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1巻
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旅は、もっぱら一人で。
そう思うようになったのは、いつ頃からだろうか。
以前は恋人や友達と一緒に、行く先々で話したり笑ったりしながら旅を楽しんでいたように思う。
けれど、それが遥か昔の事のように感じる。
二十八歳なら、さほど昔ではないはずだが、どこか時間の感覚が壊れてしまったみたいだ。
(なんて、何おセンチな事、言ってるんだか。らしくないわよ)
フリーライターの志摩夏乃子は、妙に感傷的になる自分を叱りつけた。
時刻を確認すると、打ち合わせの時間まであと四十分ある。まだ少し余裕があるし、気になっていた文房具でもチェックしに行こうと思い立つ。
(よし、決めた)
夏乃子は信号が青になるなり、行きつけの文房具店に向かって歩き出した。
地下鉄の駅から徒歩圏内にあるそこは、筆記用具の種類が豊富で画材も取り扱っている。
フリーライターになって三年目の夏乃子は、日常的に万年筆を使っていた。
今使っているボルドー色の万年筆も、特別高価なものではないが、どんな筆記用具よりも指にしっくりくる。
交差点を渡ってすぐの店に到着し、ガラス戸を開けて中に入った。白壁の店内には色とりどりの文具が並び、複数の客がそれぞれに目当ての品を物色している。
夏乃子は迷わず万年筆コーナーに直行した。
陳列ケースには、幾種類もの万年筆が並べられている。
(いいな、万年筆。もう少ししたら、新しいものに買い替えてみようかな)
ケースの背面はミラーになっており、万年筆の向こうに自分の顔が見えた。
肩より少し長い髪は、前髪なしのワンレングス。丸みのある輪郭に若干垂れている目は黒目がちで、鼻と口も丸っこい。身長は百六十二センチで、やややせ型。仕事で外を歩き回っているせいか、昔ほど色白ではなくなった。
陳列ケースの奥の棚には、色鮮やかなインクのボトルが整然と飾られている。
ここに来るたびに、様々な色インクを綺麗だと思うものの、夏乃子が選ぶ色はいつも濃い目のグレー一択。それが一番、使っていて気持ちが落ち着くし、ほかの色を使おうとは思わない。
けれど、新色が出たら気になるし、今日ここへ来たのも「ハイビスカス」と名付けられた色インクを実際に見るためだ。
今は冬真っただ中であり、もうじきクリスマスだ。かなり季節外れだが、寒さが厳しい時期だからこそ夏を思わせる色を見たくなるのかもしれない。
(あった。さすが、南国の花って感じの色だな)
棚を順番に眺めていき、真ん中に置かれた赤色のボトルを見つけた。ハイビスカスの花色はほかにもあるが、やはりパッと思いつくのは情熱的な赤だ。
棚の手前には、サンプルの入った小瓶と試し書き用の万年筆が置かれている。
夏乃子はさっそく万年筆を手に取って、文字を書こうとした。けれど、そこにあるべき試し書き用の紙がない。恐らく、用意されていたものがなくなったのだろう。
そう思いながら、店員のいるカウンターを振り返った。すると、タイミング悪くこちらにやってきた男性と、正面からぶつかってしまう。
「すみません……あっ!」
思わず声が出たのは、男性の真っ白なシャツに赤いインクの染みがついたのを見たからだ。
夏乃子はあわてて一歩下がって、男性の顔を見た。
見たところ、年齢は三十歳前後。
グレーのストライプスーツに、落ち着いた色合いのレジメンタルネクタイを締めた男性は、パンプスを履いた夏乃子よりも二十センチ以上背が高い。
髪の毛は艶やかなナチュラルカラーで、やや癖がある。目鼻立ちはかなりはっきりしており、親戚にラテン系民族の人がいるのではないかと感じるほどだ。
一言でいえば、眉目秀麗。けれど、それだけでは明らかに言葉足らずだし、とにかく一目見ただけで周囲の女性を虜にするくらいの美男だ。
男性が夏乃子の視線を追い、自分の胸元についたインクの染みを見た。
「おっと……」
「すみません! 私の不注意でシャツを汚してしまって――」
夏乃子は再度謝罪して、男性を窺った。
彼は夏乃子を見ると、にこやかな笑みを浮かべながら片方の眉尻を上げた。
「これは新色の『ハイビスカス』だね。ふむ……布でも綺麗に発色しているな。そう思わないか?」
男性がシャツを指先で摘み、夏乃子に示してくる。
「はあ……確かに綺麗です……けど、染みが……。早くクリーニングに出したほうがいいです。あの、私、どうしたらいいですか? クリーニング代をお出しするか、それとも――」
男性は一見ビジネスパーソンふうではあるけれど、見る者を圧倒するような強いオーラがある。
そばにいるだけで、ただ者ではないと感じるし、雰囲気からして明らかに富裕層だ。
もしかすると、このシャツ一枚で何万円もするのでは……
夏乃子が、そんな事を考えていると、男性がニッと笑って空いているほうの掌をこちらに向けて、ひらひらさせた。
「クリーニング代はいらないし、弁償も結構だ。その代わり、俺とデートしてくれないか?」
「はあ?」
もしかすると、彼はこれまで容姿を武器に何人もの女性を狩ってきたのかもしれない。
その一人になどなるものかと、夏乃子は首を横に振りながら一歩後ずさった。
「いえ、それはお断りします」
「どうして?」
あっけらかんと訊ねられて、身構えた姿勢が崩れそうになる。そうしている間も、男性はずっと笑顔のままだ。
「ど、どうしてって……。普通、そういう流れにはなりませんよね?」
「流れはシャツを汚された俺が決めるものじゃないかな? それと一応言っておくけど、俺は怪しい者じゃないよ」
「でも、私、これから仕事で人と会う事になっているので」
「ああ、そう。それってこの近く? 何時に終わるの?」
「徒歩圏内ですし、一時半には終わるかと――」
さりげなく聞かれて、うっかり馬鹿正直に答えてしまった。
夏乃子が自分の迂闊さに顔をしかめていると、男性が夏乃子の手から万年筆を取り上げ、持っていた紙の束に何かしら書き始める。
「あっ、それ試し書き用の紙……」
ないと思ったら、ここにあった。どうやら彼はそれを持ったまま店内をぶらついていたらしい。
さらに渋い顔をする夏乃子に、男性が一枚破った紙を差し出してきた。
「じゃ、今日の午後二時に、ここで待ち合わせをしよう」
にこやかな顔でそう言われて、ついそれを受け取ってしまった。急いで返そうとしたけれど、彼は万年筆をもとの位置に戻すために、移動してしまっている。
「あの――」
「必ず来てくれよ? そうでないと俺はずっとそこで君を待ち続ける事になるからね」
夏乃子が話す間もなくそう言い残して、男性は悠々とした歩調で店の外に行ってしまった。
渡された紙を見ると、ここから少し先にあるカフェの住所と店名が書いてある。
(これ、行かなきゃダメかな?)
そうは思うものの、シャツを汚してしまったのは自分だ。
せめて名刺をもらっておけば、あとでお詫びでもなんでもできたのに――
とっさにそこまで頭が回らなかったのは、彼のペースに巻き込まれてしまったからだ。
もしかして、新手のナンパだろうか?
いずれにせよ、そんなものにひっかかるなんて自分らしくない。
いや、ナンパと決まったわけではないが、日常を乱されたのは確かだ。
一応急ぎ足で店の外に出てみたが、男性の姿はもうどこにも見当たらない。
夏乃子は小さくため息をつくと、打ち合わせに向かうべく道を歩き出した。待ち合わせの相手は、クライアントであり親友でもある福地八重だ。彼女は女性向けのウェブマガジン「レディーマイスター」の編集長兼、運営会社の社長でもある。
事務所は駅に近い複合ビルの三階にあり、打ち合わせもそこで行う。歩いて十分のそこに到着して八重と顔を合わせるなり、びっくりした顔をされた。
「いらっしゃい――って、どうしたのよ、その顔。なんだか、すごく怒ってるみたいだけど」
水を向けられた夏乃子は、勧められた椅子に座りながら文房具店で会ったイケメンについて話した。
八重がアイスティーをテーブルの上に載せつつ、興味深そうに耳を傾けている。
すべてのいきさつを語り終えた夏乃子は、鼻息も荒くアイスティーを一気飲みした。
「どう思う? やっぱり新手のナンパかな? だけど、あれほどのイケメンなら、わざわざそんな事をする必要はないと思うんだけど」
首を傾げながらストローで氷を掻き混ぜていると、八重がグラスにアイスティーを追加してくれる。彼女の顔は、やけに嬉しそうだ。
「何? ニヤニヤして」
「だって、夏乃子がそんなふうに感情をあらわにするのって、すごく久しぶりだもの」
「え……そうだっけ?」
「そうよ~。あんたったら、ここ一年半、感情がまったく顔に出なかったじゃないの。笑ったり怒ったりするところでも無表情だし、まるで能面みたいだったわよ」
「の、能面って……」
「だってそうでしょ。美味しいものを食べても嬉しそうな顔しないし、腹に据えかねる事が起きてもぜんぜん怒らない。遊びに行ってもちっとも楽しそうじゃないし、ボロ泣き必至の映画を観てもしらっとしてる。そんな夏乃子が、目を吊り上げて怒ってる上に、アイスティーを美味しそうに一気飲みするなんて――」
八重が、両手を組み合わせて天に感謝するようなポーズをとる。
そんな大げさな……
夏乃子は二杯目のアイスティーに口をつけながら、二つ年上の親友の顔をまじまじと見つめた。
「なんにせよ、これを機に夏乃子が感情を取り戻してくれたら嬉しいわ。あれからもう一年半だよ。雅一さんの事は残念だったけど、もうそろそろ喪に服すのは終わりにしたら?」
去年の春、夏乃子の恋人だった戸川雅一が交通事故で亡くなった。
事故当日、彼は夏乃子に内緒で用意した指輪を宝飾店に取りに行き、その帰り道で事故に遭い帰らぬ人になってしまったのだ。
事故の二週間前に些細な事で喧嘩をして以来、夏乃子はずっと雅一からの電話に出ず、メッセージも未読無視を決め込んでいた。
あの時、雅一は自分に何を言い、伝えようとしていたのだろう?
メッセージは読まないで削除してしまったし、今となっては知りようがない。
もし、あの時電話に出ていれば……
もし、彼からのメッセージを読んで返事していたら……
雅一を思うと、今も後悔が募る。
雅一は、普段なんの理由もなくプレゼントなど買ったりしない人だった。
指輪はきっと、仲直りのつもりで買ってくれたに違いない。そうであれば、彼の死の責任の一端は自分にある。
そう考えて以来、夏乃子は後悔と自責の念に囚われ続けており、気づいたら何をしても心が動かなくなってしまっていたのだ。
「私にとっては〝まだ〟たったの一年半なの。雅一の事は忘れられないし、忘れちゃいけないのよ」
「夏乃子……」
八重曰く、雅一の件があってからの夏乃子は、抜け殻のようであるらしい。仕事は、きちんとするが、感情の起伏が乏しくなり、衣食住に対する欲求もなくなっている、と。
確かにそうだし、自覚もある。しかし、わざとそうしているわけではないし、自然とそうなってしまっているのだから、どうしようもなかった。
「わかってる。八重、心配してくれてありがとう」
アイスティーのグラスをテーブルに戻すと、いつの間にか、また感情がフラットになっているのに気づいた。
そうだ――
イケメンに声を掛けられたくらいで、動揺するなんてどうかしている。自分は別に面食いではないし、相手が美男だからなんだというのか。
そもそも夏乃子の人生に、もう異性など必要ない。この先、たとえ何があろうと雅一を失った悲しみが癒える事はないだろう。
夏乃子は軽く深呼吸をして、持参した資料をバッグから取り出した。
「さ、仕事しましょ」
気持ちを切り替えた様子の夏乃子を見て、八重もまた仕事モードに入った。
今日打ち合わせをするのは「レディーマイスター」の旅コーナーに掲載する記事についてだ。
夏乃子はフリーライターとして活動を始めて、今年で三年目になる。
以前は都内にある旅行会社の広報部に勤務しており、仕事の一環として当時から「レディーマイスター」に寄稿していた。
それがきっかけで八重と知り合い、以来なんでも話せる親友同士になっている。
「今度の行き先は、四国方面にしようと思うんだけど」
「いいわね。もう候補地は決めてるの?」
夏乃子がフリーライターとして受ける仕事は様々だが、フットワークの軽さとバイタリティを強みとしているので、得意なのは旅行関係の記事だ。
「レディーマイスター」もそうだが、実際に現地に赴いて取材した一人旅の記事は、特に読み手の反応がよく、満足度も高い。
駆け出しの頃はかなり苦労したし、貯金も底をついて赤貧状態だった。それでも、仕事の合間に必要なスキルを磨き、少しずつ実績を積み重ねてきた。その甲斐あって、今は複数の会社から依頼を受けるようになり、普通に生活できるまでになっている。
これも、八重のおかげだ。
仕事を介してなんでも話せる親友となった彼女は、夏乃子が会社を辞めてフリーランスのライターになるかどうか思い悩んでいた時も、的確なアドバイスを授け、背中を押してくれた。
雅一の事も、八重にだけはすべて話しているし、いろいろと支えてもらった。
いまだに亡くなった恋人を忘れられないでいる夏乃子を、彼女はとても気にかけてくれている。その事を深く感謝しているし、彼女のためならひと肌でもふた肌でも脱ぐ覚悟でいた。
「――これでよし。じゃあ、諸々よろしくね――って事で、ほら。さっさとラテン系のイケメンとデートに行ってきなさいよ」
八重が立ち上がりざまに、夏乃子の肩をバンと叩いてきた。
不意を突かれて、持っていた資料入りのフォルダーを落としそうになる。
「デ、デートって……。行かないわよ。ヤバい人だったら怖いし、あんなに気軽に女性に声を掛けるなんて、チャラいに決まってる。どうせ今頃は、ほかの女性を捕まえてデートしてるわよ」
「じゃあ、シャツはどうするの? 汚したならきちんと謝罪しないと気分がすっきりしないんじゃない?」
「それはそうだけど……」
男性の風貌からしてあのシャツは決して安物ではないはずだ。そうであれば、八重の言うようにちゃんと詫びる必要があるし、このままなかった事にすべきではない。
「とりあえず行ってみたら? もし本当にヤバそうだったら『ごめんなさい』って謝ってクリーニング代としてポケットに一万円札を押し込んで逃げればいいんだし。……それにしても、デートにその格好は、ちょっと地味すぎるわね」
夏乃子が今日着ているのは、黒のニットセーターとコーデュロイのパンツだ。その上に茶色のコートを羽織り、首にはインナーと同系色の色が混じったマフラーを巻いている。
確かに地味だが、これが夏乃子のスタンダードだ。
むろん、フリーのライターとして活動しているので、常にTPOを考えた服装を心掛けている。けれど、今日の予定は八重との打ち合わせのみで、服装に気合を入れる必要はなかったのだ。
「そうだ。この間買ったワンピースがあるから、それを着ていく?」
八重は忙しい時は事務所の奥で寝泊まりをする事があり、ここに何着か着替えを置いている。
夏乃子は彼女がワンピースを取りに行こうとするのを引き留め、急いでバッグを持って入り口に向かった。
「わかったわよ。とりあえず、指定された場所に行ってみる。でも、このままで行くから。じゃあね!」
さっきこの格好で顔を合わせているのに、着替えなんかしたら変に勘ぐられてしまいかねない。
ましてや、普段からおしゃれな八重が買ったワンピースなど着ていって、喜び勇んでデートに応じたと思われては面倒だ。
「レディーマイスター」の事務所を出て、渋々ながら待ち合わせの場所に向かう。
八重には行くと断言したものの、歩きながらまだどうしようか迷う気持ちがあった。しかし、やはりちゃんと謝罪をしなければならないと思い直し、歩く足を速くする。
指定されたカフェに着いたのは、約束の時間の五分前だ。店内に入ろうとドアの前に立った時、伸びのある低い声に引き留められた。
「来てくれたんだね」
うしろを振り返ると、文房具店で会った男性が笑顔で立っていた。
「ええ、まあ」
短く返事をして彼の胸元を見る。どこかで着替えてきたのか、スーツは同じだがシャツにはインクの染みはついていない。
「シャツ、汚してしまってすみませんでした」
改めて謝罪を口にすると、ちょうど店内に入ろうとする二人組の女性がやってきて、夏乃子は彼に肩を引き寄せられる形で道を開ける。
「すみません」
「いえ……」
夏乃子が道を塞いだ事を謝ると、女性達は隣にいる男性の顔に見惚れながら生返事をした。
彼はそれを気に留める様子もなく、ガラス戸から店内を窺っている。
「どうやら中は混み合っているみたいだし、もう行こうか」
男性が夏乃子の肩に置いていた手を離し、左方向の道を掌で示した。
「え? 行こうかって、どこへ――」
ついていくのを躊躇している夏乃子に、男性が胸ポケットから取り出した名刺を差し出してきた。
それは、白地に黒い文字が印字されたシンプルなものだが、紙はややザラザラとした質感で、細部にこだわりを感じる。
見ると「スターフロント弁護士事務所 弁護士 黒田蓮人」と書かれていた。
「弁護士……」
思わず呟いて顔を上げると、男性がにっこり顔で頷く。
「これで怪しい人間じゃないってわかってくれたかな?」
そう言われても、写真がついているわけではないし、名刺なんてどうにでもなる。それに、男性の襟には弁護士バッジもついていない。
夏乃子の視線に気づいたのか、男性が自分の襟元を見た。
「ああ、弁護士バッジね。あれ、鬱陶しいから必要な時以外は、いつもカバンの中に入れっぱなしにしているんだ。それに、俺は今日有休をとっていて休みだし――って言われても、信用できないか……。とりあえず、ここにいると邪魔だし移動しよう」
諦め顔になった夏乃子を見て、同意したと解釈したのだろうか。男性はこちらの手を取ると、勝手に自分の腕に巻き付かせて、さっさと歩き出した。
「え? ちょっ……と――」
平日ではあるけれど、この近辺は人気のショッピングエリアだ。あっという間に道行く人の流れに乗せられて、そのまま歩かざるを得なくなる。
「ど、どこに行くんですか?」
「すぐそこだ。まあ、時間は取らせないからついてきてよ」
「でも――」
「大丈夫。君が俺を信用できるよう、ちょっと付き合ってもらうだけだ」
通りすがりの老若男女が、漏れなく男性に視線を奪われている。
やはり、彼には人を惹き付ける何かがあるみたいだ。中でも女性は男性を見たあと、必ずと言っていいほど夏乃子を見て怪訝そうな表情を浮かべている。
(何よ、好きで一緒にいるわけじゃないんだからね)
心の中でそう思いつつも、なぜか彼に連れられるまま歩いている。
いくら負い目があるとはいえ、見ず知らずの男性についていく自分を変だと思った。
やたら人懐っこい笑顔は軽そうに見えるが、物腰は柔らかく上品ですらある。それに、強引ではあるけれど、粗野な感じはしない。
これほど男性的な魅力に溢れているのだ。普通なら出会いに感謝してもいいのかもしれないが、夏乃子に限ってそれはない。
出会いなど必要ないし、正直、仕事以外では極力男性とかかわりたくないと思っている。
けれど、彼には不思議な吸引力のようなものがあり、シャツの件を差し引いても、なぜかこの手を振り解く気にはなれなかった。
(なんだか変な人だし、こうしている私も変……)
そう思いながら歩いていると、男性がふいに立ち止まって目の前のビルを指さした。
「ほら、ここだ。歩いて三分もかからなかっただろう?」
レンガ造りの建物は七階建てで、入り口横の銘板には「黒田第一ビル」と記されている。
一階にはフルオーダースーツの店があり、左手には世界的に有名な海外の時計ブランドが入っている。
「ちなみに、このシャツはそこの店で買ったんだ。すごく着心地がよくてね。俺が事務所を受け継いで以来、スーツはこの店でしか作ってないな」
男性が、通りすがりにフルオーダースーツの店を指した。
「えっ?」
思わず声が出て、あわてて掌で口元を押さえた。
そこは、さほどファッションに詳しくない夏乃子ですら知っている老舗店だ。オーダーメイドでスーツを作ったら、いったいいくらするのだろう?
いずれにせよ、一般人には手が出ない価格設定である事は間違いない。
シャツ一枚にしろ、オーダーメイドなら二、三万円では済まないのではないだろうか……
(八重、一万円じゃ、ぜんっぜん足りないよ……)
内心震え上がる夏乃子をよそに、男性はビルの中に入り、エレベーターホールで立ち止まった。
すぐ横の壁面に案内板があり、五階から七階に「スターフロント弁護士事務所」と記されている。
男性の腕に巻き付けていた手を解放され、ホッと一息つく。
彼が操作盤のボタンを押すと、すぐに扉が開いて中に入るよう促された。見ず知らずの男性とエレベーターに二人きりなるのは気が進まないが、高価なシャツを汚してしまった手前、嫌とも言えない。
「着いたよ」
五階に到着し、男性とともにエレベーターを降りて、左右に伸びた廊下の真ん中に立つ。彼は正面入り口がある右には進まず、左側にあるドアに向かった。
彼について中に入ると、そこは机や棚がバランスよく置かれたオフィスで、数人の男女が忙しそうにしている。どうやらここは、法律事務所内の事務作業部屋であるらしい。
「あれっ? 黒田先生、そこで何をしているんですか?」
男性が黙ったまま立っていると、部屋の中ほどにいた若い女性が彼に気がついて声を掛けてきた。
「ほら、俺の事を『黒田先生』と呼んだだろう?」
そう言いながら、男性が斜めうしろに立っていた夏乃子を振り返った。
「神崎さん、俺ってここの弁護士だよね?」
男性が声を掛けてきた女性に問いかけると、彼女はいぶかしそうな顔をしながら「はい」と言って頷く。
すぐ横の壁にある金属製のプレートには事務所に所属する弁護士の名前が記されており、ぜんぶで十人いるうちの筆頭が黒田だった。彼の名前の前には「代表」の文字がついている。
そういえば、彼はさっきビルの前に来た時に「俺が事務所を受け継いで以来」と言った。
つまり、彼は「スターフロント弁護士事務所」の経営者兼弁護士という事だ。
「これで俺が本物の弁護士だってわかってもらえたかな。よかったらお茶でも飲んでいく? 俺が淹れるコーヒーは絶品だよ」
気軽に誘ってくるが、部屋にいる人達が歓迎している様子はない。仕事中なのだから、そんな反応も当たり前だ。殊に、神崎と呼ばれた女性はあからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「いえ……皆さん、お忙しそうですし、遠慮します」
「そう? じゃあ、約束どおりデートに行こうか」
そう思うようになったのは、いつ頃からだろうか。
以前は恋人や友達と一緒に、行く先々で話したり笑ったりしながら旅を楽しんでいたように思う。
けれど、それが遥か昔の事のように感じる。
二十八歳なら、さほど昔ではないはずだが、どこか時間の感覚が壊れてしまったみたいだ。
(なんて、何おセンチな事、言ってるんだか。らしくないわよ)
フリーライターの志摩夏乃子は、妙に感傷的になる自分を叱りつけた。
時刻を確認すると、打ち合わせの時間まであと四十分ある。まだ少し余裕があるし、気になっていた文房具でもチェックしに行こうと思い立つ。
(よし、決めた)
夏乃子は信号が青になるなり、行きつけの文房具店に向かって歩き出した。
地下鉄の駅から徒歩圏内にあるそこは、筆記用具の種類が豊富で画材も取り扱っている。
フリーライターになって三年目の夏乃子は、日常的に万年筆を使っていた。
今使っているボルドー色の万年筆も、特別高価なものではないが、どんな筆記用具よりも指にしっくりくる。
交差点を渡ってすぐの店に到着し、ガラス戸を開けて中に入った。白壁の店内には色とりどりの文具が並び、複数の客がそれぞれに目当ての品を物色している。
夏乃子は迷わず万年筆コーナーに直行した。
陳列ケースには、幾種類もの万年筆が並べられている。
(いいな、万年筆。もう少ししたら、新しいものに買い替えてみようかな)
ケースの背面はミラーになっており、万年筆の向こうに自分の顔が見えた。
肩より少し長い髪は、前髪なしのワンレングス。丸みのある輪郭に若干垂れている目は黒目がちで、鼻と口も丸っこい。身長は百六十二センチで、やややせ型。仕事で外を歩き回っているせいか、昔ほど色白ではなくなった。
陳列ケースの奥の棚には、色鮮やかなインクのボトルが整然と飾られている。
ここに来るたびに、様々な色インクを綺麗だと思うものの、夏乃子が選ぶ色はいつも濃い目のグレー一択。それが一番、使っていて気持ちが落ち着くし、ほかの色を使おうとは思わない。
けれど、新色が出たら気になるし、今日ここへ来たのも「ハイビスカス」と名付けられた色インクを実際に見るためだ。
今は冬真っただ中であり、もうじきクリスマスだ。かなり季節外れだが、寒さが厳しい時期だからこそ夏を思わせる色を見たくなるのかもしれない。
(あった。さすが、南国の花って感じの色だな)
棚を順番に眺めていき、真ん中に置かれた赤色のボトルを見つけた。ハイビスカスの花色はほかにもあるが、やはりパッと思いつくのは情熱的な赤だ。
棚の手前には、サンプルの入った小瓶と試し書き用の万年筆が置かれている。
夏乃子はさっそく万年筆を手に取って、文字を書こうとした。けれど、そこにあるべき試し書き用の紙がない。恐らく、用意されていたものがなくなったのだろう。
そう思いながら、店員のいるカウンターを振り返った。すると、タイミング悪くこちらにやってきた男性と、正面からぶつかってしまう。
「すみません……あっ!」
思わず声が出たのは、男性の真っ白なシャツに赤いインクの染みがついたのを見たからだ。
夏乃子はあわてて一歩下がって、男性の顔を見た。
見たところ、年齢は三十歳前後。
グレーのストライプスーツに、落ち着いた色合いのレジメンタルネクタイを締めた男性は、パンプスを履いた夏乃子よりも二十センチ以上背が高い。
髪の毛は艶やかなナチュラルカラーで、やや癖がある。目鼻立ちはかなりはっきりしており、親戚にラテン系民族の人がいるのではないかと感じるほどだ。
一言でいえば、眉目秀麗。けれど、それだけでは明らかに言葉足らずだし、とにかく一目見ただけで周囲の女性を虜にするくらいの美男だ。
男性が夏乃子の視線を追い、自分の胸元についたインクの染みを見た。
「おっと……」
「すみません! 私の不注意でシャツを汚してしまって――」
夏乃子は再度謝罪して、男性を窺った。
彼は夏乃子を見ると、にこやかな笑みを浮かべながら片方の眉尻を上げた。
「これは新色の『ハイビスカス』だね。ふむ……布でも綺麗に発色しているな。そう思わないか?」
男性がシャツを指先で摘み、夏乃子に示してくる。
「はあ……確かに綺麗です……けど、染みが……。早くクリーニングに出したほうがいいです。あの、私、どうしたらいいですか? クリーニング代をお出しするか、それとも――」
男性は一見ビジネスパーソンふうではあるけれど、見る者を圧倒するような強いオーラがある。
そばにいるだけで、ただ者ではないと感じるし、雰囲気からして明らかに富裕層だ。
もしかすると、このシャツ一枚で何万円もするのでは……
夏乃子が、そんな事を考えていると、男性がニッと笑って空いているほうの掌をこちらに向けて、ひらひらさせた。
「クリーニング代はいらないし、弁償も結構だ。その代わり、俺とデートしてくれないか?」
「はあ?」
もしかすると、彼はこれまで容姿を武器に何人もの女性を狩ってきたのかもしれない。
その一人になどなるものかと、夏乃子は首を横に振りながら一歩後ずさった。
「いえ、それはお断りします」
「どうして?」
あっけらかんと訊ねられて、身構えた姿勢が崩れそうになる。そうしている間も、男性はずっと笑顔のままだ。
「ど、どうしてって……。普通、そういう流れにはなりませんよね?」
「流れはシャツを汚された俺が決めるものじゃないかな? それと一応言っておくけど、俺は怪しい者じゃないよ」
「でも、私、これから仕事で人と会う事になっているので」
「ああ、そう。それってこの近く? 何時に終わるの?」
「徒歩圏内ですし、一時半には終わるかと――」
さりげなく聞かれて、うっかり馬鹿正直に答えてしまった。
夏乃子が自分の迂闊さに顔をしかめていると、男性が夏乃子の手から万年筆を取り上げ、持っていた紙の束に何かしら書き始める。
「あっ、それ試し書き用の紙……」
ないと思ったら、ここにあった。どうやら彼はそれを持ったまま店内をぶらついていたらしい。
さらに渋い顔をする夏乃子に、男性が一枚破った紙を差し出してきた。
「じゃ、今日の午後二時に、ここで待ち合わせをしよう」
にこやかな顔でそう言われて、ついそれを受け取ってしまった。急いで返そうとしたけれど、彼は万年筆をもとの位置に戻すために、移動してしまっている。
「あの――」
「必ず来てくれよ? そうでないと俺はずっとそこで君を待ち続ける事になるからね」
夏乃子が話す間もなくそう言い残して、男性は悠々とした歩調で店の外に行ってしまった。
渡された紙を見ると、ここから少し先にあるカフェの住所と店名が書いてある。
(これ、行かなきゃダメかな?)
そうは思うものの、シャツを汚してしまったのは自分だ。
せめて名刺をもらっておけば、あとでお詫びでもなんでもできたのに――
とっさにそこまで頭が回らなかったのは、彼のペースに巻き込まれてしまったからだ。
もしかして、新手のナンパだろうか?
いずれにせよ、そんなものにひっかかるなんて自分らしくない。
いや、ナンパと決まったわけではないが、日常を乱されたのは確かだ。
一応急ぎ足で店の外に出てみたが、男性の姿はもうどこにも見当たらない。
夏乃子は小さくため息をつくと、打ち合わせに向かうべく道を歩き出した。待ち合わせの相手は、クライアントであり親友でもある福地八重だ。彼女は女性向けのウェブマガジン「レディーマイスター」の編集長兼、運営会社の社長でもある。
事務所は駅に近い複合ビルの三階にあり、打ち合わせもそこで行う。歩いて十分のそこに到着して八重と顔を合わせるなり、びっくりした顔をされた。
「いらっしゃい――って、どうしたのよ、その顔。なんだか、すごく怒ってるみたいだけど」
水を向けられた夏乃子は、勧められた椅子に座りながら文房具店で会ったイケメンについて話した。
八重がアイスティーをテーブルの上に載せつつ、興味深そうに耳を傾けている。
すべてのいきさつを語り終えた夏乃子は、鼻息も荒くアイスティーを一気飲みした。
「どう思う? やっぱり新手のナンパかな? だけど、あれほどのイケメンなら、わざわざそんな事をする必要はないと思うんだけど」
首を傾げながらストローで氷を掻き混ぜていると、八重がグラスにアイスティーを追加してくれる。彼女の顔は、やけに嬉しそうだ。
「何? ニヤニヤして」
「だって、夏乃子がそんなふうに感情をあらわにするのって、すごく久しぶりだもの」
「え……そうだっけ?」
「そうよ~。あんたったら、ここ一年半、感情がまったく顔に出なかったじゃないの。笑ったり怒ったりするところでも無表情だし、まるで能面みたいだったわよ」
「の、能面って……」
「だってそうでしょ。美味しいものを食べても嬉しそうな顔しないし、腹に据えかねる事が起きてもぜんぜん怒らない。遊びに行ってもちっとも楽しそうじゃないし、ボロ泣き必至の映画を観てもしらっとしてる。そんな夏乃子が、目を吊り上げて怒ってる上に、アイスティーを美味しそうに一気飲みするなんて――」
八重が、両手を組み合わせて天に感謝するようなポーズをとる。
そんな大げさな……
夏乃子は二杯目のアイスティーに口をつけながら、二つ年上の親友の顔をまじまじと見つめた。
「なんにせよ、これを機に夏乃子が感情を取り戻してくれたら嬉しいわ。あれからもう一年半だよ。雅一さんの事は残念だったけど、もうそろそろ喪に服すのは終わりにしたら?」
去年の春、夏乃子の恋人だった戸川雅一が交通事故で亡くなった。
事故当日、彼は夏乃子に内緒で用意した指輪を宝飾店に取りに行き、その帰り道で事故に遭い帰らぬ人になってしまったのだ。
事故の二週間前に些細な事で喧嘩をして以来、夏乃子はずっと雅一からの電話に出ず、メッセージも未読無視を決め込んでいた。
あの時、雅一は自分に何を言い、伝えようとしていたのだろう?
メッセージは読まないで削除してしまったし、今となっては知りようがない。
もし、あの時電話に出ていれば……
もし、彼からのメッセージを読んで返事していたら……
雅一を思うと、今も後悔が募る。
雅一は、普段なんの理由もなくプレゼントなど買ったりしない人だった。
指輪はきっと、仲直りのつもりで買ってくれたに違いない。そうであれば、彼の死の責任の一端は自分にある。
そう考えて以来、夏乃子は後悔と自責の念に囚われ続けており、気づいたら何をしても心が動かなくなってしまっていたのだ。
「私にとっては〝まだ〟たったの一年半なの。雅一の事は忘れられないし、忘れちゃいけないのよ」
「夏乃子……」
八重曰く、雅一の件があってからの夏乃子は、抜け殻のようであるらしい。仕事は、きちんとするが、感情の起伏が乏しくなり、衣食住に対する欲求もなくなっている、と。
確かにそうだし、自覚もある。しかし、わざとそうしているわけではないし、自然とそうなってしまっているのだから、どうしようもなかった。
「わかってる。八重、心配してくれてありがとう」
アイスティーのグラスをテーブルに戻すと、いつの間にか、また感情がフラットになっているのに気づいた。
そうだ――
イケメンに声を掛けられたくらいで、動揺するなんてどうかしている。自分は別に面食いではないし、相手が美男だからなんだというのか。
そもそも夏乃子の人生に、もう異性など必要ない。この先、たとえ何があろうと雅一を失った悲しみが癒える事はないだろう。
夏乃子は軽く深呼吸をして、持参した資料をバッグから取り出した。
「さ、仕事しましょ」
気持ちを切り替えた様子の夏乃子を見て、八重もまた仕事モードに入った。
今日打ち合わせをするのは「レディーマイスター」の旅コーナーに掲載する記事についてだ。
夏乃子はフリーライターとして活動を始めて、今年で三年目になる。
以前は都内にある旅行会社の広報部に勤務しており、仕事の一環として当時から「レディーマイスター」に寄稿していた。
それがきっかけで八重と知り合い、以来なんでも話せる親友同士になっている。
「今度の行き先は、四国方面にしようと思うんだけど」
「いいわね。もう候補地は決めてるの?」
夏乃子がフリーライターとして受ける仕事は様々だが、フットワークの軽さとバイタリティを強みとしているので、得意なのは旅行関係の記事だ。
「レディーマイスター」もそうだが、実際に現地に赴いて取材した一人旅の記事は、特に読み手の反応がよく、満足度も高い。
駆け出しの頃はかなり苦労したし、貯金も底をついて赤貧状態だった。それでも、仕事の合間に必要なスキルを磨き、少しずつ実績を積み重ねてきた。その甲斐あって、今は複数の会社から依頼を受けるようになり、普通に生活できるまでになっている。
これも、八重のおかげだ。
仕事を介してなんでも話せる親友となった彼女は、夏乃子が会社を辞めてフリーランスのライターになるかどうか思い悩んでいた時も、的確なアドバイスを授け、背中を押してくれた。
雅一の事も、八重にだけはすべて話しているし、いろいろと支えてもらった。
いまだに亡くなった恋人を忘れられないでいる夏乃子を、彼女はとても気にかけてくれている。その事を深く感謝しているし、彼女のためならひと肌でもふた肌でも脱ぐ覚悟でいた。
「――これでよし。じゃあ、諸々よろしくね――って事で、ほら。さっさとラテン系のイケメンとデートに行ってきなさいよ」
八重が立ち上がりざまに、夏乃子の肩をバンと叩いてきた。
不意を突かれて、持っていた資料入りのフォルダーを落としそうになる。
「デ、デートって……。行かないわよ。ヤバい人だったら怖いし、あんなに気軽に女性に声を掛けるなんて、チャラいに決まってる。どうせ今頃は、ほかの女性を捕まえてデートしてるわよ」
「じゃあ、シャツはどうするの? 汚したならきちんと謝罪しないと気分がすっきりしないんじゃない?」
「それはそうだけど……」
男性の風貌からしてあのシャツは決して安物ではないはずだ。そうであれば、八重の言うようにちゃんと詫びる必要があるし、このままなかった事にすべきではない。
「とりあえず行ってみたら? もし本当にヤバそうだったら『ごめんなさい』って謝ってクリーニング代としてポケットに一万円札を押し込んで逃げればいいんだし。……それにしても、デートにその格好は、ちょっと地味すぎるわね」
夏乃子が今日着ているのは、黒のニットセーターとコーデュロイのパンツだ。その上に茶色のコートを羽織り、首にはインナーと同系色の色が混じったマフラーを巻いている。
確かに地味だが、これが夏乃子のスタンダードだ。
むろん、フリーのライターとして活動しているので、常にTPOを考えた服装を心掛けている。けれど、今日の予定は八重との打ち合わせのみで、服装に気合を入れる必要はなかったのだ。
「そうだ。この間買ったワンピースがあるから、それを着ていく?」
八重は忙しい時は事務所の奥で寝泊まりをする事があり、ここに何着か着替えを置いている。
夏乃子は彼女がワンピースを取りに行こうとするのを引き留め、急いでバッグを持って入り口に向かった。
「わかったわよ。とりあえず、指定された場所に行ってみる。でも、このままで行くから。じゃあね!」
さっきこの格好で顔を合わせているのに、着替えなんかしたら変に勘ぐられてしまいかねない。
ましてや、普段からおしゃれな八重が買ったワンピースなど着ていって、喜び勇んでデートに応じたと思われては面倒だ。
「レディーマイスター」の事務所を出て、渋々ながら待ち合わせの場所に向かう。
八重には行くと断言したものの、歩きながらまだどうしようか迷う気持ちがあった。しかし、やはりちゃんと謝罪をしなければならないと思い直し、歩く足を速くする。
指定されたカフェに着いたのは、約束の時間の五分前だ。店内に入ろうとドアの前に立った時、伸びのある低い声に引き留められた。
「来てくれたんだね」
うしろを振り返ると、文房具店で会った男性が笑顔で立っていた。
「ええ、まあ」
短く返事をして彼の胸元を見る。どこかで着替えてきたのか、スーツは同じだがシャツにはインクの染みはついていない。
「シャツ、汚してしまってすみませんでした」
改めて謝罪を口にすると、ちょうど店内に入ろうとする二人組の女性がやってきて、夏乃子は彼に肩を引き寄せられる形で道を開ける。
「すみません」
「いえ……」
夏乃子が道を塞いだ事を謝ると、女性達は隣にいる男性の顔に見惚れながら生返事をした。
彼はそれを気に留める様子もなく、ガラス戸から店内を窺っている。
「どうやら中は混み合っているみたいだし、もう行こうか」
男性が夏乃子の肩に置いていた手を離し、左方向の道を掌で示した。
「え? 行こうかって、どこへ――」
ついていくのを躊躇している夏乃子に、男性が胸ポケットから取り出した名刺を差し出してきた。
それは、白地に黒い文字が印字されたシンプルなものだが、紙はややザラザラとした質感で、細部にこだわりを感じる。
見ると「スターフロント弁護士事務所 弁護士 黒田蓮人」と書かれていた。
「弁護士……」
思わず呟いて顔を上げると、男性がにっこり顔で頷く。
「これで怪しい人間じゃないってわかってくれたかな?」
そう言われても、写真がついているわけではないし、名刺なんてどうにでもなる。それに、男性の襟には弁護士バッジもついていない。
夏乃子の視線に気づいたのか、男性が自分の襟元を見た。
「ああ、弁護士バッジね。あれ、鬱陶しいから必要な時以外は、いつもカバンの中に入れっぱなしにしているんだ。それに、俺は今日有休をとっていて休みだし――って言われても、信用できないか……。とりあえず、ここにいると邪魔だし移動しよう」
諦め顔になった夏乃子を見て、同意したと解釈したのだろうか。男性はこちらの手を取ると、勝手に自分の腕に巻き付かせて、さっさと歩き出した。
「え? ちょっ……と――」
平日ではあるけれど、この近辺は人気のショッピングエリアだ。あっという間に道行く人の流れに乗せられて、そのまま歩かざるを得なくなる。
「ど、どこに行くんですか?」
「すぐそこだ。まあ、時間は取らせないからついてきてよ」
「でも――」
「大丈夫。君が俺を信用できるよう、ちょっと付き合ってもらうだけだ」
通りすがりの老若男女が、漏れなく男性に視線を奪われている。
やはり、彼には人を惹き付ける何かがあるみたいだ。中でも女性は男性を見たあと、必ずと言っていいほど夏乃子を見て怪訝そうな表情を浮かべている。
(何よ、好きで一緒にいるわけじゃないんだからね)
心の中でそう思いつつも、なぜか彼に連れられるまま歩いている。
いくら負い目があるとはいえ、見ず知らずの男性についていく自分を変だと思った。
やたら人懐っこい笑顔は軽そうに見えるが、物腰は柔らかく上品ですらある。それに、強引ではあるけれど、粗野な感じはしない。
これほど男性的な魅力に溢れているのだ。普通なら出会いに感謝してもいいのかもしれないが、夏乃子に限ってそれはない。
出会いなど必要ないし、正直、仕事以外では極力男性とかかわりたくないと思っている。
けれど、彼には不思議な吸引力のようなものがあり、シャツの件を差し引いても、なぜかこの手を振り解く気にはなれなかった。
(なんだか変な人だし、こうしている私も変……)
そう思いながら歩いていると、男性がふいに立ち止まって目の前のビルを指さした。
「ほら、ここだ。歩いて三分もかからなかっただろう?」
レンガ造りの建物は七階建てで、入り口横の銘板には「黒田第一ビル」と記されている。
一階にはフルオーダースーツの店があり、左手には世界的に有名な海外の時計ブランドが入っている。
「ちなみに、このシャツはそこの店で買ったんだ。すごく着心地がよくてね。俺が事務所を受け継いで以来、スーツはこの店でしか作ってないな」
男性が、通りすがりにフルオーダースーツの店を指した。
「えっ?」
思わず声が出て、あわてて掌で口元を押さえた。
そこは、さほどファッションに詳しくない夏乃子ですら知っている老舗店だ。オーダーメイドでスーツを作ったら、いったいいくらするのだろう?
いずれにせよ、一般人には手が出ない価格設定である事は間違いない。
シャツ一枚にしろ、オーダーメイドなら二、三万円では済まないのではないだろうか……
(八重、一万円じゃ、ぜんっぜん足りないよ……)
内心震え上がる夏乃子をよそに、男性はビルの中に入り、エレベーターホールで立ち止まった。
すぐ横の壁面に案内板があり、五階から七階に「スターフロント弁護士事務所」と記されている。
男性の腕に巻き付けていた手を解放され、ホッと一息つく。
彼が操作盤のボタンを押すと、すぐに扉が開いて中に入るよう促された。見ず知らずの男性とエレベーターに二人きりなるのは気が進まないが、高価なシャツを汚してしまった手前、嫌とも言えない。
「着いたよ」
五階に到着し、男性とともにエレベーターを降りて、左右に伸びた廊下の真ん中に立つ。彼は正面入り口がある右には進まず、左側にあるドアに向かった。
彼について中に入ると、そこは机や棚がバランスよく置かれたオフィスで、数人の男女が忙しそうにしている。どうやらここは、法律事務所内の事務作業部屋であるらしい。
「あれっ? 黒田先生、そこで何をしているんですか?」
男性が黙ったまま立っていると、部屋の中ほどにいた若い女性が彼に気がついて声を掛けてきた。
「ほら、俺の事を『黒田先生』と呼んだだろう?」
そう言いながら、男性が斜めうしろに立っていた夏乃子を振り返った。
「神崎さん、俺ってここの弁護士だよね?」
男性が声を掛けてきた女性に問いかけると、彼女はいぶかしそうな顔をしながら「はい」と言って頷く。
すぐ横の壁にある金属製のプレートには事務所に所属する弁護士の名前が記されており、ぜんぶで十人いるうちの筆頭が黒田だった。彼の名前の前には「代表」の文字がついている。
そういえば、彼はさっきビルの前に来た時に「俺が事務所を受け継いで以来」と言った。
つまり、彼は「スターフロント弁護士事務所」の経営者兼弁護士という事だ。
「これで俺が本物の弁護士だってわかってもらえたかな。よかったらお茶でも飲んでいく? 俺が淹れるコーヒーは絶品だよ」
気軽に誘ってくるが、部屋にいる人達が歓迎している様子はない。仕事中なのだから、そんな反応も当たり前だ。殊に、神崎と呼ばれた女性はあからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「いえ……皆さん、お忙しそうですし、遠慮します」
「そう? じゃあ、約束どおりデートに行こうか」
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