王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

叶わぬ願い

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「何を馬鹿な」
 そう言った荻野新平は重心を後ろに下げた。
 暗い教室で膝を抱えた姫宮玲華は酷く疲れ切った表情をしており、その長い黒髪は月の仄明かりに薄ぼんやりとした光を帯びている。
 黒色のリボルバーを斜め下に構えたまま、新平は月の光芒に照らされた教室をサッと見渡した。机は全て廊下側の壁に避けられており、姫宮玲華の横に立っている背の高い少年の瞳には怯えが見える。同様に、窓辺にいた額の広い少年も新平のリボルバーに警戒心を抱いているようで、教室中央に座っていた姫宮玲華のみが気怠げな表情をしていた。それはまるで死の恐怖が抜け落ちているかのような。この世を知らぬ赤子のものとも、この世を悟った老婆のものとも違う、生物としての本能を忘れてしまった人外の表情。
 そんな彼女の姿をかつての女生徒と重ね合わせた荻野新平はゴクリと唾を飲み込んだ。だが、それは絶対にあり得ない、と新平は腰のナイフに手を伸ばした。
「お前は誰なんだ」
「だからヤナギの霊だってば」
「それはあり得ん」
「どうして?」
「友人が生きていたからだ」
「へー、それでどうしてあたしがヤナギの霊じゃないって言い切れるの?」
「その友人がヤナギの霊だからだ」
 姫宮玲華は言葉を止めた。そうしてジッと新平の顔に目を細めていた玲華は赤い唇を舌で濡らした。
「それって、まさか吉田真智子の事?」
「吉田……?」
 新平は怪訝そうに眉を顰めた。その苗字に睦月花子も訝しげな表情をする。
「王子のお母さんだよ。吉田真智子が四人目のヤナギの霊じゃないかって、ちょうど疑ってた所なんだ」
「お母さん……? 吉田真智子だって……? いやちょっと待て……。そうか、そうか、大宮さんはもう結婚を……」
 無意識にリボルバーを作業着の内に仕舞った新平は手で口を覆い隠した。その瞳には制御し切れない感情が溢れており、隙だらけになった彼の背中に花子は蹴りを入れたくなった。
「ちょっと待ちなさいよ、いったいどういう事なの? 四人目のヤナギの霊が吉田何某のお母さんですって? いやいやいや、つーか四人目が生きてるってんなら、アンタがヤナギの霊ってのは絶対にあり得ないじゃないのよ」
「あり得なくないもん。だって、あたしは千代子の生まれ変わりだから」
 そう呟いた玲華は俯いてしまう。花子はイライラと頭を掻いた。
「アンタってマジで精神異常者なんじゃないの?」
「違う!」
「違わないっつの。たく、四人目が生きてるってのに五人目の生まれ変わりが存在するわけないじゃない」
「ここに存在してるもん! だってだって、あたしは魔女だから。誰よりも魂の転生については詳しいんだからね!」
 そう叫んだ玲華がわっと泣き始めると、田中太郎はオロオロとハンカチを取り出した。また制服で鼻水を拭かれてはたまらないと思ったのだ。そんな情緒不安定な玲華に対して田川明彦は嫌悪感を隠そうとせず、床に敷かれた体操服の上で苦しげな呼吸を繰り返していた大野木詩織は、そのヒステリックな叫び声に眉を顰めた。
 八田英一はやれやれと額の汗を拭った。こんな悲惨な状況に置いても普段と何ら変わらない生徒たちの様子に安心してしまったのだ。苛立だしげに腕を組んだ花子も体の力は抜いてしまっており、ほんの僅かな時間ながらも、夜の校舎に安穏とした空気が漂い始めた。
 ただ、それはほんの一瞬の事である。玲華の言葉に暫し動きを止めていた荻野新平はスッと重心を落とすと、作業着の内に手を差し込んだ。
「魔女だと」
 低い声だった。夜行性の獣が唸るような。その新平の声は獰猛さに溢れていた。花子はすぐに臨戦体制に入る。
「お前は魔女なのか」
 黒色のリボルバーが闇夜に煌めく。スミス&ウェッソンM29の銃口が斜め下に向けられる。田中太郎から受け取ったハンカチで鼻をかんだ玲華はキッと目を細めると、新平の顔を睨み上げた。
「そうだけど、それがどうしたのかな?」
「高峰茉莉という名に覚えはないか」
「たかみねまり……?」
 玲華は目を細めた。不審そうに。警戒するように。何やら聞き覚えのある名前だったのだ。
「たかみねまり……。たかみね……。高峰……」
 玲華の目が徐々に見開かれていく。漆黒の瞳に奇妙な光が宿っていく。
 それは驚愕の表情だった。愕然と目を見開いた玲華は赤い唇を震わせ始めた。
「高峰茉莉……。ああ、高峰茉莉……。なぜ君がその名を知っている……?」
「お前が元凶か!」
 野獣の咆哮が夜の校舎に轟く。黒色のリボルバーが闇を切り裂く。同時に花子の全身の筋肉が伸縮した。
 新平の腰に花子が突進すると、意外にも新平は何の抵抗もなく床に倒れ込んだ。それ程までに冷静さを失っていたのだ。取り敢えず新平を羽交締めにした花子は、事の成り行きを見守ることにした。
「高峰茉莉……。ああ、そうだ、高峰茉莉だ……。高峰茉莉だったのだ……。ああ、ああ、そうだった……」
 ふわりとハンカチが床に舞い落ちる。玲華はゆっくりと月を見上げた。だが、その瞳は焦点が合っておらず、驚愕に呼吸を乱した彼女は混乱しているようだった。
「ああ、そうだった、そうだった……。でもなぜ……。いったい何が……。あっ……。あっ、あっ、あっ……」
「玲華さん?」
「あっ、ああっ……。あっ……。な、夏子ちゃん……!」
「おい玲華さん、大丈夫か?」
 フラフラと視点の定まらない玲華が立ち上がろうとすると、その様子が心配になった田中太郎は慌てて彼女の身体を支えた。
「ああ、そうだった……。しょう子ちゃん、千代子ちゃん、夏子ちゃん。あ、あの子たちはそんな名前だった……」
「テメェ!」
 新平がまた銃口を玲華に向けようとする。だが、単純な腕力では花子に敵わない。冷静さを失った彼は床の上で怒鳴り声を上げることしか出来なかった。
「い、いったい何がどうしたというんだ?」
 八田英一はオロオロと暗い教室を見渡した。玲華と新平を除いて、教室に集まった者たちは困惑に眉を顰めるばかりである。赤い唇を震わせ続ける玲華の様子は尋常ではなく、先ずは新平の話しを聞こうと思った英一は床に視線を移した。だが、その新平の憤怒の形相も尋常ではない。とてもじゃないが話を聞ける状態ではなかった。
「ああ、夏子ちゃん……。いったいなぜ……。ああ、ああ、なぜこんな事に……」
 玲華の呻き声ばかりが夜空に流れていく。次第に落ち着きを取り戻した新平は深く息を吐き出すと、背中にしがみ付いた鬼に向かって低い声を出した。
「おい、胸が当たってるぞ」
「はあん? それがどうしたっつーのよ!」
「離せ。取り乱して悪かった」
「とか言って、離した瞬間ぶっ放すつもりじゃないでしょうね?」
 花子の腕に力が篭もる。肩の力を抜いた新平は手首を振ると、黒色のリボルバーを英一の足元に滑らせた。
「あの魔女を撃つ意味はない」
「たく、たりまえだっつーの」
 花子の口元に笑みが浮かび上がる。ゆっくりと立ち上がった新平は、花子の腕力により外れてしまった肩の骨を戻すと、トランス状態の姫宮玲華に向かって目を細めた。
「おい」
 玲華は振り返らない。返事が出来る状態ではなかったのだ。喘ぐように声を詰まらせ続ける彼女の視点は一向に定まらなかった。
「あっ、あっ……。そうだ、そうだった、あの時、焼かれて……。二人で、一緒に……。焼かれたのは、二回目で……。あっ、焼かれて、諦めて……。でも、でも、あっ、見捨てる事は、出来なかった……」
「ちょっとアンタ、大丈夫なの?」
「おーい」と玲華の顔の前で手を振った花子は、その額に軽くデコピンを食らわせた。すると、やっと視点が定まった玲華の瞳と花子の瞳が暗い教室で重なり合う。
「たく、どうしちゃったってのよ?」
「あっ、あっ……。私は、王子を探していた……」
「へぇ、そう」
「ゆ、夢を見ていた……。ゆ、ゆ、夢を追いかけて、やっと、やっと極東にまで、辿り着けた……」
「極東?」
「そして、悟った……。いや、あっ、諦めた……。あっ、諦めて、項垂れていた所に……。あっ、あっ……。さ、三人の少女が現れた……」
「まさか、まーたお得意の妄想じゃないでしょうね?」
「妄想では、ない……」
「じゃあ嘘かしら?」
「う、嘘でもない……」
「はーん? 嘘でも妄想でもないってんなら、いったい何だっつーのよ!」
 花子の額に血管が浮かび上がる。一瞬、窓の外を見上げた玲華の瞳に涙が浮かび上がった。
「願い」
 そう呟いた玲華の頬を涙が伝う。動かない星空。絶え間ない月の仄明かりのみが瞳を癒してくれる。
「願い?」
「そう、私は願っていた」
「何をよ?」
「だが、願いは叶わない。分かっていた。分かってはいたのだ。でも、悲しかった」
「だーかーら、何を願ってたのよ!」
「王子と再び会えることを」
 そう呟いた玲華はフラフラと歩き始めた。田中太郎が名前を呼ぶも、玲華は振り返らない。
「ああ、夏子ちゃん……。夏子ちゃんを探さないと……。ああ、ああ、私はまた願っている……」
 定まらない視点。止まらない呻き。魔女の影が夜の教室に揺れ動く。魔女の嘆きが静かな校舎を流れていく。
「彷徨い続けていた……。泳ぎ続けていた……。あっ、あっ……。な、長過ぎたのだ……。私は、長い時の流れに、頭がおかしくなっていた……」
「あっ!」
 それは田川明彦の声だった。英一が駆け出すと、田中太郎は慌てたように腕を伸ばす。
 ゴンッ、という鈍い音が教室の壁を震わせた。玲華の身体が床に倒れると、花子は呆れたように額に手を当てる。
「たく、なーにをやって……」
「玲華さんっ!」
 田中太郎の声が花子の声を掻き消す。悲痛な叫びである。夜の教室に緊張が走った。
 頭をぶつけて床に倒れた姫宮玲華は浅い呼吸を繰り返していた。その額には大量の汗が溢れており、頬を真っ赤に染めた彼女は苦痛に唇を歪めていた。
「おい、大丈夫か!」
「姫宮玲華!」
「退きたまえ!」
 八田英一が玲華の側に駆け寄る。その熱の籠った細い身体を抱き上げた英一は、彼女の脈を測ると共に、その額に手を当てた。そして目を見開く。
「こ、これは……」
「なによ? なんかヤバい病気なの?」
「これは……」
「まさか末期癌?」
「いや、知恵熱だ」
 そう言った英一はほっと息を吐き出した。思わず新平と目を見合わせた花子は肩を落としてしまう。
「知恵熱って、アンタそれ、アホがよく罹るっていうアレじゃないのよ」
「アホじゃないもん……」
 そう呟いた玲華は、最後の力を絞り出して中指を立てると、ガクリと意識を失った。


 
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