王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

孤軍奮闘

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 吉田障子は水道水で口を濯いだ。
 先ほど向けられた倉山仁の殺人衝動に動揺していたのだ。危うく全てが終わるところだったと、そこに向かって彼を誘導している自分とキザキという男の際限のなさに呆れ果ててしまった。
 やはり男は駄目だなと、そう思う反面、やはり男の体でなければ出来ない事が多くあったなと、吉田障子はハンカチで口元を拭った。
 ともかく、早くこの舞台を終わらせなければならない。それは周囲の為でもあるし、また自分の為でもある。
 吉田障子は眉間に皺を寄せた。水道水では流し切れなかった焦りが呼吸を苦くする。際限ないテストステロンの暴走により、彼は、我を忘れる事が多くなっていた。
 登校日の校舎は人で溢れている。
 吉田障子は努めてゆっくりと廊下を歩いた。向かう先は一年B組である。おおよそのクラスメイトが集まっているだろう。藤田優斗も登校している時間帯だ。何も知らない彼は自分の机を見て何を思うだろうか。いや、下駄箱の時点で既に言いようの無い不快感を味わっている筈だ。所詮は根暗で臆病で一般的な思春期の少年なのだ。ほんの些細な変化にも耐えられない。そんな普通の少年なのだ。
 ざわざわとした騒めきが聞こえてくる。二階の廊下は声に溢れており、一年B組に近付くにつれて騒めきが大きくなっていった。
「なんだよこれっ!」
 吉田障子は叫んだ。あらん限りの声だ。だが、振り返るものは少ない。皆の視線は藤田優斗の机に集まっていた。
「ふざけんなよ、おい!」
 大袈裟な演技だと、吉田障子は笑いそうになった。普段の自分ならばあり得ないだろう。
 やはり自分は焦っているのか。男性ホルモンが暴走しているのだろうか。だが、急がなければならないのもまた事実だった。大切な妹が異変に気付き始めているのだ。不穏の影が小さな世界を侵食し始めているのだ。そして何より、別段に大切というわけではなく、正直に言えばただ鬱陶しいだけの、底抜けに明るくて、努力家で、およそ憂いとは無縁な存在である、自分とは対極の位置にいるような、そんな幼馴染の男が、自分の演劇を待ち望んでいると言っていたのだ。
 藤田優斗の机の上に置かれていた花瓶と花束を床に落とした吉田障子は、机の中から溢れ出ていたゴミの山ごと机を床に押し倒した。その凄まじい音に教室が静まり返る。こういうのは大袈裟なほど盛り上がるのだ。そんな事を考えながら、わざとらしく荒い呼吸を繰り返した吉田障子は、隣で呆然と立ち竦んでいた藤田優斗の肩を力強く揺すった。
「おい、大丈夫かよっ!」
 コクリと藤田優斗の顎が縦に動く。同時に彼の頬を涙が伝った。自然な演技だ。素晴らしい。だが、そんな風に表立って褒めるわけにはいかない。代わりに吉田障子は、藤田優斗の体を思いっきり抱き締めてあげた。いや、男同士でこれは流石に不自然か。そう取り乱しそうになるも演技を止めることはない。重要な場面では何よりも勢いが重要なのだ。感情は理性で作り出せる。今や吉田障子の頬は大粒の涙に濡れていた。
 あまりにも不自然な演技だった。だが、その勢いで不自然さは掻き消されてしまう。凄まじい音と激しい声が観客の胸を打つ。見ている者たちはそれを演技だとは思わなくなる。いいや、そもそもここは劇場ではない。学校の教室なのだ。見ている者たちはそれが演技であることすら疑わない。
 印象が重要だった。彼らの心に残る余韻がストーリーをさらに前へと押し進めていってくれる。
 だが、舞台の上の役者には余韻に浸っている暇などない。急がなければならなかった。そして、どうせ急ぐのであれば、夏の演劇地区大会までには全てを終わらせてしまいたかった。
 教室の中央で二人の男子生徒が涙を流す。やがて猫っ毛の男子生徒は顔を上げると、項垂れ嗚咽を繰り返す小柄な男子生徒の手を引いて、教室を飛び出していった。
 その後を生徒たちの視線が追う。余韻が騒めきに変わっていく。
 

 暑過ぎるな、と吉田障子はタクシーを拾った。外はまさに夏真っ盛りといった様相で、陽炎と蝉の声に大地が揺らいで見える。
 この暑さの中を走り続ける行為は舞台に支障をきたすだろう。役者である自分は大丈夫だとすれ、無意識に迫真の演技の最中にある隣の藤田優斗の心が冷めてしまう可能性がある。そう思った吉田障子はタクシーの中で嗚咽を続ける藤田優斗の頭をくしゃくしゃと撫でた。タクシーの運転手の表情は明らかに訝しげである。観客ですらない彼にとっては異様な光景だったのだろう。演劇は舞台と客席の中のみで執り行われるものなのだ。例えそれが完璧な役者の素晴らしい演技だったとして、街中でいきなりコーラスラインのミュージカルを踊り始めれば、奇異な存在として避けれられてしまうだろう。
 藤田優斗の家は門がキッチリと閉じられていた。だが、彼の母が中にいることは確かで、半日で学校から帰ってくる彼の為に、彼の母は昼食の用意に勤しんでいる筈だった。市議会議員である彼の祖父と共に。
「あらあら、どうしちゃったの……」
 藤田優斗の祖母らしき老女が門を開ける。そうして、老女の瞳に孫と孫の同級生の苦悶の涙が映る。老女は慌てて二人の側に駆け寄った。尋常な事態ではないと思ったのだ。日常の中においての異常事態だと。恐らくは喧嘩か。まさか事故か。イジメの可能性も老女の日常の円の内にある。まさかそれが吉田障子の描くストーリーの延長線上の出来事だとは夢にも思わない。
 藤田優斗の母親が現れる。彼の祖父も軽快な足取りで姿を現す。外では厳格な表情を続けている平和党の議員も、家の中では単なる好々爺だった。溺愛する孫の涙に動揺する祖父。孫の友達の話に怒りを示す老人。
 火が伸びていく。奴らの足元に向かって。
 吉田障子は心の内でほくそ笑んだ。
 

 ストーリーが進んでいく。舞台の上では休む暇がない。
 夏の日暮れは青い陽に眩しかった。それでもヒグラシの鳴く頃には、涼しげな風が街を流れ始める。
 山田春雄の工場で、吉田障子はインスタントコーヒーの苦味に眉を顰めた。工場には“苦獰天”の主要メンバーが集まっており、先の“火龍炎”による襲撃の件で、皆、表情を固くしている。
「何もしないとは一体どういうわけだ!」
 そう叫んだ野洲孝之助は勢いよく立ち上がった。元“正獰会”のメンバーたちも一斉に眉間に皺を寄せる。その純白の特攻服の煌めきが鬱陶しいと吉田障子は軽く手を振ってみせた。
「それが最善手なんだよ。奴らは俺たちが動き出すのを待ってるんだ」
「なんだと?」
「大人数で動けば大打撃を食らわされる可能性がある。だからまだ動けない」
「既に大打撃は食らわされているだろうが!」
「いいや、ノーダメージさ。なんなら今からでも俺たちは走り出せる」
「ならば、今から……」
「駄目だ。少人数でバイクを走らせて、囲まれる前に逃げる、それが最善手さ。控えの数はこちらの方が圧倒的に多いわけだから、“火龍炎”の奴等も、モタモタと少人数相手に囲んでいる暇はない。そうした膠着状態を続けていけば、やがてこちらが有利になる」
「奴等が少人数相手に囲まないとなぜ言い切れる?」
「少人数とは言っても十五人もいるんだぜ。囲んで潰すには相当な人数が必要なのさ。それにだ、俺たちの背後には五十人以上も控えている。万が一にも奴等が大馬鹿で、十五人を囲んで潰すような真似をすれば、逆にその十五人を囮に、控えの五十人で奴等を囲んでやればいい。そうなってくれれば簡単に“火龍炎”を一網打尽に出来んだろ」
 野洲孝之助は唇を結んだ。一理あるかもしれないと思ったのだ。
「なるほど、釣り野伏せに似た戦法か……。だが、“火龍炎”も馬鹿じゃない。此方の戦法に引っ掛かる可能性は少ないし、このままだと本当に膠着してしまうぞ?」
 しばらく考え込むような仕草をしていた野洲孝之助はやっと口を開いた。元“紋天”のリーダーである早瀬竜司は早く闘いたいとでも言いたげに貧乏ゆすりを続けており、山田春雄はいつもの様に不安げな表情をしている。そんな彼らに呆れ果てた吉田障子は説明するのも面倒臭そうに腕を組んでしまった。
 潔癖で頭の悪い総長。威勢だけは良いが頭の悪い特攻隊長。臆病な上に頭まで悪い参謀。いや、ただ頭が悪いだけの家畜であればまだ救いがある。だが、彼らは自己主張ばかりが激しい獣だった。本当に使えない奴らだと、これでは敗北の辛酸を嘗め続けるのも無理はないと、吉田障子は深いため息をついた。
「おいモチヅキ、聞いて……」
「膠着させりゃあいいんだよ」
「なに?」
「おーい、まさか忘れちまったとは言わせねーぞ。俺たちの目的は心霊学会の乗っ取りだろうが」
 その言葉に野洲孝之助は思わず視線を落としてしまう。そうして空のペンキ缶に腰を下ろした彼は口元を押さえた。
「いや、決して忘れたわけではないんだ……。だが、それについては未だに懐疑的でな……」
「お前らは協力すると約束したんだ。懐疑的だろうと何だろうと、優先順位だけは忘れんなよ」
 吉田障子の瞳に冬の夜空の冷たさが浮かび上がる。野洲孝之助が再び視線を落とすと、山田春雄は何か言いたげに体を前に倒した。
「おい、テメェは“火龍炎”相手にしながら、心霊学会とやり合えるって本気で思ってんのかよ?」
 早瀬竜司が低い声を上げる。山田春雄が開きかけた口を閉じてしまうと、吉田障子はやれやれと頭を掻いた。
「“火龍炎”は泳がせておけばいい。あれはあれで利用出来るからよ」
「利用だって?」
「ああ、アイツらを心霊学会にぶつけてやるんだ」
「な、なんだと……!?」
「その為に、アイツらは泳がせ続けなきゃならねぇ」
 そう言った吉田障子の唇が横に開いていく。それは人形のような感情のない笑みだった。
 野洲孝之助は驚愕したように目を見開いた。早瀬竜司も言葉を失ってしまう。
 ただ、山田春雄のみが不安げな表情を崩さない。そんな彼に向かって吉田障子は横目に鋭い視線を送った。余計なことは言うんじゃねーぞ、と。その瞳の影に畏れをなした山田春雄は何も言わずに俯いてしまった。
「お前は初めから“火龍炎”を心霊学会にぶつけるつもりだったのか……?」
「ああ、そうだよ」
 野洲孝之助はゴクリと唾を飲み込んだ。早瀬竜司の表情も真剣そのもので、吉田障子は笑いを堪えるのに必死になった。
 腹の底から嘲笑ってやりたかった。本当に馬鹿で愚かで救いようのない奴等だと舌を出してやりたかった。平静を保てなかったのだ。湧き上がる衝動が抑えられなかった。
 決して演技ではなかった。その感情の昂りは本物だった。
 それは果たして男性ホルモンだけによるものなのだろうか。まさかこれが自分の本性だったのではあるまいか。そんな事を理性の片隅で考えた吉田障子は苦味の強いインスタントコーヒーを口一杯に含んだ。気分が悪くなったのだ。愚か者が愚か者を嘲笑う。馬鹿で愚かで救いようのない存在が実は自分だったなんて、全く笑えない皮肉である。気が付けば落ちるとこまで落ちてしまっていたのだろうか。あまりにも気分が悪くなった吉田障子はコーヒーを飲み干してしまった。すると、その様子を眺めていたキザキがいそいそと次のコーヒーの準備を始める。ギロリとキザキを睨み付けた吉田障子は腹の底に溜まった不快な空気を絞り出した。
 余計な事を考えている暇はないと。とにかく早急に舞台を終わらせなければと。
 それにしても、と吉田障子は僅かに表情を変えた。“火龍炎”という名の暴走集団が少し気になったのだ。頭を使って闘うチームのようで、随分と小賢しい奴等らしい。万が一にも想像より厄介なチームであれば、舞台に支障をきたすかもしれない。そうなる前に奴等の中の誰かを舞台から引き摺り下ろさなければならない。
「なぁ野洲くん、その“火龍炎”についてなんだが」
「なんだ?」
「奴らの中で一番厄介な奴って誰だ?」
「厄介な奴だと?」
 野洲孝之助は顎に手を当てた。"火龍炎"は厄介な奴らの集まりだったのだ。単純な強さであれば、やはりリーダーの鴨川新九郎が一番厄介だろう。残忍さで言えば特攻隊長だった清水狂介だろうか。怖いもの知らずな山中愛人も相当厄介であり、他にも厄介な奴は多数存在する。だが、やはり一番厄介なのは……。
「参謀の長谷部幸平だな」
「長谷部幸平ね」
 そう頷いた吉田障子は左頬に薬指を当てると、白い湯気が立ち昇るコーヒーカップを掲げたキザキから逃げるようにして立ち上がった。
 
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