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【第8話 白薔薇と黒薔薇】2037.09
⑤ ちょうど三年前
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「その日の朝、寮内は騒然としました。蓮李殿は、チームメイトに誰一人として告げず姿を消してしまいました。しかし大学側は、蓮李殿ほどの有名な選手が寮から脱走したと世間に知られては、評判に傷がつく。監督からは事を荒立てないよう言われ、何事もなかったように練習が続けられました」
(そんな……)
「その後、関係者とも話し合いをしたんだけど、大学はどうしても "円満退部" という事にしたいらしくて。私のことは、一身上の都合で競技を引退したと説明しているらしい」
もし楓がその場にいたら、練習どころじゃない。一緒に生活を共にしてきた仲間がいなくなる。そんな一大事を無かったことにされてしまうなんて。
「その後、蓮李殿が去ってから二か月程が経った頃でした。……そういえば、今日でちょうど三年ですな」
茉莉先輩はそう言って、競技場内を見渡した。三年前だというその出来事を思い出しているのだろうか。
「日本インカレの会場で、一人の男が、偶然私に尋ねてきたのです」
◇
「あのさ。キミ、ローズ大の子だよね?」
「はい、そうですが」
「二神蓮李って来てない? 長距離の」
「……えっと、その、今日はいません」
なんとも答えづらい質問でした。長野の実家に一人で戻ったということは聞きましたが、本人とは音信不通のままでした。見ず知らずの相手には説明しようがありません。学校からも、何も話すなと釘を刺されていましたし。
「そっかー。いきなり悪かったね」
去っていこうとする男の背中を見つめながら、私は葛藤しました。蓮李殿のことを黙っているのが本当に正しいのか、チームメイトなのに何もできないのか、と。
もしスキャンダルを嗅ぎつけた雑誌の記者だったら、黙っていて正解なわけです。この事件は、週刊誌の小ネタなんかではなく、本来なら警察や医療機関に相談すべき内容ですから。
しかし無理に聞いてこなかったあたり、逆にこちらから聞いてみたくなったのでした。
「あの。二神のお知り合いですか」
男は立ち止まり、振り返って喋り出しました。
「そうなんだよ。俺さ、蓮李の中学ん時のコーチなんだけど。エントリーにも名前無いし、元気にしてんのかなって。あいつ、大学入ってからちっとも連絡よこさないからよー」
「……」
「できたら、中学ん時のコーチがちょっかい出しにきてたぞ、って伝えといてよ。それじゃっ」
謎の男の去り際、彼のジャージの背中には大学名がプリントされていました。
(アイリス女学院大学……)
* * *
「その男とは、みんなもよく知っている、立花監督でした」
(えーーーーっ!?)
「立花監督って、蓮李先輩が中学生だった頃からの知り合いだったんですか!?」
楓は思わず声が大きくなってしまった。まさかそこに立花監督が関わってくるとは思っていなかった。
「あぁ、うん。監督は昔、長野で私たち姉妹が通ってたランニングクラブのコーチをしていたんだよ。心枝なんか、今でもその時の癖で、監督のこと「先生」って呼んでいるもんね」
「うん。昔の感覚がずっと抜けなくて」
そういえば、立花監督は今どこにいるのだろうか。
「当時は、アイリスの中距離ブロックのコーチを務めていたようですな」
「あぁ、だから日本インカレの会場に来ていたんですね」
◇
そして年が明け、冬のある日のことでした。
「今日呼んだのは……。歌川、お前を特待生から外す」
大学1年の私は、10月のみなと駅伝でなんとかレギュラーに選ばれ、みなと駅伝の6区を走りました。しかし、その後に元々持っていた腰痛が再発し、12月の箱根女子駅伝の頃には、完全に走れなくなるほど状態が悪化していました。
いつかレンリ殿が戻ってきてくれるかもしれない。そんな淡い期待を持ちながら、復帰を目指して治療を始めた矢先のことでした。
「その腰の状態では、復帰はまだ先になるだろう。常に結果が求められる特待生からはいったん外れて、まずは治療に専念したほうがいい」
後になって考えれば、そんなのはあくまで建前でした。元々、我々の学年は予定人数を超えて大量に入学してきたという経緯があり、大学が抱えられる特待生の枠を圧迫していたのです。
本来、次年度の入学予定者というのは、その時期にはもう決まっているはずですが。どうやら次の新入生で一人、急遽ローズ大学に入れたい選手がいたらしく、特待生の枠を空ける必要があったのが実情でしょう。
そこで、怪我で全く走れていなかった私が、代わりに特待生から外れることになったのでした。つまり、"陸上特待生としての歌川茉莉" はその瞬間、クビになったのです。
「わかりました。……ます」
「ん?」
「駅伝部を、辞めさせていただきます!」
私はその瞬間、それまでわかっているつもりでいた蓮李殿の孤独と苦悩を、身をもって理解したのです。
自分はチームに必要とされていない。このチームに自分の居場所はない。そう感じることがこんなにも苦しく、辛いことなのだと。
(そうだ。蓮李殿もこんな気持ちを抱えて、ずっと一人で悩んでいたんだ。誰にも告げず寮を抜け出すほど、限界で……)
「ま、待て、落ち着きなさい。特待生を外れるというだけの話だ。学費と寮費さえ払えば、来年度も部には居続けられる。君のご家族の家庭環境を考えれば、なんら問題ないだろう」
「……失礼します!」
お金の問題ではありませんでした。それ以前にも、蓮李殿が退部したあと何事もなかったように振る舞っている監督や大学の組織に対して、不信感がつのっていましたから。
(蓮李殿、あなたは、こんなに暗い海でずっと一人溺れていたんだ……)
(私はもう走れない)
(でもせめて彼女だけは……、救ってあげてほしい……、誰か、……誰か!)
(……蓮李殿はきっとまだ走れる!)
(そうだ……)
(彼女を救ってくれるかもしれない人を……私は一人知っている!)
私は福岡から、あの男の背中に書かれていた "アイリス女学院大学"のある横浜へ向かいました。
「あの!」
「キミは……」
(はぁ、はぁ、はぁ、見つけた……)
「二神蓮李を、助けてください!」
(そんな……)
「その後、関係者とも話し合いをしたんだけど、大学はどうしても "円満退部" という事にしたいらしくて。私のことは、一身上の都合で競技を引退したと説明しているらしい」
もし楓がその場にいたら、練習どころじゃない。一緒に生活を共にしてきた仲間がいなくなる。そんな一大事を無かったことにされてしまうなんて。
「その後、蓮李殿が去ってから二か月程が経った頃でした。……そういえば、今日でちょうど三年ですな」
茉莉先輩はそう言って、競技場内を見渡した。三年前だというその出来事を思い出しているのだろうか。
「日本インカレの会場で、一人の男が、偶然私に尋ねてきたのです」
◇
「あのさ。キミ、ローズ大の子だよね?」
「はい、そうですが」
「二神蓮李って来てない? 長距離の」
「……えっと、その、今日はいません」
なんとも答えづらい質問でした。長野の実家に一人で戻ったということは聞きましたが、本人とは音信不通のままでした。見ず知らずの相手には説明しようがありません。学校からも、何も話すなと釘を刺されていましたし。
「そっかー。いきなり悪かったね」
去っていこうとする男の背中を見つめながら、私は葛藤しました。蓮李殿のことを黙っているのが本当に正しいのか、チームメイトなのに何もできないのか、と。
もしスキャンダルを嗅ぎつけた雑誌の記者だったら、黙っていて正解なわけです。この事件は、週刊誌の小ネタなんかではなく、本来なら警察や医療機関に相談すべき内容ですから。
しかし無理に聞いてこなかったあたり、逆にこちらから聞いてみたくなったのでした。
「あの。二神のお知り合いですか」
男は立ち止まり、振り返って喋り出しました。
「そうなんだよ。俺さ、蓮李の中学ん時のコーチなんだけど。エントリーにも名前無いし、元気にしてんのかなって。あいつ、大学入ってからちっとも連絡よこさないからよー」
「……」
「できたら、中学ん時のコーチがちょっかい出しにきてたぞ、って伝えといてよ。それじゃっ」
謎の男の去り際、彼のジャージの背中には大学名がプリントされていました。
(アイリス女学院大学……)
* * *
「その男とは、みんなもよく知っている、立花監督でした」
(えーーーーっ!?)
「立花監督って、蓮李先輩が中学生だった頃からの知り合いだったんですか!?」
楓は思わず声が大きくなってしまった。まさかそこに立花監督が関わってくるとは思っていなかった。
「あぁ、うん。監督は昔、長野で私たち姉妹が通ってたランニングクラブのコーチをしていたんだよ。心枝なんか、今でもその時の癖で、監督のこと「先生」って呼んでいるもんね」
「うん。昔の感覚がずっと抜けなくて」
そういえば、立花監督は今どこにいるのだろうか。
「当時は、アイリスの中距離ブロックのコーチを務めていたようですな」
「あぁ、だから日本インカレの会場に来ていたんですね」
◇
そして年が明け、冬のある日のことでした。
「今日呼んだのは……。歌川、お前を特待生から外す」
大学1年の私は、10月のみなと駅伝でなんとかレギュラーに選ばれ、みなと駅伝の6区を走りました。しかし、その後に元々持っていた腰痛が再発し、12月の箱根女子駅伝の頃には、完全に走れなくなるほど状態が悪化していました。
いつかレンリ殿が戻ってきてくれるかもしれない。そんな淡い期待を持ちながら、復帰を目指して治療を始めた矢先のことでした。
「その腰の状態では、復帰はまだ先になるだろう。常に結果が求められる特待生からはいったん外れて、まずは治療に専念したほうがいい」
後になって考えれば、そんなのはあくまで建前でした。元々、我々の学年は予定人数を超えて大量に入学してきたという経緯があり、大学が抱えられる特待生の枠を圧迫していたのです。
本来、次年度の入学予定者というのは、その時期にはもう決まっているはずですが。どうやら次の新入生で一人、急遽ローズ大学に入れたい選手がいたらしく、特待生の枠を空ける必要があったのが実情でしょう。
そこで、怪我で全く走れていなかった私が、代わりに特待生から外れることになったのでした。つまり、"陸上特待生としての歌川茉莉" はその瞬間、クビになったのです。
「わかりました。……ます」
「ん?」
「駅伝部を、辞めさせていただきます!」
私はその瞬間、それまでわかっているつもりでいた蓮李殿の孤独と苦悩を、身をもって理解したのです。
自分はチームに必要とされていない。このチームに自分の居場所はない。そう感じることがこんなにも苦しく、辛いことなのだと。
(そうだ。蓮李殿もこんな気持ちを抱えて、ずっと一人で悩んでいたんだ。誰にも告げず寮を抜け出すほど、限界で……)
「ま、待て、落ち着きなさい。特待生を外れるというだけの話だ。学費と寮費さえ払えば、来年度も部には居続けられる。君のご家族の家庭環境を考えれば、なんら問題ないだろう」
「……失礼します!」
お金の問題ではありませんでした。それ以前にも、蓮李殿が退部したあと何事もなかったように振る舞っている監督や大学の組織に対して、不信感がつのっていましたから。
(蓮李殿、あなたは、こんなに暗い海でずっと一人溺れていたんだ……)
(私はもう走れない)
(でもせめて彼女だけは……、救ってあげてほしい……、誰か、……誰か!)
(……蓮李殿はきっとまだ走れる!)
(そうだ……)
(彼女を救ってくれるかもしれない人を……私は一人知っている!)
私は福岡から、あの男の背中に書かれていた "アイリス女学院大学"のある横浜へ向かいました。
「あの!」
「キミは……」
(はぁ、はぁ、はぁ、見つけた……)
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