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物言えば唇寒し秋の風
しおりを挟む「……」
お桐は久良の笑顔を羨ましげに見つめていた。
(わたしも人に話してしまえばスッキリと吹っ切れるかも知れない)
「わたしは十五歳の時に顔も知らぬ材木問屋の森田屋の三十五歳の番頭さんに嫁がされて、わたしこそ身売りのようなものにござりました――」
お桐はこれまで誰にも言えなかったことを思い切って明かすことにした。
下女中は今度こそ「待ってました」と耳をそばだてる。
「森田屋の番頭さんは、ただ自分の子が欲しいから、子を産ませるためだけにわたしを嫁に望んだのでござります」
お桐がそう切り出すと、
「やっぱりねえ」
下女中は顔を見合わせて頷き合った。
亭主が大工や左官や瓦職人なので下女中はお桐よりも昔から材木問屋の森田屋の番頭のことはよく知っていたのだ。
「わし等はあの番頭さんが二十歳やそこらの手代だった頃から知ってんだよ」
「材木もヒョイヒョイ軽々と担いじまうような逞しいガッチリした男前で、ここいらの女衆にゃそりゃモテモテだったけどさ」
「女にゃまるで興味なかったからねえ」
そう、実は森田屋の番頭は根っから筋金入りの男色で十歳下の美男の手代と十年来の衆道の関係であったのだ。
「ええ、番頭さんは森田屋の近所の仕立て物のお師匠さんへ習いに通っていたわたしの姿を見掛けて、手代さんとわたしの面差しが似ているので嫁に選んだのだと。産まれる子が自分に似なくとも手代さんに似ておれば可愛く思えようからと――」
「おやまあ」
「なんてことを」
下女中は顔をしかめる。
「きちんと森田屋の旦那様を通して縁談の申し込みがあって、もったいないほどの良縁と二つ返事で受けた親の言いなりに嫁入りして、新枕の夜に番頭さんから手代さんとのことを打ち明けられました。生真面目で嘘のつけない人だったのでござります」
「それにしたってさ」
「よくもまあ」
「馬鹿正直にもほどがあるよ」
下女中は憤慨する。
「それで自分の子を産んでくれさえすれば好きに贅沢して遊んで暮らしておればいいと――」
番頭は仕事の忙しさにかこつけて所帯を持った後も独り者の頃と変わらず森田屋に居ついて家にはほとんど帰らなかった。
「その代わり、わたしと気心の知れた実家の小作人の娘二人を女中に雇って下さったので少しも寂しくはなかったのでござりますが――」
お桐は娘気分のままで同じ年頃の女中二人といつも自分で仕立てた流行りの色柄の着物でお洒落してキャッキャと日本橋で買い物や芝居見物を楽しんでいたものだ。
ただ、月に二度ほどの番頭との一夜の契りのほんの僅かの間をじっと辛抱すればいいだけであった。
ほんの、ほんの僅かの間を。
「幸いにすぐに杉作を授かりましたので、それきり夫婦の契りは途切れましたが、杉作が八歳の時に弟か妹が欲しいと言い出したもので子煩悩な番頭さんは杉作のために八年振りに。それで、お栗を授かって。番頭さんはお栗の顔を見ることもなく森田屋の火事で亡くなってしまいましたが――」
お桐は虚しく微笑んだ。
話したところで少しもスッキリしないどころか亡くなった人を貶めたようで後ろめたい気持ちになってしまった。
(結局、親の言いなりになって嫁いでしまった自分が一番いけないのだから――)
お桐は縁談を拒んで家出した美根が羨ましかった。
(けど、わたしには身を寄せられるような親切で裕福な親戚などいなかったのだから仕方なかった――)
あれもこれも仕方なかった。
お桐は今さら後悔しても仕方ないことをいつまでも悔やんでいた。
まだ他にもお桐にはとても人には恥ずかしくて話されぬ秘密があったのだ。
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