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第三章
シリウスの青い炎
しおりを挟む「ちょっと待ちなさいよアンタら!」
睦月花子は叫んだ。だが、夜の校舎を歩く者たちは振り返らない。
「憂炎と姫宮玲華を二人きりにするのは危険よ! 子供が出来ちゃうかもしれないわ!」
「出来るかぁ!」
田中太郎の怒鳴り声が夜の校舎を木霊する。そんな彼を横目に見つめる睦月花子の表情は疑わしげで、田中太郎の背中で知恵熱に苦しんでいた姫宮玲華は、二人の会話が五月蠅いとでも言いたげに唸り声を上げていた。
つい今しがた二年A組を抜け出した彼らが向かう先は1979年に生徒の集団失踪事件が起こったといわれる一年D組である。それほど遠い距離ではない。全力で走れば一分と掛からないだろう。だが、彼らは細心の注意を払いながら移動を続けていた。それは怪我人を引き連れているという理由もあるが、何よりこの夜の校舎では何が起こるか予想が付かなかったからだ。
先頭を進む荻野新平は黒色のリボルバーを斜め下に構えており、そのすぐ後ろでは中間ツグミが周囲を警戒している。片腕のない大野木詩織を背負った八田英一と両眼を潰された大久保莉音を背負った水口誠也が集団の中心を歩いており、彼らの前後を挟むようにして橋下里香と田川明彦が、そして集団の最後尾では姫宮玲華を背負った田中太郎と、ヤナギの霊の死体を担いだ睦月花子が会話に情熱の赤い薔薇を咲かせていた。
「アンタねぇ、どっかのモブウサギじゃないんだから、ちょっとは状況を考えなさいよ」
「だから、さっきから何を言ってんだよ!」
「アンタには吉田何某っつう大切なパートナーがいるでしょーに。たく、男同士の熱い恋模様にアホ女は必要ないっつーの。まぁ、それはそれである意味面白くあったりもするんだけれど、ほら、私って案外そういうドロドロとした展開も好みだったりするじゃない?」
「頭大丈夫か?」
「愛しのプリンスに実は子供がいましたなんて、吉田何某の奴、いったいどんな顔するのかしら。いひひ、何か気になるわね。超研部長として、久々に胸が高鳴るわ!」
花子の片手の指がゴキゴキと音を立てる。そんな花子を完全に無視した田中太郎は皆の後を追って暗い廊下を急いだ。
一年D組に辿り着くと、ほっと胸を撫で下ろした太郎は玲華の体を支えるようにして床に下ろしてやった。そのほっそりとした柔らかな肢体から白い肌が覗くと、太郎は鼓動の高鳴りが抑えられなくなってしまう。だがすぐに、ニヤニヤと頬を緩めた花子の横顔を視界に捉えた太郎は表情を固くした。
「で、どーすんのよ?」
月明かりに暗い教室を見渡した花子は首を傾げた。そこは一見すると何の変哲もない普通の教室のようで、赤い水を滴らせた体操着が壁にぶら下げてあった二年A組の方がまだ怪談的雰囲気が備わっていたと思える。荻野新平と中間ツグミは無言で教室の隅に目を光らせており、他の者たちは疲れ切ったように教室の床に腰を下ろした。
「やっぱり、まだ信じられないよ……」
一年D組に辿り着いて暫くすると──睦月花子の感覚で数分、田川明彦の感覚で数週間──田中太郎の手を借りつつ、やっと身体を起こした姫宮玲華は膝を抱え込むようにして項垂れた。中間ツグミと水口誠也はその声に気付かず、負傷者たちの看病に勤しんでいた八田英一も反応を見せない。花子と明彦、田中太郎、そして常に周囲の警戒を怠らない荻野新平の四人のみが魔女のため息に意識を傾けた。
「あたしって、ヤナギの霊じゃなかったんだ……」
「アンタまーだそんなこと考えてたの?」
花子は呆れたように肩をすくめた。左足を伸ばした玲華は右膝に額を乗せると深く息を吐き出した。
「考えるよ。だってこの姫宮玲華としてのあたしは、ある意味で、過去との繋がりが途切れた新しい存在だったんだもん。魔女としてじゃない、ヤナギの霊としてのあたしこそが、あたしのアイデンティティだったんだよ」
「はん、要はアホだったって話じゃないのよ。何も悩む必要なんてないっつの、所詮は思春期の乙女にありがちな妄想の一つよ」
「むー、あたしは老獪な魔女だもん……」
「てかさ、話はよく分かんないっすけど、姫宮さんって未だに俺の婆ちゃんが死んだって思ってるんすか?」
窓辺で膝を抱えていた田川明彦は脂の浮いた額を袖で拭った。月光が舞い散る埃を光らせる。その灯火は満月に近い。
「ううん、さっきは本当にごめんね。でも、実はまだよく分かんないの」
「いや、別にもう怒ってないけど。ただ、何で俺の婆ちゃんが死んだなんて話になったのかなって、姫宮さんって俺の婆ちゃんと何か繋がりがあったんすか?」
「実際的な繋がりは戦中にあったの。その頃のあたしは高峰茉莉という名前の占い師で、君のお婆ちゃん、つまり田村しょう子との出会いは1943年の秋の暮れ……。あの頃の私が望んでいたのは永遠の死だった……」
姫宮玲華の声色が変わっていく。月の光が彼女の漆黒の瞳に呑まれていくと、明彦は恐々と背中を丸めた。
「あの頃の日本は極度に閉鎖的で、占いなど表立って出来るような国ではなかった。だから私は身体を汚しながら生活していた。煤煙と砂埃に黒い街。駅の前には死体が転がっている。私は一人、病に冒された身体を引き摺りながら、路上で項垂れていた。そんな私の前に三人の少女が現れた。田村しょう子、山本千代子、鈴木夏子。夢見がちで底抜けに明るい少女たち。私が占い師だと知るや否や、彼女たちの瞳に眩しい程の光が宿った。あの情熱はベテルギウスの光だ。プロキオンの白光は夏子ちゃんの純心。そして千代子ちゃんはシリウスの青い炎を瞳に宿していた──」
姫宮玲華は夜空を見上げた。星々の瞬きが真円に近い月に劣らない。それはまるで舞台を見上げる瞳のような。月の光のみで夜空が彩ることはない。
「あの、それでなんで俺のばあちゃんが死んだって……?」
明彦の声が静寂を流れる。姫宮玲華は細い首を横に振った。
「勘違いだった。それは単純で、複雑で、滑稽で、哀れな、勘違いだった」
「勘違い?」
「山本千代子の勘違いを、私が勝手に背負っていた形になる。長い長い歳月の果てに、自我を失いかけ、私は自分を山本千代子の生まれ変わりだと勝手に思い込んでいた」
「いや、なんなんすか、その勘違いって?」
「山本千代子はここで死んだ。あの戦争の末期に、この学校で、空襲に焼かれて」
それは魔女の声だった。長い歳月を生きた彼女の声は淡々としていた。ゾッと田中太郎の背筋が寒くなる。
「空襲の直前まで山本千代子の側には田村しょう子がいた。死の寸前まで、千代子は、しょう子の声を聞いていた。千代子は思った。私たちは死ぬのだと。千代子は信じた。私たちは生まれ変わるのだと。必ず二人で、また一緒に……。ああ、ああ、済まない……。私は、なんという……。これは、私の過ちだ……」
姫宮玲華の呼吸が乱れる。その白い頬が赤く染まると、彼女の額に汗が光った。またトランス状態に陥りそうになったのだ。彼女のか弱い器はその強靭な魂と釣り合っていなかった。
「だーかーら、アホが深く考えるなっつの!」
ペシンと花子の指が玲華の額を弾く。頭を押さえた玲華は「ううっ」と呻き声を上げた。
「頭、痛い……」
「ドアホ」
「あのー、じゃあつまり、姫宮さんはその千代子っていう婆ちゃんの友達の生まれ変わりで、お婆ちゃんが空襲で死んじゃったって勘違いしてたってことっすか?」
「ううん……。あたしは千代子の生まれ変わりじゃないの……。ただ、勘違いしてただけで……。ああ、夏子ちゃん、何処にいるの……」
「いや、やっぱ意味分かんねー」
明彦の表情は釈然としない。玲華が膝に頭を埋めると、腕を組んだ花子はやれやれと首を横に振った。
「まぁいいじゃないのよ。このドアホ女も勘違いだったって謝ってんだし」
「アホじゃないもん……」
「つーかさ、田村しょう子って旧姓なの? なーんでアンタ、ひい婆ちゃんの旧姓なんて知ってんのよ」
「え、知ってたら変っすか?」
「変でしょ。私なんて母親の旧姓すら知らないわよ」
「いや、母親の旧姓くらいは……。まぁあれっすね、俺の婆ちゃん、語り部だったんで」
「語り部?」
「そうか、田村しょう子か」
そう呟いた荻野新平は顎髭に手を当てた。その突然の低い声に、明彦の表情が固まってしまう。
「何よ急に?」
花子の視線が新平に向けられる。何やら懐かしそうに止まった時計を見上げた新平は作業着の内ポケットにリボルバーを仕舞い込んだ。
「いや、昔を思い出してな」
「昔って、アンタまさか、田村しょう子を知ってんの?」
「ああ、語り部としてここを訪れた事がある。彼女の話はよく覚えているよ」
「へぇ」
「な、なんですって……?」
それは驚愕に打ち震えたような声だった。姫宮玲華の視線が上がると花子と新平は彼女を振り返った。
「それって本当?」
「何がだ?」
「田村しょう子がここを訪れたって話」
「ああ、本当だ。ちょうど英治の野郎が消える前日の事だからよく覚えて……」
新平は言葉を止めた。その意味に気が付いたからだ。彼の表情が徐々に強張っていくと、姫宮玲華はゴクリと唾を飲み込んだ。
「まさか、吉田真智子も一緒に……?」
「ああ」
その重々しい頷きに愕然とした姫宮玲華は目を見開いた。いったい何事かと、花子は怪訝そうに眉を顰める。
「たく、今度は何よ」
「吉田真智子は既に田村しょう子と出会っていたの」
「だから、それがいったい何だっつーのよ。吉田真智子ってアレでしょ、吉田何某の母親で、四人目のヤナギの霊だっつう。要は昔の友達とやっと再会出来たって話でしょーが」
「再会出来たのか、再会してしまったのか」
玲華の声色が再び変わっていく。
「吉田真智子は、王子が死んでいなかった事を知ってしまった」
「はん、喜ばしい事じゃない。死んだと思ってた友達が実は生きていましたなんて、私なら飛び上がって喜ぶわよ」
「いや、どうだろう。分からない。王子が生きていた事を知った彼女はいったい何を思ったのか」
口元を押さえた玲華は足元の暗闇を凝視する。その頬を玉のような汗が伝うと、玲華は喘ぐように強く息を吐き出した。
「やっぱり分からない。彼女の機微は彼女本人に聞くよりない。そうか、そうか、あのホームレスのお爺さんが言っていたのは、この事だったのか──」
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