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第三章
焦り
しおりを挟む吉田障子は上目遣いに笑顔を作った。その媚びるような笑みに、心霊現象研究部副部長の亀田正人は嫌悪の表情をみせる。
「ここを掃除しろ」
そう言った亀田正人の影が夏休みの校舎に消えると、吉田障子は四階の一室を見渡した。
心霊現象研究部の部室だというそこはカーテンが閉じられており、微かなカビの臭いが鼻についた。小まめに掃除はされているようだったが、部室に置いてある備品はどれも古いものばかりで、経年劣化による汚れが目立っている。教室の隅の天体望遠鏡。埃がこびり付いたランタン。ひび割れたコンパスが茶色くひしゃげた星座早見盤の上に転がっている。
吉田障子はため息をついた。こんな無駄な作業をしている暇はないと思いつつも、汚れが気になった彼はついつい掃除を始めてしまう。
舞台の動きは順調だった。
昼の街では新チーム“苦獰天”がバイクを走らせており、心霊現象研究部および法華経に関係する生徒たちの足元には火がつき始めている。
夏休みに入る前の一週間、吉田障子は最重要人物の一人である藤田優斗への工作に勤しんでいた。藤田優斗の純粋な心をへし折るべく、心霊現象研究部による陰湿なイジメを再現すべく、吉田障子は校舎を這いずり回った。あの時邪魔さえ入らなければ、夏休み前の藤田優斗の心に深い傷が残せたのに、と放課後の一年B組に現れた荻野新平の野獣のような瞳を思い出した吉田障子は歯軋りをしてしまう。結局、藤田優斗の机に仕込めたのはネズミの死骸のみで、顔面を殴られた上にナイフまで奪われた吉田障子の心に深い傷が残るという散々な結果だった。
だが、まぁ結果オーライさ、とランタンの埃を拭き取った吉田障子はほくそ笑んだ。あの現場が多数の生徒と教師の目についたおかげで、ストーリーがよりいっそう前に進んでくれたのだ。あとはゆっくりと工作を進めつつ、ある程度まで藤田優斗を追い詰めたところで、彼の祖父を動かせばいい。そうすれば学会の足元まで火の手が伸びる。既に薪は焚べてあるのだ。焦らずじっくりと進めていけばいい。そう笑った吉田障子は雑巾をバケツの水に浸した。
ふと、頭の片隅に足田太志の顔が思い浮かぶ。生徒会長である彼は演劇部の夏の大会を楽しみにしていると言っていた。その澄み切った青空のような笑顔を思い出した吉田障子はほんのりと頬を赤くした。
何を馬鹿な、と吉田障子は頭を振った。あんな奴の事なんて気にする必要はないのだと。
わざとらしく欠伸をしてみせた吉田障子は雑巾で棚の上を拭き始めた。埃が溜まった棚の上は細かな備品に乱雑だ。イライラと備品を端に避けていった吉田障子は赤茶けたノートの前でピタリと動きを止めた。
「これは……」
開かれたページの中央に一枚の写真が貼られていたのだ。それは黒板を背景にした白黒の写真だった。色褪せた写真には五人の生徒が映されており、黒板にはでかでかと「天文部」という文字が書かれてある。
吉田障子は写真を凝視した。
黒板の前で三人の男子生徒が背筋を伸ばしている。その前で二人の女生徒が腰を曲げていた。左端の男子生徒は他の者たちと比べて頭ひとつぶん背が高く、その堀の深い顔をジッと眺めていた吉田障子の表情が曇った。あの忌まわしき老人の学生時代の姿だと気付いたからだ。だが、そんな事よりも彼は前方の女生徒の表情が気になった。
右側で屈託ない笑みを浮かべる女生徒に対して、左側の女生徒の表情は冷たい。ショートヘアの彼女は顔立ちが整っており、そしてその表情には何処か見覚えがあった。
ノートを閉じた吉田障子は表紙に書かれた文字を見下ろした。「天文部」という消えかかた文字の下には五人の部員たちの名前が書かれてあり、その一番下の名前を見た吉田障子は目を見開いた。
八田弘。
鈴木英子。
松本一郎。
戸田和夫。
姫宮詩乃。
吉田障子は口元に手を当てた。調べるべきか、否か、悩んだのだ。
写真の中の女生徒が姫宮玲華の祖母であることは予想できた。あの最も不可解な存在である姫宮玲華の身内が、あの忌まわしき老人と繋がっていたのだ。やはり調べておくべきか。いや、果たしてそこに時間を掛ける必要があるのか。ノートを開いた吉田障子は再び写真を凝視した。
足音が部室に近付いてくる。はっと後ろを振り返った吉田障子は、扉の前に立っていた女生徒の長い黒髪に肩を落とした。
「なんだ、千夏ちゃんか」
「吉田!」
三原千夏は怒鳴った。その幼げな顔に浮かんだ怒りの表情に吉田障子はため息を付いた。
「んだよ、今度は何に怒ってんのー?」
「どうしてお姉ちゃんに背負わせたの!」
そう叫んだ千夏はわっと涙を流し始めた。
「背負わせた?」
吉田障子は表情を固めた。言葉の意味は分からない。だが、千夏の様子が心配だった。吉田障子が望むものは千夏の平穏だったのだ。
「吉田が背負わせたんでしょ! お姉ちゃん、ずっとずっと苦しんでるんだよ!」
「麗奈ちゃんに何かあったのか?」
「抱き締められてるの! 女に!」
吉田障子は困惑してしまった。怒れる千夏が部室に足を踏み入れると、雑巾をバケツに放り投げた吉田障子は慌てたように制服で手を拭った。
「おい待てって、手汚れてるからさ」
「なんでお姉ちゃんなの! あの女って、吉田が背負ってた霊でしょ!」
千夏の栗色の瞳が涙に煌めく。いったい何の話をしているのか。吉田障子は困惑の表情のままに後ろに下がっていった。そうして壁際に追い詰められた吉田障子は息を呑んだ。眼前に迫る栗色の瞳。千夏の嗚咽が薄暗い部室を流れていく。
しばらく吉田障子の瞳を睨み上げていた千夏は徐々に目を丸くしていった。そうして怒りの涙を止めた千夏は何やら不審そうに眉を顰めた。
「女の子?」
千夏の呟きに、吉田障子はギョッと肩を跳ね上がらせた。千夏が更に顔を近付けると、その栗色の瞳から逃げるように吉田障子は体を捻る。
「な、何を言って……」
「あれ、吉田って女の子だったっけ?」
「はあ……?」
「そういえばお姉ちゃん、何で男の子になってたんだろう」
千夏は「うーん」と顎に手を当てた。暫し呆然としていた吉田障子はサッと頬を青ざめさせると、千夏のほっそりとした肩に手を伸ばした。
「千夏!」
「わあっ」
「見ちゃ駄目でしょ! それを見るのはもう止めなさい!」
「な、なに……?」
「それは見ちゃいけないものなの! もう絶対に見ないと、今ここで約束しなさい!」
「ど、どうしたの……?」
千夏の顔に恐怖の影が浮かび上がる。だが、吉田障子は手を離さなかった。冷静さを失っていたのだ。ただただ千夏を想うばかりに、吉田障子はそのほっそりとした肩を揺すり続けた。
「見ちゃ駄目だからね! 絶対にもう見ちゃ駄目だからね!」
「痛いよ! 離して!」
パシン、と鋭い音が暗がりを走る。吉田障子が頬を押さえると、千夏はハァハァと荒い呼吸を繰り返しながら後ろに下がっていった。
「ご、ごめん……」
冷静さを取り戻した吉田障子は俯いた。ほっと胸を撫で下ろした千夏は「もうっ」と腰に手を当てた。
「そんな乱暴者じゃ、女の子にモテないんだからね!」
「うん」
「吉田くん、あたしは怒ってるんだよ!」
「うん」
「お姉ちゃ……」
「千夏ちゃん」
吉田障子は顔を上げた。言葉を止めた千夏は首を傾げる。
「なに?」
「麗奈ちゃん、いや、君のお姉ちゃんは大丈夫だから。もうすぐ元に戻るから、だから安心して待ってて」
そう言った吉田障子は薄暗い部室を飛び出した。千夏の声が背後から聞こえてくる。だが、吉田障子は止まらなかった。早く終わらさなければと思ったのだ。早くストーリーを進めなければと、吉田障子は焦った。
「集まったみてぇだな」
鴨川新九郎は暗い照明に彩られた地下のバーを見渡した。稀にコンサート会場として使われるそのバーは広く、元“火龍炎”のメンバーたちが集まってもなお閑散として見えるくらいだった。
「なんか少ないべ」
パープルピンクの髪を孔雀のように尖らせた大野蓮也が首を傾げる。「殺」のマスクをした山中愛人が同意するように頷くと、ベースの長谷部幸平は「しょうがないよ」と首を横に振った。
「急な招集だったからね。もう“火龍炎”は解散してるんだし、これだけの人数が集まっただけでも感謝しなくちゃ」
「狂介はどうなんだ?」
「一応連絡はしておいたけど、ほら、狂介にはもう自分のチームがあるから」
かつてのメンバーの一人が新九郎に向かって手を上げる。彼の元に新九郎が歩み寄ると、長谷部幸平はスマホを開いた。山のように送られてくるラインのメッセージ。その中からドラムの古城静雄の名前をタップした幸平はゆっくりとバーを見渡した。およそ十五人ほどのメンバーが集まっている。だが、“苦獰天”という名の連合チームを相手にするには数が足りない。
「静ちゃんはバイトだってさ」
その言葉に大野蓮也は吹き出してしまった。
「おお、そうだった。あんの野郎、あんなゴツいなりでファミレスの店員やってんだべ。マジ笑えるって」
「カッケェじゃん。まぁ、金あんのにバイトする意味は分かんねーけどよ」
山中愛人がマスクの奥からくぐもった声を出した。リーゼント頭の二人組が愛人に向かって空のペットボトル投げると、それを投げ返した愛人は「この野郎!」と笑いながら二人の方へと走っていった。
「てかよ、噂ってマジだったんだな」
大野蓮也は天井を見上げた。青いライトが星のように煌めいている。頷いた長谷部幸平はスマホをポケットに仕舞い込んだ。
「俺もまだ半信半疑だよ。でも、どうやらマジらしい。あの新チーム、毎日のように街でバイクを走らせてるんだってさ」
「調子こいてるべ」
「ああ、懲らしめてやらないとね」
二人は拳を合わせた。「はっ」と大野蓮也が笑うと、長谷部幸平もつられて笑い始める。
「いや、でもやっぱり信じられないな。まさかこんなに早く、この街で連合チームが出来上がるなんてさ」
「あの野洲孝之助がリーダーなんだぜ。あり得るべ」
「まぁそうなんだけど、それにしても早過ぎるよ。やっぱり後ろで手引きしてる奴がいるのかもしれない」
「キザキか?」
「うーん、どうだろう」
長谷部幸平は握り拳に顎を乗せた。大野蓮也も考え込むように腕を組む。
「つーか、そもそもキザキって何だべ?」
腕を外した蓮也は背中を掻いた。地下のバーは冷房が効いていたが、それでもまだ暑いのか、ピンクのシャツを脱いだ蓮也は手で顔を扇ぎ始める。
「俺もよく知らないけど、キザキは情報屋だって噂だよ」
「情報屋?」
「うん、影のように神出鬼没で、何でも調べられるんだってさ」
「んだそりゃ、何で情報屋ふぜいが都市伝説になんだべ」
大野蓮也は眉を顰めた。情報屋を名乗る者たちの存在は多く知っており、その殆どが喧嘩のけの字も知らないヘタレだと、彼はよく鼻で笑っていたのだ。
「つーかキザキって何歳よ。俺の兄貴の先輩たちもよくキザキの話をしてたらしーぜ」
「かなり歳はいってるんじゃないかな。若い頃は暴走族だったっていう叔父さんが、キザキの噂を知ってたから」
「嘘だろ。そんなおっさんがなんで子供の相手してんだよ。まさかキザキの野郎、ロリコンか?」
そう言った大野蓮也は思わず自分の言葉に吹き出してしまう。長谷部幸平も笑ったが、すぐに表情を引き締めた彼は声を低くした。
「これは恐らくなんだけどね」
「んだ?」
「身元が割れないように子供を利用してるんじゃないかなって思うんだ」
「身元? キザキのか?」
「うん。ほら、仲介に子供を使えばさ、表の大人も裏の大人も、キザキには辿り着き難くなるだろ」
「なんでだべ?」
「普通の子供だからだよ。別に薬を売ってるわけじゃなく、体を売ってるわけでもない普通の子供を相手に警察は動けない。ヤクザだって一般人の、それも子供に手を出そうなんて馬鹿な真似は絶対にしない筈だ」
「ヤクザだって?」
「叔父さんが言ってたんだよ、キザキは元ヤクザだって。大人から命を狙われてるから、子供を使って商売してるんだってさ」
バーの奥から笑い声が響いてくる。鴨川新九郎が引き締まった身体を披露すると、それを取り囲んだ男たちが口笛を鳴らした。
「キザキが元ヤクザねぇ。でもそれ、酔っ払った叔父さんの戯言だろ。たぶんキザキって情報屋はよ、噂だけが勝手に独り歩きしちまっただけの、ただのおっさんだべさ」
「別に酔っ払ってはなかったけど」
「はは。じゃあ“苦獰天”潰すついでに、キザキの都市伝説も調べちまうか」
「いや、出来れば関わりたくないかな」
そう言った長谷部幸平は肩を落とした。それを鼻で笑った大野蓮也は足元の缶コーラに手を伸ばすと、溢れ出る炭酸で喉を潤した。
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