上 下
153 / 185
第三章

それは瓦礫の表層に過ぎない

しおりを挟む


カイに抱えられたラウラが浮上して目にした光景は、筆舌に尽くしがたいものだった。
縮地はカイを中心にして、直径一キロの範囲に渡って発動された。
上空から見ると、縮地にかかった場所には雪が覆いかぶさり、そこだけが白くくり抜かれているようであった。
雪化粧の先には、縮地の外にあった地は、荒れすさんでいた。
青々とした草原と山林、空がそのままこぼれ落ちたかのような透き通る湖面、豊かな自然が彩るエレヴァンの姿は、もうどこにも残っていなかった。
すべてが色褪せ、くすんでいた。煤煙が無数に立ち昇り、湖面は黒ずんだ油で覆われていた。
樹木も芝も、大小問わず、植物という植物が萎れていた。
世界はまるで生気を抜き取られてしまったかのようだった。
嵐、地震、火事、疫病、災嵐がどのような形をもって、エレヴァンを襲ったのか、目の前に広がる荒廃した山林だけでは、ラウラには判断がつかなかった。
山林に残る痕跡は、そのどれにも当てはまるようであったし、また当てはまらないようでもあった。
それでも確かなことがふたつあった。
世界は災嵐に見舞われた。
そしてすべてはもう終わってしまった。
失敗だった。なにもかも手遅れだった。
ラウラが確信をもって言えるのはそれだけだった。
ラウラにはもはや、嗚咽をもらすことしかできなかった。
カイはそんなラウラからも、変わり果てた景色からも目を逸らして、王笏の操作にだけ意識を集中させた。
それでも王笏の操作は乱れ、大きく蛇行してしまう。
「ご、ごめん」
カイは謝った。特にアフィーはこれがはじめての飛行体験だった。
なるべく揺れのないよう飛ぼうとカイは気をつかっていたが、乱れた霊操を落ち着かせることはできなかった。
「ごめん……」
カイは無意識に謝罪を続けた。
それはいつしか、アフィーとラウラにではなく、目の前に広がる光景、その中にいるであろう人びとに向けたものへ変わっていった。
目を背けても、逃げることはできなかった。
カイは高度を落とした。
遠くまで見渡せないように、山間の先にある市街地まで見えてしまわないように、低く、低く飛んだ。
「――――ない」
黙りこくっていたアフィ―が、ふいに呟いた。
「どこに……?」
カイはその場で停止し、少しだけ高度をあげる。
「洞穴、このへんなのか?」
「うん、でも、ない」
そう言うアフィーは、カイにしがみつくばかりで、眼下をろくに見ることができない。
無理もなかった。アフィーにとってはこれがはじめての飛行なのだ。
地上二十メートルの空中を、王笏一本を足場に立っているのだ。
恐怖するのも当然だろう。
「上からじゃわかんないか?」
「近いとは、思う」
「じゃあ、とりあえず下りるか」
カイはゆっくりと下降した。

三人はしばらく山林をさ迷い、やがて人の手が入った山道に出た。
そこからは、アフィーの足取りに迷いはなくなった。
「洞穴、アリエージュたちがいる。食べ物も、薬も、ある」
アフィーは先導して歩きながら、憔悴する二人を励ました。
「狼狗もいる。やわらかい毛布もある。わたしの、隠してた、飴玉もある。だから、すぐ、元気になれる」
アフィーは必死に言葉を連ねたが、カイも、ラウラも、反応を返すことはできなかった。
飛行中、まともに景色を見なかったアフィーは、二人が沈み込む理由は疲れにあると思い込んでいた。
「洞穴につけば、ゆっくり、休める」
しかし、洞穴は、上空から見る景色がそうであったように、すでに元の形を保ってはいなかった。

緩やかな斜面を、無理やり引き裂いたような穴だった。
アフィ―はその入り口で立ち竦み、呟いた。
「前と、違う」
アフィーは以前にこの洞穴を訪れたことがあった。
もしものときにはここに逃げるのだと、アリエージュに教わっていたのだ。
しかしそのときより、穴が、明らかに大きくなっている。
入り口はもっと小さかった。中に入るとドーム状の空間が広がる、ラプソの一族の住居である天幕と同じ形をした洞穴だった。
それが今では、入り口は大きく割かれ、天井は崩落し、屈まないと歩けないような狭い穴が残るばかりになっていた。
「アリエージュ……?」
アフィ―は屈みながら、洞穴の中をのぞきこんだ。
「――――っ!」
洞穴の中には、ひどい悪臭が充満していた。
「なんだこの臭い……」
カイは鼻を塞ぎながら、洞穴の中に足を一歩踏み入れた。
「うわっ!」
途端に、蠅が舞った。
ブブブブブッと、蠅はカイの足元からわき出てくる。
カイはのけ反り、尻餅をつく。
「な、なんだ……?」
崩落した洞穴の天井が、瓦礫となって積み重なっている。蠅はその隙間から湧き出ている。
「下になんかあんのか?」
カイは瓦礫を持ち上げた。
「ひっ!?」
瓦礫の下には、潰れた子どもの顔があった。
「ああ!」
別の場所で瓦礫を持ち上げたアフィーも、悲鳴をあげる。
折れ曲がり、骨の露出した右手が、瓦礫の下から飛び出している。
洞穴の入り口に立っていたラウラは、その場にへたりこんだ。
(……崩れたんだ)
(洞穴の天井が落ちて、埋まったんだ)
ラウラは臭いの正体が、蠅がなにに群がっているのか悟り、その場でえずいた。
凍傷を負った指に、嘔吐物が染み、激痛が走る。
歯を食いしばって痛みに耐える。
両手が心臓になったかのように激しく脈打つ。
(痛い)
(でも、瓦礫の下敷きになるほうが、もっと痛いはずだ)
冬営地を無邪気に走り回る子供たちの笑顔。身内を亡くした悲しみをこらえて、懸命に生活を立て直そうとする女たちの、あかぎれにまみれた手。
なんの罪もない命だった。
ただ、ここに生まれ、ここで生きていただけの人たちだった。
(それなのに……!)
ただ生きていただけなのに、瓦礫に押しつぶされた。
人の形を失い、腐敗し、蠅に蝕まれた。
(そんなことが、あっていいはずがない……)
あふれた涙が、両手に滴り、さらに激しい痛みが、ラウラを襲う。
ラウラはそれを罰だと感じる。
彼女らをこんな目に合わせた自分への、罰だと。
「今出してやるからな」
カイはそういって、子どもの上に乗った瓦礫を動かそうとする。
けれど瓦礫は重く、ろくに動かすことができない。
「どけよ……どいてくれよ……!」
カイは半狂乱になって瓦礫を殴る。
「そうだ、壊せばいいんだ」
カイは王笏を手に取り、瓦礫につきたてる。
「……くそっ!」
しかし霊力をこめることはできなかった。
カイには自信がなかった。
瓦礫を粉砕することは造作もないが、その下にいる子供も、おそらく傷つけてしまうだろう。
それどころか、洞穴を再び崩落させてしまうかもしれない。
カイは王笏を投げつけ、叫ぶ。
「誰か、いませんか!」
返事はない。
ブブブブ、という蠅の羽音だけが、絶えず響いている。
それでもカイは叫び続けた。
「誰か、誰か!お願いだから、返事をしてくれ!」

くう……。

一滴の雫が落ちたような、ほんの小さな鳴き声があがる。
アフィーとラウラは、はっとして顔をあげる。
「いま……?」
三人は耳をそばだてる。
羽音にまぎれて、くうくうという小さな鳴き声が、確かに聞こえてくる。
三人は洞窟の奥へ足を進めた。
まとわりつく蠅も、鼻をつく悪臭も、瓦礫の隙間からのぞく人の身体にも目をくれず、ただひたすら、鳴き声を辿っていく。
「おまえ……!」
洞穴の奥で、狼狗の仔が、ぽつんと一匹転がっていた。
狼狗の仔は汚れていたが無傷で、空腹を訴えて鳴いていた。
アフィーは狼狗の仔を抱きあげ、声をかける。
「ずっと、ここに、いたの?お母さんは?ほかのみんなは?」
狼狗はアフィーの手を逃れるように、大きくのけ反る。
アフィーが下ろしてやると、狼狗の仔は瓦礫の隙間に小さな体を潜り込ませていく。
「この下……!」
三人は瓦礫を取り除きにかかる。
カイはまともに霊操ができず、ラウラとアフィーは霊力が尽きており、瓦礫は人力でのけるほかなかった。
両手の使えないラウラは、手首を使って細かな瓦礫を。アフィーとカイは王笏をてこに、重い瓦礫をずらし、どうにか隙間を広げていった。
数十分かけて、ようやく三人は、瓦礫の下に埋まる狼狗と、その隣に寄り添うアリエージュの姿を見つけることができた。
「……う」
アリエージュはうっすらと目を開けた。
瓦礫の下で、彼女はまだ生きていた。
「アリエージュ!」
アフィーとカイは、アリエージュを急いで引き上げる。
見たところ大きな外傷はなかった。
しかしアリエージュは虫の息で、目も虚ろだった。
「アリエージュ、しっかりしてください」
「起きて、アリエージュ。目を開けて」
ラウラとアフィーが声をかけると、アリエージュはゆっくりと口を開いた。
「終わった……?」
「え?」
「災嵐は、去ったの?」
「それは……」
まったく現状をつかめていないラウラは、言葉に窮する。
ラウラたちはまだなにも知らなかった。
自分たちはどれくらいの時を飛んだのか、なぜ洞穴が崩壊したのか、いま現在は災嵐の渦中にあるのか、そうではないのか。
ラウラはなにもわからず、アリエージュの問いに答えることができなかった。
「――――終わった」
けれどアフィーは、アリエージュの両手を握りしめて、言った。
「もう、ぜんぶ終わった」
「本当に?」
「うん。災嵐は、もうない。アリエージュは、助かった」
アリエージュは身体の力を抜き、アフィーの腕の中に沈み込んだ。
「……よかった」
アリエージュは、抱きかかえるように腹に添えていた両手をそっと解いた。
「守れたのね、私」
アリエージュは頭からつま先まで泥と砂ぼこりに塗れていたが、腹にだけは、染みのひとつついていなかった。
「水が、飲みたいわ」
「……!待ってて、すぐに汲んでくる」
立ち上がったカイを見て、アリエージュは呟く。
「失敗したのね」
カイはびくりと肩を震わせる。
「アリエージュ、カイは、なにも、悪くない」
カイを庇うアフィーに、アリエージュは微笑みかける。
「言われなくてもわかってるわ、キース」
「……私は、キースじゃ、ない」
「みんなは無事?水を……私の前に、みんなに、あげて」
「うん」
「あの子のおかげなの。あの子はすごいわ。私と、自分の仔を、死んでも守った」
「……うん」
「水がほしいわ」
「すぐ、持ってくる」
アリエージュはせん盲状態にあった。
もはやまともな会話を成り立たせることはできなかった。
それでもアフィーは、一言ずつ、相槌を返した。
「私は、守り切ったわ」
「うん」
「この子のこと、ちゃんと守ったの。災嵐に飲み込ませるようなこと、しなかったの」
「うん」
「私、約束を果たしたのよ」
「うん」
「産んであげられなくて、ごめんなさい。でも、でもね、私たち、ちゃんと死ねるわ。災嵐の中に消えるんじゃない、ちゃんと、キースのところに行けるわ」
「だめ!」
アフィーは叫ぶ。
「だめ、アリエージュ!死んだら、だめ!」
アリエージュの顔に、アフィーの涙が滴り落ちる。
「……キース」
アリエージュは笑う。
これ以上の幸福はないと言わんばかりの、満面の笑みを浮かべる。

「こんなところにいたの」
「ずっと探してたのよ」
「会いたかったわ」
「一番近くにいてくれたのね」
「待っててくれたのね」
「信じてくれたのね」
「私が、災嵐をこえられるって」
「……そうよ」
「私、ちゃんと、この子を、守ったのよ」

アフィーはもはや、声を発することができなかった。
アリエージュはアフィーの頬に触れ、泣かないで、と言った。
「貴方が死んだとき、私は我慢したのに、ずるいわよ」
「これからはずっと一緒なのよ」
「三人でずっと一緒にいるの」
「本当のラプソとして、暮らすの。生きていくの」
「夢が、叶うわ」
「だから、あなたも、喜んで――――」
アリエージュの手が、アフィ―の頬から落ちる。
アフィーは咄嗟にその手をつかむ。
「アリエージュ!」
どれだけ呼びかけても、アリエージュが目を開くことはなかった。
二度と。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

いきなり異世界って理不尽だ!

みーか
ファンタジー
 三田 陽菜25歳。会社に行こうと家を出たら、足元が消えて、気付けば異世界へ。   自称神様の作った機械のシステムエラーで地球には帰れない。地球の物は何でも魔力と交換できるようにしてもらい、異世界で居心地良く暮らしていきます!

せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います

霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。 得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。 しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。 傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。 基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。 が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

他国から来た王妃ですが、冷遇? 私にとっては厚遇すぎます!

七辻ゆゆ
ファンタジー
人質同然でやってきたというのに、出されるご飯は母国より美味しいし、嫌味な上司もいないから掃除洗濯毎日楽しいのですが!?

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

お花畑な母親が正当な跡取りである兄を差し置いて俺を跡取りにしようとしている。誰か助けて……

karon
ファンタジー
我が家にはおまけがいる。それは俺の兄、しかし兄はすべてに置いて俺に勝っており、俺は凡人以下。兄を差し置いて俺が跡取りになったら俺は詰む。何とかこの状況から逃げ出したい。

魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな

七辻ゆゆ
ファンタジー
「では罪人よ。おまえはあくまで自分が勇者であり、魔王を倒したと言うのだな?」 「そうそう」  茶番にも飽きてきた。処刑できるというのなら、ぜひやってみてほしい。  無理だと思うけど。

処理中です...