた手袋や何もかもと一緒に、用意していたビニール袋へ入れて捨てた」
「どこに捨てたのかな」
「家に帰る途中にある、マンションのゴミ捨て場。あの日は木曜日で、翌日の金曜の朝には燃えるゴミの回収だったから。夜中から捨てている人もいるし、特に目立たないと思ったの」
レインコートとは考えたものだ。しかもすぐ回収されるように考え、捨てる日を計算した計画だったとは恐れ入った。しかもあれから二週間以上経っている。現在懸命に探している鑑識や捜査員が、痕跡すら見つけられないのも頷けた。
「翌朝までに死体は発見されないと思っていたから、そうしたのかな」
これには意外な答えが返ってきた。
「違う。計画だと直ぐ警備会社の人が駆け付けて、死体は発見されるはずだった。それでも現場からはそれなりに離れた場所へ捨てたので、朝までに見つかることは無いと思ったから。凶器は現場に置いたままで、夜中だし警察もそれ程真剣に周囲の捜索まではしないと考えたの。財布や携帯は持ち去ったけど、近くに捨てただろうなんて考えないでしょ」
「なるほど。携帯も財布もそこに捨てたんだね。何故その二つを盗んだのかな」
「私と連絡を取っていたことが直ぐには判らないようにする為と、ついでにお金も欲しいと思ったから」
「じゃあ財布の中身は盗んだのかな。いくら入っていたか覚えているかい?」
「二十万円くらいかな」
「その金はどこにある?」
「自分名義の通帳に入れた。貰ったお年玉などを預ける為に、母親が作っていたので。こっそりカードを借りて、ATMで入金した」
「もしかしてこれまで稼いでいだ金も、そこへ預けているのかな」
「そう。母親が見ることはまずないので、預けておいた方が安全だから。ただ年が明けて入金する時にばれちゃうので、その時には今年から自分で管理するとかなんとか言って誤魔化すつもりだった。でもこうなったら、そんな必要もないね」
お金を盗んだとなれば、ただの殺人では無く強盗殺人となり、本来は罪が重くなる。ただ彼女の場合は、あまり関係がないかもしれない。ただ売春でお金を稼いでいた事や、お金を盗んだ証拠にはなるだろう。
「なる程。ところで計画では、直ぐに死体が見つかると思っていたと言ったね。なのに何故か翌朝になって発見されたと聞いて、どう思った?」
「半分ラッキーで、半分は計画が狂ったと思った」
「それはどういう意味かな」
「あの事務所のカードキーは、ビルの最終退出者になった場合とか色々操作方法があると知っていたけど、複雑で良く判らなかったから。もしセットし忘れると、警備会社の人がすぐに駆け付けるとは聞いていたし。だったらすぐ見つかってもいいように、わざとロックしないで出たから」
「何故すぐ見つかるようにしたのかな」
「色々本やネットで調べて、いつ殺されたかは死体の死後硬直や死斑、死体の直腸温度なんかを確認して特定すると判ったから」
しかし死後硬直は、早くて死後三十分から一時間で下顎から始まる。しかもその時の周囲の温度が高かったり筋肉質の人だったりすると、早くなる傾向があった。また腸内温度も発見が早すぎると、それほど変化しない。
そこで事前にエアコンを付け部屋の温度を上げておけば、正確な犯行時間は割り出せないと思ったらしい。また現場で運動すれば、余計に早くなることも調べていたようだ。死斑も急死した場合、失血死等の場合や周囲の温度などによって変わる。そこで電波時計に細工しておけば、アリバイ工作も可能だと思いついたという。
これは以前松ヶ根が予想していた通りの方法だ。しかしそれが十二歳の子でもできる世の中になったかと思うと、吉良は鳥肌が立った。
「だから犯行予定時刻より前の八時半から二時間程の間のアリバイを、九竜一久と一緒にいることで作ったんだね」
「そうすれば共犯にもなるから。万が一私が犯人だとばれた後も、正当防衛だと言い続けて肉体関係が無かったと言い張るので、口裏を合わせるようにとも言ったの」
「そうしておけば、必ず言う事を聞くと思ったんだね」
「うん。実際にフットカバーや電波時計を手に入れたのも、お爺ちゃんだから」
「電波時計は、どうやって狂わせたんだ」
「これも何かで読んだ。スマホのアプリで電波時計の時刻を合わせることが出来ると知って、事前に入手するようお爺ちゃんにお願いしたの。何度か試して出来ることを確認した後、あの事件の夜に米蔵でいた時に一時間ほど狂わせた。彼を殺した後にそれを腕に嵌めて壊しておけば、死亡時刻には二人共アリバイがあると証明できるから」
実際に東日本大震災が起きてから、電波受信ができなくなった時にそうした方法で時間を調整したとの話を聞いた事がある。確か電波時計の種類によって異なるようだが、音声信号で操作できるものがあるらしい。
現に被害者の嵌めていた時計のように、手動で操作できない種類のものには有効だったようだ。おそらくそうしたものを使ったのではないかと松ヶ根は予想し、本部では被害者が嵌めていたものと同じ時計で実験を行い、既に成功したとの報告も受けている。
被害者は数種類の腕時計を持っていたようだから、偶然では無いのだろう。そうした操作のできる種類の電波時計を持っているかどうかを調べ、使えると判ったからこそアリバイ工作に利用したようだ。
当初は計画的でありながら、どこか杜撰さが感じられると思っていた。しかし実際の彼女は何重にも張りめぐらして、死亡推定時刻を狂わせようと考えていたのだ。それなのに警備員の犯した過ちにより、当初の計画とずれて違和感が残る結果となったのだろう。
それに事件のあった夜、時間は不明だが蔵から奇妙な音が聞こえたと、三郷は証言している。おそらく電波時計を狂わす際に出された、スピーカーから出たものだろう。実際鑑識が蔵の中を捜索しているが、そこに音響関係の器具が置かれていたことも確認が取れていた。その上彼女のスマホを調べ、削除していた検索履歴を復元したところ、彼女説明したように、事件に関する様々な事柄を調べていたことも判明している。
「エアコンは九竜一久と待ち合わせた八時半より前から、事務所に入って点けたんだね」
「うん。二時間後には、かなり部屋の温度が上がっているようにした」
「それにしても被害者は六十歳とはいえ、しっかりとした体格をしている。隙をついたのだろうが、良く殺せると思ったね」
「だから私を説得しようとしていたあの人の言う事を聞かず、レインコートを着たおかしな格好で走り回ったの。運動神経と足には、自信があったから」
「そういえば、君は学校でバスケ部に所属していたんだったよね」
「六年生だから夏に引退したけど、レギュラーだった。力では負けると思ったけど、父親より年上の人ならフットワークでかき回せば、何とか油断させられると思ったの」
「それでどうなった?」
「あのおじさんも最初は呆れていたけど、埒が明かないと思ったんじゃないかな。途中で怒りだし、追いかけてきた。そうなったらこっちのもの。まさか私に刺し殺されるとは、想像もしていなかったんじゃない。あの事務所に置いてあった千枚通しとハサミを事前に隠し持っていた私は捕まる寸前でしゃがみ込み、思い切ってぶつかるように刺した。驚いたあの人は倒れたので後は馬乗りになって、動かなくなるまで何度も突き刺した」
事実その通りになったのだから、大したものだ。事前にそうであろうと想定していたが、目の前で供述された事に、松ヶ根も戸惑ったのだろう。少し間をおいてから尋ねた。
「それも事前に、準備していたのかな」
「そう。学校の備品の中に、古い千枚通しがあるのを見て思いついたの。あの倉庫にもあったと思い出したから。珍しくて印象に残っていたの。それで学校の物をこっそり盗んで、近くの公園にある木にぶつかって刺す練習を繰り返した。冬なので相手も分厚い服を着てくるだろうから、それを突き抜くだけの勢いがなければ難しいと思った」
確かに彼女の家と現場との間を調べていた鑑識達の報告の中で、間にある公園の中の木が何かで削り取られた奇妙な痕跡を見つけたというものがあった。どうやらそれが彼女のいう、事前準備の跡だったらしい。
「ビルではその時間、上の階で仕事をしていた人がいたはずだ。よくそんな事ができたね」
「本当は大抵あの時間なら、ビルの人達は皆いないはずだった。でもあの日だけ何故か明かりがついていたの。でも一番上の階だったし、閉め切っていれば音は漏れないと思った。古いビルだけど、それなりに防音はしっかりしていると母から聞いた事があったから」
「そこは計算違いだったんだね」
「目撃される恐れもあるので、日を改めようとは思ったよ。でもあの人とは何度も会うことは出来ないし、もう一度やり直すには面倒なので思い切って実行したの」
ここまでの彼女の供述には全く矛盾が無い。ただ実際に彼女が殺したという物証が見つかる可能性は、かなり低いだろう。よって本人による自白と状況証拠でしか立証は出来ない。いや例えそうだとしても、彼女を刑事裁判にかけることは出来ないのだ。
それを判った上で、真実を話しているのだろう。事件現場における状況は、彼女しか知り得ない。今のところ嘘をついているとは思えない為、そう信じるしか無かった。それでもこれまで頑なに否認し続けていた彼女が、これほど多弁になるとは意外だ。何か裏があるのだろうかと、思わず勘繰りたくなってしまう。
後は細かい点を、松ヶ根は再度確認した。
「被害者の葬儀の際、九竜一久に騒ぎを起こさせて遺産目当ての親族が怪しいようにしむけたのも、君からの指示だったのかな」
「うん。警察がアリバイの無い親族を疑っていると聞いていたから、利用しようとしたの」
「アリバイ工作についてだけど、九竜一久があの蔵に入った様子を、君はスマホに記録していた。二人の関係が明らかになるまで隠し、必要となった時の為に撮っていたのかな」
「そう。事件の後に彼からお金を貰う為にも、残しておいた方が良いと思ったから」
「脅迫のネタとして、だね。だけどあの時二人が蔵に入っていき、その後出て行く姿を見ていた人がいる。その人がもっと早く警察にその事を証言していれば、すぐに君は疑われていただろう」
彼女は驚いたらしく、目を見開いて言った。
「そんな人がいたの? だったらどうしてその人は、今まで黙っていたの?」
「それは君の事を守ろうと思ったからだよ。当初事件が起こったと思われる時間のアリバイは成立していたから、黙っていれば淫らな関係にある事を隠せると思ったのだろう」
「何故そんなことを? 誰だろう。私の事を良く知っている人?」
「良く知っているとは言い難い。だが君の母親と同様に、子供が欲しいと強く願っていた人だ。彼女が掴めなかった宝を、君の母親は手に入れた。それを守りたいと思ったらしい」
彼女は気付いたらしく、急に丁寧な言葉遣いに戻った。
「さっき言っていた、お母さんが不妊治療をしていた時に同じ病院で見かけた人、ですか。その人って、アリバイが無いから最近まで疑われていた人ですよね」
「そうだ。彼女は二人が蔵に入ってから出て行くまでの様子を、ドライブレコーダーで撮影していた。そこには運転席に座っていた彼女自身も映っていた。それを警察に提出していれば、少なくとも実行犯で無い証明はできただろう。だけど彼女は疑われても良いとまで覚悟し、最近までそれを隠していた」
「私を守る為、ですか。何故そんな見知らぬ人が、そんな余計な事までしたのですか」
彼は再び静かな口調で、言い聞かせるように語った。
「それ程子供というのは、この世における大切なものだという事だよ。少なくとも彼女はそう信じていた。しかしアリバイ工作されている可能性が浮上し、君が犯人かもしれないと気付いた彼女は悩んだ挙句、真実を話してくれたんだ。それは被害者がその人にとって、大事な顧客だったからだけじゃない。君の将来を考えての事だと思う。尊い命を奪ったのなら、その罪を償わなければ、決して幸せな人生を送る事など出来ない。君にはまだこれから長い未来が待っている。その一刻一刻を大切に過ごして欲しいと、彼女は心から願っていた。だからこそ君に自白を促すよう、隠していた事実を明らかにしてくれたんだ」
「そう、なんですね。でももっと早く知っていれば、ここまでの事はしなかったのに」
「それは彼女も悔やんでいた。しかしだからと言って、彼女を責めるのは間違いだ。過ちを犯したのは、あくまで君であり九竜一久だ。二人共が愚かな考えを持たなければ、このような悲しい事件を起こすことは無かった。自分達だけの人生だけじゃなく、被害者の遺族はもちろん、君達の親や周囲にいる多くに人を傷つけ、迷惑をかけたんだ。今後君にどのような判断が下されるか判らない。けれど犯した罪について、もう一度真剣に向かい合い反省して欲しい。そうしなければ、君はさらに不幸な人間を生み出すことになる」
彼女は深く頷き、うっすらと涙を浮かべた。それが本当に、心から悔いた事によるものだと信じたい。だが起こした罪の大きさと身勝手さや残虐性、計画性を顧みた時、吉良は素直にそう思えなかった。
「やはりこちらにいらっしゃいましたか。お二人に会って話がしたいと、三郷真理亜が本部に来ています。彼女はお二人が担当されている、重要参考人の一人でしたよね」
「彼女が? 判った。どこで待たせている?」
松ヶ根の問いに、彼が答えた。
「一階の待合室です。どこか別の部屋に案内しますか」
「できれば、空いている会議室があれば良いな。わざわざ向こうから来たんだ。何か重要な話があるに違いない。せっかくだから、じっくりと話せる場所があれば助かる」
「今なら二階の会議室が、開いていたと思います。そこで良ければ、お二人がお待ちいただいている間に、私が部屋まで連れてきます」
「よし、頼んだ」
三人で空いている会議室を確認した後、彼はすぐに一階へと降りていった。吉良達は部屋に入り、置かれていた長机と椅子をセットし直す。話がしやすいように場所づくりをした後、腰を降ろして彼女が来るのを待った。その間吉良は松ヶ根に言った。
「彼女はどんな話をする為に、わざわざ来たのでしょうか」
「う~、おそらく一久と菜月が、警察から本格的な取り調べを受けていると耳にしたのだろう。一久には松方弁護士が付いている。菜月の方も、寺内の関係からPA社を通した弁護士が、今後の対応窓口になるらしい。彼女はその両方から、情報を得たのだろう」
吉良は思わず首を捻った。
「菜月の弁護を、PA社から依頼したんですか。何故そんなことを」
「母親が社員だからだろう。しかも事件自体が、う~、会社が借りていた物件で起きたんだ。社員とその身内が関係しているとなれば、事の成り行き次第では会社のイメージダウンにも繋がる。その危険を少しでも回避する必要があると、判断したのかもしれない」
そうしている間に、部屋の扉をノックする音と、先程の捜査員の声が聞こえた。
「三郷真理亜さんをお連れしました。今、よろしいですか」
「入って貰ってくれ」
松ヶ根の指示に従い、彼は扉を開けた。その後ろに、彼女の姿が見えた。俯き加減だったが、これまでと違って気落ちしているかのようだ。もしかすると、もう一人の人格で現れたのかもしれない。
二人も立ち上がり、彼女を迎え入れた。部屋には一人だけが入り、案内してくれた捜査員は頭を下げ、そのまま去っていった。松ヶ根が気を効かせ、彼女を招いた。
「わざわざ来て頂いて、申し訳ありませんね。どうぞそこの椅子におかけください」
吉良がドア側で、窓際に席を取った彼との間に彼女を座らせた。二人も腰を下ろし、少し間を置いてから彼は言った。
「私達に何か話があると聞きましたが、どういったことでしょうか」
彼女は顔を上げて言った。
「一久氏と菜月ちゃんが、取り調べを受けていると伺いました。久宗氏を殺害したのは、彼女だったのですか。一久氏はその共犯だったのですか」
吉良と目を合わせた彼は、首を振った。
「それは現在取り調べ中ですから、お答え出来ません。それより我々に質問をする前に、あなたは話すべきことがある。違いますか」
単に事件の情報を聞きに来ただけならば、帰って貰うしかない。だが彼女は未だ何かを隠している事は確かだ。彼は当初からそれが、今回の事件における鍵になるかもしれないと言っていた。よってその事を口にしない限り、こちらから現在の状況は教えないという態度を見せたのだろう。
その意味を理解したのか、彼女は口を開いた。
「以前ご指摘を受けた時は認めませんでしたが、おっしゃる通り私は解離性同一性障害を患っております。そう一口で言っても症状は様々ですが、私の場合はいわゆる二重人格です。そうなった原因も松ヶ根さんがご指摘されたように、二つの大きな精神的ダメージを受けたからだろうと、精神科医の先生より診断を受けております。主に今まであなた方とお話させていただいていたのは、主人格の三郷です。今ご説明しているのはもう一人の私ですが、判りやすいように“マリア”とでも呼んで頂ければ結構です」
やはりそうだったのか。松ヶ根が気付いてからそうなのだろうとは思っていたものの、実際に本人の口から認める証言が出た事に戸惑った。しかも何となく感じ取っていた第二の人格が、今話をしているとの告白にも驚いた、吉良の勘は当たっていたらしい。
しかし彼は、動じずに対応した。
「正直にお話頂いて、有難うございます。それではマリアさんにお伺いします。あなたと三郷さんとの間では、意思の疎通ができていると考えて宜しいでしょうか」
「はい。今こうして話している間も、三郷の意識はあります。よって二人の記憶は互いに共有しており、もう一人の人物が知らない間に勝手な行動をする等ということは、未だかつてありません。もちろん今回の事件について、私や三郷のどちらも関係していなかった事は、既に証明されていると思います」
「というのは、どう言う意味でしょうか?」
「先日提出したSDカードで、アリバイが証明された私には久宗氏を殺すことは出来ません。さらに今回菜月ちゃんが事情聴取を受けている事で、彼女が寺内さんのカードキーを使ったことは明らかでしょう。それとも彼女はその事について、否認しているのですか」
一瞬躊躇していた彼だが、先程と同様に首を振った。
「現在取り調べ中の内容に関して、お話することは出来ません」
彼女は少し落胆したように見えたが、直ぐに気を取り直したのか話し出した。
「私がいけないのです。自分のアリバイ証明になるSDカードの提出をしないよう三郷を説得したから、重要参考人となって何度も刑事さん達の手を煩わせることになってしまいました。申し訳ございません」
「なるほど。やはりもう一人の人格が寺内菜月を庇おうとして、SDカードの提出を遅らせたのですね。決して一久が写っていたからでは無かった」
「はい。当初は彼女が一久氏と良からぬ関係にあると、二人を見た瞬間から気付いていました。それが公になることを、私は恐れたのです。三郷は九竜家の名誉を守る為と、事件とは関係ない事だと判断し、問題ないと考えて同意してくれました。しかし犯行時間が一時間遅れる可能性があると聞いてからは、明らかにあの二人の行動がおかしいと思いました。彼らが蔵から車で出た後向かった先は、彼女の家と反対だったからです。しかも、事件があったあの事務所のある方向でした。そこでもしかすると、事件に関係しているのではないかと疑い始めました。でもまさか彼女が、と思っていたのも事実です」
「そうですか。しかし何故今になって、二重人格の事を告白しようとされたのですか」
「菜月ちゃん達が捕まったと聞いて、もう隠し事をしている場合では無いと気付いたからです。事件を解決させる為には、私が知り得る全てを話す必要があると思い直しました。信じて頂けますか」
「もちろんです。三郷さんは何かを隠していらっしゃいましたが、嘘はついていなかったと思います。同様に今のマリアさんも、そのようには思えません。お前はどうだ」
急に振られたが、強く頷いた。また演技する必要もないと考え、口調を元に戻した。
「嘘だとすれば、後で直ぐにばれるでしょう。そんな事を、頭の良い三郷さんがするはずありません。あとマリアさんが言っている事も、筋は通っています。子供が関係していたから、寺内菜月を庇ったのですね」
チャラ語を話さない吉良に一瞬戸惑っていた彼女だが、静かに首を縦に振った。
「はい。どうしても子供を産めなかった私にとって、彼女の事は守りたいと思いました」
そこで彼女は不妊治療している際、同じく治療を受けていた寺内と会った事を話してくれた。その説明を受け、何故彼女が顧客を殺したと疑われる危険を犯したのかという理由が、ようやく腑に落ちた。
そこで松ヶ根が質問をした。
「ところでもう少しお伺いしたいのですが、宜しいですか。ちなみに今は、三郷さんに戻られていますよね」
言われてみれば、顔付きがまた変わっている。当たっていたようで、彼女は頷いた。
「はい。マリアが人前で表に出てくることは、まずありません。私が余程追い詰められていると心配して、出てきたのでしょう。彼女は、私の過去のトラウマが生み出した人格です。そうした経緯から考えれば、ご理解いただきやすいかもしれません」
「なるほど。失礼ですが、いつからマリアさんが現れるようになったのですか」
「離婚する、しないで前の夫と揉めていた頃からだと思います。当初私は気づいていませんでした。しかし後に会社でのトラブル等が原因で体調を崩し、精神科に罹ってしばらく経ってから、解離性同一障害があると医師から指摘を受け初めて知ったのです」
「そうですか。以前お話の中で仕事に支障が無いと仰っていましたし、先程意思の疎通も出来ていると言いましたね。多くの人の場合は別人格になると、記憶が無い場合があるようですけど、あなた達は違うようだ」
「おっしゃる通りです。私達の場合は過去の記憶が抜け落ちたり、異常行動を起こしたりすることはありませんでした。中には知覚の一部を感じなくなったり、感情が麻痺したりする方もいらっしゃるようですね。そうした症状が深刻で、日常生活に支障をきたす状態を解離性障害と言うようですが、厳密にいえば私の場合は当て嵌まりません。何故なら別人格がいることは確かですが、生活をする上で何か支障があったことなどなかったのです。彼女が表に出てきても、記憶は残っていましたから。ただそれが別人格であるとの意識が無かっただけです。医師によればこういう解離現象は、軽くて一時的なものであれば健康な人にも現れることがあると伺いました」
「医師の診断で気付かれたとなれば、かなり以前からということですね」
彼女は大きく頷いた。
「休職中の頃ですから、もう十五年は経っています。ただ医師によると、それ以前から症状が出ていたはずだと言われました。そこでかつての夫に連絡を入れて確認した所、言われてみれば思い当たる節があるとのことでしたが、それ程酷いものではなかったようです」
「思い当たる節というのは私達が以前見たように、お茶の入れ方が変わるといった日常的な変化があったということでしょうか」
「はい。遡ればもう二十年近くになります。その間で判ったことは、彼女が現れると何故か家庭的になり、料理などが上手くなるようです。本来の私の苦手としていたことでした」
これも医師による見解らしいが、主となる人格は知的で明るく正義感が強いけれど、家庭的でないという。一方の人格は、どちらかといえば暗く物静かだけれど料理等が得意で、他人に細やかな気遣いができるタイプだと指摘されたそうだ。
恐らくそういった真逆に近い人格が表に出るのは、心理的ストレスを強く感じた場合それらを和らげようと、自己防衛本能が働くからだろう。そうすることで、乱れた心のバランスを彼女はこれまで取ってきたらしい。
「そういうケースは、珍しくないのですか」
「稀にあるそうですが、多くはないとのことでした。別人格の現れる間、たいてい記憶は無いらしく、生活上支障をきたす場合がほとんどのようです。それでも私の場合これほど長い間、別人格を出し続けながらも特に支障がないのなら、受け入れて生活しても良いかもしれないと言われました。しかしいつこの症状が悪い方に変化する可能性も、無いとは言えません。よって定期観察は必要だろうと考え、クリニックへは通い続けています」
「今の所は問題ない、ということですか」
「はい。互いの存在を意識し、意思の疎通が取れるようになって十年以上になります。その為どういった場合に現れるか判るようになりましたし、その場合の対処の仕方も今では理解しています。ですから再就職もでき、今まで大きなトラブルを起こすこと等ありませんでした。それにかかりつけの医師以外の方で、別人格に気づかれたこともありません。あなたが初めてです」
「そうでしたか。このことは、敏子夫人も知らないのですね」
彼の質問に、彼女は意外にも首を振った。
「いいえ。九竜夫妻には、自分から説明したのでご存じです。こういう仕事をしていると、かなりプライベートな部分に踏み込まざるを得ないことが多々あります。そうした話題になった際、打ち明けた方が良いと思ってご説明しました。ただこの十年の間で、あの方々が初めてでした。つまりこの事を知っているのは、医師の他には今の所敏子夫人とあなた方だけです」
話を聞きながら、そんなことがあるのかと動揺しつつ吉良は納得もしていた。するとその点について彼は言及した。
「そんな特殊事情まで話すことが出来る程、親密になっていたのですね。信頼が厚かったのは、そういう理由もあったのでしょう」
「そうかもしれません。もしご必要であれば、私が通っているかかりつけのクリニックの医師から、話を聞いて頂いても構いません。診断書も必要だというのなら取り寄せます」
「いえ、今となってはその必要もないでしょう。以前の時点では、まだ実行犯または共犯の疑いが晴れていませんでしたからね」
「という事は、やはり菜月ちゃんが寺内さんのカードキーを使って、あの部屋に入ったことを認めたのですね」
もういいだろうと判断したようだ。彼は頷いた。
「はい。ですからあなたや相原さんが実行犯で無い事はもちろん、共犯の線も消えました」
「実行犯は彼女ですね。一久氏は、利用されただけではありませんか」
「何故そう思われたのですか」
「以前もお話したと思いますが、一久氏が実行犯である訳がありません。久宗氏とは体格も違いますし、いくら隙をついたとしても殺すまでの力は無かったはずです。そうなると可能性としては、菜月ちゃんが実行犯だった場合です。小学生の彼女が相手なら、さすがの久宗氏でも油断するでしょう。それに彼女なら、お金を得る為という動機があります。一久氏と関係を持ち、強請って協力させたのだろうと私は考えました。彼女の家の経済事情は、そちらでも調べられていますよね」
「もちろんです。そこまでお判りなら、お話ししましょう。私達もそう考えています。しかし彼女は殺害自体を認めていますが、故意ではなく正当防衛だと主張している」
三郷は目を丸くして言った。
「正当防衛ですか。もしかして久宗氏に襲われたと言っているのですか」
「そうです。確かに被害者のパンツは下げられていました。しかしそれは彼女による偽装工作だと、私達は睨んでいます」
彼女の口調が、今までになく強くなった。
「どうしてそんな事を。久宗氏が女性を、しかも菜月ちゃんのような子に対して、襲うような真似をする訳がありません。それは断言できます」
「そういえば、以前も久宗氏の女性関係を聞いた時、絶対にあり得ないと言われていましたね。何か根拠がおありなんですか」
彼女は一瞬言葉に詰まった。それでも悩んだ末に打ち明けようと口を開いた。
「久宗氏と敏子夫人の間にお子さんがいらっしゃらないことは、ご存知ですよね」
「もちろんです。色々な取り組みをされたけれど、断念したと聞いています」
「私も経験しているからこそ判りますが、不妊治療というのはとても辛いものです。それは女性だけに限りません。男性にも、かなりの精神的な負荷が掛かります。協力的だった久宗氏もそうだったのでしょう。ある時期からそうした機能が失われたと聞いています」
吉良達は意外な告白に唖然とした。司法解剖の結果からは、そうした所見は出ていなかったからだ。しかも国内における被害者の健康状態を調べても、そうした事実は見つかっていない。
「そうした機能というのはED、つまり性的行為ができなくなったという事ですか」
「はい。精子を何度も採取するという行為が、EDに繋がったのでしょう。ただ精子や卵子を取り出す事さえできれば、体外受精が可能です。それでも失敗に終わった。その時のショックは、相当だったと思います」
「その話を知っていたから、女性を襲うどころか寺内菜月のような子供に手を出す真似などしないと、あなたは断言されていたのですね」
「はい。当時の診断書も残っています」
彼女は持っていたバックから、それを出した。どうやらアメリカの病院で出されたものらしい。どうりで警察が調べても判らなかったはずだ。しかし何故彼女が持っているのかと尋ねた所、事件が起こり九竜家へ駆け付けた際に彼女がこっそり隠したのだと白状した。
けれど松ヶ根は悔しそうに言った。
「これが本当なら、彼女の主張を覆す証拠の一つにはなるでしょう。だが決定的なものとまではいえない。やはり犯行時に着ていた服や、持ち去った携帯と財布の行方を探さない限り、彼女の計画的犯行だったことを立証するのは難しいでしょう」
「彼女や一久氏は、何と言っているのですか」
本来ならこれまでと同じく、答えられないと首を振る所だ。けれども彼は何か考えがあったのだろう。吉良が報告した取り調べと、自身が見た菜月の様子を彼女に説明し始めた。しばらく黙って聞いていた彼女だったが、聞き終わると思いもかけないことを言い出した。
「彼女が妊娠をしている、ということは無いでしょうか。またはしていなくても妊娠していると言った言葉を、一久氏に告げていたかもしれません。それを聞いたからこそ、久宗氏は一人で行動を取ったのではないでしょうか。もし一久氏と関係を持っていただけだとすると、私が知っている久宗氏ならば九竜家の名が汚れようと企業価値が下がろうと、公にすることを覚悟して行動したはずです。例えば松方弁護士を通じ、しかるべき対処をしていたでしょう。それをしなかったのは、子供が絡んでいたとしか思えません。それなら久宗氏らしくない行動を取った理由が、腑に落ちるのです」
「被害者は、そういう方だったのですね」
「はい。外聞を気にして、下手な隠蔽工作をするような人ではありませんでした」
そこで彼は強く頷き、吉良に指示を出した。
「これはいい話を聞いた。早速両方の取調官に耳打ちして、確認するよう言って来てくれないか。その前に一応本部の上層部には、今の話を報告しておいてくれ。もしそうだったとするならば、状況は大きく変わってくる」
「了解しました」
席を立って部屋を出た吉良は、まず捜査本部がある大会議室に向かい上司を掴まえ、彼の指示通り報告した。その後取調室へと走り、それぞれの被疑者に質問するように伝えた。
まずは一久の様子がどうなるかを、隣室で待機し確認した。すると明らかに動揺を見せていた。しかし先程と変わらず肉体関係を認めていない彼は、あくまで否定していた。一方の菜月も同様で、妊娠などしていないし、そんな事を言う訳ないでしょうと答えていた。
念のため、別室にいた彼女の母親にその件を尋ねた。すると確かに今年の初め頃、初潮を迎えている事を認めたが、最近生理用品を使っていたばかりだという。よって妊娠していることは無いはず、と証言したのだ。
松ヶ根達のいる部屋に戻りその事を告げると、彼らは満足げに頷いた。
「一久が動揺していたなら、子供ができたと嘘をつき、強請った可能性は高いな」
「寺内菜月に関しては、一応病院で検査するそうです。元々性行為をしていたかどうか調べる予定だったと言っていました」
「そうだろうな。それよりお前がいない間に、衝撃の事実を彼女から教えられたぞ」
「何ですか」
席に座った吉良がそこで耳にしたことは、本当に突拍子もない事だった。本来ならすぐには信用できない情報だ。しかし彼女は先程見せてくれた久宗氏の診断書の他に、その証拠となるものを机上へ出していた。これも同じく隠し持っていたらしい。
内容は同じく英語で書かれていたので詳細は理解できなかったものの、間違いなく彼女の証言が嘘でないことは、一緒に同封されていた画像診断を見れば判った。そうなるとこれまで抱えていたいくつかの謎が、一気に解ける。
この事を信用させる為に二重人格の件から告白したのかと、ようやく納得した。さらに吉良がいない間に二人はそれぞれが持つ情報を出し合い、今回の事件の真相について話し合ったようだ。
そこでこれまでの推理を見直した上で、一つの共通した結論に至ったらしい。それを聞かされ、恐らくそれで間違いないだろうと確信を持った。松ヶ根の洞察力がすごい事は十分理解していたつもりだが、彼女の推理力はそれに勝るとも劣らなかったからだ。
「申し訳ありません。もっと早くこの件を皆さんにお知らせしていれば、このような事件は起こらなかったかもしれません。少なくとも長谷さんが、日香里さんを殺そうと考えることはなかったはずです。ただ敏子夫人が無事帰国されるまでは油断できないと、久宗氏が判断されました。当然だと思います。万が一のことがあれば、全て計画は白紙、または大きく違ったものになっていたでしょう」
松ヶ根は深く頷いた。
「裏目に出てしまった事は、とても残念です。しかし奥様が帰国されるまで公にしないと決めた判断が、間違っていたとも思えません。悪いのは九竜家の財産を狙った、浅ましい奴らです」
「どうしますか。この話も本部に伝えていいんですか」
吉良が思わず尋ねた所、彼女は強く頷いた。
「敏子夫人が帰国できる日程は、まだ決まっていません。ただこうなった以上、今取調べを受けている二人には伝えた方が良いでしょう。これは奥様からも、承諾を得ています。またこれ以上長谷さんのような行動を取る方が出ないよう、これから九竜家の関係者にも説明するつもりです」
「それがいいでしょう。ここにいるあの二人も、今回の話を聞けば良からぬ計画を諦め、自供し始めるかもしれない。少なくとも一久は話すだろう。彼が正直に証言し始めれば、寺内菜月の態度も変わる可能性が出てくる。駄目だったら現場から彼女の家の間を徹底的に洗い、物証を発見するしか手は無い」
彼女との話を終えた吉良達は、直ぐに本部へ向かい報告をした。上層部達もにわかには信じられないと、驚きを見せていた。だが確かな証拠がある。しかもこの情報を聴取中の二人に告げれば、何らかの進展が見られるはずとの松ヶ根の見解は受け入れられた。
しかも更なる自白を引き出してこいと、現在担当している取調官に代わるよう指示を受けたのだ。それだけ重要な情報を入手したと評価されたらしい。しっかり手柄に繋がる役目を授かったと言える。
吉良にとっては有難い事だった。松ヶ根と組んでいたからこそ、得られたチャンスだ。三郷が二重人格者であると見破った事や、これまでの彼女を追及する手法が鋭かっただけではない。おそらく彼の過去における経験が、彼女の共感を呼び信頼を得たからこそ、手に入れることが出来たのだろう。
二人は一旦三郷には帰って貰うことにして、早速取調室へと向かった。最初は一久からだった。担当取調官は交代することを渋っていたが、上の命令だから仕方がないと席を譲ってくれた。
そこで松ヶ根が椅子に座り、吉良は被疑者の斜め後ろに立った。事情聴取の相手が突然変わったことに戸惑っている相手を無視し、彼は話し始めた。
「先程三郷真理亜さんから、大変重要な事実を教えて頂きました。その事を取り急ぎお伝えした上で、あなたから真実を聞き出す為に私達が来たのです。その前にお伺いしますが、あなたは久宗氏の殺害に関与していましたね。動機は寺内菜月から妊娠したと聞かされ、認知するよう脅されていた。そのことが久宗氏にバレた。違いますか」
「な、何を馬鹿な。私と彼女がいくつ離れていると思っているんだ。それに二人はそういう関係など無いと、何度も言っているじゃないか」
「まだ惚けるつもりですか。念のため今後病院で検査する予定ですが、彼女の母親によると、最近生理を迎えたばかりだと聞きました。よって妊娠しているというのは嘘でしょう。一応お伝えしておきます。ですが例えあなたの子を彼女が身籠っていたとしても、久宗氏の資産があなた達に渡ることは決してありません」
「な、なんだと? 本当か?」
「それはどちらに対しての質問でしょう。寺内菜月が妊娠していないという事ですか。それともあなたが資産を受け取ることは無いという件ですか」
狼狽えた彼は、慌てて言った。
「も、もちろん後者だ」
「おかしいですね。あなたは元々持っていた資産を、わざわざ息子に引き継いだとおっしゃっていました。なのに何故今になって資産を受け取ることは無いと言われ、本当かどうかを確認しようと、そんなに慌てて尋ねるのですか。おかしいでしょう」
「そ、それは久宗が破棄した遺言書以外に、別のものを用意していたと思ったからだ。あいつがなんと書き残したか、知りたかっただけだ」
「本当ですか。妊娠していないと聞いて、安心したのではないですか。その上で遺産が手に入らないのは何故か、を知りたかった」
「ち、違う」
「まあいいでしょう。彼女が妊娠していないことは、病院での正式な検査結果が出てからになりますが、今の段階で母親が嘘をつく理由はありません。よって妊娠は嘘でしょう。あなたから、お金を引き出すための方便だったと考えられます。また遺産の件ですが、新たな遺言書が見つかった訳ではありません。久宗氏がこれまで作成していた遺言書を破棄されたのは、必要が無くなったからだと判りました」
「どういう意味だ」
そこで松ヶ根は先程三郷から聞いた情報を、彼に伝えた。当然知らされていなかったからだろう。驚愕の余り言葉を失っていた。しばらく経って、ようやく口を開いた。
「ほ、本当なのか」
「本当です。だから敏子夫人は愛する夫が殺されたというのに、涙を飲んで帰国を諦めた。その理由が何故なのか、あなたも聞かされていなかったはずだ。不思議に思ったでしょう。でも今の話を聞いて、ようやく納得されたのではないですか。先程まで話していた全ての理由が、これで理解できたでしょう」
「そういうことだったのか」
「そうです。ただ万が一ということもあるので、時期が来るまで口外しなかった。それが災いし、今回の事件が起きてしまったようですね。あなたがこの事を知っていれば、十二歳の子に惑わされる必要などなかったでしょう」
一久は頭を抱え震え出し、大声で叫びながら机に顔を伏せた。
「あああああああああ! 私は何てことをしてしまったんだ!」
心の奥底から湧き出ただろう慟哭が止むまで、吉良達は黙って彼の姿を見守っていた。どれくらい経っただろう。ようやく彼が顔を上げた。その涙を拭いて貰おうと、吉良が自分の持っていたハンカチを手渡す。彼は小さく頭を下げて受け取り、目頭を押さえた。
落ち着きを取り戻した様子を見て、松ヶ根が質問をした。
「久宗氏はもういませんが、敏子夫人が無事帰国されたなら、ご夫婦が望まれていた穏やかな老後を過ごして頂きたいとは思いませんか。その為だけでなく、あなたや寺内菜月の将来の事を考えても、全て正直にお話頂いた方が良いのではないでしょうか」
彼は頷いて、ポツポツと話し出した。
「私は馬鹿だったよ。申し訳ない事をした。素直に自らの罪を償う必要がありそうだ。刑事さんの言う通りですよ。私はあの子と関係を持った。最初は本当にパパ活とやらで、若い子と話をしたかっただけだったんだ。お金さえ支払えば、彼女達は私を邪険にすることもなく、優しく接してくれたからな。寂しかったんだ」
早くに大事な娘を事故で亡くし、幼かった孫二人と疎遠になったことも影響していたらしい。後継ぎとなる息子夫婦に子供ができなかった為、余計そう感じたのだろう。その分唯一の孫として、日香里の事は可愛がったという。
しかし子供の成長は早い。彼女もすぐに大きくなってしまった。その間に妻を失い、その上次女まで三年前に病死したのだ。また息子の久宗は仕事が忙しく、妻の敏子夫人は体の調子を見てもらう為にと詳しい事を告げられないまま、海外に行ったっきりになってしまった。一年近く帰って来ず、彼の近くには家政婦の稲川だけしかいなくなったことも孤独感に拍車をかけたようだ。
「だから出会い系サイトを、利用するようになったのですね」
「そうだ。使い方は、通っているリハビリセンター仲間から教えて貰った。同じような年の男達でも、そういった欲はあるものだ。私も麻痺していた体が順調に回復し、車の運転に支障がない程だった。それで試してみようと思って始めたんだ」
「寺内菜月と会ったのは、半年前とおっしゃいましたね」
「ああ。その前に三人ほど会った。それなりに楽しめたが、もう一度会いたいとは思わなかったよ。しかし彼女は違った。初めて会った時には驚いた。余りにも幼いので、自分の立場も忘れて説教をしたくらいだ。それまでの子は、皆大学生かせいぜい高校生ぐらいだったからな」
「そんな彼女と何故、頻繁に会うようになったのですか」
「身の上話を打ち明けられたからだ。可哀そうだと思ったよ。自分の意思でなく、親の見栄で受験させられた学校を、今度は親の都合で辞めさせられるかもしれないとな」
「彼女の父親が体調を崩し、会社を休み始めたからですね」
「ああ。それでも彼女は、夜遅くまで学習塾に通っていた。授業について行くには必要だと言ってな。だがいずれ学校を辞めるのなら、必要無くなる。だったらさっさと辞めたい、と彼女は思っていたようだ。それでも母親はまだ大丈夫だと言い続け、塾通いをさせていたらしい」
「そこで反抗をしだした。塾をサボり、夜遊びし始めたのですね。やがて友人に誘われて出会い系サイトでパパ活をするようになり、自分でお金を稼ぐ事を覚えた」
「そうらしい。だがあのようなものには危険が伴う。彼女も酷い男に捕まり、無理やり肉体関係を持たされたこともあるそうだ。それから会う相手は、万が一の事が起こっても抵抗できる、高齢者ばかりを選ぶようになったと言っていた。そんな中で私と出会ったんだ」
「あなたがこの周辺の大地主だということを、彼女は最初から知っていたのですか」
彼は首を振った。
「いや、最初はお互いサイトに記載したハンドルネームしか教えなかったから、知らなかったと思う。何度か会って話す内に、気を許したのだろう。向こうから、家庭の事情を話してくれたんだ。そこで私も家のことを喋った。すると母親から、九竜家の存在を聞いた事があったらしい。すごいお金持ちなんだね、と言われたよ」
そこから今は資産のほとんどが、息子夫婦や彼らが経営する会社のものになっていると説明したらしい。よってお金については、多少持っている程度だと教えたそうだ。すると彼女は勉強熱心で、相続の事などをネットで調べ出したという。そこで彼は色々質問されたので、答えていたと供述した。
「そうやってあなたが家の事情を話していく中で、どうすれば莫大な資産を手にすることが出来るか、彼女は考えていたのでしょう」
「今思えば、そうかもしれない。子供がいる場合やいない場合、兄弟がいる場合や先に子供が亡くなったたらどうなるか等についても、聞かれた事がある。彼女の家は経済的な事情で、苦しんでいた。お金さえあれば、幸せに暮らしていけると考えたのだろう。だから私と関係を持って子供を妊娠すれば、少なくとも金銭で困ることはないと思ったはずだ」
松ヶ根はさらに質問した。
「彼女から、関係を迫って来たのですか」
戸惑いながらも彼は言った。
「最初はそうだった。もちろん断ったよ。孫どころか、ひ孫だっておかしくない年齢だったからな。しかし男というものは、いくつになっても馬鹿な生き物だ。大好きだと抱きしめられ、目の前で裸になった彼女を見て恥ずかしながら反応してしまった。そこからは、私の方から求めるようになった。気付いた時には遅かったよ」
妊娠したかもしれないと言われた時に、ようやく自分のした行為が愚かな事だったと目が覚めたという。どうすればよいか途方に暮れたらしい。恥ずかしくて息子達に話せる訳もなく、まして堕ろせなどと言えるはずもないと悩んだらしい。息子達が子供を産もうと、どれだけ苦労したかを知っていたからだろう。
そんな一久を見て様子がおかしいと気付いた久宗は、彼が出かけた後を付け彼女と会っていることを知ったようだ。
「あなた達が口論をしていたというのは、彼女とのことだったのですね」
一久は頷いて言った。
「全てあいつに話したよ。そうしたら、俺が何とかすると言い出した。どうするつもりだと聞いたところ、妊娠が本当かどうかをまず確かめてからだと言うから、私は怒ったんだ。そんな嘘をつく訳がないと。しかしあいつの言ったことが正しかったようだな。私は心のどこかで年甲斐もなく、自分に子供が出来ることを望んでいたのだろう。娘を二人と妻を失って空いた心の穴を、埋めたかったのかもしれない」
「久宗氏と話した事を、あなたは寺内菜月に告げましたね。それはいつのことですか」
「二カ月ほど前だ。今考えるとその頃から、いやそれ以前から久宗を殺すつもりだったのかもしれない。彼女は私に色々な事を、要求するようになった。お金だけでなく、フットカバーや電波時計もそうだ。言う事を聞かなければ、二人の関係を警察に言うと脅されたよ。十二歳以下の女性と性行為をしたのなら、間違いなく逮捕されるとね」
「あの事件が起こるまで、久宗氏は彼女と何度か会っていたのですか」
「確か二度ほど会ったと聞いている。久宗は妊娠なんてしていないと言っていた。だからすぐ別れろと迫って来た。だが私は断った。そんな事をすれば逮捕されてしまう。そう答えたら、それも覚悟しなければいけないだろうとあいつは言ったんだ」
そこで一久は激怒したらしい。他人事のように言うがこの事が公になれば、九竜家の名にも傷がつくだけでなく、会社も大きな損害を受けるだろうと反論したようだ。それでも久宗はそれもしょうがないと言った為、そんなことは出来ないと揉めたという。
三郷が推測していた通りの証言に、吉良は驚いていた。松ヶ根が質問を続ける。
「それで殺そうと考えたのですか」
彼は躊躇しながらも認めた。
「邪魔者には消えて貰おうと、彼女が計画を説明し出した。私は半信半疑だったよ。アリバイ工作についても、警察を騙せるなんて無理だろうと思ったさ。しかも実行するのは、彼女だというじゃないか。絶対に失敗すると思ったよ。彼女と息子の体格差からして、そんなことが出来る訳ないと私は止めた。それでもやると彼女が言ってきかないから、協力だけはすると言ったんだ。まさか本当にあんな事が起こるなんて、思わなかったんだよ」
「それでも心のどこかで、成功するかもしれないとは考えませんでしたか」
彼は言葉を詰まらせた。しばらく間を開けた後に頷いた。
「考えたよ。もし計画が上手くいったなら、彼女と私の子にも遺産を渡すことが出来る。しかも警察に捕まった場合、彼女は正当防衛と言い張るから絶対に逮捕され無い。それに十二歳だから、最悪でも少年院へ送られるだけとの悪魔の囁きに、私は負けた。その上二人が捕まっても、あくまで肉体関係が無かったと主張するようにと彼女から言われて、それならと思ってしまったんだ」
「肉体関係が無いのに、子供を妊娠していたら言い訳できないでしょう」
「そこは無理やり関係を迫られた他の男の子だと言い張るから、と彼女は言っていた。その代わり子供が生まれたら、認知することを約束されたんだ。しかし妊娠自体が嘘だったら、彼女はどうやって遺産を手に入れるつもりだったのかは知らない」
本当に理解していなかったのだろう。盛んに首を捻る彼に、松ヶ根が言った。
「恐らく子供は流れたとでも言って、誤魔化すつもりだったのでしょう。それでも遺産を手にしたあなたから、これまで以上のお金を脅し手に入れるつもりだったと思われます。彼女のスマホには、事件当夜の様子を隠し撮りしていた映像が残っていました。肉体関係を持っていた証拠と共に、殺人事件の共犯者だというネタがあれば、いくらだって金を引き出せると考えていたのかもしれません」
ようやく気付いたらしい。彼は再び天井を見上げていった。
「そういう事だったのか。私は十二歳の小娘に、踊らされていたんだな」
「そのようですね。ちなみにお通夜の席で、あなたは騒ぎを起こされた、あれはわざとですね。今回の殺人事件は、遺産相続を狙った長谷家または兵頭家の人間の可能性があると騒ぎ、アリバイがあるあなたから警察の目を更に逸らせようとした。違いますか」
この見解は、三郷が言い出したものらしい。そこから彼女は、一久が利用されただけとの当初の考えを改め、共犯説を唱え始めていた。どうやらその推理は当たっていたようだ。
「良く判ったな。そうだ。警察があいつらの事を疑っていると知って、葬儀に現れたからここぞとばかりに言ってやったんだ」
だが遺言書の破棄の話は予想外だったらしい。一久も知らなかった為驚いたという。
「ただそのおかげで、遺産目的の殺人かもしれない、と本当に思わせることが出来た。しかもあの時の話をきっかけに、長谷卓也が日香里さんを襲った訳ですからね」
「ああ。これで長谷が最有力候補に挙がったと思ったよ」
「お通夜の席で騒ぐことも、彼女からの入れ知恵ですか」
「ああ、そうだ。そうすれば、少しでも警察の目逸らせると言われたからな」
菜月の案ではないかと言ったのも三郷だ。吉良達はさすがにどうかと疑っていたが、彼女の推理力の方が勝っていたらしい。彼はため息をつきながら言った。
「それにしても恐ろしい子ですね。あの子の取り調べの様子を、私はずっと見ていましたが、十二歳とはとても思えない知能と度胸の持ち主ですよ。あのような小学生は、なかなかいません。あなたが騙されたのも、理解できます。それほどの悪党です」
これに一久も同意した。
「そうかもしれない。彼女の誘導で、私は大事な息子をも失うことになったんだからな。だがこれだけは言わせてくれ。あの子は根っからの悪党じゃない。あそこまで追い込んだのは、経済的な困難のせいだ。それが無ければ、こんな事にはならなかっただろう」
これには松ヶ根も頷いた。
「経済的困難に追い込まれた事が、幼気な少女を悪魔に変えたのかもしれませんね」
「そうだ。しかし私に久宗の遺産が入らないと判った。だったら自由にできる金など、そう大した額じゃない。彼女の計画も、完全に元から崩れる。これ以上黙っていても、しょうがない。それに刑事さん達が言われる通り、ずっと彼女に脅され続け金を払う位なら、愚かな行いを公にして、罪を償う方を選ぶよ」
完全に覚悟を決めたらしい。九竜家の名が傷ついても、敏子夫人達がいれば大丈夫だと彼は言った。会社の信用も一時的には失うだろうが、元々売却する予定だったのだ。それなら会社における損害は最小限に食い止められる。
別の会社が引き継ぐのなら、社員達に迷惑を掛けなくて済む為、逆に良い機会かもしれないとまで言い出した。久宗が告げた言葉が、今になってようやく彼に通じたらしい。
「そうかもしれませんね。しかしよく正直に話して頂きました。まだいくつか、お聞きしたいことがあります。けれどそれは、先に彼女から話を伺ってからにしましょう。ここからは、また先程まで話していた取調官と交代をします。おそらく今話していた事と同様の質問を、何度もされることになるでしょう。ですが繰り返し伺うことで、間違いがないか確認する必要がありますのでご容赦ください。それでは失礼いたします」
松ヶ根はそう言い残して席を立ち、吉良はその後に続いた。二人と入れ替わるようにして、取調官が部屋に入って来た。ずっと隣の部屋で、マジックミラー越しに話を聞いていたはずだ。
松ヶ根に告げた事は間違いないかを、彼らは確認しなければならない。まだ尋ねたい件がいくつか残っていた。それでも彼女の取り調べが優先だと判断したらしい。ただでさえこれまでの拘束時間は、相当長くなってる。よって早期に片を付けたいのだろう。
だが吉良は、一抹の不安を持っていた。あの事実を耳にして、一久は真実を話してくれた。けれども彼女は、それでも白を切り続けるかもしれない。あくまで正当防衛だと言い張る恐れがある。その場合、松ヶ根はどう出るつもりだろう。不謹慎だが彼の腕前を見られると考えただけで、武者震いがした。
菜月が取り調べを受けている部屋に到着し、二人は中に入った。あの女性取調官には既に伝わっていたのだろう。吉良達の姿を見て直ぐに席を立ち、松ヶ根に譲った。だが相手は十二歳の女性の為、先程のように吉良達二人だけとはいかない。彼女も吉良と同様に、立ったまま同席することとなった。
吉良が横目で見ると、彼女はどこかホッとした表情を浮かべていた。明らかに疲労が隠せない顔色をしている。それと対照的に、菜月は先程と変わらず堂々としていた。松ヶ根とミラー越しに覗いていた時から、少なくとも二時間以上経っている。その間ベテランの取調官によりあらゆる角度から、何度も質問をしたり雑談をしたりしながら追及を受けて来たはずだ。
それでも彼女は、当初の主張を曲げずにいるらしい。十二歳にしてそのような度胸を持ち続けられるのは、余程強い精神力がなければ無理だろう。またはそれだけ、確固たる自信と信念を持っているとしか考えられなかった。
さて彼女はどう出るか。吉良は息を呑んで松ヶ根の第一声を見守っていた。対峙する彼女は、突然強面の中年男性が顔を出したことに一瞬怯んだ様子を見せた。しかし直ぐに態勢を立て直し、どんな質問が来るのかと身構えているようだ。
そんな状況の中で、彼が口を開いた。
「急にこんなおっさんが来て驚いたかもしれないが、心配しなくていい。君は正直にありのまま話してくれさえすればいいだけだからね。早速本題に入ろう。九竜一久が、先程君との肉体関係を認めたよ。その事をネタに脅され、フットカバーや被害者の持つ電波時計を、君に渡したことも白状した。妊娠したと告げられたこともね。すでに説明されていると思うが、君には病院で検査を受けて貰う。彼の話によれば、君は出会い系サイトで他の男から乱暴な目に合っているようだから、その検査も必要だ。そこで明らかになると思うが、妊娠しているというのは嘘だね」
彼女はあどけない表情を歪めて言った。
「嘘も何もあのお爺ちゃんとは、そんな関係じゃないから妊娠なんてする訳がありません」
「では彼を脅し、二人の関係を知って別れさせようとした被害者が邪魔になり、アリバイ工作までして殺した事は認めるね。もちろん彼は自白したよ。これは嘘じゃない」
彼女はすぐに否定した。
「そんな事はしていません。あのお爺ちゃん、余りのショックにボケちゃったのかな」
「そうではない。彼はようやく気が付いたんだ。自分がどれだけ愚かな事をしてしまったのか、悔いていたよ。だから九竜家の名が傷つこうとも、会社に迷惑が掛かることも覚悟して本当の事を話してくれた」
今度は膨れた顔をして、首を横に振った。
「あり得ません。どうしてそんな事を言い出したのですか。警察が強引に嘘をつくよう、暴力でも振るったんじゃないですか」
「そんな事はしていない。被害者が亡くなっても遺産は手に入らないと知って、ようやく我に返ったのだろう。君との関係を黙り続け、計画殺人の共犯者であることを隠しても無駄だと判ったからだ。君は彼から遺産相続に関して、色々と教わったそうだね。それなら判るだろう。何故久宗氏が死んでも、遺産が父親の手に渡らないか」
そこで一久に告げた内容を彼女にも伝えた。念の為スマホのネットで検索し、相続関係を解説している個所が記されている画面を彼女に見せた。その上で諭すように言った。
「おじさんの言っていることが判るかい。これは嘘じゃないよ。だから被害者が殺されたというのに、奥様が葬儀にも顔を出さず帰国しなかったんだ。君だって、おかしいと思わなかったかな。例えば君のお父さんが、誰かに殺されたとしよう。そうしたらお母さんはどうする。涙を流して、早く犯人を掴まえてくれと我々警察に抗議するのではないかな」
彼女は突き付けられた事実を受け止められないのか、じっと画面を眺めていた。その顔付きは、明らかに先程まで持っていた余裕を失っていた。ようやく現在自分が置かれている状況を把握したのだろう。
しばらく経って大きく息を吐いた後、開き直ったかのように態度ががらりと変わった。
「あの人はそんなこと、しないよ。保険代理店に勤めているせいか、生命保険にかなり加入しているって言ってたから、死んでくれた方が喜ぶんじゃないかな。たくさんお金が入るし、これ以上世話をしなくて済むんだったらホッとするでしょ」
どうやら彼女の本性が現れてきたようだ。松ヶ根はそのまま話を続けた。
「君もそう思うのかな。経済的に困らなくなれば、学校にも通い続けることができる。そうすればパパ活や売春で、お金を稼がなくても済むからね」
彼女は唇を噛むように、顔をしかめながら言った。
「そうよ。お金さえあれば、こんな思いをしなくて済んだのに」
「こんな思いとは、どんなことかな」
「おかしな男に無理やり押し倒されて痛い思いをしたり、あんな爺さんの相手をしたりしなくて済んだのよ」
「好きでやっていたわけじゃないってことかな」
彼女は机を叩いた。ここまで興奮した感情を見せたのは、今回の取り調べで初めてだ。
「当たり前でしょ。どうして自分の体を売ってまで、お金を稼がなくちゃいけないのよ。これも全部、あいつらが悪いんだ」
それでも彼は淡々と質問を続けた。
「それは体を壊し、会社に通えなくなった君の父親や、代わりに家計を支えることになった母親の事を言っているのかな」
「そうよ。小さい頃から勉強しなさい、いい学校に行けば将来必ず役立つって言われ続けてきた。お父さんもお母さんも、いい学校を卒業していい会社に入ることが出来たから、高い給料が貰えるようになったんだってね。それを信じて言われた通り一生懸命頑張って、今の学校に入ったのに。それが会社に行けなくなって、一日中部屋に引き籠ってしまったのよ。体を壊したっていっても、ガンになったとかなら判るけど、そうじゃない。精神的な病気だとか言っているけど、結局会社の仕事についていけなくなっただけじゃない」
彼女による両親への不満が爆発した。母親も結婚する前は、大手の保険会社に勤めていて給料は良かったというが、今は違うじゃないかとも言いだした。父親の代わりに家を支えられる程、稼いでいないと馬鹿にし始めたのだ。
余所の会社に買収されてしまうような、小さい会社の事務員にしか過ぎないと判ったからだろう。いい学校を出ていい会社に入ったら、お金がたくさん貰えて将来安泰だなんて嘘ばっかりだと彼女は怒りだした。それなのに金の心配はしなくていい、学校の勉強についていけるよう塾通いは続けろと言い聞かされた事に、我慢ならなかったようだ。
しかしこのままだったら暮らしていけない、菜月の学校も辞めさせなければならなくなると、両親はしょっちゅう喧嘩していたようだ。そのくせ今までの生活レベルは下げたくないからと無理している親達を、心の底から軽蔑していたと吐き出すように言った。
「だから自分で何とかしようと思ったのか」
一度話し出すと、止まらなくなったのだろう。堰を切ったように彼女は喋り続けた。
「そうよ。私だってせっかく入った学校だもの。辞めたくなかった。お金さえあれば、大学まで行ける。授業についていくのは大変だけど、学歴があったってあいつらみたいになるんだったら、無理して勉強する必要もないしね。だったら今の学校に居続けて、大学まで進んだ方がまし。その後にお金持ちの人を見つけて、結婚すれば良いんだから。お嬢様学校としても有名だし、うちの大学を卒業した子なら、そういう人達の受けもいいって言うからね。下手に自分で稼ごうなんて、思わなくてもいいでしょ。お父さんみたいなサラリーマンじゃない、倒れてもお金に困らない人と結婚すれば、将来は安定じゃない」
「だから九竜一久と知り合って、この人だと思ったのか」
「そうよ。条件にピッタリじゃない。最初は抵抗があったけど、だんだん慣れてきたし。それにもうお爺ちゃんだから、そう長生きもできないでしょ。私が高校を卒業する頃まで我慢すればいいんだから。そうすれば、一生生活に困らないと思ったの」
「しかし話を聞いているうちに、そうじゃないって判ってきた。そこで相続について勉強したんだね」
彼女の気持ちが落ち着いてきたのか、徐々に声が小さくなった。
「最初は、意味が判んなかった。お金がないってそんな訳ないって言ったら、説明してくれたの。それで本当だと理解できた。お金持ちも楽じゃないのね。色々面倒なことがあるんだって、いい勉強になったよ」
ここが勝負どころだと思ったのだろう。彼は核心に触れ始めた。
「だったら判るね。いくら正当防衛で殺したと言い張っても、君が九竜家の持つ莫大な資産を受け取る可能性はゼロだ。せいぜい九竜一久が持っている金を、脅し取るしかできない。だが彼が殺人の共犯を認めた今となっては、それも無理だ。君と肉体関係を持ったことも自白している。刑務所に入れられるだろう彼から、お金をむしり取ることは不可能だ。お金の管理は、残された家族や弁護士達がすることになる。罪を告白した以上、脅迫する意味もない。君に金を支払う必要など無くなった。いくら君が否認しても同じだよ」
「なんで言っちゃうかなって思ったけど、そういう事ならしょうがないね。私が妊娠なんかしていないから、ごまかせるって思ったんだけどな」
吉良は心の中で、これはいけるとこぶしを握った。だが彼は慎重に質問を続けた。
「やはりそうか。だけど九竜一久には妊娠したと嘘をついた。そうだね」
意外にも彼女はさらりと認めた。
「そう。初めは驚いて困っていたけど、本当に自分の子供が出来たら嬉しいかもしれないって、段々と思い始めてくれたの。ラッキーだと思った。何度も関係を続けていれば、本当に妊娠するかもしれない。そうすれば、もう一生苦労することなんてないからね」
「しかしそこに邪魔が入った。久宗氏に二人の関係がばれたんだな。なんて言われたんだ」
「別れろって。妊娠も嘘だろうって言われた。こっそり調べていたみたい。でも妊娠は本当だ、絶対別れない、これ以上そんな事を言うなら二人の関係を世間にばらすって脅してやったの」
「それでどうなった」
「最悪の場合、それもしょうがないって。父親は逮捕されるだろうけど、それだけの事をしたのだから、罪は償う必要がある。私みたいな子供に手を出したんだからって、すごく怒っていた。あと公にする事は覚悟しているけど、そうなったら私の将来に傷がつく。出来れば穏便に済ませたいって言われた」
この辺りは一久の供述とも一致する。松ヶ根はさらに尋ねた。
「それで君は、なんて答えたんだ」
「穏便になんて、済ませられない。十二歳以下の子と肉体関係を持ったんだから、ただで済むはずがないでしょって。それ相応のお金を貰わないと駄目だって言ってやった。慰謝料ってやつ? そういうのが必要じゃないのって」
「久宗氏は、何て答えた」
「いくら欲しいんだって聞かれたから、私や私の子供が働かないでも一生困らないだけって言ったら、それは脅迫だってまた怒られた。それ相応の罪には問われるだろうし、慰謝料も払うことになるけど、多くてせいぜい数百万円程度だって。だからそんな大金が支払われることはないって断られた」
彼は容赦なく追及を続けた。余り追い込み過ぎると逆効果ではないかと、吉良はハラハラしながら聞いていた。
「そう言われて、君はどう思った」
「この人は邪魔な人だと思った」
「それで、どうしようとしたんだ」
「この人が今死ねば、遺産の三分の一がお爺ちゃんの手に入る。そう以前に教わっていたから、死んでくれるといいなあと思った。でも結局無駄だったんだね」
「それを知っていたとしたら、君はどうしていた」
「判んない。でも殺そうとまでは、思わなかったんじゃないかな。持っていないとは言っても、お爺ちゃんだって私に払う程度のお金はそれなりにあったからね。面倒くさいけど粘れるところまで粘って、もう無理だと思ったところで慰謝料を貰って別れていたかも。私だって売春していたことがばれたら、学校を退学になっちゃう。それにその後もここでは住めなくなると思うし。一生困らないお金が入らないなら、危ない橋は渡れないでしょ」
やはり三郷が悔やんでいた通りだった。遺言書を破棄したのが、確か事件の起きる二か月程前だったはずだ。その時に事実を公表していれば、今回のような悲劇は起こらなかったことになる。
しかし被害者も、まさかこのような事態になるとは想像もしなかっただろう。事故に巻き込まれたり、急病に罹って命を失ったりする可能性は予測していたかもしれない。だからこそ万が一に備えて余計な混乱を招かないようにと、遺言書を破棄したと思われる。
といってその後、状況が急変することも十分あり得ると危惧したはずだ。よって慎重を期し、全て無事に終わるまで公表を差し控えることにしたのだろう。よって九竜夫妻以外で唯一事情を知らされていた三郷にも、秘密厳守を言い渡したに違いない。
決して彼らの判断が間違っていたと、誰も責めることは出来ないだろう。ただそれが仇になったことは確かだ。最も不幸だったのは、今の目の前にいる寺内菜月という恐ろしい人物に、一久が出会ってしまったことかも知れない。
しかし彼もこんな小学生の小娘の心の奥に、恐ろしい悪魔のような人格が潜んでいるとは思いもよらなかっただろう。出会い系サイトでは危険を伴うことなど、吉良自身もそれなりに理解している。だが今回のような場合も起こり得るとなれば、今後手を出すことは辞めようと、こっそり心の中で誓った。
松ヶ根はやけくそになったと見える彼女の様子から、真相を聞き出すことが出来ると踏んだらしい。質問が具体的になり出した。
「今真実を知っていたら、殺そうとまでは思わなかったと言ったね。つまり知らなかった君は邪魔になった久宗氏を、計画的に殺した。そうだね」
「あれは正当防衛だって言ったじゃない」
まだ惚けるつもりらしいが、その声はこれまでより明らかに弱弱しく、自信の無い呟きにしか聞こえなかった。あわよくば逃げたいと思う気持ちが、まだどこかに残っているのだろう。だが彼はそれを許さなかった。
「被害者に犯されそうになった、とあくまで言い張るつもりかな」
「そ、そうよ」
「それはあり得ない。何故なら被害者は、それが出来ない体質だったからだ」
「どういう意味?」
「ED、つまり男性機能が失われていたんだ。九竜一久は八十三歳と高齢ながら、性行為ができる機能を備えていた。だから君と関係を持てたんだよね。それが無ければ、妊娠をしたなんて、脅す話もできないだろう。だけど被害者夫婦はかつて、子供を産もうと必死に努力した。そうしたことがストレスになったのだろう。性行為が出来ない体になってしまった。だから君を犯そうするなんて、できるはずがなかったんだ」
彼女は信じられなかったらしい、首を横に振りながら言った。
「子供を産むのに苦労したとは聞いていたけど、そんな話、お爺ちゃんから聞いていない」
「本当だ。これはほんの一部の人しか知らない事実で、父親にも黙っていたらしい。まあそういうことを、わざわざ親に告げる必要などなかったからだろう。診断書も出ているから間違いない」
「そんなことってあるの?」
彼女の問いに、彼は優しい口調で答えた。
「EDは四十代の男性でも五人に一人いると言われる程、身近な疾患だ。ましてや不妊治療なんてストレスのかかることをしていたなら、そうなってしまう確率はさらに高まるだろう。確か君の両親も、かつて不妊治療をしていたようだね。その苦労が実って、君が生まれたんだ。そんな話は聞いたことが無いかな」
話が自分自身の事に及んだからか、彼女は戸惑いながら言った。
「産むまで大変だったと聞いたことがあるけど、詳しくは知らない」
「君のお母さんは気付いていないらしいけど、今同じ職場で働いている人が二十年程前に同じく不妊治療している時に会ったことがあるらしい。その人は二年前に偶然再会し、子供がいると聞いて我が事のように嬉しかったそうだ。何故ならその人は、子供を産むことを諦めていたから。同じ苦労していた人で、自分が出来なかった奇跡を達成したことに、喜びを感じたんだろうね。当たり前のように捉えている人も多いようだが、実際に子供を産むということは、大変なんだよ」
そう言われて何か心当たりがあったのか、彼女の表情が変わった。俯いて何か考え込み始めた。それでも松ヶ根は構わず話し続けた。
「この世に生まれるということは、君も含めて色んな人の思いが詰まっている大事なものなんだ。命が何よりも尊いと言われるのも、そういった背景があるからだろう。だが君は大切な命を奪った。その罪は重い。君は十二歳だから、刑務所や少年院に入ることはないだろう。しかしこれまでの同様な事件から考えれば鑑別所に入り精神鑑定を受けた後、自立支援学校などへ入ることになる。もちろん今の学校も、辞めなければならないはずだ。君があくまで正当防衛を主張し一久氏との関係を否定したとしても、似たような処遇を受けるだろう。それならばいっそ、全てを正直に話した上で現実と向き合い、更生の道を歩むべきなんじゃないかな」
しばらく間を置いて、顔を上げた彼女は軽く頷いた。どうやら今度こそ観念したらしい。そこで間髪を入れず、質問を投げかけた。しかし口調はさらに柔らかくなっていた。
「ではあなたが、九竜久宗氏を計画的に殺害したことは認めますね」
「はい」
彼女が素直に認めた為、危惧していた事態は杞憂に終わりそうだ。吉良は胸を撫で下ろす。だがまだ油断できない。よって引き続き動静を見守った。
「それでは事件当夜、どのようなことが起こったのか教えてくれますか」
「あの日、あの人とあのビルで十時半頃に会う約束をしました。以前からもう一度会って話がしたいと何度も言われていたので、その場所を指定しました」
「何故、あの場所を選んだのですか」
「あの場所の近辺には防犯カメラが無いことを、以前からお爺ちゃんに教えて貰っていたからです。いつも家と反対方向にあるあの場所の近くで待ち合わせをして、近くにある蔵で会うようになったのはその為です。そこであのビルの中なら、人に見られなくて済むだろうと思いました。中に入る為のカードキーを母が持っていることも知っていたので、使えると考えました」
今のところ順調だ。生意気な口調でなく、ですます調に変わったことからも判る。
「あの部屋を犯行現場に選んだ理由は、他にありますか」
「あの場所は二年前まで、母が仕事で通っていた事務所です。私も学校帰りなどで何度か入った事がありました。その後事務所が別の場所に移ってから、倉庫として使われるようになったと聞きました。また主にあの場所を、母が管理をするようになったことも知っていました。そこでもしあの場所で事件が起これば、母が真っ先に疑われると考えました」
「母親に疑いの目が向けられるから、あの場所を選んだということかな」
「それも一つです。まさか愛莉のお母さんと長電話していて、アリバイが成立するなんて思わなかったから」
「それほど君は、母親を憎んでいたのかな」
ここで再び怒りの感情が湧いてきたようだ。彼女の口調が再び荒れ始めた。
「大っ嫌い。家も近いし、警察から疑われて相当辛い目に遭うだろうと思っていたのに、アリバイがない別の人が疑われるなんて計算が狂っちゃった」
「母親が疑われていたとしても、実際にはやっていない。そうすると君が疑われるとは思っていなかったのかな」
「他にもカードキーを持っている人がいるって聞いていたから、私が疑われるまでは時間がかかると思ってた。でもその時の為に証拠を残さないようにしたし、万が一捕まっても正当防衛だったって言い張れば、通用するように計画したの」
「だから足跡を残さないようにフットカバーを手に入れ、被害者のパンツを脱がすような細工をしたんだね」
「うん。他にも髪の毛が落ちたり、返り血を浴びたりして困らないようにもした」
「それはどうやったのかな」
「レインコートを着て、全身を覆ったの。そうすれば、あの部屋にある水道で血を洗い流せると思ったから。実際にそうして洗剤でも綺麗に洗った後に外へ出て、コートを脱いで使っていた手袋や何もかもと一緒に、用意していたビニール袋へ入れて捨てた」
「どこに捨てたのかな」
「家に帰る途中にある、マンションのゴミ捨て場。あの日は木曜日で、翌日の金曜の朝には燃えるゴミの回収だったから。夜中から捨てている人もいるし、特に目立たないと思ったの」
レインコートとは考えたものだ。しかもすぐ回収されるように考え、捨てる日を計算した計画だったとは恐れ入った。しかもあれから二週間以上経っている。現在懸命に探している鑑識や捜査員が、痕跡すら見つけられないのも頷けた。
「翌朝までに死体は発見されないと思っていたから、そうしたのかな」
これには意外な答えが返ってきた。
「違う。計画だと直ぐ警備会社の人が駆け付けて、死体は発見されるはずだった。それでも現場からはそれなりに離れた場所へ捨てたので、朝までに見つかることは無いと思ったから。凶器は現場に置いたままで、夜中だし警察もそれ程真剣に周囲の捜索まではしないと考えたの。財布や携帯は持ち去ったけど、近くに捨てただろうなんて考えないでしょ」
「なるほど。携帯も財布もそこに捨てたんだね。何故その二つを盗んだのかな」
「私と連絡を取っていたことが直ぐには判らないようにする為と、ついでにお金も欲しいと思ったから」
「じゃあ財布の中身は盗んだのかな。いくら入っていたか覚えているかい?」
「二十万円くらいかな」
「その金はどこにある?」
「自分名義の通帳に入れた。貰ったお年玉などを預ける為に、母親が作っていたので。こっそりカードを借りて、ATMで入金した」
「もしかしてこれまで稼いでいだ金も、そこへ預けているのかな」
「そう。母親が見ることはまずないので、預けておいた方が安全だから。ただ年が明けて入金する時にばれちゃうので、その時には今年から自分で管理するとかなんとか言って誤魔化すつもりだった。でもこうなったら、そんな必要もないね」
お金を盗んだとなれば、ただの殺人では無く強盗殺人となり、本来は罪が重くなる。ただ彼女の場合は、あまり関係がないかもしれない。ただ売春でお金を稼いでいた事や、お金を盗んだ証拠にはなるだろう。
「なる程。ところで計画では、直ぐに死体が見つかると思っていたと言ったね。なのに何故か翌朝になって発見されたと聞いて、どう思った?」
「半分ラッキーで、半分は計画が狂ったと思った」
「それはどういう意味かな」
「あの事務所のカードキーは、ビルの最終退出者になった場合とか色々操作方法があると知っていたけど、複雑で良く判らなかったから。もしセットし忘れると、警備会社の人がすぐに駆け付けるとは聞いていたし。だったらすぐ見つかってもいいように、わざとロックしないで出たから」
「何故すぐ見つかるようにしたのかな」
「色々本やネットで調べて、いつ殺されたかは死体の死後硬直や死斑、死体の直腸温度なんかを確認して特定すると判ったから」
しかし死後硬直は、早くて死後三十分から一時間で下顎から始まる。しかもその時の周囲の温度が高かったり筋肉質の人だったりすると、早くなる傾向があった。また腸内温度も発見が早すぎると、それほど変化しない。
そこで事前にエアコンを付け部屋の温度を上げておけば、正確な犯行時間は割り出せないと思ったらしい。また現場で運動すれば、余計に早くなることも調べていたようだ。死斑も急死した場合、失血死等の場合や周囲の温度などによって変わる。そこで電波時計に細工しておけば、アリバイ工作も可能だと思いついたという。
これは以前松ヶ根が予想していた通りの方法だ。しかしそれが十二歳の子でもできる世の中になったかと思うと、吉良は鳥肌が立った。
「だから犯行予定時刻より前の八時半から二時間程の間のアリバイを、九竜一久と一緒にいることで作ったんだね」
「そうすれば共犯にもなるから。万が一私が犯人だとばれた後も、正当防衛だと言い続けて肉体関係が無かったと言い張るので、口裏を合わせるようにとも言ったの」
「そうしておけば、必ず言う事を聞くと思ったんだね」
「うん。実際にフットカバーや電波時計を手に入れたのも、お爺ちゃんだから」
「電波時計は、どうやって狂わせたんだ」
「これも何かで読んだ。スマホのアプリで電波時計の時刻を合わせることが出来ると知って、事前に入手するようお爺ちゃんにお願いしたの。何度か試して出来ることを確認した後、あの事件の夜に米蔵でいた時に一時間ほど狂わせた。彼を殺した後にそれを腕に嵌めて壊しておけば、死亡時刻には二人共アリバイがあると証明できるから」
実際に東日本大震災が起きてから、電波受信ができなくなった時にそうした方法で時間を調整したとの話を聞いた事がある。確か電波時計の種類によって異なるようだが、音声信号で操作できるものがあるらしい。
現に被害者の嵌めていた時計のように、手動で操作できない種類のものには有効だったようだ。おそらくそうしたものを使ったのではないかと松ヶ根は予想し、本部では被害者が嵌めていたものと同じ時計で実験を行い、既に成功したとの報告も受けている。
被害者は数種類の腕時計を持っていたようだから、偶然では無いのだろう。そうした操作のできる種類の電波時計を持っているかどうかを調べ、使えると判ったからこそアリバイ工作に利用したようだ。
当初は計画的でありながら、どこか杜撰さが感じられると思っていた。しかし実際の彼女は何重にも張りめぐらして、死亡推定時刻を狂わせようと考えていたのだ。それなのに警備員の犯した過ちにより、当初の計画とずれて違和感が残る結果となったのだろう。
それに事件のあった夜、時間は不明だが蔵から奇妙な音が聞こえたと、三郷は証言している。おそらく電波時計を狂わす際に出された、スピーカーから出たものだろう。実際鑑識が蔵の中を捜索しているが、そこに音響関係の器具が置かれていたことも確認が取れていた。その上彼女のスマホを調べ、削除していた検索履歴を復元したところ、彼女説明したように、事件に関する様々な事柄を調べていたことも判明している。
「エアコンは九竜一久と待ち合わせた八時半より前から、事務所に入って点けたんだね」
「うん。二時間後には、かなり部屋の温度が上がっているようにした」
「それにしても被害者は六十歳とはいえ、しっかりとした体格をしている。隙をついたのだろうが、良く殺せると思ったね」
「だから私を説得しようとしていたあの人の言う事を聞かず、レインコートを着たおかしな格好で走り回ったの。運動神経と足には、自信があったから」
「そういえば、君は学校でバスケ部に所属していたんだったよね」
「六年生だから夏に引退したけど、レギュラーだった。力では負けると思ったけど、父親より年上の人ならフットワークでかき回せば、何とか油断させられると思ったの」
「それでどうなった?」
「あのおじさんも最初は呆れていたけど、埒が明かないと思ったんじゃないかな。途中で怒りだし、追いかけてきた。そうなったらこっちのもの。まさか私に刺し殺されるとは、想像もしていなかったんじゃない。あの事務所に置いてあった千枚通しとハサミを事前に隠し持っていた私は捕まる寸前でしゃがみ込み、思い切ってぶつかるように刺した。驚いたあの人は倒れたので後は馬乗りになって、動かなくなるまで何度も突き刺した」
事実その通りになったのだから、大したものだ。事前にそうであろうと想定していたが、目の前で供述された事に、松ヶ根も戸惑ったのだろう。少し間をおいてから尋ねた。
「それも事前に、準備していたのかな」
「そう。学校の備品の中に、古い千枚通しがあるのを見て思いついたの。あの倉庫にもあったと思い出したから。珍しくて印象に残っていたの。それで学校の物をこっそり盗んで、近くの公園にある木にぶつかって刺す練習を繰り返した。冬なので相手も分厚い服を着てくるだろうから、それを突き抜くだけの勢いがなければ難しいと思った」
確かに彼女の家と現場との間を調べていた鑑識達の報告の中で、間にある公園の中の木が何かで削り取られた奇妙な痕跡を見つけたというものがあった。どうやらそれが彼女のいう、事前準備の跡だったらしい。
「ビルではその時間、上の階で仕事をしていた人がいたはずだ。よくそんな事ができたね」
「本当は大抵あの時間なら、ビルの人達は皆いないはずだった。でもあの日だけ何故か明かりがついていたの。でも一番上の階だったし、閉め切っていれば音は漏れないと思った。古いビルだけど、それなりに防音はしっかりしていると母から聞いた事があったから」
「そこは計算違いだったんだね」
「目撃される恐れもあるので、日を改めようとは思ったよ。でもあの人とは何度も会うことは出来ないし、もう一度やり直すには面倒なので思い切って実行したの」
ここまでの彼女の供述には全く矛盾が無い。ただ実際に彼女が殺したという物証が見つかる可能性は、かなり低いだろう。よって本人による自白と状況証拠でしか立証は出来ない。いや例えそうだとしても、彼女を刑事裁判にかけることは出来ないのだ。
それを判った上で、真実を話しているのだろう。事件現場における状況は、彼女しか知り得ない。今のところ嘘をついているとは思えない為、そう信じるしか無かった。それでもこれまで頑なに否認し続けていた彼女が、これほど多弁になるとは意外だ。何か裏があるのだろうかと、思わず勘繰りたくなってしまう。
後は細かい点を、松ヶ根は再度確認した。
「被害者の葬儀の際、九竜一久に騒ぎを起こさせて遺産目当ての親族が怪しいようにしむけたのも、君からの指示だったのかな」
「うん。警察がアリバイの無い親族を疑っていると聞いていたから、利用しようとしたの」
「アリバイ工作についてだけど、九竜一久があの蔵に入った様子を、君はスマホに記録していた。二人の関係が明らかになるまで隠し、必要となった時の為に撮っていたのかな」
「そう。事件の後に彼からお金を貰う為にも、残しておいた方が良いと思ったから」
「脅迫のネタとして、だね。だけどあの時二人が蔵に入っていき、その後出て行く姿を見ていた人がいる。その人がもっと早く警察にその事を証言していれば、すぐに君は疑われていただろう」
彼女は驚いたらしく、目を見開いて言った。
「そんな人がいたの? だったらどうしてその人は、今まで黙っていたの?」
「それは君の事を守ろうと思ったからだよ。当初事件が起こったと思われる時間のアリバイは成立していたから、黙っていれば淫らな関係にある事を隠せると思ったのだろう」
「何故そんなことを? 誰だろう。私の事を良く知っている人?」
「良く知っているとは言い難い。だが君の母親と同様に、子供が欲しいと強く願っていた人だ。彼女が掴めなかった宝を、君の母親は手に入れた。それを守りたいと思ったらしい」
彼女は気付いたらしく、急に丁寧な言葉遣いに戻った。
「さっき言っていた、お母さんが不妊治療をしていた時に同じ病院で見かけた人、ですか。その人って、アリバイが無いから最近まで疑われていた人ですよね」
「そうだ。彼女は二人が蔵に入ってから出て行くまでの様子を、ドライブレコーダーで撮影していた。そこには運転席に座っていた彼女自身も映っていた。それを警察に提出していれば、少なくとも実行犯で無い証明はできただろう。だけど彼女は疑われても良いとまで覚悟し、最近までそれを隠していた」
「私を守る為、ですか。何故そんな見知らぬ人が、そんな余計な事までしたのですか」
彼は再び静かな口調で、言い聞かせるように語った。
「それ程子供というのは、この世における大切なものだという事だよ。少なくとも彼女はそう信じていた。しかしアリバイ工作されている可能性が浮上し、君が犯人かもしれないと気付いた彼女は悩んだ挙句、真実を話してくれたんだ。それは被害者がその人にとって、大事な顧客だったからだけじゃない。君の将来を考えての事だと思う。尊い命を奪ったのなら、その罪を償わなければ、決して幸せな人生を送る事など出来ない。君にはまだこれから長い未来が待っている。その一刻一刻を大切に過ごして欲しいと、彼女は心から願っていた。だからこそ君に自白を促すよう、隠していた事実を明らかにしてくれたんだ」
「そう、なんですね。でももっと早く知っていれば、ここまでの事はしなかったのに」
「それは彼女も悔やんでいた。しかしだからと言って、彼女を責めるのは間違いだ。過ちを犯したのは、あくまで君であり九竜一久だ。二人共が愚かな考えを持たなければ、このような悲しい事件を起こすことは無かった。自分達だけの人生だけじゃなく、被害者の遺族はもちろん、君達の親や周囲にいる多くに人を傷つけ、迷惑をかけたんだ。今後君にどのような判断が下されるか判らない。けれど犯した罪について、もう一度真剣に向かい合い反省して欲しい。そうしなければ、君はさらに不幸な人間を生み出すことになる」
彼女は深く頷き、うっすらと涙を浮かべた。それが本当に、心から悔いた事によるものだと信じたい。だが起こした罪の大きさと身勝手さや残虐性、計画性を顧みた時、吉良は素直にそう思えなかった。
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