九竜家の秘密

しまおか

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第六章

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 松ヶ根が三郷に対し、別人格がいると言い出した時は正直唖然とした。一体この人は何を言い出したのか、意味を理解するまで時間が必要だった。それでも彼の説明を聞きその間における彼女の様子を見ていると、ようやくそれが単なる戯言ざれごとで無かった事が判った。
「あなたは私が二重人格者だと決めつけていますが、何を根拠にそんな事を言うのですか」
 彼女の反論に、吉良でさえ頷いてしまった。だが彼は淡々と言った。
「最初におかしいと思ったのは、会話している中で事件や仕事以外の話題に触れた時、あなたの表情や声や仕草が変わった事です。また以前電話で、スマホとパソコンの提出を依頼したことがありました。あの日はその前に会って、事情聴取をした時です。けれどもその時の声のトーンや様子は、目の前で会話を交わした時とは余りにもかけ離れていました。私の中で決定的だと確信したのは、先程です。違和感を持っていたところに、あなたがお茶を淹れ直してくれました。最初に用意して頂いたものは、正直言って余り美味しくなかった。かつて結婚されていたとはいえ、共働きで当時から仕事熱心だったのでしょう。一人になっても仕事に忙しく、家事が苦手なのかもしれない。だからそうした事に、余り得意で無い方なのだと解釈していました。けれど二杯目は全く違った。一杯目と同じ人が淹れたとは思えない程、美味しかったのです。少し拝見していましたが、茶葉を変えた訳でもない。ただ出すまでの手順が、とても丁寧だったことを覚えています。しかもお茶菓子まで用意された。まさしく人が変わったような行動を取られた」
 彼女は明らかに動揺していた。
「そ、それは偶然でしょう。最初の時は上手くいかなかっただけで、お茶菓子も途中で気が付いただけです」
 しかし彼は問い詰めるのではなく、諭すように言った。
「隠さなくてもいいのですよ。解離性同一性障害というのは、それほど珍しいものではありません。様々な理由で起こると聞きますが、あなたの場合は過去に震災を経験されたショックや、子供の件などで苦悩された事等が原因でしょう。話を伺っている限りだと、後者の件が最も大きな要因になっていると思います。今でもクリニックに通われているようですが、それは前に会社を辞めた際に発症した、うつ病の治療だけではありませんね」
 彼女が言葉に詰まったことで、吉良もそうなのかと疑ってみた。松ヶ根の指摘したお茶の味は、言われてみればそうだったかもしれない。お茶菓子も二杯目の時に出された事で、ようやく警戒心が解けたのかと思ったけれど違ったらしい。
 だが彼女はなかなか認めようとはせず、上ずった声で否定していた。けれど明らかに挙動不審な姿は、これまで堂々としていた態度とは全く様子が違う。
「治療内容に関するデリケートな事なのに、よくもそんな決めつけた言い方をされますね。プライバシーの侵害にも、度が過ぎます」
「お気持ちは判りますが、我々も遊びでこのような話をしているのではありません。人一人が、殺されているのですよ。しかもあなたが担当されていた、大事な顧客ではありませんか。この事件について真犯人を探す為の捜査に協力するよう、敏子夫人からも言われていますよね。あなた自身もそれを望んでいる。だったらいつまでも、重要参考人のままでいてはいけない。あなたが無実だというのなら、全てをさらけ出してください。あなたは疑われているのですよ。そこに来て二重人格である疑いが出てきた。それならこれまで話してきた人格と別人格との間で、意思の疎通ができているかどうかは、重要なことです。あなた自身が預かり知らない無意識の中で別人格が行動を起こし、久宗氏を殺害した可能性だってある。だが二重人格といっても二人の間で話したり、記憶などを共有したりするケースもあると聞きます。あなたはどちらなのですか。その答え如何では、逮捕状を請求することも視野に入れなければいけません。これまでは任意の取り調べでしたが、容疑者として徹底的にこの部屋の家宅捜索を行い、強制的にあなたの周辺全てを洗いざらい調べることになります。それで良いのなら、そうしますが」
 今までにない口調で迫る彼に、彼女の表情は硬直していた。それはそうだろう。吉良さえもおののいたぐらいだ。事前の打ち合わせで、このような追い込み方をするとは聞いていなかった。しかし彼女が二重人格だと気付いた為、ここで勝負に出たのだろう。
 彼女は俯いて吉良達から視線を逸らした。しばし沈黙が続く。どう答えるか二人でじっと待った。個人的な見解ではあったものの、正直言えばこれまでのやり取りの中で、彼女が実行犯だという確信が持てていなかった。共犯ですらないと思っていたほどだ。
 けれども松ヶ根の言う通り、二重人格者となれば話は大きく変わる。吉良達が見てきた彼女と別の人格が存在するのなら、これまで抱いてきた彼女に対する印象など、全く当てにならない。返答によっては、強硬策を取らざるを得ないだろう。
 ようやく彼女が顔を上げた。すると驚いたことに、これまでの表情とは明らかに異なっていた。人が変わったかのように見えるとは、まさしくこの事だ。二重人格との話が出ていなければ、何かが突然憑依ひょういしたかと勘違いしたかもしれない。
 恐らく今まで話していた彼女とは、別の人物が表に出て来たのだろう。その人格の主らしきものが口を開いた。
「あなた方が私をいつまでも疑っていらっしゃるのは、事件当夜のアリバイに穴があるからですよね。申し訳ございません。これまで隠してきましたが、八時半過ぎから駐車場を出るまでの約二時間、私は車内にいたという確たる証拠がございます」
 期待していた答えとは全く異なる証言が飛び出したことで、吉良達は驚きを隠せなかった。と同時に彼女の口調がこれまでのはきはきとした喋り方とは違い、おっとりとした声色に変わった事に気づく。
 その上声の調子も若干低く小さい。これまでが明瞭だった分、少し暗く大人しい感じがする。そういえば先程お茶を入れ直しましょうと言った時の彼女は、こういう話し方をしていたかもしれない。おそらく特殊能力を持つ松ヶ根は、そこでも気付いたのだろう。
 やはり二重人格という読みは当たっているようだ。しかし彼は新たな供述に対し尋ねた。
「確たる証拠とは何ですか?」
「ドライブレコーダーの映像です。事件のあった日の夜、間違いなく駐車場にいた私の姿が、そこに映っています」
 彼は首を捻った。
「それは既にご提出いただき、上書きされてしまった事を我々が確認していますよね」
「申し訳ございません。あなた方にお渡ししたものとは別の、SDカードが存在します。そこにはこのマンションを出てから、駐車場を出るまでの間の映像が残っています。もちろん運転席に座る私の姿も映っていますので、間違いありません。念の為別のUSBにも保存した後、両方ともドレッサーの引き出しの中に隠してあります」
 これには松ヶ根の方が動転したらしい。身を乗り出して詰問した。
「謝って頂いても困ります。どういうことですか。もう少し詳しくご説明頂かないと、理解できません。とにかく無いと思われていた、あなたのアリバイは証明されるのですね」
「はい。後でお渡しします。実はあの駐車場にいた際、私は見てはいけないものを目にしました。その時の様子が、ドライブレコーダーによっても撮影されていることに気付いたのです。そこで迷いましたが、後々の為に証拠として残そうと考えました。だから上書きされ消えてしまわないよう、駐車場から出る前に予備のSDカードと差し替えたのです。するとその翌日に想像もしていなかったあの事件が起こり、幸か不幸か自分の車を出すことになりました。その途中で久宗氏が殺害されたことを知ったのです」
「ちょっと待ってください。そうなると上書きは、意図的にした事なのですか」
「はい。刑事さん達から色々質問をされていく内に、状況が少しずつ判ってきました。自分が後に疑われるだろうことも理解していたのです。けれどもいざとなれば、私にはアリバイを完全に証明できるSDカードがある。だから容疑がかかったとしても、無実を明らかにできると考えました。それより問題のシーンが写った映像を、あの時点で警察に見られてしまうことに抵抗がありました。そこで思案した結果、関係者への連絡や打ち合わせがあるとの口実を作ったのです。そうしていつも以上に車を走らせ、ドライブレコーダーに記録される時間を稼ぐことに成功しました」
「だから私達が見た映像は上書きされており、アリバイの証明にはならなかったように見えたのですね。おかげであなたは重要参考人として、何度も事情聴取を受ける羽目になった。それなのに今まで隠さなければいけなかった理由は、一体何なのですか」
 そう話した所で、何かに気付いたようだ。吉良もどうしてなのか、時系列を追いながら頭の中で整理してようやく思い当たる。それと同じ事を彼は口にした。
「なるほど。あなたは一久氏を見たのですね。あの時間、彼は九竜家が所有する米蔵にいたと証言している。実際彼が乗っていた車のドライブレコーダーには、その姿が映っていました。ただそれでは確認できない何かを、あなたは見てしまった。しかもそれを映像として捉えていた。そういうことですね」
 当たっていたらしい。彼女は静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。現場で聞かれたアリバイの時間帯から考えると、事件とは関係無いだろうと思ったのです。だから明らかにする必要は無いと判断しました。重要参考人になることを、できれば避けたいとも考えました。けれど最終的には、隠そうと決めたのです。しかしここまで来れば、隠し通すことで捜査を妨害しかねません。また映像の件は、敏子夫人にだけ報告をしています。夫人からは警察からの追及が厳しくなったなら、証拠を提出するようにと言われました。逆に言えば、できるだけ九竜家の名を傷つけないようにして欲しいと、依頼されていたとも言えます。ですからお話しすることが遅れました。その辺りの事情をご理解いただければ幸いです。大変申し訳ございませんでした」
 ここで吉良も腑に落ちた。そこまで九竜家の為に動いていたからこそ、敏子夫人から絶大な信頼を得ることが出来ていたのだろう。いくらこれまで信頼を得て来たとは言っても、相手はここ一年近く日本にいなかった人だ。
 しかも三郷が仕事を受けたのは四カ月ほど前の為、九竜夫妻からの依頼と言ってもおそらく窓口はほとんど久宗氏だったと思われる。敏子夫人と話をしたとしても、テレビ電話越しだけだったに違いない。
 それなのに久宗氏殺害の重要参考人として名を挙げられている彼女を、何故顧問弁護士の松方さんや役員の由利さん以上に信用しているのか、不思議でしょうがなかった。だが今の話によれば、彼女にアリバイがある事を知り、少なくとも実行犯ではないと判っていたからだとすれば、これまで抱いてた疑問は多少なりとも解消される。
戸惑う吉良達に向かい、彼女は言った。
「信じて頂けましたか」
 松ヶ根はそれに対し、小声で答えていた。
「正確に言えばSDカードをご提出いただき、こちらで詳細に分析した上であなたのアリバイを確認してからになります。ただそれだけだと、共犯者で無い事は証明できません。あなたが実行犯に、カードキーを渡していないとは限りませんから」
「それでも結構です。それでは早速SDカードをお渡ししますね。寝室に置いてありますので、少々お待ちください」
 彼女はそう言って席を立ち、隣の部屋へと消えていった。その後ろ姿が消えたことを確認してから、吉良は松ヶ根に囁いた。
「二重人格だと、良く気付かれましたね。彼女はまだ肯定していませんが、あの反応からすると間違いないでしょう。小説や漫画で読んだことはありますが、現実でそういう人と会ったのは初めてです」
「俺だってそうだ。最初は、う~、信じられなかったよ。だが考えれば考える程、俺が持った違和感を説明できるのは、それしかないと思ったんだ」
 小声で話している間に、彼女は戻って来た。手には小さなプラスチックケースを持っている。それを松ヶ根に渡した。受け取った彼はその中身を空け、中にSDカードが入っていることを確認し、吉良にも見せてくれた。
 その上で彼は言った。
「有難うございます。後程こちらで、中身を確認させていただきます。ところで最初の質問に戻りますが、あなたは解離性同一障害者ですね」
 しかし彼女は、穏やかな声で答えた。
「私がメンタルクリニックに通院していることは否定しません。ただそれはうつ病を発症したからであり、その経過観察を兼ねたものです。こうした病気は完治したとの判断が難しく、また今でも時折動悸や頭痛に襲われることがあります。ただ仕事に支障をきたすまでには至りません。ですがいつ再発して症状が重くなるかも判らないので、薬の服用と通院を続けているに過ぎません」
「否定なさるのですか」
「私の個人的な病状について、これ以上ご説明することはお断りします」
 彼女は気付かれていると認識しながらも、どうやら認めるつもりはないらしい。もちろん診療情報というのは、重大な個人情報だ。それでも裁判所の許可を得ての令状とまではいかなくても、警察内部での文書により彼女が通うクリニックへの情報開示請求は、刑事訴訟法第一九七条二項により可能だろう。
 それでも病院側から本人の同意がない限り開示できないと言われれば、強制はできないし罰則規定もなかった。今回のようなケースなら、拒否される可能性は高い。といって令状を取る段階かといえば、かなり難しい判断になる。
 だからか彼は、それ以上深く掘り下げる事を諦めたらしい。そこで方向転換を図った。
「そうですか。それでは質問を変えます。あなたは敏子夫人に、ドライブレコーダーの映像を見せたとおっしゃいました。ですが時間的な事を考えると、事件が起こる前からSDカードを隠そうと決めている。しかもその後殺人容疑がかかる恐れがあると知りながら、行動を変えようとはしなかった。そこまでされた理由は何ですか。何故そうしようと考えられたのですか」
「映像を見て頂ければ判ります。ただ個人的には一久氏を守ろうとしたというより、一緒にいた人物の事を考えての行動でした」
 これは新たな、しかも重大な証言だ。彼はさらに追及した。
「一久氏ではなく、一緒にいた人物を守ろうとした。それはどういう意味ですか」
「今はこれ以上お話しする気にはなれません。映像を確認されてからにして頂けますか」
 彼女は苦しげな様子を見せた。この話題になった途中から、別人格が現れている。その事と、何らかの関係があるのかもしれない。詳しくは知らないが、解離性同一性障害とは一般的にストレスや心的外傷が関係していると、何かで読んだ記憶があった。
 人間の記憶や意識、知覚やアイデンティティは一つにまとまっているのが通常だ。しかし辛い体験によるダメージを避ける為、精神が緊急避難しようとして発症するのがこの障害だったと、何かで読んだ気がする。感覚をまとめる機能の一部を一時的に停止させることで、二重人格などが現れると吉良は理解していた。
 松ヶ根はその様子を見て、再び話を戻した。
「あなたの話を疑うつもりはありませんが、念の為かかりつけの医師から話を伺う事や診断書をご提出いただくことは可能ですか。こちらも上に説明する必要があります。もちろんお預かりしたSDカードを精査しあなたにアリバイがあるとなれば、少なくとも実行犯でないことの証明はできます」
「それでも共犯者の可能性は、排除できませんよね。そうなると、仮に私が二重人格者だという事を証明すれば、より疑わしくなりませんか」
 彼女の言い分は正しかった。捜査本部がこの情報を入手すれば、彼女への疑いはより強くなるだろう。彼も否定できず、素直に頷いた。
「確かにそうです。今後は実行犯と繋がりがない証明が、必要となるでしょう」
「動機がないことも、ですね。しかしないことを証明するのは、いわゆる悪魔の証明でしょう。かなり難しいことになりませんか」
「もちろんこれまでお話し頂いていないことも、全て明らかにしていただく必要があるでしょう。あなたは他にも、我々に隠していることがありますね」
 松ヶ根は再び厳しい口調に変わった。しかし彼女は怯まなかった。
「何から何まで話すことなど、不可能でしょう。ただ事件に関係していることならできる限りお話しするようにと、奥様からも申し付かっています。何か隠しているという漠然としたものでなく、具体的なご質問をして下さい。そうでないとお答えようがありません」
 吉良はおやっと思った。先程までの大人しい口調から、以前の明朗な受け答え方に戻っていたからだ。もしかすると、再び人格が入れ替わったのかもしれない。彼も当然気付いているだろう。容赦なく質問を続けた。
「でしたらお聞きします。先程財産分与について、久宗氏が亡くなられたことで一久氏にも渡るとの話になりましたが、あなたは関与しないとおっしゃいました。それは矛盾していませんか。会社の株が、敏子夫人に全て渡ることは理解できます。ただ久宗氏が所有していた資産の三分の一は、一久氏に移行するはずですよね。あなたは九竜夫妻の資産管理や運用を任されていた。つまりその三分の一が欠けることになる。相当な額でしょう。あなたがこれまで設計して来た計画に、大きく影響するはずです。それなのに関与されないのは何故ですか」
 彼女は即答した。
「あくまで私の依頼者は、九竜夫妻だけだからです。一久氏は含まれていません。もちろん会社を整理する件は、先代である彼に九竜夫妻からそれとなく説明されていたようです。しかし高齢であり、会社から退いて十年経つからでしょう。全て一任するとの意向だったと聞いています。よって具体的な事については、全て夫妻と私と由利監査役だけの間で話を進めてきました。その後の財産整理や運用管理等も、全て九竜夫妻名義のものに限定されています。よって一久氏の所有財産については依頼の無い現在、私が関与することはできません。よって今となっては敏子夫人が受け継ぎ、所有されるだろう資産についてのみ考えるだけです。もちろん久宗氏がお亡くなりになられましたから、計画の変更はまぬがれないでしょう」
「それだけですか。他に意図があっての発言のように、私は受け取りましたが」
「どのような意図があるというのでしょう」

 彼女がそこまで答えた時、松ヶ根の携帯が震えた。と同時に吉良の携帯にも連絡が入ったようだ。恐らく何かの緊急連絡が入ったと思われる。その為二人は席を立った。
「すみません。少々お待ちください」
 黙って頷いた彼女を残し、ドアを開けてリビングを出た二人は電話に出た。すると思いもかけない報告が、捜査本部から入った。なんと長谷卓也が、兵頭日香里を階段から突き飛ばしたらしい。
「怪我は?」
「尾行していた捜査員が咄嗟に飛び込んだおかげで、幸い大事には至らなかった。擦り傷程度で済んだらしい」
 二人にはそれぞれ、行動観察していた刑事がついていたからだろう。尾行を続けている途中で、卓也の様子がおかしいと気付いたようだ。そこで何かするつもりだと警戒していた所、日香里が通う大学に向かっていることが判ったという。
 そこで彼女についている捜査員に連絡を取ってみると、徐々に二人の距離が近づいている事が明らかになった。その為両方面で注意を払っていたところ、大学近くの駅を降りる階段で接触するかもしれないと、捜査員は万が一に備え準備していたらしい。
 おかげで彼女は、大怪我を負うことも無かった。しかし卓也の取った行動は殺人未遂に当たる。少なくとも傷害罪は成立する為、その場で現行犯逮捕されたらしい。身柄は本部のある中警察署に連行されたようだ。
 一方の日香里は念の為近くの病院に運ばれ、治療を受けているという。その後捜査員から事情を聞く段取りのようだ。そこまで聞いた吉良は、今回の事件の犯人が長谷卓也である可能性が高いと感じた。
 本部もそう考えているようだ。しかし今の所取り調べに対し、日香里に対する殺意があったと認めたものの、久宗氏殺害に関してはあくまで否認しているという。そこで松ヶ根は尋ねた。
「彼女を襲った動機は、何だと言っているのですか」
「それは彼女がいなければ、一久氏が亡くなった後に子供達が受け取る相続分が増える。そう考えたからだと主張しているようだ」
 吉良は思い出す。以前三郷の事情聴取をしていた際に、被害者の死後における財産分与がどう変わったかについて話した。あの時確か被害者の資産が百億と仮定すれば、一久氏の死後、約三十四億余りの遺産は孫達で分け合うことになると言った記憶がある。
 しかしもし兵頭日香里がいなければ、長谷の子供達の取り分は約十七億の半分ではなく、約三十四億を二人で分け合うことになるだろう。受取額が倍になり増える額も十億円以上となれば、殺害動機としては十分成り立つ。
 しかし刑事達のいる目の前で計画が失敗した為、日香里への殺人未遂は認めざるを得なかったに違いない。ただ久宗氏殺害に関してはまだ証拠が無いと踏んで、否認しているのだろう。
 本部からはそれを踏まえた上で、カードキーの所有者と彼との繋がりを探れと指示が飛んだ。卓也が実行犯なら、三郷達は共犯者である確率が高い。とすればどうして彼に協力をしたのか、その動機や関連を調べろということだった。同じ指示内容を、別々の携帯電話で受けた二人は答えた。
「了解しました」
「了解です」
 電話を切った後再びリビングへと戻り、二人が席につくや否や松ヶ根が口を開いた。
「今本部から、連絡がありました」
 事の経緯を説明し始めると、彼女の表情が変わった。日香里の怪我の具合と卓也の供述について話し終わったところで、彼が尋ねた。
「本人は否認していますが、これで長谷卓也が久宗氏を殺害した実行犯の可能性が出てきました。あなたは彼にカードキーを渡しましたか」
 彼女は首を横に振った。動揺しているようで声が出ないのかもしれない。だが彼女は疑われている事よりも、起こった事実に驚いているようだった。
「あなたでなければ、他の二人が長谷卓也にカードを渡したのかもしれません。長谷卓也との接点について、何か心当たりがありますか」
 これにも彼女は黙って首を振った。そうしながら、何かを考えているように思えた。彼もそれを感じ取ったのだろう。吉良が持った同じ疑問について質問した。
「何を考えていらっしゃるのでしょう。とても驚いているようですが、それは長谷卓也が久宗氏を殺した犯人かもしれないからですか」
 ようやく彼女は、沈黙を破った。先程までとは目の色が変わっている。
「いいえ、違います。それより長谷さんが、日香里さんを殺そうとしたのは本当ですか」
「間違いありません。複数の刑事達が見ていますし、彼自身も認めています」
「動機は彼の子供達が受け取るだろう遺産分を増やそうとした、とおっしゃいましたね。以前私との話の中でも、吉良さんは久宗氏が一久氏より早く亡くなった場合について、百億円と言う仮定の金額で計算されていました。同じ話を長谷さんにされましたか」
 吉良は松ヶ根と視線を合わし、彼がその質問に答えた。
「長谷卓也の事情聴取は、私達ではない捜査員が担当しています。しかし吉良と同様の話は、しているでしょう。あの推測については、捜査本部の捜査員全員が共通して持っていたことです。今回の事件での殺害動機は、遺産相続に絡んでいる確率が高いと考えられていました。そこであらゆる可能性を探る上で、どういう差が生じるのかを把握することも大切な事でしたからね」
 すると彼女は苦悩した面持ちで、頭を抱えながら言った。
「私は大変な誤解をしていました。それだけでなく今回の事件は、お通夜での口論がきっかけとなったのかもしれません。私達は、とんでもない事をしてしまいました。そんなことをしても彼らが遺産を手にすることなど出来ないと、あの場ではっきりさせて置くべきだったのです」
 吉良は彼女の言葉の意味が理解できなかった。彼も同様だったらしく質問した。
「彼らが遺産を手に出来ないとは、どういう意味ですか。他に遺書があるとでも?」
 顔を上げた彼女は、睨むような目つきで答えた。
「久宗氏が作成していた遺言を破棄したなどと松方弁護士が口を滑らせるまで、彼らは九竜家の遺産が手に入るなんて、考えてもいなかったはずです。現にそうならないよう、以前の遺言書には書かれていました。長谷さん達や兵頭さん達も、それは覚悟していたはずです。しかしあの夜の話で、もしかすると遺産が手に入るかもしれないと希望を持ったのでしょう。だから長谷さんは、智明さんや未知留さんの為にと恐ろしい事を考えたに違いありません。しかも実行しようとした。もし以前であれば、そんな事など想像すらしていなかったでしょう」
「久宗氏の殺害と、今回の事件とは関係が無いというのですか」
「よく考えてください。久宗氏を殺しても、彼らには遺産が入らないよう遺言書を残していたのですよ。破棄をしたと知ったのは、お通夜の日しかありません。それなのにわざわざ殺そうとはしないでしょう」
 これに彼は反論した。
「事前に知っていたのかもしれません。破棄したことを知っていたのは、松方弁護士とあなただけと言っていましたね。ですが例えば二人のいずれかから、聞いていたかもしれない。または何かの折で、耳にしたこともあり得るでしょう」
 だが彼女は首を激しく横に振った。
「私が口外することは有り得ません。何の得にもなりませんから。もし仮に破棄したことを知った長谷さんが、久宗氏を殺害しようとしたとしましょう。実は私も先程までは、その可能性があると思っていました。しかし彼が実行犯だとすれば、久宗氏をあの場へ呼び出さなければなりません。けれど久宗氏は安易な誘いに乗る程、愚かな方ではありません。没交渉となっていた長谷さんから、夜の遅い時間帯でしかも良く知らない建物に呼び出すなんて至難の業です。だから私は、実行犯が別にいると思っていました」
「もしかして、それが保険会社の沼田や杉浦だと疑っていたのですか」
「はい。相原所長からカードキーを受け取り、彼らが呼び出したとしたら犯行は可能かもしれないと思っていました。だから警察が沼田達と長谷さん、もしくは兵頭さんとの繋がりを証明していないか期待していました。しかし違うようですね。私の推理は間違っていたようです」
「そうとは限りません。けれど長谷卓也が何らかの手を使って、部屋に招き入れることに成功したとも考えられます」
「だとすれば、間違いなく久宗氏は警戒したはずです。そうなると体格からして、敵うはずがありません。隙をついたと仮定しても、余りに無理がありませんか。いくつかのもしもが重ならなければ、今回の殺人計画は成功しなかったことになります」
 確かに彼女の言う通りだ。久宗氏の殺害を企んだとしても、いくつかの壁を越えなければならない。カードキーを手に入れる事もその一つだ。長谷が実行犯だったなら三人の内の誰かの弱みを握っているか、またはお金を払うことを条件に協力させる方法が一番納得できる。
 ただ三人との接点は、今の所全く見つかっていない。三郷の場合、お金で動くとは考えにくかった。寺内なら夫の病気により経済状況が悪化しつつあったことから、協力をすることもあり得なくはない。
 また実を言うと、相原の経済事情を調べていた班から奇妙なお金の流れを発見したとの報告を受けていた。そこからさらに掘り下げて捜査してみると、彼は顧客の資産運用に失敗し、その事が公になることを恐れて密かに損失補填していた事が判明している。
 幸い彼の個人資産運用が順調だった為、その利益を原資に穴埋めしていたことまでは突き止めていた。しかもそれだけでは不十分だと思ったのか、先程話していた保険会社の面々と手を組み、手数料のキックバックを不正に受けている可能性も浮上していた。
 彼女の説明通り、法人の生命保険の手数料はかなり高額のようだ。それを社内留保する為に、PA社は保険代理店を買収したと聞いている。しかしそれだと単に会社の収益となり、扱った社員に直接手に入ることは無い。成功報酬としてせいぜい数%入る程度だろう。
 そこで相原は顧客に紹介した保険を自社で契約せず、沼田を通して別代理店に紹介するという手を使っていたらしい。そうして本来受け取るべき手数料を代理店から戻し入れさせ、個人的に懐へ入れていた形跡が見つかっている。
 つまり彼は金銭を欲していたことにより、共犯者である可能性が高まっていた。よって相原や沼田達が、どの程度三郷に対するトラブルを抱えていたかを聞き出そうとしていたのだ。ちなみに久宗が殺された時間帯、沼田や杉浦には確実なアリバイは無かった。けれど長谷や兵頭達と連絡を取り合っていた形跡は、まだ見つかっていない。
 しかしお金が手に入るのは、あくまで一久氏が亡くなった後だ。高齢でかつて脳梗塞を患ったとはいえ、今は健康を取り戻している。先日のお通夜での剣幕からも、元気である事は誰の目にも明らかだ。
 一方多額とはいえ、できれば早期に金を手に入れたい寺内や相原が、いつ入るか判らない報酬を期待し殺人に加担するかと考えた時、疑問が残るとの見解も本部では上がっていた。
 それでも相原には三郷に対する妬みが強く、保険会社の社員達からも強く恨まれているという別の動機がある。彼女に疑いを向くよう仕向けた、または彼女の顧客を殺害することにより信用を失墜させようと企み決行した、との意見も出ていた。
 そこで吉良は実行犯の動機を推測した時、どうなるかを推測してみた。長谷はもちろん、誰であってもお金を直ぐ手にすることは出来ない。けれども彼の場合、二人の子供達には自分の運転ミスにより大切な母親を奪ったという後ろめたさがある。二十年経った今でもわだかまりがあり、疎遠となっていた。
 だからこそ子供達の為に、せめてお金を残そうと計画したとしてもおかしくはない。実際そう考えた彼は、取り分を増やそうと兵頭日香里を殺そうとしたのだ。といって久宗氏を殺害したのも彼かといえば、いくつか引っかかる点が残っている。
 三郷が語った推理は道理に合っていた。しかも日香里を殺害しようとした方法とは、明らかに異なっている。久宗氏殺害現場でもやや無計画さが感じられたが、階段を突き落とすやり方とは次元が違い過ぎた。
 松ヶ根もそう感じていたはずだ。それでも質問を続けた。
「ではあくまで長谷卓也は、久宗氏の殺害と関わっていない。そうおっしゃるのですね」
「疑わしいとは思っていましたが、今回の事件を起こしたことでよりはっきりしました。真犯人なら、こんなに早いタイミングで階段から突き落とすような方法は取らないでしょう。もっと綿密な計画を立てて行うはずです」
「あなたは以前、長谷さんとは久宗氏から話を聞いて名前を知っているだけで、お会いしたこともないとおっしゃっていました。つまりお通夜で会ったのが初めて、でしたね」
「はい。智明さんや未知留さんとも、あの時初めてご挨拶しました」
「接点は全くない。間違いありませんか」
 彼女は強く頷いた。
「ありません。以前携帯電話や私用のパソコンを提出しましたよね。ここにある固定電話の通話記録も出したでしょう。それでも接点が無かったことは、そちらでも把握されているはずです」
「会社で貸与されている携帯も、既に任意でご提出いただいており確認済みで返却もしています。ですが、会社のパソコンは顧客の個人情報などが多数ある為、提出は出来ないと断られています。ただそういったものを使わず連絡を取る方法は、他にもありますからね」
「会社のノートパソコンは、さすがに無理だと思いますよ。令状が無いと、会社も許可を出さないでしょう。それに先程おっしゃったようにそれらを見ただけで、無実を証明できるとは限りません。連絡だけなら、公衆電話などを使えばできるでしょう。また漫画喫茶などにあるようなパソコンを通じて、SNS上で匿名のやり取りをすることも可能です。まあそういう行動も、地取りっていうんでしたっけ。既に色んなところで聞き込みをしたりして確認をしているはずです。それでも見つからないから、私達が所有する物の任意提出を前回求めた。違いますか」
「その通りです」
「松方弁護士は職務上の問題があったでしょうから、任意の提出を拒否されたと聞いています。ただその他の方は既に提出していて、繋がりがある証拠は発見されていない。そうではありませんか」
「その通りです」
「だったらこれまでのあなた方の考え方自体が、間違っていると思います。それも私が提出したSDカードを見れば、何を言っているのかが判るはずです。ですからなるべく早く、犯人を掴まえてください」

 彼女の主張が正しいと判断したのだろう。そこで吉良達は預かったSDカードの中身を確認する為に、一旦彼女の部屋を出て捜査本部へと向かった。まずは彼女の言うアリバイを証明する証拠を確認し、実行犯でないことを明らかにしなければならない。
 それが済めば、彼女の言う一久氏と一緒に写っていた人物は誰かを確認し、事件との関係性を探る捜査が必要となる。他の重要参考人からも今回の件を受けて、担当しているそれぞれの捜査員が、改めて長谷との繋がりを確認しているだろう。もちろん長谷卓也の所持品は家宅捜索によって、強制的に全て片っ端から調べることができる。
 思った通り本部に戻ると、長谷家から押収されたものが大量に運ばれていた。これから鑑識や科捜研などが、それらの分析を始めるようだ。中身が明らかになれば、久宗氏殺害との関係も徐々に見えてくるだろう。
 相原所長や寺内も吉良達の担当ではあるけれど、応援部隊が代わりに話を聞いてくれたらしい。三郷を含めた彼らの行動確認をする為に、別の捜査員が交代で張り付いていたからだ。しかしこれまでと同じく繋がりが見つかっていないことから、新たな証言は得られなかったという。
 事件から二週間経ってかなりの情報は集まっていたが、捜査自体は難航し停滞していた。それがようやく動き出し突破口が開け出しそうになったことで、本部の上層部達の機嫌は良さそうだ。
 しばらくは押収した物の情報分析に、時間がかかる。吉良達のような捜査員は、本部の上層部がその結果を受けて出す方針に従い、動かなければならない。逆にいうと、それまでは無駄な動きをせず待機することを意味した。
 その為吉良達を含めた一部の捜査員達には交代で、約一日だけ休みを取ることが許された。これまでは睡眠時間さえ、仮眠程度しか許されていない。家へ帰ることもままならない状況だったからだ。
 そこで久しぶりに吉良は妻達が待つ家へと戻り、着替えなどを取りに行くことにした。
「おかえりなさい」
 妻が声をかけてくれた。三歳になる娘の姿は見えない。時間は夜の十時を回っている。
「ただいま。雲母きららはもう寝たのか?」
 吉良という姓に続けて、キララと名を付けたのは彼女のセンスだ。自分は名前に頓着とんちゃくしたことが無い為、そのまま従った。いまのところ周りの子達にからかわれたり、苛められたりはしていないようだ。今時の子供は、もっと奇抜な名が付けられているからかもしれない。
「はい。だから寝顔を見るのはいいですけど、起こさないでくださいね。あなたが帰って来たと知ったら、興奮して目を覚ましちゃいますから」
「いいよ。今日は家で寝られるから、顔を見るのは明日の朝にする。出るのは夕方からだ」
「食事は済んだの?」
「食べて来た。俺は風呂に入ってしばらくしたら寝る。気にしないで先に休んでくれ」
「だったらそうさせてもらう。明日からはまた忙しくなるんでしょう。着替えはもう用意してあるから、忘れずに持っていってね」
「了解」
 彼女はお休み、と言って寝室へと向かった。妻とは出会い系サイトで知り合った。専業主婦になりたかったという彼女は、家事が得意だったおかげで吉良も楽をさせて貰っている。育児も全て任せっきりだ。
 それどころか今では再び出会い系サイトにアクセスし、こっそり女との逢瀬を楽しんでいる。罪悪感はなくもないが、なかなか止められなかった。妻を嫌いになった訳ではない。もちろん子供だって可愛い。
 だからといって彼女達の為だけに、汗水流して働こうとまでは思わなかった。一度きりの人生だから、楽しまなくては損だ。それが吉良の根本的な考えだった。刑事という仕事にもやりがいを感じている。
 今回の事件はなかなか厄介な案件だが、松ヶ根と組んでとても刺激を受けていた。人の、特に女性の持つ裏の感情などを読み解くことは、比較的得意だと自負していた。しかし三郷について異性を苦手とするはずだった彼の方が、軽く吉良の能力を上回っていた。
 彼女が二重人格だなんて、全く気付きもしなかった。本人は認めなかったものの、おそらく間違いない。注意して見れば、かなりはっきりとした違いが吉良にも判ったからだ。恐らく彼女の過去について話をしたからこそ、別人格が顔を表したに違いない。
 そこで改めて思い出してみた。あの時、松ヶ根自身の家庭の話に触れたはずだ。しかも普段は事件関係者に絶対見せない、う~、という言葉を発する姿をみせて話していた。
 だからこそそれまで鉄壁だった彼女の心に、隙が生まれたのかもしれない。二人には子供を産む、産まないということで、夫婦仲がこじれたとの共通点があった。その事が別人格の現れるきっかけを作ったのだろう。
 あの時にも言ったが、吉良は結婚して子供を産むことは“普通”の事だと思っていた。しかし二人にとって、そうではなかった。自分のようなものを含めた多くの人から、“普通”という枠組みを押し付けられ、苦しんできたのだろう。
 今回の事件で言えば、二人以外にも被害者夫婦だって同じ環境にあった。寺内家でもなんとか娘を授かることはできたが、長期間にわたって不妊治療を受けた結果だと聞いている。そういう吉良の妻も、結婚後はすぐに子供を欲しがっていた。高齢出産になってしまうからと、焦っていたことを思い出す。
 当時は余り真剣に受け止めておらず、いずれ出来るだろうと高を括っていた。実際にそれ程苦労せず、雲母を身ごもったのだ。それ見た事かと内心思っていたが、今考えると彼女は違ったのかもしれない。
 妊娠が判った時や無事出産できた際も、涙を流して喜んでいた記憶がある。吉良自身といえば、安堵した気持ちはあったと思う。ただそれは彼女が何かにつけて子供、子供と騒がなくなったことから解放されたとの気持ちの方が強かった。
 それ程子供を出産することが、その後に人生を左右するほどの大事だと、今でもピンと来ない。松ヶ根が言った通り、やはり男というのは馬鹿なのだろう。現に吉良の家でも子育ては妻に任せっきりだ。時折非番で時間がある際に、かまってやる程度だった。
 同じ立場にいない為、彼らの気持ちを心から理解することは難しい。だが少しはそういうこともあるのだと、頭の片隅に入れておこうと思った。
 これからも様々な環境で育った犯罪者や関係者達と、嫌でも向き合うことになる。その際にどういう思考なのかを読み解く鍵になるものは、一つでも多く持っていた方が良いからだ。
 服を脱いでお湯に浸かりながら、吉良はこれまでの事情聴取で持った三郷の印象を振り返った。正直言うと途中まで実行犯はもちろん、共犯者の可能性も薄いと考えていた。けれど何かを隠していると松ヶ根同様感じていた為、重要な情報など鍵を握っているのではないかと睨んでいたのだ。
 しかしそれが二重人格だと分かった時点で、ガラリとひっくり返された気がした。騙されたという感覚ではない。全く予想もしなかった展開となり、これまで積み上げて来た推理が、一からやり直しとなったことに対する驚きや疲労感の方が大きかった。
 ふうっと大きく息を吐き、やりきれないモヤモヤした気持ちをスッキリさせたかった。そこで妻が寝てしまったことを確認してからリビングへと戻り、吉良は久しぶりにスマホで出会い系サイトを立ち上げた。
 スクロールしながら、好みの女性を探していく。対象年齢はもちろん四十代前後だ。明らかに十代と判るような若い子も多くいる。そう言う子達は純粋な出会いを求めているというより、パパ活や売春等といったお金絡みが多い。以前いた生活安全課でも、そういう事案をいくつか扱った事があった。
 吉良はそんな危ない橋を渡る気など全く無かったし、第一好みではない。一番いいのはストライクゾーンに入る人妻だ。後腐れも無く、お金目的で無いところも仕事上、リスク回避する為の必須条件だった。
 仕事を犠牲にしてまで、嵌るつもりはない。あくまで人生を楽しむ為の、遊びの一つだ。注意しなければならないのは、本気で相手探しをしている女性に当たった時だ。人妻と嘘をついている場合もあり、また人妻でも次のパートナーを求めているケースもあった。
 そういう面倒には、関わりたくない。だからこそ書かれたプロフィールや誘い文句等から、それらを読み取る必要があった。その中でも良いと思った相手とは、何度かやり取りする必要もある。そうしなければ、安全と判断する材料を得られないからだ。
 最悪の場合、前科者や裏稼業に通じる女と関係を持ってしまいかねない。または吉良が刑事だと知る人物に当たっても、後々厄介な事になる。その為には慎重な行動が必要だった。一見煩わしく思える作業だが、これは人を見る目を養うことに繋がる。
 仕事上でも役立つし、うまく成功して当たりを引いた時の快感は、なかなか忘れられない。だから止められないのだ。ここ最近は忙しくて、全く出来なかった。その為ようやく得た休みを利用し、なんとか楽しめる相手はいないかと、その夜は長い間探し続けた。
 気付いた時には一時を回っていた。その為明日以降の仕事にさし触ると判断し、サイトを閉じた吉良は一旦諦めることにした。焦って探しても碌な事にならない。これまでの経験が、それを裏打ちしている。その為寝室へと戻り、寝ることにしたのだった。
 翌朝起きて娘の顔を見た後、吉良は彼女の遊び相手となった。久しぶりの事で意外に疲れたが、一緒に昼寝してのんびりした半日を過ごすことが出来た。出来れば昼間に出会い系サイトで探した女性と過ごせればと考えていたが、そんな気力も体力も残っていなかったので結局諦めたのだ。
 そうして夕方になり、捜査本部へと向かった。既に松ヶ根がいた為、慌てて駆け寄った。
「遅くなりました。何か動きがありましたか」
「あったぞ。だが俺達の方は、う~、そう慌てる必要は無い。長谷卓也の取り調べも、進捗は無いそうだ。押収したものから、PA社の三人との繋がりはまだ出ていないと聞いている。他の連中も同じだ。沼田や杉浦の方とも、決定的な証拠が見つからない」
「相変わらず、久宗殺しに関しては否認ですか」
「ああ。このままなら、三郷が言っていた通りになりそうだ」
「通夜の騒ぎで聞いた、遺言の破棄がきっかけになったって話ですね。嫌われた子供らに良い顔がしたい為、兵頭日香里を殺そうと思っただけってことでしょうか」
「その可能性が高い。それより、う~、三郷が提出したSDカードに写っていた映像が、大きな問題になりそうだ」
 吉良はその時初めて中身を見たのだ。そこで絶句した。
「彼女自身と、一久ともう一人いますね。これは衝撃映像ですよ」
「分析結果だと、細工した形跡は発見されていない。つまり彼女のアリバイは完全に証明された。しかし問題なのは、う~、一久と一緒にいる人物だ」
「これって、」
「そうだ。一久が提出した映像には、わざと助手席が写らないよう角度を調整されていた。う~、そこから考えても、あの夜の密会を隠したかった意味が理解できる」
 三郷が隠そうとしたのも当然だろう。依頼主の九竜家にとってはとんでもないスキャンダルだ。できれば警察に見せたくなかったというのも頷ける。
「う~、一久から既に任意提出して貰ったスマホからも、一緒にいた人物と接触した形跡が見つかったようだ。ご丁寧に削除されている部分も多かったようだが、データの復元で明らかになっている。だが三郷からの情報が無ければ、う~、一致させることは困難だっただろう」
「そっちの容疑で、引っ張るってことですか」
「う~、九竜家担当の捜査員は、そのつもりらしい」
「でもこっちは、殺人事件の捜査本部ですよ」
「関係ないとは言いきれない。忘れたか。犯行時刻は、う~、十時半から後ろに一時間程ずれているかもしれない、という報告があっただろう」
 失念していた。一久にアリバイがあるのは、十時半過ぎまでだ。つまりその後の行動は家に帰ったというだけで、それを証明する人や映像などは今の所見つかっていない。
「ということは、一久が女と一緒にいたというアリバイ工作をして、その後息子を呼び出して殺したってことでしょうか」
「それはわからん。あくまで彼は一人でいたと主張し、その証拠を残している。う~、アリバイ工作ならば、後にバレたら面倒なことになる計画など立てないだろう」
「そう言われればそうですね。一久にしてみれば、あの日あのような状況だったことなんて、絶対に知られたくなかったはずです。そんな時に人を殺すような真似なんか、普通はしませんよね。でも一人で無かったことは、偶然三郷が近くの駐車場にいたからこそ、明らかになっただけです。彼女の車のドライブレコーダーがあの現場を捉えていなければ、判らなかったかもしれません」
「だが捜査本部は、一緒にいた女からカードキーを受け取り、う~、息子を殺して莫大な遺産を受け取るよう仕組んだのではないか、と考えているようだ」
「なるほど。彼女なら手に入れることは可能ですね。えっ? でもそうなると、そっちが犯人ってこともありえませんか。いや、それはさすがに無理筋でしょうか」
 しかし吉良がふと思いついた馬鹿な考えを、彼は否定しなかった。
「そうでもないぞ。そっちもアリバイがないからな。前に、う~、現場の状況が計画的な部分もありながら、ロックを掛けなかった事など、アンバランスな気がすると言っていただろう。もしこっちが実行犯だったとしたら、しっくりこないか。被害者も相手がそうなら、油断して刺されたというのも頷ける。しかも現場では、う~、走り回った形跡がある。被害者は犯人を捕まえようと、追いかけたのかもしれない。そう仕向けて被害者の体温を上げた。さらにゲソ痕が残らないよう、フットカバーを使っている。これは九竜コーポレーションが所有する物件でも、う~、使われていた物だ。一久に頼んで、それを手に入れたのかもしれない」
「一久が共犯で、しかも利用されたかもしれないってことでしょうか」
「そう考えれば、あの電波時計の謎も解ける。彼なら、う~、手に入れることは容易い。事前に狂わせて置き、犯行後に壊して現場に残した。彼女が実行犯だとすれば、う~、相当なタマだぞ」
「そうなると、動機はなんでしょうか」
「金だろう。一久が莫大な資産を、う~、手に入れることで、自分に流れるよう仕組んだのかもしれない。彼は大きな弱みを握られているようなものだ。脅されれば、いくらでも払うだろう。そう考えれば、う~、筋は通る。どちらにしても二人を任意で引っ張り取り調べれば、ある程度判るはずだ。しかし下手をすると、難航するかもしれない。なんせ相手が相手だけにな」

 松ヶ根の予想は的中した。まず一久に対しを捜査本部へ来るよう任意同行を求めた所、松方弁護士が間に入り、かなりの抵抗にあったのだ。
「一久様が、事件に関係しているという証拠でもあるのですか」
 逮捕状が無ければ応じないとまで言い張る彼に、捜査員は止む無く三郷が撮影した動画を見せたらしい。そこでこれ以上抵抗して騒ぐのは、得策でないと理解したようだ。念の為違法な取り調べが無いよう確認するとの口実を設け、彼が署まで同行する条件を付けてようやく一久を引っ張ってくることができた。
 ただし取り調べにおける立会いを拒否された松方は、待合室で待機することになった。吉良は隣室で聴取の様子を伺うことにした。松ヶ根は任意同行されてきた、もう一人の状況を確認すると言って出て行った。
 部屋には九竜家担当班の捜査員が一人同席していたが、聞き取り自体は専門の聴取官が行うようだ。そのやり取りをマジックミラー越しに見ている捜査員は、他にも複数いた。吉良は後で松ヶ根にその様子等を報告する為、表情や言葉の一つ一つを見逃さないよう注視した。
 まず取調官が質問を始めた。
「あなたは息子さんが殺されたと思われる時間、管理物件の米蔵にいたと証言しましたね。実際あなたが乗ってた車のドライブレコーダーの映像からも、それは確認できています。ですがこちらで詳しく調べる内に、犯行時刻は当初言っていた十時半まででなく、それ以降だった可能性が出てきました。あなたはその時間、何をしていましたか」
 彼は俯いたまま答えた。
「そのまま家に帰っただけだ」
「本来なら、その様子もドライブレコーダーに写っているはずですよね。しかしあなたから提出して頂いたものを確認すると、米蔵から出た後の映像は残っていませんでした」
 彼は慌てて顔を上げた。
「そ、それは前にも言っただろ。角度を調整しようと触ったはずみで、切ってしまったらしいと。私だってそちらから指摘されるまで、全く気付かなかったんだ」
「犯行時刻が伸びたと思われる時間だけ、何故かアリバイが無いというのも不自然ですね。しかも家に帰るまでの道中、あなたの車はどこの防犯カメラにも映っていない」
 再び視線を逸らしながら、呟くように彼は言った。
「それは、たまたまだろう。あの辺りはカメラが少ない地域だからな」
 しかし取調官は容赦しない。ここから一気に畳みかけた。
「そうでしょうか。あなたは事件現場を含む、一帯の大地主だ。九竜コーポレーションが管理する物件も、多数ある。確か会社には保守管理部門があり、自治体や警備会社などと連携した委員会に属しているそうですね。つまり町のどこに防犯カメラが存在するかを、知りえる立場にあった。元社長であるあなたなら、どの道を通れば防犯カメラに映らないで済むかも、把握していたのではありませんか。現に四カ月ほど前、あなたが管理部門に赴いていることも判っています。ここ数年の間、あなたはほとんど会社に顔を出すことが無かったと聞いています。だから驚いたのでよく覚えていると、様々な人から同様の証言が得られました。正直にお答えください」
 問い詰められた彼は、明らかに目が泳いでいた。
「た、確かにそういうものを見た覚えはある。だがそれは単に、今の街の管理体制がどうなっているか、興味を持ったからだ。最近はリハビリのおかげもあって、車で外へ出かける機会も多くなった。それだけだ。勝手な憶測をしないでもらいたい。第一私を疑っているようだが、息子を殺して何の得をするって言うんだ」
「多額の遺産が入りますよね」
「何を馬鹿な。元々私が持っていたもので、それをわざわざ息子に引き継いだんだぞ」
「殺してまで奪う必要がない。そうおっしゃりたいのですか」
「当然だ。私の父が亡くなった時の教訓を生かし、長い時間をかけて個人資産のほとんどを会社名義に変えた。そうやって息子夫婦に譲渡してきたんだ。今更それを手にしようなんて、考える訳がないだろう。それでも自由にできる金なら、十分持っている。私はもう八十三だ。この期に及んで、何十億といった資産を所有して何になるのだ」
「それは事件があった日の夜、一緒にいた人物と関係があるのではないですか。彼女に貢ぐ為、または向こうからお金を要求されていた、ということはありませんか」
 この追及はさすがに効いたらしく、言葉を失ったようだ。すぐさま否定しなかったところを見ると、どちらかまたは両方当たっているのかもしれないと感じた。だが彼は認めなかった。
「そんなことはない」
 ここで取調官は、別方向から責め始めた。
「あなたのしていたことは、犯罪に当たると判っていますか」
 すると青い顔をした彼は俯いてしまい、そのまま黙ってしまった。
「どうされました? 判っていたのかと聞いているのです。回答を拒否されても無駄ですよ。黙っていたからといって、あなたの罪は変わりません。それどころか反省の色が見えないと判断されて、重くなるでしょう。ただ久宗氏の事件については別です。今正直にお話していただければ、今後の裁判で情状酌量の余地はあるかもしれません」
 だが彼は顔を上げて怒鳴った。
「私は殺していない! 大事な一人息子を殺すわけないだろう! 私は既に二人の娘を失っているんだ。妻も亡くなった。あいつは九竜家を支える、唯一の人間だったんだぞ」
「しかし久宗夫妻は、代々受け継いできた土地を含めた会社を売却しようとしていた。あなたはその事を知っていましたね」
「あ、ああ。将来そうなるかもしれないと、相談を受けたことは確かだ。あの子達には子供がいない。よって後継者も存在しないからな。私は高齢で持病もある。だからそれほど長くは生きられないだろうから、会社の事は既に任せていた。だから好きにすればいいと言ったんだ」
 取調官がさらに追及した。
「あなたは自分の死後、会社が売却されると想定していた。しかし久宗氏の考えは違った。還暦になった事を機に会社を整理し、豊かな老後を迎える為の準備に入っていた。その事に、反対していたのではありませんか」
「違う。私はあいつがそんなに早く売却を考えているなんて、知らなかったんだ」
「本当ですか。それを知ったあなたは、久宗氏と揉めた。違いますか」
「そんなことはない」
「ある人によると、最近二人が何か言い争いをしていたと聞きました。それなら何の件で口論していたのでしょう」
 この情報は、家政婦と三郷の二人による聴取で得ていた為、間違いない。ただし家政婦はその内容を全く知らなかった。それに対し三郷はその理由を、夜中に車を出していた件についてだと推測していた。取調官はその事を踏まえて、わざと鎌をかけているようだ。
「そ、それは」
 言葉に詰まる彼に対し、取調官はここぞとばかりに詰め寄った。
「息子さんと意見が食い違い、また現在関係を持っている人物に対して、お金を貢ぐことが必要となった。だからあなたは久宗氏を殺したのでしょう」
「違う! そんな恐ろしい事を、私ができるはずがない!」
「あなたがやっていないのなら、別の人間に協力したということですか」
「き、協力なんかしていない!」
「事件現場から、九竜コーポレーションが使用しているフットカバーの繊維と同様の物が検出されています。あなたが実行犯に渡したものではありませんか」
 ようやく誤魔化しきれないと観念したのか、彼の声が徐々に小さくなっていった。
「い、いやそれは」
 あの態度からすれば、彼は実行犯ではなく共犯者、または協力させられた可能性が高い。
「あと被害者が嵌めていた電波時計は、事前に狂わされていた可能性があります。その為には、前もって時計を盗み出さなければなりません。あなたならそれができるでしょう。時間をずらすか、またはずらす前の物を実行犯に渡したのは、あなたじゃありませんか」
「わ、私はそんな細工など、していない」
「だったらフットカバーと電波時計を、実行犯に渡したことは認めますね」
 そこでやっと彼は頷き、認めたのだった。
「か、彼女が実行犯なのかは知らない。しかし、渡した事は確かだ」
「本当ですね。それはいつですか」
「あの事件が起こる、一週間ほど前だったと思う」
「その時もあの米蔵で、密会をしていたのですか」
「あ、ああ」
「彼女と初めて会ったのは、いつ頃のことですか」
「は、半年程前だ」
「どういうきっかけで? ちなみに惚けても無駄ですよ。あなたから押収した携帯電話などから、様々な情報は既に入手しています」
「で、出会い系サイトを通じて、知り合った」
「最初から、肉体関係を結んだのですか」
 これには大きく首を横に振った。
「ち、違う。単純に、話などをしていただけだ。彼女達の言葉を借りると、パパ活と呼ぶ行為らしい。本当にそれだけだ」
 この件について取調官は穏やかに話を進めていた。どうやら緩急をつけているようだ。
「そういうサイトで会ったのは、彼女以外に何人いましたか」
「三人程と会った。彼女達ともただ話をしただけだ」
「つまり深い関係になったのは、事件当夜にいた人物とだけということですか」
「ち、違う。ただ最近は、彼女としか会っていない。私には孫が三人いる。けれどその内の二人とは、早くから疎遠になってしまった。唯一可愛がることが出来たのは、日香里だけだ。それが寂しかったから、ついああいうサイトを利用するようになった。ただそれだけのことなんだ」
「あなたが出会い系サイトを始めたのは、それがきっかけですか」
「そうだ。最初はただ単に、若い子と話をする機会が欲しかっただけなんだ」
 ここから取調官の口調が変わった。
「それがいつから、淫らな関係にまで発展したのですか」
 一久は大きな声を出し、強く否定した。
「み、淫らな関係だなんて、そんなことはしていない」
「肉体関係は無かった。そうおっしゃるのですか?」
「当然ない。これ以上同じ事を聞くなら黙秘する」
 どうやら女といた事は認めながらも、その点は否定し続けるつもりらしい。
「なるほど。では質問を変えましょう。当初は数人の女性と出会って話相手になってもらった見返りに、お金を払っていた。そこであなたはその中の一人と親しくなり、会社が管理する物件の中で、夜な夜な会っていた。あの米蔵を使ったのは、防犯カメラが設置されていない唯一の物件だったから、ですね」
 彼は不承不承頷いた。
「そうだ。社内の人間達に見られて、変に誤解されては困ると思ったからな」
「そうでしょうね。その為にあの周辺の防犯カメラの位置も、事前に確認していた」
 彼はその質問には答えなかった。しかし吉良が見た様子からだと、図星だったらしい。明らかに動揺を隠せずにいたからだ。取調官は構わず質問を続けた。
「それでは、あの事件の夜の事をお伺いします。八時半過ぎに米蔵に入ったあなた達は、そこで二時間ほど時間を過ごした。その後はどうしましたか」
「わ、私は彼女を車で送っていき、降ろした後にそのまま帰った」
「彼女をどこで降ろしましたか。家の近くですか」
「いや違う。それだと誰かに見られる恐れがあると言われていたので、彼女の家とは逆方向の場所で降ろした」
「それはどこですか」
 少しの間があった後に、彼は重い口を開いた。
「ひ、久宗が殺されたビルの近くだ」
「その女性と会った後は、必ずそこで降ろすことになっていたのですか」
「初めての時は、もうちょっと離れた場所だった。あの現場よりは少し手前だったと思う」
「いつから、あの事務所近くで降ろすようになったのですか」
「二カ月ほど前からだ」
「なる程。その時おかしいとは思いませんでしたか」
「思ったことはある。だが少しでも家から離れた方が良いと言うので、彼女の言う通りにしていただけだ」
 取調官の質問が、どんどんと核心に近づいていった。
「なるほど。そこへ降ろすよう指示していたのは、彼女だった。そうなると少なくとも二か月前から、久宗氏を殺害する計画を立てていた可能性がありますね。確か久宗氏と口論をしていたという話も、二か月ほど前からだと聞きました。何か関係があるのでしょうか」
「そ、それは」
「もしかすると、彼女との関係を知られてしまったのではないですか」
 その推測は当たっていたらしい。盛んに瞬きをし始め、彼の貧乏揺すりが止まなくなった。答えないことに業を煮やした取調官は、詰め寄った。
「そうなのですね。正直に答えてください」
「あ、ああ。そうだ。家政婦から聞いたんだな。あいつは時々夜になると、車で出かける私に注意してきた。最初は高齢者ドライバーの事故が多いから、運転免許証を返納するようにという話だったんだ。私が脳梗塞で麻痺が残ったことから、心配してくれたのだと思う。だがリハビリのおかげで、かなり元気になった。出会い系サイトを始めたのは、脳の活性化に役立つという理由もあった。だから私は、あいつの忠告を聞かなかったんだ」
「それでどうなりましたか」
「頑なな私の態度に、不審感を持ったのだろう。ある時こっそり尾行していたらしい。そこで私の行動がばれ、止めるように厳しく咎められた。けれどもうその頃の私には、彼女と会わない選択肢など無かった」
「それは何故ですか。脅されていたからですか」
「そ、そうじゃない。私なりに、彼女の事を助けたいと思っていたからだ。経済的に問題を抱えている事を打ち明けられ、援助すると持ち掛けたのは私の方からだよ」
「だからといって、そのような関係が許される訳がないでしょう。久宗氏もそう言ったのではないですか」
 一久は、急に開き直った態度を取り始めた。自分の主張が間違っていないと、信じ込んでいるからだろう。
「言ったよ。だが私は聞かなかった。これは苦学生に対する、返済不要の奨学金みたいなものだと反論した。しかしあいつは納得せず、こっちで手を打つと言い出しやがった」
「手を打つ、と言ったのですか」
「そうだ。後で彼女から聞いたが、どうやら直接連絡を取ったらしい。関係を止めるよう、説得してきたようだ」
「松方弁護士に相談したりせず、久宗氏が一人で解決しようとされていたのですか」
「そうらしい」
「なるほど。だから彼女は久宗氏が邪魔になり、排除しようと考えたのかもしれませんね。そこであなたを使って、フットカバーや久宗氏の電波時計を手に入れた。あなたと一緒にいることで、事件当夜のアリバイ工作を行ったのでしょう」
 すると彼は再び、思いだしたかのように怯えだした。
「ほ、本当に彼女が久宗を殺したのか? 私には信じられない。あの子がそんな事をするなんて。何かはっきりした証拠でもあるのか」
「何故そう思われるのですか。彼女から、何か聞かれたのですか」
「いいや。私があの事件が起こってから彼女と連絡を取ろうとしたが、何の反応もなかった。だから話はしていない。でもあの子が、久宗を殺すなんてそんな無茶苦茶な、」
「あり得ない、とお思いですか。事件現場に入る為のカードキーは、彼女なら手に入れることが出来る。彼女には、あなたと別れた後のアリバイも無い。状況証拠は十分に揃っています」
「あ、あの子は何と言っているんだ。あなた達の事だから、既にこうやって取り調べをしているのだろう」
 取調官はその質問に対し、冷たく突き放した
「もちろんこちらに呼んで、話を聞いている最中です。ただ何と言っているかは、お伝え出来ません。あなたが包み隠さず全てを話さない限り、久宗氏殺害における共犯の疑いは晴れませんよ」
「私は知らない。も、もし彼女がやったというなら、利用されただけなんだ。私が息子を殺すなんて、そんな事を考える訳がない」
 一久の反論に首を振り、厳しく問い質した。
「事件当夜、彼女と待ち合わせをしたのはどこですか」
「そ、それは帰りに降ろした場所の近くだよ」
「要するに、事件現場近くということですね。つまり彼女は八時半より前から、あの事務所の中に入ることが出来た。事前準備が可能だったことも、これで判りました」
「事前準備というのは何だ」
 真剣な表情で尋ねた所を見ると、彼は犯行の詳細について本当に知らないのかもしれない。吉良はそう思いながら聞いていた。取調官はそのまま説明を続けた。
「アリバイ工作に必要なことです。実行犯は事前に入手した電波時計を使い、犯行時刻を実際よりも一時間以上遅らせようとしたと思われます。しかし時計だけでは、不十分と考えたのでしょう。死亡推定時刻を早める為に、十二月の夜という寒さを利用した。倉庫のエアコンを使って、室温を事前に上げておいたのでしょう。しかも温かい部屋の中で、意図的に揉めるようなことを言って、被害者に追いかけるよう仕向けた。彼女は逃げ回ることで被害者の体温を上げ、確実に死亡推定時刻を狂わせようとした。そう考えれば、現場における、奇妙な状況が説明できます」
「そんな複雑なことを、彼女ができるとは思えない」
 強く否定する彼に対し、取調官は追及の手を緩めなかった。
「いいえ。時計やエアコンを使ったアリバイトリックなど、今時ならテレビドラマでも使い古されていますからね。しかも殺害する前の被害者に運動させて死亡推定時刻を狂わせるという手も、有名な漫画やアニメでも使われた方法です。スマホがあれば、今や小学生でも調べられる程度の知識ですから、実行しようと思えばできたでしょう」
「いくら何でも、それは考え過ぎだ」
「では誰なら、犯行が可能だと思いますか」
 ここぞとばかりに一久は強気に出た。
「確かカードキーを持っている人物の中で、PA社の三郷という女性にはアリバイが無いと聞いたぞ。彼女じゃないのか」
 だが取調官がさらりといなした。
「残念ながら、彼女には確固たるアリバイがある事が、最近になって判りました。しかも彼女は、今までその証拠となる物を隠していたのです。何故なら事件当夜、あなた達二人が米蔵に入っていく様子を映していたからです。当然もう一人の人物の姿も、カメラで捉えていました。彼女はあなたの名誉を守る為に、これまで隠し通してきたのです。そんな人を犯人呼ばわりするなんて、失礼だとは思いませんか」
 彼はなんとなく予測していたのだろう。部屋の天井を見上げながら言った。
「ああ、やっぱりあの女は知っていたのか。あの日の夜、蔵の近くの駐車場にいたという話を聞いて、もしかすると見られていたのではないかと思っていたんだ。そうか。彼女は私を守る為に、黙っていてくれたのか。それは申し訳ない事をした。しかし彼女が他の人間に、カードキーを渡した可能性だってあるだろう。そうだ。卓也がいるじゃないか。日香里を殺そうとしたぐらいだ。金に目がくらんで、久宗を殺したに違いない」
 しかし取調官は首を横に振った。
「残念ながら、長谷卓也が三郷さんを含め、カードキーを持つ他の二名と接触していたとの証拠は、見つかっていません。もちろん本人も日香里さんを殺害しようとしたことは認めていますが、久宗氏殺害に関しては否認しています」
「殺人犯が、そう簡単に認める訳がないだろう。彼が嘘をついているんだ」
「何を言っているんですか。だったらどうしてあなたがこっそりと手に入れていた久宗氏の所有する電波時計が、現場に落ちていたのですか。先程あなたは、あの日の夜にいた人物に渡したと言ったばかりでしょう。つまり彼女が実行犯であり、現場にいた証拠です」
 これには一久も、黙るしかなかった。信じたくはないのだろうが、ようやくそれが真実であることを理解し始めたようだ。深く項垂れている所を見ると、彼は供述通り利用されていたとみるのが正しいのかもしれない。
 フットカバーや電波時計を渡したのは、脅されていたからだろう。久宗氏の忠告を聞かなかったのも、そうした理由からだと思われる。しかもその相手がカードキーの持ち主の一人である寺内芳美の娘、寺内菜月だったからこういうことになったのだ。
 まだ十二歳で小学六年生である彼女と一久はパパ活から発展し、やがて肉体関係を持ってしまったようだ。相手が十二歳となれば、既婚者を除く十八歳未満の男女との“淫行”や“淫らな性行為”等を規制する、青少年保護育成条例違反では済まない。
 日本の刑法では「性的同意年齢」は十三歳からだ。それを下回る女性と関係を持てば、強姦罪が適用される。そうした事が世に出れば、地元の名士である九竜家の名は地に落ちてしまう。それだけでなく、九竜コーポレーションも多大な影響を受けるに違いない。
 寺内家では経済的な問題があり、有名私立学校に通っている彼女は、いずれ学校を辞めなければならない恐れがあった。それを避ける為に、彼女自身が出会い系サイトでお金を稼ごうと思ったのだろう。
 そんな中で、一久と出会った。今となっては引退した身だが、九竜家の一員には変わりない。その事を知り、チャンスとばかり不幸な身の上話を聞かせて同情を引いたようだ。
 思い通り援助を受けるようになった彼女は、お小遣い程度では満足いかなくなったのかもしれない。体を許すことで弱みを握り、もっと多額のお金を引き出す為に脅そうと考えたのだろう。誘惑に負け手を出してしまった一久も、後に引けなくなったはずだ。
 そんな時、久宗が一久の行動を怪しみ二人の関係を知ってしまった。といって弁護士に相談した所で、一久の犯した罪は消えない。会社の身売りを考えていた久宗にとって、今のタイミングで世間に公表されてしまえば、価値が大きく下がることを恐れたとも考えられる。
 だから一人で解決しようと直接菜月と連絡を取り、なんとか説得しようと試みたのだろう。よって彼女の呼び出しに、素直に従ったのかもしれない。また久宗も相手が小学生だからと、油断していたのだろう。まさか殺されるなんて、想像すらしていなかったはずだ。
 取調官は、一久が観念したと思ったらしい。まずは確実に立件できるだろう、菜月との関係について再び問い始めた。
「それではもう一度伺います。寺内菜月と初めて会ったのは、いつですか」
 おそらく強姦罪を視野に入れて逮捕し、起訴内容を固めるはずだ。その後で久宗氏殺害についてどこまで関与していたかどうか、じっくり時間をかけ殺人の共犯として再逮捕できるかを判断するに違いない。
 吉良はそう考え、これ以上は二人の関係についての話が長くなると判断した。その後も、新しい事実が出てくるとは思えない。その為席を外し松ヶ根がいる部屋に行き、こちらの取り調べ内容の報告がてら、彼女の聴取がどのように進んでいるかを確認することにした。

 吉良が部屋に入ると、そこには松ヶ根しかいなかった。マジックミラー越しには、菜月の姿が見える。正面に座り取り調べを行っているのは、女性の捜査員だ。吉良が以前いた、生活安全部に所属するベテランをあてがったらしい。
 相手が小学生の女の子という事もあり、慎重を期したのだろう。捜査本部にいる強面の刑事では、問題になると判断したようだ。売春行為だけでも厄介なのに、殺人の疑いがあるとなれば当然だった。
 しかし彼女の証言は、今回の事件解決においてかなり重要なものになるだろう。よって何を話すか、多くの捜査員が固唾を飲んで聞いているものだと想像していた。それなのに隣室にいるのが松ヶ根だけだったことに、吉良は拍子抜けをした。
「向こうはどうだった」
 彼が取調室から目を離さずに訪ねてきたので、吉良は書き残したメモを見ながら重要事項はもちろん、細かい点も漏らさないよう説明した。時折頷きながら黙って聞いていた彼は、話が終わると言った。
「そうか。別室では、う~、彼女の母親の芳美が事情を聞かれている。夜遊びをしていることは、事件当夜長電話していた同級生の母親も気づいていたらしい。しかし、う~、パパ活をしていたとまでは、想像していなかったようだ。相当ショックを受けていた。ママ友の永山と、う~、その娘も呼んで事情聴取しているよ。永山も最近離婚が成立したことで、経済的な不安を抱えていたらしい」
「売春に関して彼女は認めましたか」
「永山の娘は認めたが、彼女は、う~、あくまでパパ活止まりだったと主張している。こっちのタマはすごいぞ。お前が聞いた話からすると、一久は利用されたらしいとの見方だったな。おそらくそうだろう。アリバイ工作も小学生にしては、う~、見事だと思ったがそれだけじゃない。被害者の下半身のパンツが脱がされていただろう。当然あれも彼女の細工のようだが、何故あんなことをしたのかが、う~、判ったよ」
「そういえば、そうですね。何と言ったのですか」
「被害者に襲われたと証言している。だから逃げ回った。捕まったら犯されると恐れたらしい。だから事務所にたまたまあった千枚通しとハサミで、う~、覆いかぶさってきた相手を刺したんだとさ。あくまであれは、正当防衛だったと主張している」
 余りの想定外の供述に、吉良は取り調べ中の彼女を二度見した。
「正当防衛ですか。でも殺したことは、認めたんですね」
「だが密室状態での、う~、正当防衛となればあの年齢だ。無罪放免の可能性もある」
「いやいや、それは無理がないですか。アリバイトリックの件もありますよね」
「そんな事は知らないと、一貫して否認している。あの事務所に行ったのも、う~、被害者から呼び出されたからだそうだ。事務所に入るカードキーを、母親の財布から盗み出した事は認めた。しかしそれも、う~、被害者による指示だったと言い張っているよ」
 吉良は開いた口が塞がらないほど呆れた。
「本当ですか」
「ああ。一応あのビルへの入り方は以前母親が通っていたことから、多少の操作方法は知っていたらしい。う~、だがロックの仕方などは知らなかったので、被害者を刺した後怖くなってそのまま逃げたそうだ」
「だったら何故現場にゲソ痕が残らないよう、フットカバーなんか履いてたんですか。辻褄が合わないでしょう。一久は彼女に言われて渡したと、供述しているんですよ」
「確かに一久から貰ったことは、う~、認めていたよ。ただそれは一久が以前使っているのをどこかで見た事があり、何となく欲しいと思ってねだっただけと言っている。現場に履いて行ったのも、あの事務所はほとんど使われていなくて埃っぽいことは、母親から聞いた事があったかららしい。汚れるのが嫌だから、用意したそうだ」
「だったら電波時計の件は、何て言ってるんですか」
「あれも一久が一度は勝手にくれたらしいが、ごつすぎて似合わないから返したと主張している。被害者が、う~、それを嵌めていたのは偶然だろう。時間が狂っていたのも、たまたまじゃないですかときたもんだ」
 彼に言ってもしょうがないことだが、口に出さずにはいられなかった。
「滅茶苦茶ですね。そんな言い訳、通らないでしょう」
「だが彼女の言い分が嘘と証明するのは、なかなか難しい。一久の話と違っていても、う~、あっちは高齢だから忘れているだけだと言い張っている。そう言われてしまうと、どっちが嘘をついているかと考えた時、十二歳の子にお金を払っていた人物の証言の方が、信用に欠けると判断されかねない」
 淡々と説明しながらも、肩を掻く仕草が激しくなっていた。かなりイラついている証拠だ。聞いていた吉良は、怒り以上に背筋が寒くなる思いをしていた。
「こっちのタマがすごいと言ったのは、そういう意味だったんですね。確かに恐ろしい子には違いありません」
「認めていないが、売春をしていたことは、う~、間違いないだろう。十二歳なのに自らの意志でそうした行為をしただけでなく、八十三歳の老人を手玉に取ったんだ。しかもアリバイ工作を施し、計画殺人までやり遂げている。彼女の携帯の中身を確認したところ、事件当夜に一久と一緒にいた映像が残っていた。二人が待ち合わせをしてから、蔵を出るまでの約二時間だ。捜査の手が及んだ場合に備えて、用意していたのだろう。三郷から映像を提供されなくても、二人の関係はいずれ明らかになっていたことになる」
「そこまで計算していたってことですか」
「間違いない。万が一言い逃れできないところまで追いつめられた場合、う~、被害者を殺したのは正当防衛だと言い張る為の工作までしていたんだ」
「ここまでくると、すさまじいですね」
「ああ。有名私立の学校に入学したぐらいだ。両親とも高学歴だから、う~、元々頭は良いのだろう。今回の事件が計画的である一方、稚拙な部分も見られる。彼女が犯人だったと考えれば、全て理にかなう」
「被害者に呼び出された理由については、何と言ってますか」
「そこは一久が供述しているように、う~、二人の関係がばれたからだと言っていた。だが父親との関係を解消する代わりに、被害者は自分と関係を持つよう脅してきたと供述している。嘘と本当を織り交ぜた証言のようだな。何とも小賢こざかしい娘だ。殺したことを、う~、今まで黙っていたのも、パパ活をしていた事や襲われたことが公になってしまう。それが怖かったからとも主張している。他の捜査員は一通り聞いたところで、呆れたのだろう。またはこれ以上聞いていられないと思ったのか、皆出て行った」
 それで今は彼しかいない理由が判った。確かにざっと聞いただけの吉良でさえ、苛立ったくらいだ。時折涙を浮かべて捜査員の質問に答えるあざとい姿が、あたかもテレビドラマで下手な子役の演技を見ているように感じたのだろう。
 迫真の演技ならともかく、百戦錬磨の捜査員達からすれば明らかに嘘だと判る狡猾こうかつな態度に、はらわたが煮えくり返ったとしても不思議ではない。それなのに彼は残り、彼女の一挙手一投足を逃さず捉え、記憶に留めようとしているのだろう。そうして今後の為に、付け入る隙はないかと探していたはずだ。
 取調室ではこれまで質問した内容を、何度も繰り返し確認している。だが表情をころころと変えながら話している菜月に対し、ベテラン取調官の顔が強張っているように見えた。通常なら、取り調べを受ける側が疲労するものだ。しかし今は立場が逆転している。
 これまで多くの少年少女の話を聞いてきた経験豊富な彼女でさえも、今まで味わったことのない状況だからだろう。得体の知れない化け物と対峙しているような、引き攣った表情を浮かべている。そんな二人のやり取りを眺めながら、吉良は尋ねた。
「これからどうなるんですかね。彼女はまだ十二歳ですよ。少年法の刑事責任年齢に達していませんよね。少年院送致は出来るかもしれませんが」
「一久が売春行為を認めれば、それもできるだろう。だが殺人についての立件は、このままだと、う~、難しいかもしれないな」
「そんな馬鹿な事って、ありませんよ」
「もっと明白な証拠が必要だ。俺は事件当夜、う~、彼女の身に着けていた服等の発見が、決め手になると踏んでいる。被害者は胸などを中心に、何度も刺されていた。彼女によれば必死だったからというが、それなら相当の返り血を浴びたはずだ」
 彼の言い分はもっともだった。だが今彼女の家を鑑識達によって家宅捜査しているが、そのようなものは、残念ながら発見されていないと聞いている。盗まれたと思われる携帯と財布も見つかっていないようだ。そこで吉良は尋ねた。
「本人はそれについて、何と証言しているんですか」
「返り血を浴びたことは認めた。現場の給湯室で洗い、う~、置いてあった洗剤で掃除もしたと供述しているから、鑑識の報告とも一致している。だがどんな服を着ていたか尋ねても答えない。被害者が着ていた服から採取された微物や繊維と一致するものもないらしいな。最初から不思議だったんだ。あれだけ現場で走り回った形跡があるのに、加害者らしき毛髪が、う~、一本も落ちていなかった。そんなことは通常あり得ない」
 どうやら家宅捜査の件は、既に彼の耳にも入っていたらしい。
「指紋が出なかったのは、時期から考えても手袋を嵌めていたと考えれば当然ですよね。でも彼女が言うように逃げ回ったというなら、汗とか毛が落ちていないのは不自然です」
「だから彼女は最初からそうしたものが落ちないよう、う~、全身を覆った合羽のようなものを身に着けていたんじゃないかと思っている」
 彼の推理に、吉良は頷いた。
「そうかもしれませんね。最初から殺す計画をしていたのなら、十分考えられます」
「彼女は給湯室である程度流し終わってから、現場を出てそれらを脱いだはずだ。う~、そこから家に帰るまでの間のどこかへ隠したか、処分したに違いない」
「処分って、燃やすか埋めるかですよね。そんな時間は無かったでしょう」
「あらかじめ準備をしていなければ、う~、どこかへ埋める等して隠したと考えた方がいいだろう。服をどうしたとの質問には、覚えていないの一点張りだ。携帯や財布についても、知らないと言い張っている。つまりそれらの物証が手に入れば、う~、立件できるかもしれない。だから今鑑識が中心となって、現場から彼女の家までの間を捜索している」
 恐らく捜査員も、応援に駆けつけているのかもしれない。ここに人がいないのは、そういう意味もあったのだろう。彼女の腹立たしい姿を見ているよりマシだと思ってもおかしくなかった。
 しかし吉良はペアの松ヶ根がここにいる限り、共にいた方が良いと判断し話しかけた。
「携帯は呼び出された形跡が見つからない為に盗んで、どこかへ捨てたのかもしれませんね。財布も入っていたお金に目が眩んだのでしょう。ただそれ等が見つかってもせいぜい、少年院送致が限度ってことですよね」
「今の刑法ではしょうがない。それでも正当防衛などという馬鹿な話で、う~、無罪放免させるよりかはマシだ」
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