王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

ごめんね

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「なっちゃん」
 もんぺ服の老女は干物のように乾いた唇を横に広げた。白く濁った瞳には温かな光が浮かんでおり、腰の丸くなった老女の笑顔は何処までも優しかった。
「お迎えに来たんかぇ?」
 そう言った老女は微かに首を傾げた。生きてきた歳月を思わせるようなしわがれた声だ。だが、それは何ら憂いのない清々しい声だった。
 三原麗奈は返事が出来なかった。混乱していたのだ。老女に見覚えはなかった。だが、何故だかとても懐かしい心地がして、溢れ出る涙が止まらなかった。やっと見つけたと思ったのだ。これでやっと会いに行けると、麗奈は、夏の午後の日差しに永遠の時を感じていた。
「あ……」
「なっちゃん、ごめんねぇ。こんな長く待たせちゃって、ごめんねぇ」
「あぅ……」
「ごめんねぇ、あたしだけこんなに長く生きちゃって、あたし、なっちゃんと千代ちゃんと、もっとずっと一緒にいたかったよぉ」
「うぅ……」
 微かな車の排気音が背後から響いてくる。街外れの静寂に足音が混じる。
 麗奈は後ろを振り返らなかった。老女の瞳から目が離せなかったのだ。麗奈はこの夏のひと時が永遠に続くことを求めて止まなかった。
「しょう……」
「あれれ、もしかして明彦のお友達かな?」
 優しげな女性の声が聞こえてくる。ポリ袋の軋む音。視界の端に背の低い女性の笑顔が映ると、麗奈は慌てて目元に浮かんだ涙を拭った。
「あ、あの……」
「あらあら、どうしちゃったのよ。しょう子お婆ちゃん、この子と何かありましたか?」
「あ、あの、すいません……!」
 そう勢いよく頭を下げた麗奈はそのまま女性の横を走り抜けた。困惑したような女性の声が麗奈の背中を追いかける。だが、麗奈は振り返ることなく、バス停までの道のりを駆け抜けた。


「一週間くらいは経ってるよ。僕たちがここを彷徨い始めてからね……」
「いや、一年っすよ。俺だけ保健室に置いてかれて、マジ寂しかったんすからね……」
「何言ってんだお前ら。まだ半日も経ってねーっつの……」
「もう二百年以上経ってるよ。ああ王子、何処に行っちゃったの……」
「なんでそんな時間感覚バラッバラなのよ、アンタら!」
 睦月花子の怒鳴り声が夜の校舎に響き渡る。それでも、教室の床で膝を丸めた彼らは顔を上げなかった。
 二年A組の教室には暗い影が差していた。睦月花子を除いた七人の表情に光は見えない。姫宮玲華と田中太郎は肩を合わせるようにして膝を抱えており、先ほど花子と共にこの教室を訪れた田川明彦は白いチョークで床に誰かの似顔絵を描いている。苦悶の表情をした八田英一の側では、右腕を失った大野木詩織と両目を失った大久保莉音が虫の息で横たわっており、膝に顔を埋めた橋下里香が小さな嗚咽を上げていた。
 姫宮玲華いわく、三階の階段前に位置するこの教室には結界が施されているらしい。扉の前には赤い水で満たされたバケツが置いてあり、廊下側の壁には、その赤い水に浸された制服、体操着、タオルがぶら下げられている。赤色は絵の具によるものだとか。カラス避けのカカシにも劣る粗末さだ、と花子はバケツを蹴り飛ばしたくなる衝動を堪えていた。
「アンタら、いつまでウジウジと下向いてるつもりよ! とっとと出口探すわよ!」
 そう叫んだ花子は姫宮玲華の胸ぐらを掴み上げた。だが、玲華はといえば、されるがままに花子の腕にもたれ掛かるばかりで、剥き出しになった腹部を隠そうともしない。チッと舌打ちした花子は死にかけの芋虫よりも動きのない玲華の体を床に落とすと、すぐ隣で俯く田中太郎の腕を捻じ上げた。
「いだだだだっ!」
「ほーら憂炎、とっとと立ちなさい。八田英一、アンタもよ。早く外に出ないとそこの二人、死んじゃうわよ?」
 花子は、片手で太郎の体を持ち上げると、英一を振り返った。大久保莉音の手を握り締めながら大野木詩織の額の汗を拭っていた英一は、花子を振り返ることなく声を絞り出す。
「出口がないんだ」
「はあん?」
「外に出る方法が分からないんだよ」
 大野木詩織が呻き声を上げる。何処で拾ったのか、誰かの名前が書かれた水筒の蓋を外した英一は、苦痛に顔を歪める詩織の口に水を運んだ。
「あのヤナギの霊の襲撃の後、僕たちはすぐに出口を探し始めたんだ。だけど、何処からも出られなかった。窓は破れないし、扉には触れられない。渡り廊下も同じで、外は見えるのに近づけなかった」
「見えるのに近づけないってどういう事よ?」
「説明が難しいけど、何だか空を見上げているような感じだった。まるで重力が渡り廊下の中心に向かって働いているかのような、手を伸ばしても外には届かなかったんだ」
「ふーん、空ねぇ。で、全ての教室の窓と壁と扉と天井を叩いてみたってわけ?」
「いいや、全てを試したわけではないよ。ヤナギの霊に対して僕らは無力だからね、遭遇しないよう慎重に慎重に行動していたんだ」
「ならまだ分かんないじゃないのよ。ヤナギの霊なら私が張り倒してやるから、とっとと出口を探しに行くわよ!」
「無理だよ」
 芋虫のように床に寝転がっていた姫宮玲華が気怠げな声を上げる。「あん?」と花子の額に血管が浮かび上がった。
「だって王子がいないんだもん。たとえ出口を見つけられたとしても、外には出られないよ。あたしたちはもうここで死ぬしかないの」
 気怠げである。床に寝転がったまま長い足を組んだ玲華は、のそりと上半身だけを起き上がらせた。制服は乱れたままであり、月の仄明かりに照らされた彼女のアンニュイな色気に、田中太郎は息を呑んでしまう。
「そういやモブ女もとい吉田何某は何処に行んのよ?」
「知らないよ。気付いたら居なくなってたんだもん」
「居なくなってたってんなら、どーして探しに行かないのよ?」
「居ないんだもん。もし居たら分かるもん。だって見えてるから。ほらあたし、すぐに部長さんの事を見つけられたでしょ」
 あの後、保健室で田川明彦と顔を合わせた花子はすぐに、姫宮玲華らと連絡を取ることが出来たのだった。心霊学会幹部候補生の水口誠也が保健室を訪れたのだ。その為、花子と明彦はこの──姫宮玲華いわく強力な結界が施されているという──二年A組に顔を出せたのである。
「いや、ちょっと姫宮さん、それってどういうこと?」
 チョークを片手に床と向き合っていた田川明彦が顔を上げた。
「まさか姫宮さん、俺が保健室にいることずっと知ってたっての?」
「うん」
「はああ? じゃあ何で助けに来てくれなかったんすか!」
「だってめんどくさかったし、出口見つけてからでいいかなって」
「ふざけんなよ! この薄情者!」
「一応結界は張っておいたよ」
 そう呟いて欠伸をした玲華は上履きに向かって細い指の先を伸ばした。月明かりに白い太ももが露わになると、何か悪いことをしているような気になった明彦は思わず目を逸らしてしまう。その濡れたような赤い唇を見下ろしていた花子は、ふとした疑問に首を傾げた。
「ねぇ姫宮玲華、アンタさ、王子と一緒じゃなきゃ外に出られないとか何とか喚いてるけど、それなら前のアレって結構アウトじゃなかったかしら?」
「あれって?」
「前にここを出た時よ。アンタら、私たちよりも先に学校の外に出ちゃってたじゃないのよ」
 その言葉に玲華の黒い瞳が細くなる。夜闇に煌めく気怠げな赤い唇。暫く何か考え事をするかのように、ジッと虚空に目を細めていた玲華の赤い唇が開く。だが、ほんの微かな吐息が漏れ出したのみで、すぐにまた口を閉じた玲華の視線は暗闇の向こうに泳いでいった。
「おいコラ、ちょっとアンタ、何を黙りこくってんのよ。前回のアレがどーいう事だったのかって聞いてんだけど?」
「知らない」
 そうプイッと首を振った玲華はまた床の上にだらりと寝転がった。赤い唇にかかる黒髪。花子の腕に青黒い血管が浮かび上がると、田中太郎は慌てて二人の間に体を挟んだ。
「まぁ部長、ちょっと落ち着けって」
「退きなさい憂炎、いっぺんそのペテンサイコレズ女はボコボコにしばき上げなきゃいけないわ」
「ペテンってどういう意味?」
 玲華の視線が上がる。依然、寝転がったままではあるが、その端正な顔には憤りが溢れていた。
「嘘つきって意味に決まってんでしょ、このドアホペテンサイコレズ女が」
「な、なんですってー!」
 くわっと身体を持ち上げた玲華は拳を振り上げた。だが、その動きは猛った酔っ払いようで、ふらふらと足取りの覚束ない玲華はすぐにバランスを崩すと、田中太郎の腕に倒れ込んだ。
「おい玲華さん、大丈夫か?」
「あたしは嘘つきじゃないもん……。村娘なんかじゃないもん……。ヤナギの霊だもん……」
「なーにをブツブツほざいてんのよ」
「あたしは千代子の生まれ変わりなの! 王子が一緒じゃなきゃここを出れないの!」
 そう叫んだ玲華はわあっと泣き始めた。太郎の下半身に玲華がしがみ付くと、その甘ったるい匂いに動揺した太郎はあせあせと窓の外に視線を移した。
「あたしはヤナギの霊だもん……。千代子だもん……。ああ王子、何処にいっちゃったの……」
「どうせ一人で外に出ちゃったとかそんなとこでしょ」
「それはあり得ないもん。部長さんのばーか」
「ああん?」
「だって王子が外に出たら、夢が崩壊しちゃうから。ここは王子の夢の中だもん。王子は絶対に何処かにいるもん……」
 めそめそと玲華の嗚咽が夜の校舎を流れていく。「たく」と花子が腕を組むと、夜空の映る窓ガラスに向かってチョークを放り投げた田川明彦が顔を上げた。
「てか、やっぱここって夢の中なんすか?」
「そうだよ。ここは王子の夢の中」
「なんすかその王子って」
「王子は王子だよ。あたしたちは深い業で結ばれてるの」
「いや、意味分かんないんすけど」
 明彦の広い額に皺が寄る。花子と太郎の表情も何やら訝しげである。
「なーんかアンタの話って要領を得ないのよね。嘘っぽいっつうか、妄想ぽいっつうか、アンタって本当にヤナギの霊なの?」
「ヤナギの霊だもん! あたしは山本千代子の生まれ変わりだもん!」
「山本千代子?」
 その名前を聞いた田川明彦は怪訝そうな顔をした。だが、特に気にかける者はおらず、玲華の泣き喚く声ばかりが暗い教室を木霊する。
「あたしと王子は深い業で結ばれてるの! だからあたしたちは転生を繰り返してるんだよ!」
「そもそも王子の意味が分かんないんだけど? なーんで吉田何某が王子なのよ?」
「王子だから王子なんだもん! ずーっと昔、あたしが魔女として生まれたばかりの頃から、王子は王子だったの!」
「何がずーっと昔よ、戦前っつったって所詮は昭和じゃない。つーか日本に王子なんていないっつの」
「長い転生の果てに日本に流れ着いちゃったの! 山本千代子として生まれたあたしと、田村しょう子として生まれた王子は、そうして再び現世で手を取り合う事が出来たの! でもでも、それなのに、戦争っていう最悪の業に呑まれちゃって、だからあたしたちはこの学校に囚われちゃってるんだよ!」
「いや、なんでそれで学校に囚われちゃうのよ。そこんとこ、もっと分かりやすく説明なさい」
「そ、それは……。そ、それがまだ分かんないから、今調べてる最中だったのに!」
「はん、やっぱアンタってドアホペテンサイコレズ妄想女だわ」
「うえーん」
 わんわんとまた泣き喚き始めた玲華の涙が次第に嗚咽へと変わっていく。太郎の太ももで涙を拭った玲華はそのまま太郎の制服で鼻をかんだ。
「ひっく、ヤナギの霊だもんっ……。ち、千代子、だもんっ……」
「あのー、ちょっといいすか?」
 田川明彦が片手を上げる。「なによ」と花子は腕を組んだまま首を傾げた。
「なんか話はよく分かんなかったんすけど、その、山本千代子と田村しょう子って何のことっすか?」
「ヤナギの霊の生前の名前よ」
「生前の名前? ヤナギの霊ってもしかして幽霊って意味の?」
「そうよ。まさかアンタ、興味あんの?」
「いや、興味っつうか、意味分かんないっつうか……」
 明彦は眉を顰めた。なにやら不快そうな表情である。ふうっとため息をついた花子は頭を掻いた。
「なーによアンタ、言いたいことがあんならさっさと言いなさいよ」
「言いたいことっつうか、まだ意味分かんねーことばっかだし」
「じゃあ何でそんなに不満げなのよ?」
「いや、その、田村しょう子って俺のひいばあちゃんの名前なんすけど?」
「はあ?」
「戦争に巻き込まれたって、まさか俺のひいばあちゃんの話してんのかなって。つーか、ばあちゃんまだ生きてるし」
 そう言った明彦は苛立たしげに唇を結んだ。



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