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第三章

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瓦礫の下から救い出した仔狗たちは、目を離したすきに、再び瓦礫の下に潜り込んでしまっていた。
仔狗たちは、未だ瓦礫に半身が埋まる、母のもとへ戻ろうとしていた。
ラウラにはもちろん、他の二人にも、狼狗の亡骸を引きずり出す余力はなかった。
ラウラは痙攣する手で、どうにか仔狗をつかみあげ、ひとまとめにする。
小川から汲んできた水をカイが与えたが、まだ授乳中の仔狗たちは、臭いを嗅ぐだけで、口をつけようとしない。
母狗は、瓦礫に埋もれながらも、アリエージュと仔狗たちの上に覆いかぶさり、身を挺して守った。
瓦礫に埋もれ、ほどなくして母狗は死んだが、その乳はしばらくの間絶えなかった。
アリエージュと仔狗は、その母狗の乳で、今日まで命を繋いでいたのだ。
「この仔たちに、乳をあげないと……」
ラウラは半ば放心しながら、言った。
カイは洞穴の、なにもない暗闇の一点を見つめている。
アフィーは事切れたアリエージュに顔をうずめている。
二人からの返答が得られないラウラは、まとまらない頭で考える。
(乳の出る狼狗を探すのは、難しいよね)
(牛か山羊の乳でも、飲むかな?それなら、すぐに見つかりそう)
他の二人と同じく、ラウラもまた、現実から目を背けていた。
「私、乳を、探してきます」
ラウラは痛む両手をだらりと下げて、洞穴を出た。
「……なにがあった」
ラウラはそこで、シェルティと、老婆を背負ったレオンと出くわした。
二人は崩壊した洞穴と、そこから漏れる悪臭に顔をしかめた。
ラウラはぼんやりとした面持ちで呟く。
「乳を、あげないと」
「ああ?」
「山羊か、牛でも、いいと思うんです。どこかに、いないか、探さないと……」
「しっかりしろ!」
レオンに一喝され、ラウラは目を見開く。
「呆けてる場合じゃねえ。なにがあったんだ?カイたちは中か?」
レオンはラウラに詰め寄ろうとしたが、シェルティがそれを押しのける。
「お前はどうしてそう乱暴なんだ」
シェルティはラウラの前に膝をつき、目線を合わせ、静かな声で言った。
「ラウラ、すこし落ち着いて。なにがあったかまず僕らに話してほしい」
「……蠅が」
蠅が、たくさんいるんです。ラウラはそうとしか、答えることができなかった。
「ああああ!」
しかしそれを聞いた老婆は悲鳴をあげた。
「おい、暴れんな!」
レオンは抑え込もうとしたが、老婆の抵抗は激しく、仕方なく背から下ろしてやった。
老婆は瓦礫に躓きながら、洞穴の中に駆け込み、再び悲鳴をあげた。
「あああああ!!」
火炙りにでもされているかのような、おぞましい悲鳴だった。
老婆は目を剥き、髪を振り乱しながら、カイとアフィーを洞穴から追い払う。
「出ていけ!」
アフィーはアリエージュと仔狗を一緒に連れ出そうとするが、老婆はそれを奪い取り、獣のように威嚇する。
「触れるな!」
老婆は仔狗を胸に抱き、アリエージュの骸の前に立ち塞がった。
「出ていけ、人殺しめ!人でなしめ!ここにはお前たちが触れていいものなどなにひとつない!!」
アフィーは老婆から仔狗とアリエージュを奪い返そうとするが、レオンに襟首をつかまれ、外に引きずり出される。
「離して、アリエージュを……」
「やめろ」
「でも……」
「もう死んでんだろ」
レオンの言葉に、アフィーは項垂れる。
「だったら、おれらの出る幕はねえよ」
レオンは洞穴に目を向ける。
瓦礫に埋まる一人一人の名を呼ぶ、老婆の小さな背中だけが、洞穴の中で動いている。
老婆はラプソのたった一人の生き残りになってしまった。
レオンは同じ山間の遊牧民として、彼女の絶望を、そしてそれでも捨てることのできない矜持を、よく理解していた。
「南都へ向かうぞ。ここは、おれらの居ていい場所じゃない」





一体どこまでが災嵐だったのか、真実を知る者はだれもいない。
今回エレヴァンを襲ったものが、これまでの災嵐と大きく異なるということについては、誰もが同じ認識だった。
これまで記録として残る災嵐は、すべてひとつの災いの形をとってやってきた。
それは流行り病であり、自然災害であった。
はじまりから終わりまで、決まって七日間だった。
それより短いことも、長いことも、決してありはしなかった。
ところが今回は、通例から外れたことばかりが起こった。
期間も、形も曖昧で、その被害は、この千年間で最も深刻なものとなった。

エレヴァンは天回が消失してから十日の間、極寒の中に閉じ込められた。気温が氷点下を上回ることはなく、氷雪は絶えず吹き荒れ、あらゆるものが凍り付いてしまった。
都市を守る、守護霊術でさえも。
これまでどのような形の災嵐から都市を守ってきた霊術が、まったく効果を発揮しなかったのだ。
表面上、術式は正常に発動していた。
守護霊術は都市を囲う環濠の貯水が水の壁としてそそり立ち、防壁となる霊術だ。
しかし極寒の中でその水壁は凍り付き、都市の内部は、外と違わぬ氷雪に見舞われた。
むしろ氷の壁によって逃げ場のなくなった都市内部は、外より悲惨な状況に陥ってしまう。
一年を通して温暖な気候であったエレヴァンでは、建物も人も、雪や凍結に対する耐性がなかった。
吹き溜まりにはまり、そのまま動けなくなった者がいた。
締め切った家の中で火を焚き、一酸化炭素中毒を起こす者がいた。
不用意に金属に素手で触れ、張り付いてしまい、力づくで離そうとして、皮膚がすべて剥がれ落ちてしまった者がいた。
寒さで気が触れ、発狂する者がいた。
体温調節中枢が麻痺し、吹雪の中で裸になる者がいた。
彼らのほとんどは、間もなく凍死した。
例え建物の中にいても、免れることはできなかった。
薄い日干し煉瓦の壁と茅葺の屋根では、到底寒さを凌ぐことはできなかった。
人びとは、凍り付いた。
氷雪にまみれて、あるいは家屋の中で寄り添いあって、その温度と命を失っていった。

エレヴァンを襲ったのは、寒さだけではなかった。
寒さに加えて、抵抗しようのない絶対の暴力に、エレヴァンは蹂躙されていた。
それは無数のケタリングだった。
カイが縮地を発動させて一時もたたないうちに、エレヴァンの上空は、夥しい数のケタリングによって覆われた。
ケタリングははじめ、カイが発動させた縮地の周囲にとりついた。
光に群がる羽虫がごとく、ケタリングは縮地の周囲を飛び回り、その身をもって破壊を試みた。
自爆したのだ。
ケタリングは縮地に向かって頭から落ちた。
雨となって降り注いだ。
しかし縮地を止めるどころか波紋のひとつたてることはできず、地面に激突し、爆発した。
縮地の境界が焦土と化していたのは、レオンの読み通り、ケタリングの爆発によるものだった。
縮地の破壊を試みる一方で、ケタリングは市街地への攻撃も行った。
それは無差別の破壊だった。
縮地にそうしたように、ケタリングは都市の上に、爆弾として降り注いだ。
鐘塔も、家屋も、都市の内部にある建物はなにひとつ形を残すことができなかった。
破壊は徹底されていた。
火の海となった都市の上にケタリングは降り立ち、守護霊術が凍ってできた氷の壁を、その長い尾でもって叩き壊した。
粉砕された氷は噴石として郊外に飛散し、家を、人を、容赦なく貫いた。
またケタリングはその鋭利な爪で地面を抉り、地下にあった空間を暴いた。
そしてそこに隠れていた人もろとも、踏みつぶした。
都市の次は郊外を、郊外の次は農村を、ケタリングは人の手が入ったものであれば、人工物でも自然でも見境なく壊していった。
ケタリングが人そのものに狙いを定めることはしなかった。
けれど破壊から逃げ延びた人びとを待っているのは、止むことのない吹雪だった。
村を、家を壊された人々に、行く当てなどあるはずもなく、やがてみな、凍え死んだ。

まさしく地獄。凄惨としかいいようがなかった。
千年間、途切れることなく続いた人びとの歴史は、再びなきものとされてしまった。
このまま世界は滅びてしまうのだと、奇跡的に命を繋いでいる人びとの、誰もが思った。
二度と、もとの豊かな大地を、青空を、拝むことはできないだろうと。
しかし、十日後、エレヴァンは何事もなかったかのように、もとの温暖な気候へと戻っていた。
天回の出現と共に。

天回は消失したときと同じように、突如としてまた空の中心に現れた。
以前と寸分たがわぬ姿で、二重の黒円は、エレヴァンの上に君臨した。
そして入れ替わるように、災いは去っていった。
ケタリングはすべての攻撃をやめ、一匹、また一匹と、飛び去った。
寒さもまたしだいに和らいでいき、天回が戻った翌日には、エレヴァンはもとの温暖な気候に戻っていた。
高い空と、穏やかな秋風に包まれ、生き残った僅かな人びとは、災嵐は過ぎたのだ、と悟った。
けれどそれを喜ぶ者はいなかった。
被害はあまりにも甚大だった。
寒気が去り、気温があがると、雪も、凍りついた水も、あっという間に溶けだした。
雪はすべてを閉ざしていた。
その白は多くの命を奪い、そして隠していた。
更地となった都市。腐敗をはじめる死体。わきたつ蠅と、悪臭。
家畜は死に絶え、田畑は泥沼と化し、川も泉も黒く汚れてしまっている。
こんなにも荒廃してしまった世界で、これからどう生きていけばいいのか。
災嵐が過ぎたところで、希望など抱けるはずもない。
失われたものが多すぎた。
また生活をはじめるために立ち上がる者は、まだ、どこにもいなかった。
安堵も喜びもなかった。
生き残った人びとの胸はからっぽだった。
あるいは悲しみと恐怖、怒り、やりきれない気持ちで今にもはちきれてしまいそうだった。

なぜ、自分たちはこんな目にあったのか。
なぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか。
なぜ、家族は、友は、死んだのか。
なぜ、自分は生き残ったのか。
人びとは存在しない答えを求めた。
人びとはやり場のない焦燥を向ける先を求めた。
災嵐という形のない災いではなく、明確な、形ある相手を欲した。
憎むべき敵が彼らには必要だった。
怒りと憎しみで自らを奮い立たせなければ、彼らはもはや生きる気力を保つことができなかった。

そして彼らは見つけ出した。
矛先を。憎むべき敵を。

その名は、カイ・ミワタリといった。





日が落ちると、飛び交っていた蠅は、その耳障りな羽音もろとも何処かへ消える。
けれど蠅を呼び寄せる腐敗臭が収まることはなく、ラウラたち五人は、口と鼻を布で覆わなければ、歩くこともままならなかった。
先頭に立つラウラは、瓦礫の荒野と化した南都を進む。
南都はもとの面影を完全に失っていた。郊外との境もわからず、ただどこまでも瓦礫が広がるばかりだった。
ラウラは両手をだらりとたらし、おぼつかない足取りで歩き続ける。
レオンとシェルティはそんなラウラを何度も抱えようとしたが、ラウラはそれを頑なに拒否した。
一歩踏み出すごとに足に激痛が走る。
両手と同じように凍傷を負った足は、爪が剝がれかけてしまっていた。
しかしラウラはその痛みを必要としていた。
痛みはラウラの思考を奪い、多くを考えることができなくなる。
悲惨な光景を前に、瓦礫と同化して転がる無数の遺体を前に、こちらをじっと見つめてくる、生き残った人びとの虚ろな視線を前にして歩き続けるには、思考を奪う激痛が不可欠だった。
一方で、どこにも怪我を負っていないカイは、すべてをありのままに受け入れなければならなかった。
目を伏せても、耳を塞いでも、悲惨な現実から逃れることはできず、ラウラ以上におぼつかない足取りで、シェルティに肩を支えられながら、どうにかあとを追っていた。
レオンとシェルティも動揺していたが、それを押し隠し、周囲を警戒していた。
薄闇の中火も焚かずに、瓦礫に身をもたせ、こちらを凝視する人びとの視線に、二人は嫌なものを感じていた。
人相は宵闇がぼかしている。五人は視線を寄せる人びとと同じように汚れ、傷ついている。五人の他にも瓦礫の中を動く人影はある。
それなのに、なぜ、自分たちばかりが注目されるのか。

彼らはまだなにも知らなかった。
エレヴァンになにが起こったのか。
生き残った人びとにとって自分たちがどのような存在になってしまっているのか。
彼らはまだ気づいていなかった。
宵闇に紛れて忍び寄る、破滅に。

「……おい」
シェルティはレオンに目配せをする。
「これを、カイに」
「……いいのか?」
「王笏にかぶせるだけだからな」
レオンは鼻を鳴らし、シェルティの足元に横たわる死体の外套をはぎ取った。
シェルティはその衣をカイが手にする王笏に被せた。
少しでも注目は避けた方がいい。正体は隠した方がいい。という、勘による判断だった。
レオンは衣をはいだ死体が懐に差す小刀を抜き取り、アフィーに与えた。
「持っておけ」
「なんで?」
「お前、霊力切れてんだろ」
「うん」
「自分の身は自分で守れ」
アフィーは釈然としない表情で、小刀を握りしめた。
「――――あっ」
ふいに、ラウラが声をあげた。
ラウラの前には環濠があった。
環濠は都市と、郊外を分かつ境だった。
その水位は以前の半分にも満たず、どす黒く汚れた水には死体や瓦礫が無数に浸っていた。
跳ね橋は落ちていたが、積み重なった瓦礫を伝って、都市に渡ることができた。
「おい、待て」
レオンの制止を聞かず、ラウラは這うようにして瓦礫を渡った。
都市の中は郊外同様、瓦礫の荒野と化していた。
ラウラは立ち竦んだ。
荒廃した都市を目にしたからではない。
都市がすでにその姿を失っていることは、郊外に入った時点で伺うことができていたからだ。
ラウラが茫然自失としたのは、都市に入ってすぐの広場に立つ、塑像を目にしたからだ。
「なんだ、これ……」
ラウラに追いついた四人もまた、同じように茫然とする。
広場には、塑像が立っていた。
それはカイを模して作られた塑像だった。
人びとがその信仰心のために、救世主を讃えるために建てた、本人には似ても似つかない、怪物のような見た目の塑像。
ケタリングの強襲をへてなお、それは顔が半分砕けただけで、依然としてその場に佇んでいた。
「なんで、こんな……」
塑像には二人の人間が縛り付けられていた。
どちらも顔を炙られている。
身に着けた官服には足跡や吐きつけられた痰がこびりついている。
全身に木片や金属片が、深く、突き立てられている。
それらはすべて、集団による暴行のあとだった。

集団暴行を受けた、まだ事切れて間もない死体が、カイの想像に縛り付けられていた。
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