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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む李輔国が、背にもたれかかるようにべったりと身体を寄せてきた。耳元を、生ぬるい吐息が撫でる。
郭子儀は肌が粟立つのを感じたが、嫌悪の情を悟られぬよう表情を隠し、空間の一点をにらみ続けた。
「吐蕃の要求は、なんであっても飲んでくだされ」
「しかし、到底果たすことの出来ぬ無理難題を押しつけてくるやもしれません」
いや、吐蕃が和平と引き換えに莫大な贈物を要求してくるのは間違いない。その誓いが破られたと決まったら、国境を犯す大義とするだろう。反乱鎮圧に兵を割かれてガラ空きになっている隴右なぞ、たちまち蹂躙される。
李輔国は喉の奥で笑声を立てると、郭子儀の背後から離れた。衣擦れの音が、ゆっくりと脇を通り過ぎる。
「もちろん、それでもかまいません。端から守る必要のない約束ですから」
郭子儀の目の前を、ヌッとのっぺりとした青白い顔が塞いだ。
この皺首を掻き切ってやったら、どれだけスッキリするだろう。
心中に湧きあがる殺意を、郭子儀は拳を握りしめてやり過ごす。
殺気を隠す術は心得ている。郭子儀の面は、眉ひとつ動いていないはずだ。
案の定、李輔国は郭子儀の身の内で荒れ狂う修羅に気づくことなく、醜悪な笑みを浮かべ続けた。
「いまだけ、おとなしくしていてもらえればいいのです。なんでも吐蕃王はまだ二十歳そこそこの若造だそうではありませんか。唐の外にも武名轟く郭将軍が頭を下げてやれば、コロリと参ってしまうでしょう」
「そんな詐術が通じるのも、せいぜい一年ではござらんか」
クルリと李輔国の表情が渋面に変わった。
こんな術を使う大道芸人を以前見たことがある。あらかじめ装着されている何枚もの布の仮面を、袖や団扇で顔を隠しながら次々と脱いでいくのだ。
李輔国は顔だけではなく、いやらしい猫なで声も金属のような固い声色に変化させた。
「ほう。もう六年も続いている反乱が、まだ収まらぬのか。はてさて、武功自慢の節度使の方々はいったいなにをされているのだ」
誰のせいで……。
抑えていたものがあふれ出しそうになって、郭子儀は顔を伏せて表情を隠し、恐懼したように身体を縮めた。
「それは我が不徳の致すところにございます。しかし、みな一日でも早く反乱を治めるべく、いのちを掛けて戦っておるのです。どうかお汲み取り下され」
節度使も太守も、これまで多くの犠牲を払っていた。敵が目の前の反乱軍だけだったら、とっくに鎮圧しているはずだ。
しかし、武人たちの敵は違うところ、帝のそば近くにもいた。
宗室にありながら、国政を壟断するために忠臣を次々と失脚させ安禄山を引き立てた李林甫。
安禄山と帝の寵を争った挙句、乱の発端となった楊国忠。
そしていまは宦官だ。彼らは武人の功名を喜ばず、あることないこと帝に讒言し、足下を掬う。郭子儀自身も兵権を取りあげられ閑職に追いやられた。それら佞臣の筆頭が、この李輔国だった。
「ならば、早く片付ければいい。一年の猶予があれば、節度使どもも外寇の守りに付くことが出来るだろう」
そう右から左に行くものか。
兵も民も疲弊しきっている。乱が収まったからといって、すぐに元どおりに立ち直れるわけがない。
しかし、罵声を放ち固く握りしめたこぶしをたたきつける代わりに、郭子儀は更に身体を縮め、頭を下げて李輔国に承諾の意を伝えた。
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