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遠くて近きは男女の仲
しおりを挟む(――まあ――)
美根は痛ましげに眉をひそめた。
お桐が三年前に火事で亭主を亡くした二人の子持ちの後家ということも初めて知ったばかりなのに、そんな気の毒な事情があったとは。
庶民は色恋沙汰で結ばれる夫婦も多いと聞くのに、親の言いなりに嫁がされて子を産むだけの道具にされて、まるで武家と変わらぬではないか。
美根はそれに比べて久良など幕臣の小納戸に十二年も想われ続けているのだから女冥利に尽き、よっぽど幸せのような気がしてきた。
(やはり、あのお方はあれほど久良様に想いを寄せておられるのだから、あのお方と添い遂げるのが久良様にとって幸せに違いなかろうし、ああ、なんとしよう?)
いまだ久良には小納戸のことは何も伝えておらず、久良の気持ちはどうだか分からぬが早く二人を引き合わせねば向こうでは久良がとっくに嫁入りしたと思っているのだから諦めがついて結婚してしまうかも知れない。
(ああ、そうなれば手遅れになってしまう。どうしたら二人を逢わせられるだろう?あのお方は、ばばばば、ばばばば、ああ、なんと言ったかしら?)
美根は小納戸の馬場馬三郎が名乗った名も思い出せずに焦っていた。
「なあに、三人共、まだまだこれからだよ」
「そうそう」
「これから、これから」
下女中五人はカラッと明るく自分等より一廻り以上も若いお桐と武家娘二人を励ますと、またテキパキと針仕事の手を動かし始めた。
「奥様?そろそろ、あちらでお茶になさっては?」
「ああ、そうだわなあ。みんなも切りのいいところでお茶にさっしゃい」
お葉とおタネは二人で今、聞いた吉原やら男色やらの話についてあれこれ言い合いたいので申し合わせたように腰を上げて茶の間へ戻っていく。
(ふぅん、嫁いだ相手が男色なんて不幸なことだわな)
お花はまるで他人事のようにそう思うと「さて」と姿勢を正して児雷也に贈るお手製の財布の刺繍をまた熱心に刺し始めた。
刺繍の図案はサギの財布の秋の七草を写したもので、萩、尾花、葛、撫子までは刺した。
あとは女郎花、藤袴、桔梗と、鳥の鳶を刺せば刺繍は仕上がりだ。
(ああ、餡ころ餅が食べたいのう)
サギはままごと遊びでこしらえた泥饅頭を見つめて羽衣屋の餡ころ餅を思っていた。
(八木のメエさんはちいとも顔を出さんが何しとるんぢゃろ?)
お庭番の八木明乃丞は見合いの前日に来たっきりで忙しいのか手土産の菓子を持って遊びに来やしないのだ。
そこへ、
「毎度、貸本屋にござります」
貸本屋の文次が裏木戸からやってきた。
「――っ」
お桐はハッとした。
文次は三日にあげずに桔梗屋へ貸本にやってくるのだから奇遇でも何でもないのだが、お桐は慌てて襟元を直したりする。
今ではお桐も奥様のお葉からお仕着せを戴いたので以前のようなみすぼらしい着物は着ていない。
お仕着せの着物は趣味の良い梅鼠の地に紫の縞柄だ。
お葉が見立てたのでお桐が自分で選ぶよりも艶かしい色合いである。
「……」
文次はお桐の新しい着物を見てホッと安堵の笑みを浮かべて会釈した。
以前の着古して色褪せした着物はあまりに痛ましく見るのも遠慮していたのだ。
「……」
お桐はときめく心を抑えつつ、控え目に文次に会釈する。
良い着物のおかげで臆すこともなく文次から見える位置に座ったまま針仕事を続けた。
「あ、あの、わたくし、台所のお手伝いに――」
久良はそそくさと立ち上がり縁側とは反対側の廊下から台所へ行ってしまう。
やはり、まだ久良は男子が苦手とみえて文次が来たので逃げ出したのであろう。
(まあ、久良様ときたら、あのように清潔感に溢れた物腰の柔らかな貸本屋さんでも避けるほどとは――)
美根はこの分では先が思いやられると困り顔で吐息した。
「おや、サギ?お前、まだ錦庵へは戻らんでええのか?」
文次は縁側から裏庭でお枝とお栗のままごと相手をしているサギを見やる。
「ぢゃって、ありゃ店仕舞いした後ぢゃろ?」
言わずと知れた虎也の吟味のことである。
だいたい錦庵の蕎麦が売り切れて店仕舞いするのは昼七つ頃(午後四時頃)なのでサギはそれまで泥饅頭に専念するつもりだ。
サギはお枝とお栗と一緒にせっせと泥饅頭を丸めるのに忙しい。
ご丁寧に三人で桔梗屋の人数分の泥饅頭をこしらえているのだ。
一人前が五個ずつなので泥饅頭を丸めるのにそれはもう忙しい。
だが、
「いや、わしが長屋を出る時にゃ調理場の後片付けをしとったようぢゃが。今日は早仕舞いしたんぢゃないかのう」
文次は吟味など興味なさそうに木箱から注文の本を取り出しながら言った。
「な、なんぢゃとお?」
サギはたちまち目を剥く。
(わしに断りもなく先に始める気かっ)
(夕べ、虎也を捕らえて錦庵へ連れていったのはわしなのにっ)
(おのれ、わしの獲物を横取りはさせんぞっ)
サギは泥饅頭を放り投げ、ピョンピョンと屋根から屋根へと弾き豆のように飛んでいった。
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