王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

白髪の巫女

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 三原麗奈は歩いた。見覚えのない街を。見慣れない道を。
 色のない風が色鮮やかな世界を流れていく。湧き水のような大気は煙に遮られない。夏空が朝顔の青よりも鮮やかで、夏草が朝露の青よりも清らかだ。見るもの全てが目新しく、美しく、寂しい。聞くもの全てが幻想的で、曖昧で、儚い。
 三原麗奈は誰かの影を探した。誰かの声を。誰かの姿を。
 とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を助けに行かないと。
 蝉の声は変わらない。夏の暑さも変わらない。
 行かないといけない。戻らないといけない。私は、あの人と共に、あの子を助けないといけない。
 風が吹く。
 乾いた風が。
 三原麗奈は髪を押さえた。煙が頬を撫でたのだ。悲鳴が背中を叩くと、黒い煙が空を覆っていった。巻き上がる炎。血の臭い。大地を揺らすような轟音が火の粉を街に撒き散らしていく。
 赤いボールが転がる。狭い公園の片隅で。赤いボールが此方を見つめる。暗い公園の片隅から。
 あの人に会わないといけない。あの子を助けないといけない。
 三原麗奈は走った。だが、足が動かない。怖かったのだ。逃げ出してしまいたかったのだ。
 大炎が街を呑み込む。血飛沫が街に降り掛かる。世界が赤く染まっていく。
 赤い色は嫌いだった。刺激的な色だったから。苛烈で粗暴。その情熱が恐ろしく、そして、眩しかった。
 とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を助けに行かないと。
 三原麗奈は俯いた。薄暗い校庭の片隅で。煙に覆われた空の下で。俯いたまま動けなくなった。
 誰かの手が麗奈の肩に触れる。誰かの声が麗奈のうなじを震わせる。
 あの人だろうか。
 あの人が私を迎えに来てくれたのだろうか。
 三原麗奈は顔を上げた。そうして麗奈は目の下にクマを作った女性の優しげな笑顔を見つめる。あの人ではなかった。それはいつかの街で出会った女性だった。疲れ切った表情の彼女は、降り注ぐ火の粉から麗奈の体を守るように、その痩せ細った両腕を大きく広げて微笑んでいた。
「ねぇ、王子様──」
 赤い唇が震える。太陽よりも苛烈な色。
 麗奈は首を振った。私は王子ではないと。
 女性の微笑みは寂しげだった。いつかの街で見た諦めの微笑み。麗奈は何だか可哀想になって、痩せた女性を慰めようと立ち上がった。プロキオンの純心。麗奈の瞳の白光。
 あの人に会わないといけない。あの子を探さないといけない。
 麗奈は走り出した。そんな麗奈の背中を痩せた女性が追い掛ける。焼けた校舎。血と硝煙の臭気。黒い煙が校庭を覆う。誰かの声が耳に届くと、立ち止まった麗奈はシダレヤナギの長い枝を見上げた。舞い散る火の粉も、降り掛かる血飛沫も、その悠然たる青い葉を汚すことは出来ない。痩せた女性の腕が麗奈の背中を包み込む。轟音も熱風も、痛みも悲しみも、何ものもその温もりは汚せない。
 ふと、麗奈は誰かの声を聞いた。聞き覚えのある声だった。乾いた手が麗奈の頬を包むと、誰かの瞳が麗奈の瞳を覗き込む。鋭い視線である。鷹のような目だ。鋭い老婆の眼光。
 大地を揺らす轟音が水を叩く轟きに変わっていくと、麗奈は、とある山奥の美しい風景を思い出した。肌を刺すような山水の冷たさと共に。身を押し潰すような山水の重さと共に。
「た、た、滝じゃ……」
 麗奈は戦慄した。いつかの記憶が脳裏をフラッシュバックしたのだ。白髪の老婆の鋭い視線。透き通る山水の冷たさを思い出した麗奈の体がガタガタと震え始める。
「また浴びたいか?」
 姫宮詩乃は首を傾げた。その表情は真剣そのものである。
 ぶんぶんと首を横に振った麗奈はその鋭い視線から逃れようと大きく身を捩った。そうして麗奈は夏休みの街の喧騒に目を見開く。
「お姉ちゃん!」
 三原千夏の栗色の瞳に初夏の青空のような光が浮かび上がった。彼女の隣に立っていた背の高い老人は何やら渋い表情をしており、麗奈の瞳を覗き続ける老婆の白い髪を睨み下ろしている。
「ち、千夏ちゃん……?」
「やったー! お姉ちゃんが元に戻ったー!」
「はぇ……?」
「先生のお友達ってすごーい! 流石は先生のお友達だね!」
 千夏はそう言って大きく飛び上がると、空を掴むような仕草で胸を逸らした。大袈裟な仕草である。まるで憂いを消し去ろうとするかのような。そんな千夏の喜びの舞いに反応を示すものはおらず、意識を取り戻したばかりの麗奈はオロオロと街を見渡すばかりで、麗奈の顔を凝視する姫宮詩乃は白い眉を顰めてしまっており、そんな白髪の老婆を見下ろす戸田和夫の表情は何やら憎々しげだった。
「ね、お姉ちゃん! 先生のお友達ってすっごいよね! やっぱり先生って頼りになるよね!」
 どうやら千夏の憂いは戸田和夫と姫宮詩乃の険悪なムードにあるようだった。白髪の老婆の周りをぴょんぴょんと跳ね回ったかと思えば、背の高い老人に媚びるような視線を送り──祖父にお小遣いをねだるような──、姉である麗奈に向かって助けを求めるような声を出しながら、二人の間を行ったり来たりと忙しい。夢から目覚めたばかりの麗奈は状況が掴めず、とにかくこの恐ろしい老人たちから逃げるべきではないか、と取って付けたような苦い笑みを浮かべながら後ずさって言った。
「お主」
 姫宮詩乃の瞳が近付く。その鷹のような目に隙は見えない。だが、その表情は何やら怪訝そうで、乾いた唇を縦に開いた白髪の老婆は困惑の面持ちだった。事情はよく分からなかったが、とにかく怖かった麗奈は「あはは……」と努めて明るい笑い声を上げると、全力で逃げる準備を始めた。
「お主」
「あっ……! じゃ、じゃあ、僕はこれで……!」
 振り返ると共に地面を蹴る。そんな完璧な動作も、妹との衝突により無惨に砕け散る。ゴツンと額と額がぶつかり合うと、頭を押さえた麗奈と千夏は同時に歩道に蹲った。
「ぎゃああああ!」
「いったたっ……。ごめんね千夏ちゃん、大丈夫……?」
「なーにをやっとるんじゃ、お主らは」
 戸田和夫は呆れたようにため息をついた。その格好は以前よりもずっと小綺麗で、チェック柄の半袖シャツにパナマハットを被った彼はその高い身長と合わせて、何処かの老紳士のように見えなくもなかった。
「もう先生、酷いよ! 早く二人とも仲直りしてよ!」
 額を押さえつつ、千夏はキッーと肩を怒らせた。すると戸田和夫は不満げに鼻を鳴らす。白地に薄い紺の花があしらわれた浴衣姿の姫宮詩乃も同様で、老婆の鋭い視線はその不満げな表情と共に斜め上に向けられてしまうのだった。いったい何があったのかと、麗奈まで不安になってしまうような雰囲気である。
「どーして喧嘩してるの! 二人は友達なんでしょ!」
「ワシとこのジジイが友達じゃと?」
 白髪の老婆の視線が千夏の瞳を射抜く。だが、千夏は怒らせた肩を下ろさない。妹を守らなければと麗奈が足を震わせ始めると、戸田和夫は憎々しげな表情で帽子のフロントに手を置いた。
「サマーガールよ、もはや此奴は友達でも何でもないわ。呆れ果てて、呆れ果てて、もう何も言えん」
「元々何でもないわ!」
「何とでも言え。まさかお主がそこまで愚かじゃったとは、夢にも思わなんだ」
「何じゃと?」
「お主は愚か者じゃ。もはや取り返しもつかん」
「貴様──」
 スッと風が冷たくなる。姫宮詩乃の瞳の色が僅かに薄くなると、鬼の形相をした老婆の乾いた手が、ヌウッと背の高い老人の顔に近付いていった。「喧嘩は止めて!」と千夏の必死の声も石に吹く風のよう。何やら無性に腹が立ってきた麗奈は大きく息を吸い込んだ。
「いい加減にして下さい!」
 持ち前のよく通る声が遺憾なく発揮される。老人と老婆が動きを止めると、道路の向かいを歩いていた子供たちまで動きを止めてしまった。だが、それでも怒りが収まらなかった麗奈は地団駄を踏むと、細い指をギュッと握り締めた。
「千夏ちゃんが……! 千夏ちゃんが、喧嘩は止めてって、お願いしてるのに……! 子供の前で、二人とも恥ずかしくないんですか!」
「いや待てムーンレディよ、喧嘩とかそう言ったレベルの話では……」
「喧嘩ですよ! 喧嘩じゃないって言うんなら、お互い感情的にならずに、ちゃんと目を見て話し合ってくださいよ!」
「そうだそうだ!」
 額の痛みに涙目の千夏が元気よく加勢に入ると、帽子のつばを掴んだ戸田和夫は肩を落とした。だが、姫宮詩乃の表情は険しいままで、その鷹のような目に刻まれた苦悩の皺は安易に伸ばせそうになかった。
「その、それでいったい何があったんですか……?」
 冷静になると再び恐怖心が喉元に浮かび上がってくる。未だに視線を合わせようとしない戸田和夫と姫宮詩乃は唇を結んだままで、代わりに千夏がしどろもどろの説明を始めた。
「あのね、そのね、吉田の奴がね、お姉ちゃんに女のお化けを預けちゃったの。あ、そう言えば吉田の奴、なんか女の子になってたんだけど」
「うん……?」
「それでね、その女のお化け、お姉ちゃんのことギュッて抱き締めてたんだけど、お姉ちゃん、すっごくヤバい状態になってたの。話し掛けても返事してくれないし、食事中は喋らないし、食器も自分で片付けちゃうし、破れた服まで自分で縫っちゃうの!」
「それはヤバい状態なのか?」
 戸田和夫は思わず言葉を挟んでしまう。だが、説明に夢中になっていた千夏は気にせず瞳を煌めかせ続けた。
「これはヤバいよって……。でもでも、美波先輩も紗夜ちゃんも気付かなし、パパもママもいつも通りだって笑ってるし、吉田の奴は全く役に立たないし、だからもう先生に頼るしかなかったの!」
 状況の深刻さを全身で表そうとしているのか、千夏はクシャクシャと艶やかな長い黒髪を両手で乱した。精一杯の苦悩の表情である。だが、その話からは深刻さが伝わってこない。何事もなかったのか、と安心した麗奈はほっと胸を撫で下ろした。
「誰かに言われて来たわけではない」
 そう姫宮詩乃が息を吐き出す。千夏が次の言葉を出そうとした瞬間だった。ぱくっと吐きかけた空気を口に咥えた千夏は困惑したように戸田和夫を見上げた。
「ああ、此奴がここに来たのは偶然じゃよ。いや、必然とも言えるがの」
「孫娘が行方不明と聞いてな。それとお主の様子が気になったのだ」
 姫宮詩乃の乾いた指先が麗奈に向けられる。自分が蒔いた種だったのか、と麗奈は激しく後悔してしまい、そんな白髪の老婆の視線から逃れようとモジモジと手をこまねいていった。
「前から思っておったが、お主の瞳、何か妙じゃ」
 姫宮詩乃の鷹のような目が細められる。
 瞳を隠すように顔を伏せた麗奈は前髪を弄り始めた。自分が男だと気付かれるわけにはいかないと思ったのだ。自分が本当は吉田障子だと気付かれるわけにはいかないと。
 もしも入れ替わっている可能性が発覚されでもすれば、自分は引き篭もるか引っ越すかの二択を迫られることになるだろう。それだけは避けたかった。万が一にも吉田障子である自分が、三原麗奈の体に入って三原千夏と共にシャワーを浴びてしまったことを知られてしまえば……。故意ではなかったとはいえ、彼女の裸体を見てしまったことを彼女本人に知られてしまえば……。
「あ、あの……、僕その、カ、カラコンが……」
「そーなの! お姉ちゃんね、なんか男の子になっちゃってるんだよ!」
 真夏の太陽のような声が、ゴニョゴニョとした麗奈の吐息を吹き飛ばす。終わったと、いや、初めから気付かれていたのかと、麗奈は田舎に引っ越す覚悟を決めた。
「いいや、そこではない」
「え……?」
「肉体と魂の性別の乖離は稀に起こり得る。その症状に苦しむ者たちをワシは幾人も知っておる」
「へー」
「妙なのは女の霊の方じゃ」
「お姉ちゃんに抱き付いてる?」
「そうじゃ。あまりにも深く憑かれておる。同化しかかっておるようにも見える」
 姫宮詩乃の表情は深刻そうというよりも怪訝そうだった。千夏はポカンと目を丸めるばかりで、麗奈はといえば、話がそれたらしい事に取り敢えずほっと肩の力を抜いた。
「それはあり得んと、お主の孫娘が言っておったぞ」
 戸田和夫はそう言って腕を組んだ。憎々しげな表情だ。姫宮詩乃は彼を振り返る事なく、目付きは鋭いままに、鼻から深く息を吐いた。
「あり得んよ。じゃから妙なんじゃ。いったいこれはどういう……」
「あのね、この女のお化けってね、初めは吉田が背負ってた女のお化けだったんだよ」
 人差し指を頬に当てた千夏は斜め上を見上げた。その吉田という名詞に麗奈の心臓が跳ね上がる。
「なんじゃその吉田という奴は」
 パナマハットの鍔を掴んだ戸田和夫は手で顔を扇いだ。炎天下の街は蝉の声すらも弱々しく聞こえるほどで、街路樹の青葉も陽光を完全には防いでくれない。麗奈も何だか視界がクラクラとし始めて「水分だけは取っておけよ」という誰かの言葉を思い出した麗奈は、いつも持ち歩いている筈の水筒を探し始めた。
「クラスメイトの変な奴、あいつね、いっつもお姉ちゃんのことイヤらしい目で見てるの!」
「ふむ、初めは其奴に取り憑いておったと?」
「うん! あと変なんだけどね、吉田の奴、なんか女の子になっちゃってたの」
「なっちゃってたとはどういう意味じゃ」
「分かんない。あ、もしかしたら初めから女の子だったのかも……」
 千夏は「うーん」と腕を組んだ。水筒を忘れた事に気が付いた麗奈の意識は遠のくばかりで、やれやれとした表情の姫宮詩乃が無言で千円札を手渡すと、麗奈はフラフラと自販機を探し始めた。
「まぁええわい。用事があるでな、そろそろ我も行かねばならん。ではまた会おう、サマーガールとムーンレディよ」
 そう言った戸田和夫はジロリと姫宮詩乃の白い髪を睨み下ろすと、陽炎を踏み締めるようにして夏の街を歩き出した。


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