敏腕弁護士の不埒な盲愛に堕とされました

有允ひろみ

文字の大きさ
2 / 17
1巻

1-2

しおりを挟む
 黒田が言い終わると同時に、神崎が目をいて椅子から立ち上がった。かなり大きな音がして、周りにいる事務員達がびっくりしたように彼女を見る。

「デート? 黒田先生、デートってなんですか? まさか、その人って先生の彼女さん……なわけないですよね?」

 神崎が夏乃子の全身に素早く目を走らせて、そう言った。彼女の表情と言い方には、明らかにとげがある。
 おそらく神崎は、黒田に好意を持っているのだろう。それなら突然やってきた客でもない自分に敵意を向けるのは無理もない。
 夏乃子は黒田が否定してくれるのを期待しながら、黙っていた。けれど、彼は夏乃子の肩を軽く抱き寄せて、にこやかな笑みを浮かべる。

「どうかな? 何せ、出会ったばかりだからね。だけど、可能性は無限大ってところかな」
「はあ?」

 夏乃子と神崎の声が重なるのを聞いて、黒田が可笑おかしそうな表情を浮かべる。彼はそれからすぐに事務所の人達に暇乞いとまごいをして、夏乃子を廊下に連れ出した。

「さあ、身元がはっきりしたところでデートに行こう」

 笑顔でじっと見つめられて、言いかけた言葉をグッと呑み込む。浮かんでいる笑みは一見屈託くったくがなさそうだが、彼は弁護士だ。嫌だと言っても器物損壊だのなんだのと言い出されたら夏乃子に勝ち目はないだろう。
 今日やるべき仕事は終わったし、ほかに用事もない。
 夏乃子は観念して黒田の要求に応じる事にした。

「わかりました。で、どこへ行くんですか?」
「お、その気になったみたいだね。誘いに乗ってくれてよかったよ。ところで、お腹いてない? 俺、ランチを食べ損ねちゃったんだよね」
「お腹は……いているといえばいてるかもしれないです」

 夏乃子は無意識に自分の腹に手を当てて、わずかに首をひねった。
 食にこだわりはないし、この一年半お腹がくという感覚があまりない。胃がからっぽで動けなくなってからようやく空腹に気づく事もしばしばで、以来こまめに何かしら口に入れるようにしているといった感じだ。

「じゃあ、まずは美味しいものを食べに行こう。誘ったのはこっちだから、もちろんデートにかかる費用は俺に任せてくれ」
「え? でもそれじゃあ、お詫びになりません」
「そんなの気にしなくていいよ」

 夏乃子が食い下がっても、黒田は笑顔で受け流すばかりで取り合ってくれない。

「事前に言っておくけど、今日は晩御飯も付き合ってもらうから。デートにかかる費用は、言ってみれば君を時間的に拘束する対価みたいなものだ」

 どんな理屈でそうなるのかはなはだ疑問だが、決定権は高価なシャツを汚された黒田にある。
 再びエレベーターに乗って降りたのは地下駐車場だった。様々な車が並ぶフロアを歩いていると、ビルの管理人らしき初老の男性が現れて黒田に挨拶あいさつをする。

「あれ? 黒田社長、今日はお休みだったんじゃないんですか?」
「うん。そうなんだけど、急にデートをする事になってね」

 黒田が斜めうしろにいる夏乃子をてのひらで示し、にっこりする。

「それはそれは……。どうぞよい一日を。車はピカピカに磨いておきましたよ」
「いつもありがとう。じゃあ、行ってくるよ」

 初老の男性に見送られて、夏乃子は黒田とともに駐車場の奥に向かって歩いていく。

(社長? 先生じゃなくて? ……そういえば、このビルって「黒田第一ビル」だったよね? もしかして、この人って弁護士兼経営者だけじゃなくて、このビルのオーナーでもあるの?)

 表通りではないけれど、この辺りは都内有数の一等地だ。
 これで、彼が富裕層である事は決定した。
 少し前を行く黒田の背中を眺め、改めて彼のまとっているオーラを見定める。

(リッチでイケメンの弁護士とか、ぜったいモテるでしょ。なんで、たまたま出会っただけの私をデートに誘ったりするんだろう?)

 黒田の素性はわかったが、彼は夏乃子の名前すら知らない。
 あえて聞こうとしないのか、興味がないのか……
 そんな事を考えていると、黒田の少し前にあるメタリックブラックの車が開錠される音が聞こえてきた。見ると、それはV8エンジンを搭載した海外の高級車だ。しかも、夏乃子の記憶が正しければ限定モデルで価格は一千万円近くする。
 思わず立ち止まって車体を見つめていると、黒田が夏乃子を振り返って小首を傾げた。

「もしかして、車に詳しいのかな?」
「いえ……ただ以前、仕事で人気車種について記事を書いた事があったので」
「記事? って事は、君は車雑誌の記者か何か?」
「フリーライターです。車について書いたのは依頼があったからで、詳しいというほどじゃありません」

 夏乃子は立ち止まり、バッグから名刺を取り出して黒田に差し出した。紙面には名前や電話番号のほかに、メールアドレスと各種SNSのアカウント名が記されている。
 彼はそれを受け取ると、軽く頷きながら夏乃子の全身に視線を走らせた。

「なるほど。言われてみれば、フリーライターって感じがするな」

 それがどういう意味かわからないが、これでお互いの名前と職業は明らかになった。二人ともれっきとした社会人だし、素性を明かしても不都合があるわけでもない。
 それに、黒田は弁護士だ。間違っても法に触れるような事はしないだろう。
 夏乃子はそう判断して案内されるまま右側にある助手席に乗り込み、運転席側に回る黒田をフロントガラス越しに見つめる。
 手を取って人混みの中をエスコートしてくれたり、車の助手席のドアを開けてくれたりする動きはとてもスマートだ。これほどのイケメンなのだから女性の扱いに慣れていても不思議はないし、当然のようにそうしてくれるから、ついそれに乗せられてしまう。
 けれど、これ以上感情を揺さぶられるのは避けたかった。
 黒田が運転席に座りエンジンをかける。車が静かに動き出し駐車場から車道に出た。

「さっきの続きだけど、車のほかには、どんな記事を書いてきたの?」
「主に旅行に関する記事を書いています。ほかに、ライフスタイルやキャリアアップ関連のものを」
「旅行はいいね。俺の趣味でもある。じゃあ、取材であちこち行ってるんだろうね」
「はい。といっても、国内だけですけど」

 日本各地を飛び回っている夏乃子だが、海外に行ったのは一度きりだ。渡航先はマレーシアで、当時はまだ旅行会社に勤務していた。一人旅だったが、行く先々で出会う人達は皆親切で、とにかく海が綺麗だったのをよく覚えている。

「俺も学生時代はあちこち行ってたんだが、久しく旅行に行ってないな……」

 黒田が昔を思い出すような表情を浮かべる。彼が言う旅行とは、きっと世界規模のものだろう。

「ところで、食べ物に関して、好き嫌いはある?」
「いいえ、好き嫌いはありません」
「いい事だ。道もさほど混んでいないから店まで十五分もかからないと思うよ」

 車は街中を通り抜け、国道を経由して首都高速に入る。
 運転免許はあるけれど、夏乃子は車を持っていない。地方で仕事をする時はレンタカーを借りる事もあるが、都心での移動手段はもっぱら電車かバスだ。
 思えば男性とこうして都内をドライブするのは、かなり久しぶりだ。雅一が生きていた時は、彼の車で出かける事もしばしばで、一度はかわるがわる運転しながら京都まで行った事もある。
 彼とは社会人になってすぐに知り合い、六年間恋人関係にあった。付き合ったのは、あとにも先にも雅一だけで、彼の死後はプライベートで男性とかかわった事は一切ない。街を一人で歩いていても、声を掛けてくる男性といえば怪しげなキャッチセールスのみだ。
 ライターとして老若男女ろうにゃくなんにょ問わずコミュニケーションをとってきたが、正直なところ男慣れしているとは言いがたいのが実情だった。
 もしかすると、これは今まで接した事のないタイプの男性を知るいい機会かもしれない。
 今後、若くして成功した男性のライフスタイルに関する仕事の依頼が来ないとも限らないし、フリーライターとしてじっくり観察させてもらおうという気持ちになった。

(そうよ、これも今後のため)

 フリーで仕事を始めてから、夏乃子は常に仕事を最優先にしてきた。
 つまりこれは、プライベートではなく仕事だ――そう割り切り、夏乃子はさっそく黒田の人間観察を始めた。
 横目で見る黒田のハンドルさばきはなめらかで、男性らしくごつごつとした手は大きく、長い指の爪は綺麗に切り揃えられている。
 ジャケットのそでから覗く時計はいかにも高級そうで、慣れた感じで運転する横顔は彫刻のようだ。
 相変わらず口角は上がっており、一挙手一投足に余裕が感じられる。
 これが本物の富裕層というものだろうか。

(まだ全面的に信頼したわけじゃないけど、弁護士だし、危険人物ではないみたいね)

 黒田にはまったく偉ぶったところがないし、逆に初対面とは思えないほど気さくだ。
 これほどのイケメンなのだから、本来はもっと気詰まりで居心地が悪くてもおかしくないのに、一緒にいて妙な安心感がある。
 ともにいる時間はまだ一時間にも満たないのに、人一倍警戒心が強い自分にそう思わせるのだから、彼は相当の人たらしだ。
 こうなると、異性としてというよりも人として興味深い。

「今更だけど、デートに誘ってもよかったのかな? つまり、君が既婚者だったり恋人がいたりするんじゃないかって事なんだけど」

 緩い左カーブを曲がりながら、黒田にそう聞かれた。自然と身体が彼のほうに傾きそうになるが、頑張ってどうにか踏みとどまる。

「ご心配には及びません。未婚だし付き合っている人もいませんから」
「それならよかった。俺も同じだから、なんの問題もないな」
「そうですか」

 言われてみれば、お互い適齢期の男女なのだからすでにパートナーがいても不思議はない。
 黒田に言われるまでまったく気が回っていなかったのは、それだけ気持ちが恋愛から遠ざかっているからだろう。
 高速道路を下りて右折する時、黒田がチラリと夏乃子を見た。目が合ってしまい、あわててそっぽを向いたが、もう遅い。きっと彼は、ずっと見られていた事に気づいただろう。
 しかし、女性からの視線に慣れているのか、黒田は特に反応する事なく運転を続けている。

「着いたよ」

 黒田が車を停めたのは、川沿いにある和食店だ。建物の八階にあるそこは、白壁と木目調のインテリアが優しい雰囲気の店で、川に面した壁がガラス張りになっている。
 予約をしていたのか、近づいてきたウエイターが窓際の席に案内してくれた。

「雪でも降っていたら、もっとロマンチックなんだけどな。……今日はもう仕事は終わりなんだろう? 軽く食前酒でもどう? ここの果実酒は自家製だしハーブがたくさん入ってるから身体にも優しいよ」

 そう話す顔は笑顔で、下心はまったく感じない。それに、身体に優しいという言葉に惹かれ、どんな味なのか興味が湧いてしまった。

「そうですか……じゃあ……」

 メニューを見せられたが、結局はすべて黒田に任せてしまった。ほどなくして、小ぶりの切子グラスに入った食前酒が運ばれてくる。勧められて一口飲むと、口の中いっぱいに花の香りが広がった。味はほんのりと甘く、それでいて鼻に抜けるさわやかさがある。

「……美味しい。それに、すごく香りがいいです」

 美味しさに目を丸くする夏乃子を見た黒田が、途端にぱあっと顔を輝かせた。

「そうだろう? 確かラベンダーとかカモミールとか香りのいい花が入っていたはずだ」

 黒田が言うには、この店は昔からの友人が経営者兼シェフをしており、今飲んだハーブ酒は個人的にも購入して自宅で愛飲あいいんしているらしい。
 友人自慢の酒をめられたのが、そんなに嬉しかったのだろうか?
 そう思うほど、黒田は相好そうごうを崩している。

「ラベンダーもカモミールも好きな香りだし、前は疲れてホッとしたい時用にハーブティーのティーバッグを買い置きしていました」
「前は? 今はもうしていないのか?」
「そうですね、いつの間にかしなくなっていました」

 手元の切子グラスを見るうちに、ふと頭の中に雅一の面影おもかげが浮かんできた。
 昔、彼と行った旅先で、これと同じようなグラスを売っている店に入った事があった。時間がなくて結局は何も買わずに出てしまったが、本当は自分用にひとつ欲しかったのを思い出す。
 だがそれも、もう昔の事だ。
 夏乃子はグラスを傾け、二口目の食前酒と一緒に過去の想い出を飲み下した。

「……ほんとに、美味しいですね」
「よかったら、あとでひとびん土産みやげにしてあげるよ」

 黒田が言い、ちょうど料理を持ってきたフロア係の一人に何かしら話しかける。別の係の人が皿をテーブルに並べたあと、グラスに酒を継ぎ足してくれた。
 運ばれてきたのは里芋のホタテ貝あんかけに、だし巻き卵。季節の刺身と鶏肉の香草焼きなど。器や盛り付けにも工夫がらしてあり、目にも美味しそうだ。

「どうぞ、召し上がれ」

 大皿に載った料理を、黒田が手際よく取り分けて夏乃子の前に置いてくれた。食前酒のおかげなのか、久しぶりに胃袋が食べ物を欲しがっているのを感じる。
 ごくりと唾を飲み込みながら、だし巻き卵にはしをつけた。

「……うまっ!」

 思わず声が出て、あわてて指先で口を押さえた。けれど、ふわふわで出汁だしのきいた卵料理の美味しさには勝てず、すぐに二口目を口に入れる。

「美味しい?」

 ニコニコ顔の黒田に問われて、夏乃子はもぐもぐと口を動かしながら、無言で首を縦に振った。

「それはよかった。ほら、こっちも美味しいよ」

 切り分けてもらった鶏肉料理に、黒田が黄金こがね色の肉汁をかけてくれた。カリカリに焼いた皮につやが出て、香ばしい匂いが鼻腔びこうをくすぐる。
 食べながら、どんどん食欲が増していくのを感じるのは、いつぶりだろうか。差し出されるまま料理を食べ、合間にハーブ酒を飲む。
 刺身は新鮮つ歯ごたえがぷりぷりで、里芋のホタテ貝あんかけもびっくりするほど味わい深い。
 いったいどんな調理をすれば、こんな味になるのか……
 夏乃子は、たっぷりとあんのかかった里芋を凝視し、それを口に入れようとした。
 すると、こちらをじっと見つめている黒田と目が合い、驚いた拍子に里芋がはしから滑り落ちてしまう。

「あ……」

 里芋は、ちょうど黒田が取り分け用に使っている皿の上に落ちた。
 不可抗力とはいえ、自分がはしをつけたものを人の皿の上に落としてしまうとは――
 夏乃子がどうしたものかと思っていると、黒田がそれを指先でつまみ上げ、ポイと自分の口の中に放り込んだ。

「え? さ、里芋……」

 黒田が里芋を咀嚼そしゃくしてごくりと飲み込む。彼は「美味うまい」と言ってにっこりと笑い、大皿からもうひとつ里芋を取って夏乃子の皿に入れてくれた。

「す、すみません。ありがとうございます」

 夏乃子が恐縮していると、黒田がほがらかな笑い声を上げた。

「謝ったり、お礼を言ったり、忙しいね。気にしなくていいから、どんどん食べて」

 ふと彼の前に並んだ皿を見ると、あまり減っていない。もしかすると、黒田はこちらが食べている様子を見ていたのだろうか?
 そういえば、さっき里芋を指でつまんだ時、彼ははしを持っていなかった。
 いくら久々に空腹を感じたからといって、わき目もふらずガツガツと食べてしまうなんて、かなり恥ずかしい。
 しかし、どうせ今日限りの仲だと思い直し、再びはしを動かして料理を堪能する。
 食後のシャーベットのフルーツ添えを楽しんだあと、すっかり満足してごちそうさまを言った。

「ぜんぶ、とても美味しかったです。こんなに美味しいお店があるなんて知りませんでした」
「美味しく食べてくれて、よかった。よければ贔屓ひいきにしてやってよ」

 席を立って店を出ようとした時、厨房ちゅうぼうから黒田の友人らしきシェフが顔を出した。彼はにこやかな顔で夏乃子に挨拶あいさつをしたあと、黒田にそっと耳打ちをする。

「お前が女性をここに連れてくるなんて、珍しい事もあるもんだな」
「うるさいよ」

 ごく小さな声だったけれど、近くにいる夏乃子にはぜんぶ聞こえた。シェフが言った事が本当かどうかは定かではないが、他愛のないやり取りをする黒田が少年のような顔つきで笑っていたのが印象に残った。
 店を出てエレベーターで駐車場に向かい、再び車に乗り込んだ。
 時刻は午後三時。
 走り出した車は、間もなくして湾岸道路に入った。いったいどこに連れていかれるのかと思っているうちに、空港近くの公園に到着する。

「ちょっと寒いけど、腹ごなしに少し散歩しないか?」

 季節に関係なく外を歩き回るのには慣れているし、今日は天気もよく十二月にしては暖かいほうだ。
 夏乃子は二つ返事で彼の要望に応じ、車を出て海岸沿いの遊歩道に向かった。平日だし、寒いせいか人はあまり多くない。途中にあった移動式カフェでホットコーヒーを買い、海が見える位置にあるベンチに並んで腰掛ける。

「空が広いな。俺、ここから見る景色が好きなんだよね。だから、たまに来てコーヒーを飲みながらぼーっとする事があるんだ。空港が近いから飛行機がしょっちゅう飛んでくるし、景色を眺めているだけでも退屈しないよ」

 なるほど、景色はいいし近くに高い建物がないから、空が広い。

「向こう岸にあるのは工場地帯ですよね? 夜になると、夜景が綺麗でしょうね」
「そうなんだよ。都心にいると周りはビルばっかりだろう? ごちゃごちゃしているし、どこへ行っても窮屈きゅうくつだ。だけど、ここに来ると手足をグーンと伸ばせるし、開放的な気分になる」

 黒田がベンチから立ち上がって背伸びをしたり、屈伸をしたりする。手足の長い彼は、ストレッチをしている姿すらさまになる。そうしているうちに、彼の足元に黒い万年筆が落ちた。幸いベンチの周りは草地になっており、落ちた万年筆が傷つく事はなかったようだ。
 夏乃子はそれを拾い上げ、少しだけついていた泥を払った。

「……これって、昼間の文房具店の限定品ですよね?」
「そうだよ。あの店には、よく行くのか?」
「月に一度は行ってますね。黒田さんは?」
「俺は三カ月に一度くらいかな。五年前にオープンして以来、贔屓ひいきにさせてもらっているよ」
「私もです」

 もしかすると、これまでに一度くらいは店内ですれ違った事があったかもしれない。いや、彼ほど目立つ客がいれば、ぜったいに気づくはずだ。

「じゃあ、五年目にしてようやく会えたって事か」

 黒田が、夏乃子を見て口元をほころばせる。
 縁もゆかりもない他人なのに、やけに意味ありげな言い方をされた。
 どう返せばいいのかわからず、夏乃子は手の中の万年筆に気を取られているふりをする。

「キャップ、開けてもいいですか?」
「どうぞ」

 許可を得てペン先を見ると、思っていた太さではなかった。たずねると、カスタマイズして細いものに変えてもらったのだという。

「これは細字ですね。私のは極細です。本当は中字くらいが書きやすいんですけど、仕事で使うには太すぎるので。でも、極細で字を書く時の引っかかる感じが好きだから、もうずっと極細ばかりです」
「君の万年筆も見せてくれるか?」

 黒田にわれて、夏乃子はバッグから自分のものを取り出し彼に渡した。黒田はジャケットの内ポケットからメモホルダーを取り出し、試し書きをしていいかと聞いてきた。

「いいですよ。ちょっとペン先に癖があるかもしれませんけど」

 黒田は紙にペンを走らせて、書き心地を吟味している。それからメモホルダーを夏乃子に手渡し、彼の万年筆を使ってみるよううながしてきた。
 黒田のものは夏乃子のものよりも持ち手が太く、少し扱いにくい。けれど、書いてみると思いのほか手に馴染み、すらすらと書ける。
 しかし、海岸沿いの空気は冷たく、あっという間に手がかじかんできた。
 夏乃子は万年筆とメモホルダーを黒田に返すと、左手をコートのポケットに入れて、右手にはぁっと息を吹きかけて暖を取った。すると、いきなり伸びてきた黒田の両手が、夏乃子の右手をすっぽりと包み込む。

「えっ……?」

 驚いて黒田の顔を見るが、彼は夏乃子の手を温める事に集中している様子だ。
 彼の手は大きくて、とても温かい。
 呆気あっけにとられながら、されるままになっていると、黒田が夏乃子のバッグを取り上げて立ち上がった。

「さすがに身体が冷えてきたな。そろそろ行こうか。今度は暖かいところに行こう」

 いきなり手を握ってくるなんて、ぜったいに普通じゃない。それなのに、黒田はごく当たり前のようにそうしてきた。
 手を振り解こうと思えば、できない事はない。けれど、彼にしてみれば手を握るくらい日常的なものかもしれないし、ただの親切心から出た行動であれば、過剰反応だと思われかねなかった。
 結局そのままの状態で歩き続け、車まで戻ったところでようやく右手を解放される。その頃には冷たかった手はすっかり温まっており、それどころか、頬まで熱く火照ほてってきている。
 たかが手を握られたくらいで――そうは思うものの、意識した途端、いつの間にか自分がすっかり黒田のペースに巻き込まれているのに気づいた。

(私ったら、何してんの?)

 人として興味があるだの、今後の仕事のためだなどと言い訳をして、結局のところデートを楽しんでしまっているのでは?
 頭の隅に雅一の顔が思い浮かび、夏乃子は右手を強く握りしめて表情を硬くする。
 黒田が助手席のドアを開け、夏乃子は複雑な心境のままシートに腰を下ろした。彼は晩御飯も付き合ってもらうと言っていたが、どうにかそれを断って家に帰ろう――
 言い出すタイミングを計っていると、運転席に座った黒田がシートから乗り出すようにして夏乃子の顔を覗き込んできた。

「なんだか急に表情が硬くなったみたいだけど、どうかした?」
「いえ……別に硬くなってなんかないです」

 夏乃子はシートベルトを締めるついでに彼から目をそらす。

「そうかな? レストランでは、あんなに笑っていたのに、今はそうじゃない」
「え? 私が、笑ってた?」

 まさかと思って、夏乃子は黒田の顔に視線を戻した。
 この一年半、八重が言っていたとおり、プライベートではほとんど感情が動かないし、笑う事もほとんどない。仕事で人と接する時だけは、必要に応じて表情を作っていた。笑顔もしかり。

「ああ、笑ってたよ。笑い声こそ上げていなかったけど、ハーブ酒や料理を美味しいと言った時、口角が上がっていたし、目尻も下がっていたからね」

 黒田が夏乃子の目の前で、自分の目尻や口角を指で上げ下げする。
 そんな事をしなくても、言葉で言えばわかるのに――
 夏乃子はやや困惑しつつ、彼の顔を見つめた。すると、黒田が急に真面目な表情を浮かべて夏乃子を見つめ返してくる。

「なのに、今は違う。文房具店で会った時も思ったけど、君はどうしてそんなに辛そうな顔をしているんだ?」
「は……? 別に辛そうな顔なんて――」
「俺でよかったら話を聞くよ? これでも職業柄、聞き上手でね。話すだけでもすっきりするだろうし、会ったばかりの俺にならいろいろとぶちまけても支障はないだろう?」

 言っている間に、黒田の顔がまた笑顔になる。
 こんなふうに自在に表情を変えられるのは、彼の得意技なのかもしれない。
 真面目な顔をしていれば近寄りがたいほどの美男だ。けれど、笑うと一気に親しみやすい雰囲気になる。しかも、笑った時の目は、人なつっこい大型犬のようにつぶらだ。
 うっかりほだされそうになり、表情を引き締める。すると、それに反応するように黒田のキリリとした眉が八の字になった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。