4 / 49
第一章
チャンタン その1
しおりを挟む兎の年(七六三)正月
東方遙か彼方に黒々と横たわる山脈の、背後の空が白み始めた。
凍てつく大地に朝がやって来る。
あの山脈の向こうには、このボェの国(チベット)の都、ラサがある。さらに東には唐の京師長安。
目を閉じれば、若き日にその身を置いた、京師の華やかな光景をありありと思い浮かべることが出来た。もう二十年以上が経つというのに、つい昨日のことのようだ。
あの頃は明るい未来が自分を待ち受けているのだと、微塵も疑うことはなかった。
それが、いまは。
目を開けば、見渡す限り茶色い土と白い氷が果てしなく続く、死の大地が広がっている。
流刑を見届けるためと理由をつけてここまで自分を送り届けてくれた、亡き親友の息子ナナム・ゲルニェン・ニャムサンが去り際に言ったことを思い出して、思わず、苦笑いが浮かぶ。
--京師を攻めて、新しい唐主を立てるんだ。
--そのために小父さんは必要だから、すぐに許しが出るよ。
あの長安を手に入れ、新帝を即位させる。そんなことは夢物語だ。
ツェンポの命でこの北原に流されて、生きて都に戻った者は、いまだかつていない。ニャムサンは励ましでそんなことを言ったのだろう。
そう、自分に言い聞かせたつもりだが、こうして長安のことを思い浮かべてしまうのは、まだ、こころの底に未練があるからか。
頭を振って追憶を振り払い、大きく息を吸う。
昨日よりは幾分鋭さを失った空気が胸に流れ込んできた。
冬の終わりが少しずつ近づいている。
どうやらこの冬は生きて越すことが出来そうだ。
だが、来年は?
吐き出す息とともに「いくぞ」と声を発すると、ゲンラム・タクラ・ルコンは両脚で馬の腹を軽く締めた。
後ろから馬蹄の響きが追いかけてくる。
今日はどこまで追ってこられるかな。
気遣ったのは、ほんの一瞬。
斬るような冷たい風を受けながら、ぐんぐんと速度を上げて丘を駆け下りる。
肌を刺す殺気。
耳をつんざく喊声。
無数の兵の塊が両翼を広げ、ルコンを包み込んで潰そうと待ち構えている情景をありありと思い浮かべる。
左翼。
わずかに兵が薄くなっている。
ルコンは馬首を向けた。
それに合わせて敵もゾロリと動き始める。
黒蟻の群れ程に見えていた兵士たちの姿が、グングン大きくなる。
敵陣の動きが早くなってくる。
津波のように背後に迫って来る右翼が追いつくよりも早く、ルコンは左翼に突っ込んでいた。
想像のなかで、剣を振るう。
兵の胴を薙ぎ払い、胸を突き、頭を落とす。
左翼の兵は浮き足立ち、混乱し始める。
そのなかをルコンは駆け抜ける。
ルコンを追っていた兵たちは慌てふためく味方に行く手を塞がれ、足を止められる。
前方を、切り立った崖が立ち塞がる。
息をつくまもなく、右から敵が突っ込んでくる。
先鋒を軽く躱すと、その脇をすり抜け、崖に沿って走る。
方向を変え追いすがろうとする敵兵を思い浮かべながら、ルコンは駆けた。
谷に突っ込む。もう逃げ場はない。
袋のネズミ。
敵はそう思うだろう。だが、ここに伏兵があれば、すりつぶされるのはあちらの方だ。
三方を崖に囲まれた谷間でルコンは馬を止め、振り向く。
朝日が白く照らす谷間の入り口。
そこには、ただ静寂だけがある。
ルコンの脳内で生み出した敵軍は、跡形もなく消えていた。
※ ※ ※
ルコンの背中はあっという間に小さくなる。
リンチェは必死であとを追った。
ルコンが右折して崖に沿って駆けるのを確認し、リンチェはだいぶ手前で馬首を右に向け距離を縮めようと試みる。
それでもグングンとルコンの姿は小さくなっていく。
風が頬を切る。冷たい空気にさらされた瞳が乾いて、ボロボロと涙がこぼれる。
不意に、ルコンの姿が消えた。谷に駆けこんだのだ。リンチェは必死に谷に向かって馬を走らせた。
明るい荒野から谷間の濃い影の中に入ると、目がチカチカして、一瞬、何も見えなくなった。慌てて馬を止める。
「ずいぶんとゆっくりと歩いてきたな、リンチェ」
笑いを含んだルコンの声。
顔が熱くなり、今度は悔し涙があふれ出す。
「殿の馬、わたしの馬よりいいからです」
「馬のせいにするなと言っているだろう」
ルコンは近づくと、軽くリンチェの馬の首筋を撫でる。リンチェの目は、ようやくルコンの笑顔を捉えた。
「これはいい馬なのだ。その能力を引き出せないのは主の責任だ」
「帰りは交換、いいですか」
「わからぬヤツだな。おまえの相棒を大事にするんだ。さあ、帰るぞ」
ゆっくりと馬を歩ませて谷を出るルコンの背中を、リンチェはしゃくりあげながら追った。
ルコンと家来たちの住まう洞窟は、小高い丘の中腹にある。その麓に到着すると、ルコンは馬をリンチェに託して丘を登って行った。リンチェは二頭を厩としている天幕に戻してまぐさをやってから丘に登り、洞窟の入り口で家来たちとともに朝食をとる。
ふいに肩をたたかれた。
「今朝はどっちが勝った?」
顔を見ずとも声でゴーであることはすぐに分かった。リンチェは慌てて顔を伏せ、まだ濡れている頬を隠した。
「知りません」
「負けたのだな」
からかうような声色に、また眼がしらが熱くなる。
「先に行っているぞ」
リンチェの返事を待たず、ゴーはそのまま歩み去っていった。リンチェは慌てて麦こがしの団子を口に詰め込んでヤクの乳で腹に流し込むと、ゴーの後を追った。
洞窟のある小山の麓で、ゴーは東の空をにらみながら待っていた。その視線の先には都がある。
リンチェ以外のここにいる人間は、みな都からやってきた。家来たちは、ルコンのいないところで都のことを懐かしんで語り合う。ゴーがそのような雑談に参加することはなかったが、やはり都は恋しいのだろうか。
「ゴーさんも都のほうがいいですか?」
リンチェの問いに、ゴーは首を回して顔だけをリンチェに向けた。
「別に、都もここも変わらないさ」
「でも、都にはたくさん遊ぶところがあって、ひとがいて賑やかだから、なにもないここ、つまらないとみんな言います」
「どこにいても人間のやることなんて大して変わりはない。食って寝るだけだ」
ゴーがかすかに笑った。
ゴーだけは、ルコンの家来ではなかった。都でゴーが仕えていた主人が消えてしまったので、ゴーはルコンの許しを得てここにいるのだという。
都が恋しいのでないなら、もう会うことの出来なくなった主のことを懐かしんでいるのだろう。
ゴーは剣の柄に手をかけると言った。
「さて、始めるか」
シャッと音を立てて抜かれた白刃が、朝日を映して輝いた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
遺恨
りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。
戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。
『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。
と書くほどの大きなお話ではありません😅
軽く読んでいただければー。
ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。
(わからなくても読めると思います。多分)
ナナムの血
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(チベット)
御家争いを恐れ、田舎の館に引きこもっていたナナム・ゲルツェン・ラナンは、ある日突然訪ねて来た異母兄ティ・スムジェによってナナム家の家長に祭り上げられる。
都に上り尚論(高官)となったラナンは、25歳になるまで屋敷の外に出たこともなかったため、まともに人と接することが出来なかった。
甥である王(ツェンポ)ティソン・デツェンや兄マシャンの親友ルコンに助けられ、次第に成長し、東方元帥、そして大相(筆頭尚論)となるまでのナナム・ゲルツェン・ラナン(シャン・ゲルツェン:尚結賛)の半生を書きました。
参考文献はWebに掲載しています。
摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。
民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。
天空の国
りゅ・りくらむ
歴史・時代
唐の代宗の治世。吐蕃軍の総帥馬重英に敗れ、失意の日々を送っていた渭北行営兵馬使呂日将は、部下に去られ自害しようとしたところを、宰相苗晋卿の家来厳祖江に救われる。
国に失望し、反乱軍に身を投じた呂日将に、反乱の首謀者僕固懐恩は、吐蕃に行き宿敵馬重英の再度の出兵を実現させることを命じる。
『遺恨』で書いた僕固懐恩の乱を呂日将目線で書きました。
ただ鴛鴦を羨みて
水城洋臣
歴史・時代
戦火に巻き込まれた令嬢と、騎馬民族の王子。その出会いと別れ
騎馬民族である南匈奴が、部族を率いて後漢王朝に従属した。
そんな南匈奴の左賢王(第一王子)が、時の権力者である曹操に頼みがあるという。
彼にはどうしても、もう一度会いたい女性がいた。
後に三國志の序盤としても知られる建安年間。
後世に名を残した者たちの、その偉業の影に隠れた物悲しい恋の物語。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
法隆寺燃ゆ
hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが………………
正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる