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第三章
殺してやる
しおりを挟む倉山仁はベットから起き上がれなかった。すぐ側のカーテンに手を伸ばす事も出来ず、丸めた足を伸ばす事も出来ない。夏休みの街に繰り出す事も、受験勉強に精を出す事も出来ず、ただ彼はクーラーの効き過ぎた薄暗い部屋で、彼の人生が終わる妄想に打ち震えていた。
スマホの画面が光る。
倉山仁は吐き気を堪えた。また、探偵を名乗る怪しい男からのラインが届いたのだ。ラインには倉山仁が演劇部の更衣室で撮った盗撮画像が添えてあり、「君を助けたい」と書かれたその短い文からは悪意しか感じられなかった。いったいどうやってラインのIDを調べたのか。いや、調べたのではなく教えられたのだろう。つまりアイツは初めから地獄に落とすつもりだったのだ。利用するだけ利用しておいて、最後には屋上から突き落とすつもりだったのだ。
妄想が加速する。
既に地獄だった。地獄を彷徨っていると彼は絶望に打ち拉がれていた。
確かに盗撮をしたのは事実だ。それが犯罪であるのも確かなのだろう。だが、それで誰かに迷惑をかけたつもりはなかった。そう、つまり自分は、あの男とは違うのだ。誰にも迷惑は掛けず、誰も苦しめてはいない。あの吉田障子という名の悪魔とは違うのだ。自分は決して他人の人生を弄んだりはしない。
再びスマホの画面が光る。
倉山仁はのそりと起き上がった。抗えない命令文が、ただ一言だけ「来い」と記されてあった。あの悪魔からのラインである。苦しかった。怖かった。そして、憎かった。
教科書に乱雑な机の上。父親と共に撮った電車の写真が壁一面に並んでいる。
カメラの入った鞄を持ち上げた倉山仁は勉強机の引き出しを開いた。その中から百均の包丁を取り出した彼はそれを鞄の底に仕舞い込んだ。
「おせーよ豚。呼んだらすぐ来いや」
吉田障子はポケットに手を入れた。その平均よりも少し小柄な彼の冷たい視線に、倉山仁は心臓が潰されるような不快感を覚える。だが、逆らうことは出来ない。弱味を握られているという事実もあったが、何よりも彼が怖かったのだ。殴り殺し、蹴り殺し、刺し殺し、焼き殺す。妄想は捗った。だが、あくまでも妄想は妄想であり、実際に彼を目の前にした倉山仁は文句の一つも言えなくなってしまうのだった。鞄の中に包丁は忍ばせつつも、それを実際に手に取ることはなかった。
富士峰高校の昇降口前は夏休みにも関わらず混み合っていた。生温い風が校舎の中に吹き込むと、登校日に集まった生徒たちの影が石段を通り過ぎていく。吉田障子の前を歩かされた倉山仁はそのまま四階まで重たい体を引き摺っていった。気落ちする心は濡れた布団のように重く、運動不足に太った体はいつにも増して鉛のように重い。背後から「早く歩けや、豚野郎」と急かされるたびに、彼の心に憎しみの汚泥が溜まっていった。
「今日はこの人たちの手伝いだ」
そう言った吉田障子は途端に腰を低くすると四階の薄暗い教室に集まっていた生徒たちにヘコヘコとお辞儀を始めた。そのいやらしい上目遣いの表情がまた不快で、この男はゴミ虫以下の糞だ、と倉山仁は激しい屈辱感に全身の震えが止まらなくなった。
「あれれ、新聞部のおデブちゃんじゃん。どーしたん?」
心霊現象研究部の副部長である平野杏奈がキョトンとした表情をする。小柄な彼女は少しタレ目でアンニュイな表情をしており、その泣きぼくろが幼げな彼女に大人の色気を備えさせていた。
倉山仁は表情を固くした。異性の前ではいつもそうして思考が止まってしまうのだ。特に彼女のような華やかな女性を前にすると冷や汗が止まらなくなり、自分の体臭が気になった彼はシャワーを浴びてこなかった事を後悔した。
「あ、杏奈先輩! コイツ、俺の舎弟なんすよ!」
吉田障子の体が前に飛び出る。下心を隠す気がないのか、彼はその視線で、平野杏奈のほっそりとした太ももを舐め回していた。
「へー、そうなん。先輩をしゃてーにするって、吉田っち、わんぱくっ子やなー」
「えへへ、いやぁ俺って、先輩とか後輩とかそういうのに興味ない男なんで」
「まさか吉田っち、うちの事もひそかに舐めとるん?」
「えええ? いやいやいや、杏奈先輩は、俺の憧れっすよ!」
吉田障子の視線が平野杏奈の泣きぼくろに向けられる。ひたすらに不快だと、彼らの会話を真横で聞いていた倉山仁は鼻息を荒くした。
「えー、君ってめっちゃ憧れる人やん。うちに、亜香里っちに、それに麗奈っち、吉田っちってプレイボーイやね」
「いやあ、麗奈っちも捨て難いけど、やっぱ俺の本命は亜香里先輩かなぁ?」
「あ、こいつー! 完全にうちのこと舐めとるっしょー!」
笑い声が四階の校舎に響き渡る。ひたすらに不快だと、絶対に許さないと、倉山仁は喉で唾液を潰すような音を吐き出し始めた。ぐっ、ぐっ、と倉山仁の口から音が漏れる。露骨に眉を顰めた吉田障子は指で鼻を押さえた。
「マジでくせぇーって、死ねよ豚野郎」
その言葉に倉山仁の目の色が変わる。殺してやると。激しい殺意に視界が暗転した彼は無意識に鞄の奥に手を突っ込んだ。だが、あまりにも強烈な感情の昂りに身体の制御がままならず、鞄からノートを落としたかと思えば、カメラを取り出しては慌てて仕舞い、間違えてチャックを閉めては雄叫びを上げるなど、なかなか目的の包丁には指が届かない。不可解な彼の行動に恐怖心を抱いた平野杏奈がオロオロと後ろに下がり始めると、騒ぎを聞き付けた生徒たちが廊下に集まってきた。
「何を騒いでいる!」
平野杏奈と同じ副部長の亀田正人が怒鳴り声を上げた。リノリウムの廊下を震わせるような低い声だ。集まった生徒たちは慌てて退散を始める。鞄に手を突っ込んだまま倉山仁が動きを止めると、まだ鼻息の荒い彼に向かって吉田障子は努めて事務的な声を掛けた。
「じゃ、じゃあ、オカ研の手伝いは任せたぜ。俺は今から用事があるからよ」
そう言って片手を上げた吉田障子はそそくさと逃げるようにしてその場を後にした。
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