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【第8話 白薔薇と黒薔薇】2037.09
④ 重たい扉
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「最下位だったよ。それも大差の最下位」
楓はまたも驚いた。それは、「その校内戦はどうなったんですか」という朝陽先輩の質問に対する、蓮李先輩からの回答だった。
そりゃ普通に考えたら、4年生と1年生では前者のほうが勝つ確率は高いだろう。けれど、1年生にしてローズ大学のキャプテン候補に選ばれてしまう、全く普通ではなかった1年生の頃の蓮李先輩の話には、もしかしたらと思わせる凄みがあった。それに楓たちは、普段の練習でダントツに速い今の蓮李先輩の姿だって見ている。
それほどローズ大学の上級生が強い、というのはもちろんあるのだろうけど、本題はどうやら別のところにあるようだった。
「先輩たちはチームメイトなのに、私が負けることを望んでいるんだ、って。そう思ったらすごく怖くなってきて。走る前から気持ちで負けていたと思う……」
蓮李先輩の消え入るような声に、当時の苦しみが伝わってきた。当時の状況を見ていた茉莉先輩が、そこに付け加える。
「我々同期の一年生もレースを見守っていましたが、最初は先輩たちにわざと手加減しているのかと疑ったほど、蓮李殿の本来の走りではありませんでした。よく見ると、走り始めてすぐ肩で息をしているのが見えて、何か様子がおかしいと思っていました」
「生まれて初めてだったよ、スタート前に脚が震えたのなんて。そしてそのレースを境に、走りの感覚がどんどんおかしくなっていって。フットギアが起動しなくなった」
(うわっ)
楓は胸がズキンとした。フットギアが起動しない、それは相当深刻な状況だ。入学時に選んでもらった精霊石の適性が変わってしまうほど、精神的に追い込まれた状態だったということだと思った。四種類の精霊石全てが合わなかった経験をしている楓には、容易にその絶望が想像できた。
「夏合宿が終わる頃にはもう、蓮李殿は誰がどう見ても痩せ細ってしまっていました」
「うん。ひどい顔してたと思う。私、心配事があると食べ物がノドを通らなくなるんだ。走れないから、食べれない。食べれないから、走れない。そういう負のスパイラルだった」
楓は、王子様のような蓮李先輩がずっと背後に隠していた鍵のかかった扉の輪郭が、だんだんと見えてきたような気がした。蓮李先輩が優しさの中に見せる強さは、過去の苦しみと葛藤から生まれたものなのかもしれない。
だからこそ楓は、蓮李先輩に、自身のことを弱い人間のようには言ってほしくなかった。それで、いてもたってもいられなくなった。
「い、1年生で候補になるだけでも凄いことじゃないですか」
楓は思わず絞り出すように言った。しかし、言った後でそれが的外れに思えて、すぐに後悔した。蓮李先輩は目を閉じ、小さく左右に首を振った。
「期待されていたのに結果が散々だったから。先輩たちからは陰口も言われたし、ロッカーの荷物がゴミ箱に捨てられていることだってあった……」
その発言には茉莉先輩も驚いている様子だった。おそらく誰にも言えず、ずっと一人で抱えていたのだろう。楓は何も言えなくなった。そんなにも辛いことがあったなんて。
「そんな。だってそんなの蓮李先輩悪くないじゃないですか! それなのに姫路さんは、逃げただのなんだの言って……」
朝陽先輩の言葉に、蓮李先輩はまたも首を振った。
「いや。逃げた、っていうのは彼女の言う通りなんだよ」
「……」
「1年の夏、私は駅伝部の寮から脱走したんだ」
◇
全室点呼を終え、22時ちょうど。ローズ大学駅伝部女子寮の灯りがチカチカと消え落ちた。
消灯以降の1年生には、同部屋の先輩に「失礼します」と断りを入れない限り物音を立ててはいけないという規則があった。したがって二神蓮李に許されたのは、ベッドの上で息を殺してじっとしていることだけだった。
人間の鼓動というのは、どれだけ周りに聞こえているものなのだろうか。さすがに「鼓動がうるさい」と注意されることはないだろうけど、心配になった。同部屋の4年生の先輩が寝静まってからも、蓮李にはまだきっぱりと意識があった。
前日のうちに、荷物の半分は通学用のリュックに忍ばせて、博多駅のロッカーに預けてある。けど全部は持って行けない。
深夜1時半。ここで廊下の小さい電球までを含めた全ての電気が消える。
必要最低限の荷物を詰め込んだナップサックを、枕の下からするりと引っこ抜いて、蓮李はついに動き出した。チャンスは一回。先輩の寝息に注意を傾けながらも、一度大丈夫だと踏んだら、一気に部屋の扉の前まで忍び出た。
ところが、トラブルは起こった。自分の荷物から、微かに何かカラカラと音が鳴っていることに気がついた。どうしてこんな時に。
心臓がドキンと跳ね上がり、蓮李はその場で屈んだ。明らかに不自然な位置で止まってしまった。先輩が寝返りを打つ音を、まるで猛獣と同じ檻に入れられているかのように、息を潜めて聞いていた。
慌てて生地の上から洗いざらい触って確認したところ、どうやらナップサックの小さいポケットの中だった。音の原因を探るべく、そっとファスナーを開けた。
音の正体は、お守り代わりに持っていた根付けの鈴だった。
しまった。本当は、タオルのようなもので包んでおくつもりだったのに、1年生の雑用やら何やらで時間がなくて、そのまま忘れて入れっぱなしになってしまっていた。
隠れて荷造りをしている時は、わざわざ荷物を振って確認するなんてできなかった。静かな中だと音が余計に目立つ。仕方がない。これは取り出して、音が響かないよう手に握って行くことにする。
廊下へ出てくると、当然ながら辺りは真っ暗。唯一光を放つ火災報知器の赤い非常灯にギロリと睨まれながら、階段までたどり着くと、音を立てないよう靴下のまま急いで駆け下りた。
(はぁ、はぁ、はぁ……)
寮の一階の玄関では、透明の大きな扉が立ちはだかる。月明かりを頼りになんとか片手でロックを外した。もう後には引き返せない。
体調を崩していた数ヶ月の間に、ずいぶんと非力になってしまったことを痛感した。玄関の扉が思いのほか重く、片手で支えきれなかった。そのせいで、体重をかけて押し開けた拍子に、握っていた鈴が玄関の内側に転がっていってしまった。
カラーン、シャンシャン。
寮内に鳴り響く乾いた鈴の音が、蓮李の鼓膜にこびりついた。あまりの失態に、身体が硬直した。
その瞬間。今しがた自分が降りてきた階段の上のほうに、誰か黒い人影が見えたような気がした。
(やばい……!)
ダメだ。すぐに出ていかないと。蓮李は鈴を置き去りにし、何よりもまずここから出ることを優先した。ここで失敗すれば、計画が水の泡になるほか、どんな罰が待っているかわからない。
(はぁっ、はぁっ、はぁっ)
駐車場口の門をよじ登って外に出る。この時間、駅は閉まっているから、始発までどこかで潜伏している必要があるのだが、最寄り駅を使うわけにはいかない。
ローズ大学前駅と駅伝部のグラウンドは、全く同じ方向にある。しかも駅伝部のグラウンドから顔を上げると、ちょうどプラットホームが見える位置にあるのだ。ウロウロしているうちに、捜査の手が及んでしまうかもしれない。
博多駅まで、およそ11キロ。起動もしない、もはや足枷でしかなくなったフットギアを引き擦りながら、蓮李はひたすら歩いた。
二度と陽が昇らないんじゃないかと思うくらい、暗くて長い道のりだった。
楓はまたも驚いた。それは、「その校内戦はどうなったんですか」という朝陽先輩の質問に対する、蓮李先輩からの回答だった。
そりゃ普通に考えたら、4年生と1年生では前者のほうが勝つ確率は高いだろう。けれど、1年生にしてローズ大学のキャプテン候補に選ばれてしまう、全く普通ではなかった1年生の頃の蓮李先輩の話には、もしかしたらと思わせる凄みがあった。それに楓たちは、普段の練習でダントツに速い今の蓮李先輩の姿だって見ている。
それほどローズ大学の上級生が強い、というのはもちろんあるのだろうけど、本題はどうやら別のところにあるようだった。
「先輩たちはチームメイトなのに、私が負けることを望んでいるんだ、って。そう思ったらすごく怖くなってきて。走る前から気持ちで負けていたと思う……」
蓮李先輩の消え入るような声に、当時の苦しみが伝わってきた。当時の状況を見ていた茉莉先輩が、そこに付け加える。
「我々同期の一年生もレースを見守っていましたが、最初は先輩たちにわざと手加減しているのかと疑ったほど、蓮李殿の本来の走りではありませんでした。よく見ると、走り始めてすぐ肩で息をしているのが見えて、何か様子がおかしいと思っていました」
「生まれて初めてだったよ、スタート前に脚が震えたのなんて。そしてそのレースを境に、走りの感覚がどんどんおかしくなっていって。フットギアが起動しなくなった」
(うわっ)
楓は胸がズキンとした。フットギアが起動しない、それは相当深刻な状況だ。入学時に選んでもらった精霊石の適性が変わってしまうほど、精神的に追い込まれた状態だったということだと思った。四種類の精霊石全てが合わなかった経験をしている楓には、容易にその絶望が想像できた。
「夏合宿が終わる頃にはもう、蓮李殿は誰がどう見ても痩せ細ってしまっていました」
「うん。ひどい顔してたと思う。私、心配事があると食べ物がノドを通らなくなるんだ。走れないから、食べれない。食べれないから、走れない。そういう負のスパイラルだった」
楓は、王子様のような蓮李先輩がずっと背後に隠していた鍵のかかった扉の輪郭が、だんだんと見えてきたような気がした。蓮李先輩が優しさの中に見せる強さは、過去の苦しみと葛藤から生まれたものなのかもしれない。
だからこそ楓は、蓮李先輩に、自身のことを弱い人間のようには言ってほしくなかった。それで、いてもたってもいられなくなった。
「い、1年生で候補になるだけでも凄いことじゃないですか」
楓は思わず絞り出すように言った。しかし、言った後でそれが的外れに思えて、すぐに後悔した。蓮李先輩は目を閉じ、小さく左右に首を振った。
「期待されていたのに結果が散々だったから。先輩たちからは陰口も言われたし、ロッカーの荷物がゴミ箱に捨てられていることだってあった……」
その発言には茉莉先輩も驚いている様子だった。おそらく誰にも言えず、ずっと一人で抱えていたのだろう。楓は何も言えなくなった。そんなにも辛いことがあったなんて。
「そんな。だってそんなの蓮李先輩悪くないじゃないですか! それなのに姫路さんは、逃げただのなんだの言って……」
朝陽先輩の言葉に、蓮李先輩はまたも首を振った。
「いや。逃げた、っていうのは彼女の言う通りなんだよ」
「……」
「1年の夏、私は駅伝部の寮から脱走したんだ」
◇
全室点呼を終え、22時ちょうど。ローズ大学駅伝部女子寮の灯りがチカチカと消え落ちた。
消灯以降の1年生には、同部屋の先輩に「失礼します」と断りを入れない限り物音を立ててはいけないという規則があった。したがって二神蓮李に許されたのは、ベッドの上で息を殺してじっとしていることだけだった。
人間の鼓動というのは、どれだけ周りに聞こえているものなのだろうか。さすがに「鼓動がうるさい」と注意されることはないだろうけど、心配になった。同部屋の4年生の先輩が寝静まってからも、蓮李にはまだきっぱりと意識があった。
前日のうちに、荷物の半分は通学用のリュックに忍ばせて、博多駅のロッカーに預けてある。けど全部は持って行けない。
深夜1時半。ここで廊下の小さい電球までを含めた全ての電気が消える。
必要最低限の荷物を詰め込んだナップサックを、枕の下からするりと引っこ抜いて、蓮李はついに動き出した。チャンスは一回。先輩の寝息に注意を傾けながらも、一度大丈夫だと踏んだら、一気に部屋の扉の前まで忍び出た。
ところが、トラブルは起こった。自分の荷物から、微かに何かカラカラと音が鳴っていることに気がついた。どうしてこんな時に。
心臓がドキンと跳ね上がり、蓮李はその場で屈んだ。明らかに不自然な位置で止まってしまった。先輩が寝返りを打つ音を、まるで猛獣と同じ檻に入れられているかのように、息を潜めて聞いていた。
慌てて生地の上から洗いざらい触って確認したところ、どうやらナップサックの小さいポケットの中だった。音の原因を探るべく、そっとファスナーを開けた。
音の正体は、お守り代わりに持っていた根付けの鈴だった。
しまった。本当は、タオルのようなもので包んでおくつもりだったのに、1年生の雑用やら何やらで時間がなくて、そのまま忘れて入れっぱなしになってしまっていた。
隠れて荷造りをしている時は、わざわざ荷物を振って確認するなんてできなかった。静かな中だと音が余計に目立つ。仕方がない。これは取り出して、音が響かないよう手に握って行くことにする。
廊下へ出てくると、当然ながら辺りは真っ暗。唯一光を放つ火災報知器の赤い非常灯にギロリと睨まれながら、階段までたどり着くと、音を立てないよう靴下のまま急いで駆け下りた。
(はぁ、はぁ、はぁ……)
寮の一階の玄関では、透明の大きな扉が立ちはだかる。月明かりを頼りになんとか片手でロックを外した。もう後には引き返せない。
体調を崩していた数ヶ月の間に、ずいぶんと非力になってしまったことを痛感した。玄関の扉が思いのほか重く、片手で支えきれなかった。そのせいで、体重をかけて押し開けた拍子に、握っていた鈴が玄関の内側に転がっていってしまった。
カラーン、シャンシャン。
寮内に鳴り響く乾いた鈴の音が、蓮李の鼓膜にこびりついた。あまりの失態に、身体が硬直した。
その瞬間。今しがた自分が降りてきた階段の上のほうに、誰か黒い人影が見えたような気がした。
(やばい……!)
ダメだ。すぐに出ていかないと。蓮李は鈴を置き去りにし、何よりもまずここから出ることを優先した。ここで失敗すれば、計画が水の泡になるほか、どんな罰が待っているかわからない。
(はぁっ、はぁっ、はぁっ)
駐車場口の門をよじ登って外に出る。この時間、駅は閉まっているから、始発までどこかで潜伏している必要があるのだが、最寄り駅を使うわけにはいかない。
ローズ大学前駅と駅伝部のグラウンドは、全く同じ方向にある。しかも駅伝部のグラウンドから顔を上げると、ちょうどプラットホームが見える位置にあるのだ。ウロウロしているうちに、捜査の手が及んでしまうかもしれない。
博多駅まで、およそ11キロ。起動もしない、もはや足枷でしかなくなったフットギアを引き擦りながら、蓮李はひたすら歩いた。
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