王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

舞台の上の女生徒

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 夏休みの学校は静かだった。
 校庭で部活動に励む生徒たちの躍動はモノクロームの映画のようで、校舎を流れる吹奏楽部の演奏は古びた写真の背景のようだった。空が茜色に染まる頃には、まるで世界から人がいなくなったように校舎は沈黙してしまい、物寂しく枝を垂らしたシダレヤナギの前で、三原麗奈は一人遠くの雲を眺めていた。
 夜になると麗奈は体育館を訪れた。
 暗闇の中にある舞台。
 足音が体育館を木霊する。静寂が音を強調する。月の光芒がステージを照らす。暗闇が光を際立たせる。
 寂しくなると麗奈はステージに上がった。
 夢の中にある世界。
 夜の校舎に人はいない。孤独が人を思い出させる。一人の舞台に声はない。孤独が愛を求めさせる。
 麗奈は指を広げた。両腕を上げた彼女は右脚を前に出す。月明かりが脚の先を照らす。脚をクロスした彼女は身体を前に折り曲げた。両腕は胸の前に。仄暗い光芒を遮るように。
 薄い影がステージを舞った。夜の舞台に声はない。彼女を見つめる者は誰もいない。
 麗奈は天井を見上げた。暗闇の底は見えない。静寂の終わりは聞こえてこない。それはあたかも愛に底が見えないように、夢に終わりがないことを、麗奈は全身の鼓動で表現した。
「大宮さん!」
 終わりのない演劇の、まだ始まりにも触れていない麗奈の耳に誰かの声が届く。野太い声だ。誰かの足音が夜の静寂を破ると、麗奈は、舞台の前に現れた誰かの影に目を細めた。
「いや、三原か……?」
 光芒は彼を照らさない。見つめる者は照らされる必要がないのだ。
 いや、本当にそうなのだろうか。明かりが必要なのは本当に舞台の上だけなのだろうか。
 麗奈の脚が舞台を回る。アッシュブラウンの髪が宙を舞う。栗色の瞳が夜の影に隠れると、麗奈の両手がステージを叩いた。
「三原なのか……?」
 福山茂男は息を呑んだ。富士峰高校の教員である彼は、かつての夜の光景を思い出していた。暗闇に響き渡る女生徒の声。夜の舞台で叫び続ける女生徒の涙。
「三原!」
 福山茂男は声を上げた。舞台に向かって。女生徒に向かって。
 三原麗奈は舞い続けた。終わらぬ夢を見ていたのだ。変わらぬ愛に手を伸ばしていたのだ。
「おい、三原!」
 福山茂男はステージに駆け上がった。終わらぬ演劇を終わらせる為に。三原麗奈を止める為に。彼は、彼女の苦悩に、かつての舞台を思い出していた。
「三原ぁ! こんな時間に何をやっとるんだぁ!」
 麗奈は答えなかった。分からなかったからだ。自分が何をしているのか、自分の目の前に誰がいるのか、彼女には分からなかった。
 答えられない代わりに、麗奈は首を横に振った。月の光芒が目に見えぬほどに薄い。静寂が音を強調しない。演劇が止まったのだと麗奈は悟った。止められたのだと麗奈は表情を暗くした。
「おい、大丈夫か?」
 麗奈は首は振る。暗闇を漂っていた彼女の瞳の動きが止まる。その憤りの表情に、福山茂男は思わず苦笑いした。
「まったく、お前はいったい何をやっとるんだ。いいか三原、練習に熱心なのは結構な事だがな、やり過ぎりゃいいってもんでもないんだぞ」
 麗奈は返事をしなかった。むすりと表情を強張らせたまま立ち上がった彼女は舞台を降りる。福山茂男は慌てて彼女の後を追いかけた。彼女を一人で帰らせるのは危ないと思ったのだ。


「お前なぁ、まったく驚いたぞ。いや、やっぱりお前、演劇部の部長なだけはあるな」
 黒いミニバンのハンドルを握り締めた福山茂男は深く息を吐いた。後部座席では三原麗奈が窓の向こうの夜空を眺めている。
「いやぁ、しかし本当に驚いた。あんな真夜中の体育館で、お前、あんな演技を……。まぁ、初めての事じゃなかったってだけに、驚いたってのもあるんだがな。ずっと昔の話だが、俺がまだお前と同じくらいの学生だった頃に、お前みたいに夜の体育館で演技練習しとる奴がおったんだわ」
 福山茂男は取り出したタバコをポケットに押し込んだ。生徒の前では吸わないように気を付けていたのだ。
「いいや、あれは演技なんて呼べるような代物でもなかったか。大宮さんのあれ、いや、その同級生の名前なんだが、あれはただ叫んでいるだけのようだった。ただただ、己の内の苦悩を発散しているだけのような、そんな舞台だった。よく洗練されたお前の演技とは比べものにならないよ。だが、それでも彼女のあれには本当に凄まじいものがあった。だから俺は今でも、彼女のその姿が忘れられないんだ」
 音のない夜の街が通り過ぎていく。蛍光灯に消える星明かり。細かな振動に揺られながら、麗奈は誰かの声を想った。いつかの誰かの声を、二人の女生徒の声を、麗奈は思い出そうとしていた。
「あれは何だったんだろうな……」
 そう呟いた福山茂雄は夜道の先に目を凝らした。


 二年A組に緊張が走った。突然、銃声が夜の校舎に響き渡ったのだ。
「な、なんだ……?」
 田中太郎は背中を丸めた。それは鼓膜が弾かれるような衝撃音だった。さらに二発目の銃声がバケツの赤い水を振動させると、サッと扉の前に移動した睦月花子は暗い廊下に耳を澄ませた。微かな足音が夜の静寂の向こうから響いてくる。
「オラァ!」
 そう叫んだ花子は暗闇に向かって腕を伸ばした。人の影を視界に捉えたのだ。そうして、忍び足で教室に駆け寄る男の胸ぐらを掴み上げた花子は、それを教室の中に引き摺り込んだ。
「誰じゃあ!」
「ま、待てって!」
 中肉中背の男だった。眉毛を覆うほどに伸ばされた前髪がちょうど彼の瞼の上でくるりと捻れている。首にデジタルカメラをぶら下げた彼は、花子の鬼のような腕力から逃れようと懸命に身をよじっていた。
「俺だよ、俺!」
「いや、誰よアンタ?」
「写真部顧問の水口だよ! ほら昨日、保健室に居た君たちを迎えに行ったでしょ!」
「あー、アンタか」
 そう頷いた花子は水口誠也の体を教室に放り投げた。胸の前のカメラだけは何とか守ろうと、背中を丸めた誠也の体が教室の床を転がっていく。
「つーかアンタ、昨日って何よ?」
 廊下を警戒しつつ花子は首を傾げる。「その前に言うことがあるでしょ!」とデジタルカメラを両手で包み込んだ水口誠也は憤りの声を上げた。
 その時、壁が破壊されるような打撃音が夜の校舎に響き渡った。同時に、三発目の発砲音が暗闇を走る。
 田中太郎は咄嗟に身を屈めた。脳髄を貫く耳鳴り。高鳴る鼓動に視界の端がチカチカと光る。すぐ側にいた姫宮玲華を守るようにして、床に身を伏せた太郎は闇に目を凝らした。だが、それ以上発砲音は響いて来ず、訪れた奇妙な静寂が耳鳴りを呑み込んでいった。
 暫くジッと廊下に向かって耳を澄ませていた花子が一歩前に足を踏み出す。すると、水口誠也は慌てて花子の肩に手を伸ばした。
「待って!」
「なによ?」
「今のは新平さんだよ。こちらから近付くのは危険だから、ここで待っていよう」
 そう言った誠也は肩を掴む手に力を込めた。だが、花子は特に気にした様子もなく、そのまま暗闇を進み始める。
「うおい! 待てって言ってんのに!」
「その新平ってやつ、鉄砲持ってんの?」
「たぶんね」
「どーやってそんなもん手に入れたのよ?」
「学会は暴力団とも金銭的な繋がりがあるんだ。まぁ、別のルートから仕入れた可能性の方が高いけど。新平さん、元々傭兵だったからね」
「傭兵ですって?」
「ああ、防衛大を中退してフランスに行ったんだってさ」
「ふーん。てかアンタ、それってそんなペラペラ話して大丈夫なの?」
「だって君、幹部になったんでしょ?」
 さらに数歩、暗い廊下を進んだ誠也はキョトンとした表情を浮かべた。花子も「はあ?」と眉を顰めてしまう。
「誰が何になったですって?」
「君がうちの幹部になったって話だよ。あれ、もしかして勘違いだったり?」
「勘違いだっつの。たく、なーにが悲しくて八田弘の下なんかに付かなきゃいけないのよ」
「ええ、嘘でしょ? じゃ、じゃあ今の話しは忘れろ!」
 そう叫んだ誠也は花子に飛び掛かった。だが、花子のカウンター右フックを脇腹に食らった誠也はすぐに廊下に伸びてしまう。
「い、いいパンチだ……ぜ……」
「ドアホ。ほらさっさとその新平とやらを迎えに行くわよ」
 やれやれと首の骨を鳴らした花子は誠也の体を片手で持ち上げた。そうして花子が暗闇の奥に向かって歩き出すと、誠也はもぞもぞと腕を振り始める。
「ま、待てってば……、ほ、ほんとにヤバイから……」
「だーかーら、いったい何がヤバイっつーのよ」
「新平さんが、だよ。あの人、頭のネジ外れてるから、ある意味ヤナギの霊よりヤバいかも……」
「はん、その新平って奴、いなくなった親友を探してるんでしょ?」
「そ、そうらしいね。たぶんあの人だけは意図的にここを訪れたんじゃないかなって……」
「へぇ、面白いじゃないの」
 そうニヤリと笑った花子は階段を上ろうと左に体を動かした。そして、動きを止める。眼前に黒光りする何かが見えたのだ。慌てて身を屈めた花子は首元に迫る白銀の光を見た。
「動くな」
 荻野新平はナイフの刃を花子の首に押し付けた。だが、花子は気にせず拳を握り締める。既に花子は、ナイフが握られた新平の左手を押さえていた。
「もしかして、アンタが新平?」
「そうだ」
「へぇ、中々いい男じゃない」
 そう言った花子は、新平の手首を掴んだ指に力を込めた。その圧倒的な腕力に新平は目を見開く。だが、彼は冷静さは失わない。右手のリボルバーのバレル部分を花子の頭に振り下ろした新平は、同時に体重を後ろに移動させた。振り下ろされる拳銃を見上げた花子は、急に軽くなった彼の腕にほんの僅かにバランスを崩してしまう。その隙を新平は逃さない。崩れた花子の重心を誘導するかのように、掴まれた左腕を更に手前に引いた新平は、彼女の右足を横に払った。
「な……」
 花子は驚いた。視界が反転したのだ。
 咄嗟に新平の腕を離した花子は空中で体を捻る。視界の端に映る黒色の光。背後の壁に左手を叩き付けた花子はグッと指に力を込めた。すると花子の動きがピタリと止まる。壁に指をめり込ませた花子は、暗闇に体を浮かばせたまま、ギロリと新平の顔を睨み付けた。
「アンタねぇ……」
「素晴らしい動きだ」
 そう言った新平はナイフを腰のホルスターに仕舞った。その口元には何やら楽しげな笑みが浮かび上がっている。
 チッと舌を打ち鳴らした花子は音もなく廊下に足をついた。曲芸師のような動きである。壁を握り潰した花子は左手についた破片を払うと腰に手を当てた。
「たく、冗談じゃすまないっつ……」
 呼吸が止まる。
 衝撃を受けたのだ。それは精神的なショックだった。
 荻野新平の背後には髪の短い陰気な女性が控えていた。手を前に組んだ彼女は肩を丸めたまま浅い呼吸を繰り返しており、その視線は前方の荻野新平にではなく、足元に横たわる何かに向けられている。
 中間ツグミの顔に生気はなかった。青白い頬をした彼女は今にも倒れてしまいそうで、それでも彼女は、足元に横たわる何かから視線を外そうとはしなかった。
 花子の隣で水口誠也が腰を折る。彼の吐瀉物が廊下に飛び散ろうとも、花子は前方から視線を逸らさなかった。
 中間ツグミの足元に小柄な少女が横たわっていたのだ。
 それは顔の上半分が卵のように潰された黒い女生徒の死体だった。


 
 
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