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第三章
なっちゃん
しおりを挟む姫宮玲華の姿はなかった。
睦月花子の声もなく、田中太郎の瞳もない。玲華と同じクラスの田川明彦も終業式は欠席してしまっているようで、臨時教諭の八田英一の姿も、教育自習性の大野木詩織の姿も、用務員の荻野新平の姿も見当たらなかった。
三原麗奈は焦っていた。不安だったのだ。心配だったのだ。
終業式を終えた麗奈はまた校舎中を歩き回った。だが、彼らの姿は見えない。彼らの声は聞こえない。
まさか本当に消えてしまったのではないか。
そう思った麗奈は居ても立っても居られなくなった。心配で、心配で、彼らの身を案じた麗奈は学校を飛び出してしまう。家を訪ねてみようと思ったのだ。
学校に来ていないだけという可能性もあった。ただの早とちりかもしれないのだ。でも、もし本当に彼らが消えてしまっていたとしたら、彼らの家族は何を想うだろうか。何の連絡もなく、二晩も姿を見せない我が子に対して、彼らの両親は眠れぬ夜を過ごしているかもしれない。
警察に通報しようかと思った。だが、どう説明すれば良いのか分からなかった。何もかもが曖昧だったのだ。保健室に隠れた後の記憶。誰かの声を聞いて、誰かの目を見て、気が付けば夜の校舎の夢を見ていた。そして目が覚めた時には病室である。
夢の中で見た彼らの姿が見当たらない。ただ、それだけの事だった。警察に通報するほどの大事か否か、麗奈には判断がつかなかった。
生徒会書記の徳山吾郎は「何もするな」と麗奈に言った。もはや焦ってもどうしようもないと。心霊学会の幹部の姿も消えているのだ。既に学会が動き出している筈である。だから君は知らぬ存ぜぬで押し通せと、徳山吾郎の表情は真剣だった。これ以上余計な混乱は起こすなと、徳山吾郎は声を震わせていた。
麗奈は頷いた。それでも麗奈は走り出してしまった。とにかく探さなければいけないと思ったのだ。
「いや、姉ちゃんならいねーけど」
玄関前で睦月一郎が太い首を捻ると、途端に麗奈は胸が締め付けられるような罪悪感を覚えた。やはり消えてしまったのかと、俯きそうになるのを懸命に堪える。
睦月花子の弟である一郎はゆうに2メートルを超えるような大男だった。女性の平均身長ほどしかない麗奈はその顔を見上げるのにも苦労するほどで、豪放磊落な花子の弟らしく、その表情は自信に満ち溢れていた。だが、それでも彼はまだまだ子供だった。自分よりも年下の少年。その口元にはあどけなさが残っている。
彼の姉の身に何かあったかもしれない。その事で彼の無邪気な心に傷が付いてしまうかもしれない。麗奈は激しい罪悪感に涙がこぼれ落ちそうになった。
だが、泣いてはいけないと、麗奈は奥歯を噛み締めた。自分が泣けば、この少年は不安に駆られてしまうだろう。そうならない為にも気丈に振る舞わなければいけない。そう考えた麗奈は必死に涙を堪えた。
「なーに女の子泣かしてんのよ、アンタ」
家の中から女性の声が聞こえてくる。花子の姉である睦月静子が顔を出すと、一郎は慌てたように首を横に振り始めた。
「べ、別に泣かしちゃいねーよ!」
「じゃあ、どーして麗奈ちゃん泣いてんの?」
スリッパを履いて外に出た静子はうっと夏の日差しに目を細めた。はっと目元を擦った麗奈は思いっきり頬を叩くと、わざとらしく口を大きく開けてみせる。
「ふあぁ、欠伸です……」
「欠伸ねぇ」
静子はやれやれと腕を組んだ。その隣で一郎が決まり悪そうに頭を掻いている。海外のモデルのように背の高い静子だったが、巨漢の一郎と並ぶと普通の女性のように見えた。
「麗奈ちゃんさ、花子と遊ぶ約束でもしてたの?」
静子は首を傾げた。涼しげな一重だ。その薄い唇には優しげな笑みが浮かび上がっている。
「いえ、ただその、花子さんはいるかなって……」
「ううん、花子なら一昨日の夜から帰ってきてないわよ」
その言葉を聞いた麗奈はその場にへたり込みそうになった。やっぱり消えてしまったんだと、そんな深い絶望感と罪悪感から、麗奈の頬が青ざめていく。
「もしかして花子に何か用事があったの?」
麗奈は首を振った。「ごめんなさい……」と蝶の羽ばたきのような声が夏の風に流される。一郎と目を見合わせた静子はふぅと息を吐いた。
「まったく花子のやつ、こんな可愛い友達放っておいていったい何やってんのかしら」
「どうせまた日本一周にでも出かけたんだろ」
一郎は肩をすくめた。何気なく呟かれた言葉である。思わず耳を疑った麗奈は視線を上げた。
「日本一周……?」
「そ、姉ちゃんさ、よく日本一周に出かけて行っちまうんだよ」
そう言った一郎はため息をついた。「よく」という言葉の意味が上手く理解出来なかった麗奈は怪訝そうな顔をしてしまう。
「あ、あのぉ、花子さんって、その、よく家から居なくなっちゃうんですか……?」
「うん。一年の半分くらいは家にいねーかも」
「はぇ……?」
「中学ん時も大変だったんだぜ。姉ちゃんさ、勝手に親父の漁船に乗り込んじまってよ。そんで半年ぐらい音信不通で、さすがの母ちゃんもあの時はカンカンだったなぁ」
「あはは、あったあった。あのバカオヤジ、花子がチビ過ぎて気付かなかったとか惚けやがって、ママのマジビンタくらって吹っ飛んでたよね。あれマジウケたわー」
一郎と静子の朗らかな笑い声が青空に響き渡る。何と言葉を返せばいいのか分からなかった麗奈は、取り敢えず「はぇ……」と苦い笑いを浮かべてみせた。
「もしかして姉ちゃん、また親父の漁船に乗り込んでんじゃね?」
「何言ってんのよアンタ。バカオヤジなら今家ん中でしょーが」
「あ、そっか。じゃあ日本一周かな」
「もう高校生だし、海外にでも行ってんじゃないの?」
「ああ、そういえば姉ちゃん、南極横断してぇとか何とか、ビール飲みながら呟いてたもんな。なぁ麗奈先輩、たぶん姉ちゃんは南極にいるよ」
「さいですか……」
花子さんなら大丈夫そうかな。
そう思った麗奈は他の家を回ってみることに決めた。
「山じゃ」
「やまじゃ……?」
白髪の老婆の鷹のような目がカッと開かれる。
麗奈はおずおずと肩を丸めた。
夏休みの初日の事だった。姫宮玲華の実家は県をまたいだ山奥の小さな村にあるという。真夏の昼間にもかかわらず風の涼しいその村には人の姿がほとんどなく、小川沿いの田んぼには沢山のアキアカネが羽ばたいていた。
三時間ほど電車で揺られた後、雑草の生い茂る狭い歩道をしばらく歩いた麗奈は、山の頂上へと続く長い石段を見上げた。グーグルマップが示す場所はそこであり、姫宮玲華の実家は古い神社のようだった。
「あの、では姫宮さんのお母さんは……?」
「運命じゃ」
「さだめじゃ……?」
白髪の老婆。姫宮詩乃の鋭い眼光が空に向けられる。神社の境内は背の高い木々に囲まれており、参道の砂利は無数の木漏れ日に照らされていた。
麗奈は丸めた肩を落とした。どうにも会話が成立していないような気がしたのだ。姫宮玲華の友達だという話は信じてくれているらしい。だが、姫宮玲華の行方が分からないと言う話には何の反応も示さなかった。
「あのぁ、つまり姫宮さんのご両親はここにはいないという事ですか……?」
「そうじゃ」
「連絡は取れないんですか……?」
「とれん」
「そうですか……」
麗奈は俯いた。勢いに任せて来てみたはいいものの、何をすればいいかは分からないままだった。姫宮玲華の姿はなく、彼女の両親の姿もない。彼女の祖母だという白髪の老婆は異様に無愛想で、自分の孫娘が行方不明だというのに何ら焦った様子もない。もう帰ろうかな、と麗奈は錫色の砂利を見下ろしながら唇を噛んだ。
「目を見せよ」
そう呟いた老婆は下を向く麗奈の頬に両手を添えた。麗奈の同意も待たず、ジッと麗奈の瞳の奥を見つめ始めた老婆の眼光が鋭くなっていく。境内は静かだった。そのまま無言の時間だけが過ぎていくと、流石に怖くなった麗奈はギュッと目を瞑ってしまう。そうしてしばらく俯いていた麗奈は、恐る恐る目を開けると、こちらに向かって手招きする老婆の白装束の袖を見た。
「来い」
「え……?」
「お主、憑かれとるぞ」
「疲れ……?」
「女を背負っておる」
麗奈は困惑した。だが、このまま何も無しに遠い距離を帰る気にはなれず、仕方なく老婆について行ってみることにした。
「あの、何処に行くんですか……?」
「滝じゃ」
「たきじゃ……?」
「これを着よ」
そう言われて手渡されたのは、老婆が着ているものと同じような白装束だった。困惑したままにオロオロと辺りを見渡した麗奈は、木々の影で服を脱ぎ始める。白装束に着替えた麗奈は脱いだ服を胸に抱くと、老婆の後に続いて更に山の奥へと進んでいった。
「た、た、滝じゃ……」
麗奈は息を呑んだ。山の奥に巨大な滝が待ち構えていたのだ。その激しい轟音は山の静寂の一部となっており、細かな水飛沫が木漏れ日に小さな虹を作っていた。
「来い」
老婆が水の中から手招きをする。まさか、と麗奈は足を震わせた。
「来い」
鋭い眼光。その瞳に一切の情けはない。
意を決した麗奈は、老婆の待つ滝壺に向かって一歩足を踏み出した。
酷い目にあった、と夏休み三日目に入っても麗奈はベッドの上から動けなかった。
空は相変わらずの快晴である。妹の千夏はすでに部活へと向かっており、午後になってやっとベッドから這いずり下りることに成功した麗奈はパジャマを脱いだ。
田中太郎は両親がいないという。
その事を知った麗奈は激しいショックを受けた。胸を襲う様々な感情。止め処なく溢れる涙。自分が彼を支えてあげなければと、そんな決意を勝手に胸に抱いた麗奈は、取り敢えず田中太郎の家は保留することに決めたのだった。
となると後は田川明彦の家のみである。だが、麗奈は彼の家に向かうことを躊躇っていた。彼との接点があまりなかったからだ。そして何より、彼の両親の反応が怖かった。
睦月花子と姫宮玲華の家族はそれほど事態を重く受け止めてはいなかった。そしてそれは二人の家に向かう前から何となく予想していた事だった。
だが、田川家はどうであろうか。恐らく、田川明彦の容姿から考えて、彼の家族は普通の人たちだろう。もし彼が行方不明だと分かれば、彼の家族は激しく取り乱すかもしれない。行方不明の元凶であろう自分に対して、激しい怒りをぶつけてくるかもしれない。それが麗奈には怖くて怖くて仕方なかった。償えない罪に対する恐怖が麗奈の足を止めてしまっていた。
だが、それでも行かなければならない。そう頷いた麗奈はスニーカーの紐をキツく結んだ。そうして外に飛び出した麗奈は燦々と降り注ぐ夏の陽光に目を細めた。
田川明彦の家は街の外れにあった。
普段は行くことがないその場所は学校から離れた位置にあり、バスか車でなければ授業には間に合わないだろう。周囲には田畑が広がっていて、立派な赤松が彼の家の庭で太い枝を伸ばしている。
呼び鈴は壊れているようだった。広い家の門は開け放たれており、そっと中を覗いた麗奈は「すいませーん……」とウサギの鳴き声にも負けないような声を上げてみた。だが、返事はなく、しばらく門の前で立ち竦んでいた麗奈は中に入ってみることにした。
「すいませーん……」
返事はない。
家の扉の鍵は閉まっており、麗奈は途方に暮れてしまう。
「すいませーん……!」
「どなた?」
横からの声だった。年老いた女性の声だ。驚きのあまりその場で飛び跳ねた麗奈は、転がるようにして声の主を振り返った。
「こ、こんにちは……!」
すぐに姿勢を正した麗奈は深々と頭を下げた。もんぺ服姿の老婆が腰を曲げて立っていたのだ。かなり高齢な女性のようで、瞳の奥がうっすらと白く濁っている。ただその表情は柔和で、先日の鷹の目のような老婆とは違い、もんぺ服の老婆の瞳には温かな優しさが溢れていた。
「あれまぁ……」
老婆は何かに驚いているようだった。それは麗奈も同じで、突然頬を伝い始めた涙に麗奈は激しく動揺してしまう。
「あ、あれ……?」
「あれまぁ、あれまぁ……。まさか、まさか……」
「あ、あの……」
「なっちゃん?」
もんぺ服の老婆はそう微笑むと、懐かしそうに目を細めた。
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