九竜家の秘密

しまおか

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エピローグ

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 事件の真犯人が捕まったとマスコミ報道がされた後は、真理亜自身も凄まじい騒ぎに巻き込まれた。それでも激しい取材攻勢を掻き分け、九竜家の名が地に落ちた中、本来の仕事である会社売却に向け動いた。
 当初は、足元を見るような態度を取る企業もあった。だが会社自体に問題はなく、殺された社長はあくまで完全な被害者だ。またその裏にあった背景も影響したのだろう。時間はかかったけれど、結局無事に正当な評価額で会社名義になっている管理物件や土地、株等を全て、売却することが出来た。もちろん社員全員の雇用も守られた。
 その金額は相当な額に上ったことから、真理亜の成功報酬も想定以上に多く受け取ることが出来た。だが問題は多く残っていた。敏子夫人個人にかかってくる税金が、馬鹿にならないからだ。その為に様々な手を打ち、綿密に立てた資産管理や運用計画を間違いなく遂行しなければならない仕事がまだ残っていた。
 兵頭部長を筆頭として、九竜コーポレーションの社員達の多くは売却に対して当初は消極的だった。だが敏子夫人のお腹に、二十年前に久宗氏の凍結した精子と彼女の卵子を体外受精して成功した子供がいると聞き、状況は一変した。
 元々会社売却は、九竜夫妻が還暦を過ぎた後の人生百年時代を迎えるに当たり、改めて子供を産んで育てたいという想いから生じた計画だった。そこでアメリカに渡り、二十年前に残していた凍結卵子と精子で体外受精を試みた所、無事成功したのだ。
 そこでこれからは会社を売り渡し、得たお金は子供と三人で老後を暮らす為に使おうと彼らは決めたのである。もちろん従業員達に迷惑が掛からない条件で交渉して欲しいとの依頼を、真理亜は受けていた。その事を知った兵頭部長達は、積極的に協力するようになった。
 けれど敏子夫人が高齢である事等から、安全に出産できるかどうか不安要素を抱えていた。その為問題なく出産出来て帰国するまでは、隠し通すことにしたのだ。それはそうだろう。世界一の高齢出産としては、七十三歳のインド人女性が体外受精で双子の女児を産んだ例があったとはいえ、決して成功率の高いものではないからだ。
 凍結卵子を用いた世界初の出産例は、一九八六年のオーストラリアで報告されてた。これは九竜夫妻が二十六歳と二十四歳の時だ。そうした例もあり、二人は不妊治療を続けた上で二十年前にアメリカで卵子と精子の凍結をしたが、そのままにしていたという。
 凍結卵子を用いた体外受精の成功率は、卵子を採取した時点の年齢によって差があるというので、敏子夫人は三十八歳の時に凍結保存する決意をしたらしい。その後二〇一七年にアメリカのテネシー州で、二十五年前の凍結卵子を解凍して体外受精に成功した例が報告されている。
 そうしたことも影響して久宗氏は還暦を迎えるにあたり、最後のチャンスだと思ったのだろう。奥様と一緒に渡米し、かつて凍結し残した卵精子の体外受精に挑戦したのだ。その結果奇跡的に成功したことで、敏子夫人は長期入院することになった。
 九竜夫妻の間に子供が生まれたとなれば、相続人が大きく変わる。胎児であっても、妊娠八週目から相続権が発生するからだ。久宗氏が松方弁護士に預けていた遺言書を破棄したのは、その期間が過ぎたからだった。
 しかしその理由を伏せたことが後に不幸な事件を産むとは、誰も想像できなかった。しかも久宗氏が殺害された時、敏子夫人は妊娠五か月前後だった。通常の妊婦であれば、飛行機への搭乗も出来たに違いない。
 だが万が一の事態を考え、彼女は無事出産を果たすことを優先した。よって泣く泣く帰国を断念し、葬儀に出ることも諦めたのだ。これも久宗氏が残した大事な子供を第一に考えての、苦渋の決断だった。
 久宗氏に子供ができた事で、遺産相続は配偶者である敏子夫人と子供が、二分の一ずつ受け取ることになる。よって父親の一久だけでなく、甥や姪達にも遺産が渡ることはない。
 よって一久が受け取る多額の遺産を奪おうと目論んでいた菜月の計画は、殺害前から脆くも崩れていた事を意味する。だからこそ敏子夫人のお腹に子供がいると知らされた二人は、事件について自白し始めたのだろう。
 また遺言書を破棄したと聞いて勘違いした長谷卓也の取った行為もまた、無駄なものだった。これも秘密を保持した為に起こった、不幸な出来事と言える。そこで長谷だけでなく、一久や菜月が逮捕されたことを機に子供を妊娠している事実を公にした方が良いと、真理亜は敏子を説得したのだ。
 テレビ電話で状況を聞いた彼女は、それを了承した。その要因の一つは、菜月が久宗氏を殺したと自供しながらも、襲われたことによる正当防衛だと明らかに嘘だと判る供述をしていたからだろう。
 久宗氏がEDだったという余り公にしたくない事実を伝えてでも、彼の名誉を守ろうと考えたに違いない。また何故殺されなければならなかったのか、その真実を明らかにする為には、それしかないと真理亜が強く訴えたからでもあった。
 真犯人とその動機を明らかにし、自白を引き出すことが出来た為、真理亜は自らの無実を証明しただけでなく、顧客の信頼も保つことができた。その上当初の依頼通りに遂行した仕事について、高い評価を受けることもできた。
 ただし全く問題が無かったわけではない。何故ならPA社としては、社員の娘が顧客を殺した犯人だと明らかになった為、社会的信用を少なからず損ねたからだ。それでもまだ十二歳という刑事事件にできない年齢だっただけでなく、別の同情すべき事実が公表されたおかげで、それ程大きな影響を受けずに済んだことは幸いだった。
 というのも菜月が起こした事件の背景を調べていく内に、彼女が父親から虐待を受けていたと告白したからだ。どうやら休職して家に籠っていた父親は、母親が働きに出ている間、学校から帰ってきた菜月に時折怒鳴るようになったらしい。
 強いストレスと躁状態からくる反動から、そうした行動を取り始めたのだろう。やがてそれはエスカレートし、暴力を振るうようにもなったようだ。またその事を母親は、薄々気付いていたというから質が悪かった。結果二人とも児童虐待防止法違反の疑いで逮捕された。
 そうした家庭不和があった為彼女は夜遊びをするようになり、出会い系サイトを通じて売春までし始めたと語っていた。遅く家に帰っていたのも、父親からの暴力を受けない為であり、またお金さえあれば両親から逃げられると考えていたらしい。
 さらに寺内家の近所にある公園で発見された樹木の傷は、元々菜月がいつか父親を殺してやろうと思い、千枚通しを使い突き刺した練習の跡だったという。しかし一久と出会ったことで、殺害計画の相手は父親から久宗へと変わったようだ。
 彼女が途中から松ヶ根の取り調べに応じたのは、子供の事を知ったからだけでなく、罪に問われることで全てを打ち明けることが出来る、そう思ったという。彼らは彼女の変貌ぶりに違和感を持っていたらしいが、こんな残酷な理由だとは想像していなかったようだ。
 しかも彼女が久宗を十数ヵ所もハサミで刺し殺せたのか、その時の心境も聞きだせたという。供述によれば、憎い父親だと思い込み彼の胸を千枚通しで刺したらしい。その後はかつて出会い系サイトで男達に襲われた時の恐怖心と、父親に対する怒りを爆発させた結果、あのような残忍な行為が出来たそうだ。
 ちなみに相原は、保険会社を通じて手数料のキックバックを求めていた事が発覚し、解雇となった。また杉浦や沼 田についても、PA社から保険会社に対し苦情を申し立て、担当変更を余儀なくさせた。彼らもその後社内で処分を受けたと聞いている。
 寺内は当然のように会社を辞めた。しかし相原だけでなく本社による指示で八条などの社員も入れ替わった。それは無事子供を出産して帰国した、敏子夫人による影響だった。 
 彼女は一連の事件における経緯について感謝の手紙を綴り、それを直接PA社の社長宛に送付していたらしい。その中で真理亜が会社で受けている、理不尽な環境についても触れたようだ。それに目を通した社長は激怒し、事務所の従業員を大幅に入れ替えるという荒業に出たのである。
 その為職場の雰囲気は一気に改善されたものの、引継ぎの仕事などが増えた。よってしばらくの間、真理亜は仕事に忙殺されることとなった。それがようやく落ち着いたところで敏子夫人からお招きを預かり、彼女が産んだ子供に面会する事ができたのだった。
 その場には松ヶ根や吉良も呼ばれていた。どうやら事件を解決してくれた労をねぎらう為と、菜月のその後等を尋ねたかったようだ。その想いは真理亜も同様だった。
 彼女が帰国した頃には起訴された一久は勾留され、裁判の結果を待つばかりの状態だった。松方弁護士によると、恐らく菜月に脅されていたことから情状酌量の余地があるとはいえ、殺人の共犯として十年前後の実刑は免れないだろうとのことだった。彼の年齢からすれば、生きて刑務所から出てくることは叶わないかもしれない。
 さらに菜月の処遇も家庭裁判所による精神鑑定を経た上で、二年間までの行動の自由を制限するとの条件の下、児童自立支援施設への送致が決まっていた。両親にも実刑が出ると言われていた為、彼女は最低でも十八歳を過ぎるまでは施設で暮らすことになるはずだ。 
 彼女の精神状態は不安定とはいえ、障害があるとは認められなかったと聞いている。よって事件は、おおよそ想像された通りの結末を迎えていた。

 二十畳はあるだろう広い客間の片隅に置かれたベビーベッドで、赤ん坊は眠っていた。ふっくらとしてとても柔らかそうな頬をほんのり赤く染めて、静かに目を瞑っている。訪問したのがお昼過ぎだったので、食事も終わりお昼寝の時間だったからだろう。
 部屋から外に視線を移せば、これまた立派な純日本庭園が広がっていた。さすが九竜家と思わせる壮大さながら、眺めるだけで心を落ち着かせてくれる優雅さを兼ね備えていた。
 しかしそれをはるかに上回るほど真理亜を和ませてくれたのは、寝ている彼だった。可愛い男の子で、とても元気そうに見える。産まれた時の体重は三千グラム弱で、心配されていた健康状態も全く問題なかったと聞き安心したものだ。
 掛け布団からチョンと出した手が、余りにも小さい。ただ見つめているだけで幸せな気分に浸ることが出来た。その為、ずっと眺めていると夫人から声がかかった。
「どうぞこちらでお茶でも飲みながら、少しゆっくりされたらいかが」
 普通なら畳に腰を下ろした状態でも、赤ん坊の顔が見える高さのベッドだ。柵はあるけれど、その間にも隙間があるので覗こうと思えば可能だった。
 だが真理亜は背が低い。よって子供の顔を上から良く見るには、膝を立てなければならなかった。その為ずっと無理な態勢でいたことを気の毒に思ってくれたらしく、そう声をかけてくれたのだ。
 少し離れた場所に置かれた立派な黒いテーブルには、既に見飽きたらしい吉良が胡坐を掻いている。お茶をすすりながら、出されたお茶菓子をぼりぼりと食べていた。その正面に座っていた彼女はこちらを見ながら、苦笑いをしていた。
 それもそのはず、眠っている赤ん坊を既に三十分程見続けていたのは、真理亜だけでなかったからだ。強面の松ヶ根さえもが畳に腰かけて、かぶりつくように身を乗り出していた。その為吉良からも、からかいの声が飛んだ。
「そんな鬼のような怖い顔をして、本当に食べないでくださいよ。今寝ているからいいですけど、起きたら絶対に泣いちゃいますから、気を付けてください」
 二人揃ってなかなかベッドから離れない様子を見て、さすがの夫人も呆れたのかもしれない。吉良の軽口を聞きながら、笑いを堪えていた。
「すいません。それにしても、すごく可愛いですよね」
 真理亜が答えると、彼もまた頷いていた。
「あなた達は本当に、子供が好きなのね」
 彼女の言葉は否定しなかったが、素直に肯定もし辛かった為、ただ笑って返した。それは彼も同じだったらしく、やや困惑した表情をしながら肩を掻いていた。余りしつこく眺めているのも迷惑だと思い、二人で彼女達がいるテーブルへと移動した。
 すると夫人が言った。
「あなたの気持ちは良く判るわ。私も長い間子供が持てなかった分、人の子を見ただけでもすごく愛おしく思ったもの。日香里が小さかった頃なんて、本当に今のあなた達と同じだったわ。丁度私達が最後の冷凍卵子と精子を残してアメリカから帰って来た頃、あの子が産まれたのよ。その後に智美さん達が事故に遭って、家の中がバタバタしちゃったでしょう。だから子作りなんて気分にもなれず、そのまま諦めちゃったから」
 そう言われると、二十年前と言えば長谷卓也が事故を起こし、一久の長女が亡くなった頃だ。その年に次女は日香里を出産し、九竜夫妻も妊活を終了させたことになる。真理亜自身は不妊治療の真っ最中だった。別の意味で苦しんでいた時と言えるだろう。
 彼女には仕事の依頼を受けてから早い段階で、プライベートを打ち明けていた。というのも九竜家を紹介してくれたマンションの大家に、過去の苦労話を少しばかり告げた事が、全てのきかっけだったからだ。
 最初は隣人の夫婦喧嘩から始まった。現在七十代の大家夫妻は所持していた土地を活用し、六世帯分の部屋を作り賃貸料を老後資金に充てるというマンション経営をしていた。その一階部分に自分達が住む二世帯分の広さを確保し、終の住処とするつもりだったらしい。
 真理亜の部屋は大家の部屋から最も遠い位置にあったが、彼らの部屋からすると斜め上の部屋で隣人達が大声を出していた為、その騒ぎには気づいていたらしい。また真理亜が当初壁を叩いたこともあり、大家は彼らの所へ注意しに訪ねた事があるという。
 だがそこで喧嘩の理由を聞いたのだろう。余り深入りしてはまずいと思ったらしい。何故なら、大家夫婦にも子供ができなかったとの苦い過去があったからだ。そこで喧嘩するにしても少し声を抑えるようにとだけ注意した後、真理亜を訪ねて経緯を話に来た。
 大家として揉め事は避けたいので、真理亜がどう思っているか気になったかららしい。出来るだけ穏便に済ませたいと、お願いしに来たのだ。その時には既に喧嘩の理由が子供の事だと気付いていた為、真理亜は大家に大丈夫ですと答えた。
 そこで成り行き上自分も昔苦労したのだという話になり、大家夫妻もそうだと聞いて意気投合した。そこから九竜家に繋がったのは、マンションが建つ土地はかつて一久の祖父が亡くなった際売りに出された場所だったからだ。大家がそれを購入したらしい。
 それだけでなく、敏子夫人もまた子供に恵まれない境遇にあったことから、近所である大家と共通の話題を通し親しくなったという。また平屋建ての一軒家が古くなったことからマンションへ建て替える計画になったのも、九竜コーポレーションに相談した為らしい。
 その後二十年前に凍結した卵子と精子の体外受精成功したことをきっかけに、九竜家の財産整理の話が持ち上がった。そこから真理亜が資産運用の仕事をしている事を知っていた大家は、九竜家を紹介してくれたのだ。
 真理亜はある程度の能力や知識、経験が身に付き始めた若い頃、未来は自分自身の力で切り開くものだと気を張っていた。けれどさらに年を重ねた今振り返ってみれば、かなりの部分は多くの人達との出会いや縁で築かれたものだと感じる。
 特に人との結びつきは、どこでどう繋がるか判らない不思議なものだと、この時ほど感じたことは無い。近所付き合い等の人間関係を避ける為に選んだマンションで、今の大家と出会った。その事が真理亜の人生において、一生忘れられない体験をすることとなったのだ。
 最初は当然ながら、そこまで予測していた訳ではない。しかし誰にも言ってこなかった二重人格の事までも、敏子夫人に打ち明けた。その事が良かったのだろう。彼女とはテレビ電話でしか会話した事がなく、久宗氏と直接会ってそれほど日が経たないにも関わらず、絶大な信頼を得ることができたのだ。
 真理亜は赤ん坊の寝姿を見ながら、夫人の言葉に答えた。
「子供って、とても愛おしいですよね。小さいというだけで、無条件に可愛いと思ってしまいます。それだけじゃなく、あの無邪気で無防備な姿に、無限の可能性を秘めている。だからこそ守ってあげたくなり、行く末が気になるのでしょうね」
 すると彼女は、遠慮気味に言った。
「もしかして、子供は産まないと選択した事を後悔しているの?」
 真理亜は首を振った。
「いいえ。それはありません。もちろん奥様、いえ社長があのようなお子さんを出産されたことは、正直羨ましいです。だからといって、自分があの時子供を産んでいれば良かった、とまでは思いません。今考えても、間違っていなかったと確信しています。もし産んでいれば、また違った人生を送っていたでしょう。でもそれが幸せだったかと聞かれたら、そうだったに違いないと言える自信は全くありません。もしかすると自分だけでなく、子供さえも不幸にしていたかもしれません」
 夫人は悲しげな顔で質問した。
「あの寺内という女性のように、ですか」
「極端な例だとは思います。でも決して他人事には思えませんでした。子供は親の所有物ではないけれど、自分があの様にならなかった確証なんて、ありませんから」
「そんなことはないと思うわよ」
「いいえ。当然ですが寺内さんだって、最初から菜月ちゃんをあのような子に育てようとした訳ではありません。私と同じく子供を産むことに苦労したり、またご主人が病に罹ったりと色んな条件が重なった結果です。私が二重人格という特殊な障害を持ったことも、自分ではコントロールできませんでした。人の未来なんて、一歩先に何が起こるか予測できない事が多すぎます。だからこそ面白いという面もあるでしょうが、一歩間違えれば地獄です。幸い私は、人や環境に恵まれてここまで来たのだと思います」
 しかし夫人は優しい言葉をかけてくれた。
「もちろんその間にあなたがしてきた努力や、それに伴う振る舞いや考え方が現在を創ってきたのでしょう。運も実力の内と言います。あなたが今幸せと思っているのなら、それは自分自身が引き寄せたものだと思いますよ。それにこう言っては何ですが、寺内さんという方は、どこかで努力の仕方を間違ったのでしょう。もちろん自分の力ではどうにもできない不幸が、身に降りかかることはあります。ただそれは誰しも起こりえる事でしょう」
 九竜家の事を言っているのだと判った。夫人も長女を事故で、次女を病気で亡くされたのだ。一久の妻も亡くなられている。彼女は続けて言った。
「ですからお義父様が犯した過ちを、正当化することはできません。あくまでご本人の心の弱さが生んだ、大きな過ちです。もちろん私達が子供を産もうとしている事を、隠していたから起こったことかもしれません。ですが途中で引き返すタイミングは、何度もあったはずです。それは菜月さんだってそうでしょう。人は必ず過ちを犯すものです。ですがその後どう動くかによって、未来は決まります。より悪化させるのか、何とか踏み止まるのか。最後はそこに、心があるかどうかでしょう。そこで大事な点は、人を不幸に巻き込むかどうかだと思います」
 真理亜は頷いた。
「そうかもしれません。だからといって、一人で抱え込み自殺するのも間違いですよね。それも周囲の人達を傷つけ、更なる不幸な人を生み出します。下手をすれば次の死者を出すことに繋がる事だってありますから。私も心の病にかかった際、それだけは止めようと、心に誓ったことを覚えています」
「あなたがそう思って生き続けてきたからこそ、私達は出会えたのですから」
 そこで、それまで黙っていた松ヶ根が語り出した。
「私も、う~、後悔していません。自分のような障害を持つ人間の遺伝子を残すことに、抵抗があったからです。三郷さんの言う通り、産んでいたら別の人生があったでしょう。それは思ったよりも決して不幸ではなく、幸せだったかもしれない。でもその勇気が持てなかった時点で、あの時の選択は、う~、間違っていなかったのだと思います。九竜夫妻のような選択も、あったかもしれません。もちろんそれを否定するつもりはありませんし、人それぞれの道があります。経済環境も違いますからね。ただそれを色々いう人達もいるでしょう。ですが少なくとも、う~、ここにいる私達は応援していますし、そういう社会であって欲しいと思います」
 彼の言う通り、彼女が子供を連れて帰国した際は、事件の件も含めてマスコミの手で世間に大きく広まった。
 そこで金にものをいわせただの、六十近くにもなって子供を産んでちゃんと育てられるのか、子供が可哀そうだろう、そのせいで夫が殺されたんじゃないか、そのせいで十二歳の子を殺人犯にしてしまった等々、心のない言葉が多数浴びせられたのも事実だ。
 周辺では応援する人の方が、圧倒的に多かった。それでも自分達は味方だと言いたくて、今回彼女のお誘いに応じたと言っても過言ではない。それは彼らも同じ気持ちだったらしい。それを聞いて、真理亜は嬉しくなった。
 夫人は彼に頭を下げていた。
「有難うございます。あなたも三郷さんと同じく、障害をお持ちなんですってね。それでも代わりに得た能力を、仕事に活かしていると伺いました。今回もあなた達の活躍のおかげで、夫の名誉を回復し、事件の真相を明らかにして頂きました。改めてお礼を言います」
「いいえ。私達だけでは解決できませんでした。三郷さんの協力があったからこそです」
 それを聞き、彼女はこちらに向かって言った。
「そのようですね。三郷さんにも改めてお礼します。ありがとう」
「いえ。滅相もありません。お役に立つ事が出来ただけで、十分です。それにあんな可愛い赤ん坊が見られたのですから、こちらこそお礼申し上げます。有難うございます」
「本当ですね。私も、う~、そう思います。三郷さんと同じく子供を持たなかった身としては、この世に新しく生を受けた子全てが、う~、とても尊く感じられます。だからこそ私達は大人として、彼らにもっと美しいものを見てもらいたい。世の中は素晴らしいものだと感じて欲しい。その為に犯罪が起こらない社会へ少しでも近づくよう、う~、努力するのが自分の与えられた使命だと思っています。そうだよな」
 松ヶ根は横にいた吉良にそう言った。すると彼からは意外な反応が返って来た。
「はい。というか今回の事件が無ければ、そんなことは考えなかったかもしれません。結婚して子供がいることなんて、当たり前だと思っていましたから。でもそうではないと気付かされました。だから妻や子供を大事にしようと心を入れ替えたのです。そうしたら、今度二人目の子を授かることが出来ました」
「そうですか。それはおめでとうございます。良かったですね」
 夫人はとても柔らかい表情をして、彼にお祝いの言葉を述べていた。しかし松ヶ根が口を挟んだ。
「実はこいつ結婚して子供もいるのに、出会い系サイトで主に年配の女性を相手に遊んでいたんですよ。でも今回の事件で、う~、寺内菜月のような子がいると知って、怖くなったようです。子供を産むことの大変さも今回の件で、学んだんじゃないですか。それに、う~、三郷さんの推理力や豊富な知識にも、感心したようです。ああ、念の為に言っておきますが、金銭の授受など法を犯すことはしていませんでした。それは既に確認済みです」
 すると吉良がさらに付け加えた。
「それだけじゃないですよ。見た目のギャップだけでもすごいのに、二重人格者なんてキャラが加わったらお手上げです。これまで出会い系サイトで年上の女性とは沢山会いましたが、三郷さんのような人は初めてです。色んな意味で女性の恐ろしさを知りましたよ」
 真理亜はぷっと吹き出しながら叱った。
「失礼な人ね。あなたは年上好みだったようだけど、そういう遊びから足を洗った事だけは褒めてあげる。でも警察官なんだから、もうちょっと自覚を持ちなさい。馬鹿なことをしてないで、もっとやることがあるでしょ。まだ若いんだから」
「はい、そうします。これからは家庭を大切にします」
「それはいい事ね」
 ここで四人は笑った。真理亜は再び、ベビーベッドで横たわる赤ん坊を見た。彼はこちらの騒ぎに驚いて起きることもなく、静かに眠っていた。柵の間から覗かせているその姿は、いつまで見ていても飽きない。
 この幸せなひと時を噛み締めることができない久宗氏の無念さは、想像もできなかった。それは夫人も同様のはずだ。二人で仲良く寄り添いながら彼を見つめているだけで、幸せだったに違いない。
 そうしたあるべき人生を奪った一久や菜月の事を思うと、怒りが湧いてくる。と同時にそれを止められなかった自分の無力さにも腹が立った。お金というものがどれだけ恐ろしく、醜い争いを産んできたかは、これまでPBとして富裕層の方達と多く接して来た真理亜にとって、十分承知していたことだ。
 それでも今回のような予想を上回る悲劇が起こった事で、やり場のない気持ちが生じた。それでも自分はこれからも出来る限り、顧客に寄り添ってやれることに全力を尽くすしかない。
敏宗としむねと名付けられた無垢な寝顔に癒されながら、そう真理亜は強く心に誓っていた。(了)
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