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12月5日
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[12月5日、月曜日]
昨日は、食事時以外は別部屋で過ごした為、あまり話はしなかった。
寄り添いたい気持ちはあったが、感染したら一週間も欠勤しなくてはならないのだ。病気で否応無く欠勤した経験が無い訳ではないが極力避けたい。
今朝も、譲葉の部屋に顔だけ出して仕事に向かった。
自部署へ向かう途中、顔見知りの同僚達が秘密の会話をしているのが目に付いた。
まだコート等を着ていて、部屋に入る前だと思われる。
ひそひそ話というのはあまり気持ちの良い物では無いが、この場所に限っては違和感にもならなかった為、月裏は通り過ぎて部屋に入った。
部屋内は静かだ。皆、仮面が張り付いているかの如く変哲の無い表情をしている。
それはあの上司も変わらず、早々から苛立ち含みの顔だ。
月裏は目立たないよう呼吸を浅くしながら、指定席に腰掛けて業務を開始した。
しかし内容上、絶対に接しなくてはならない場面が出てくる。加えて、常に疲れきっている月裏はよく小さなミスをしてしまい、結果、過剰な叱責が降ってしまうといったサイクルがある。
その度に心が大打撃を受ける。幾ら他の場面で希望を見出そうとも、無残に掻き回されてしまう。
心ごと奪い去ってしまうのだ。
色濃く気付いてはいたが、この環境が整わない限り精神異常は無くならないだろう。
会社が潰れるか、勇気を出して辞めるか、移動か転勤になるか。
可能性として一番高いのは三番目だが、平社員である月裏に話が来る可能性自体が低く、望めないと思われる。
辞職は、やはり勇気が出ない。
弱い自分が次の職場で遣っていけるか、もし次の仕事が見つからなかったらどうしたらいいのか――などと言う不明瞭な未来を憂慮してしまうのだ。
それより、心を守る方を優先するべきだと頭では分かるのに。辞める時は死ぬ時だ、なんて想像の方がすっぽり当て嵌まってしまうなんて。
月裏は心を殺す努力を注ぎながらも、長い長い一分一秒を乗り越えた。
声を出す気にもなれない程、疲弊しきってしまっている。とは言え、その中でも声掛けは欠かさない。
「ただいまー、今帰ったよ。このまま服の部屋で寝ちゃうね、また明日」
シュミレーションして作った言葉を一字一句違わず並べ、譲葉の動きだけ見て扉を閉めた。
数日だけ就寝所として設定した衣類部屋を開くと、暖かな空気が溢れ出て来た。
咄嗟に暖房器具を見ると、稼働中の光が見えた。
確か今朝切った筈だったが……と一瞬記憶を疑ったが、直ぐ譲葉が温めておいてくれたのだろうと考え直す。
箪笥の上に裏向きで置かれた、見慣れない紙がそうさせた。
形や大きさから、直ぐにスケッチブックの一枚だと悟る。
指先で捲り裏返すと、そこには花の絵があった。月裏が一瞬にして魅了された、美しく咲く花の絵だ。
多種の色が使われてはいるが、それが紫掛かった青い造花――最近買った新しい花だと直ぐに分かった。
相変わらず美しく繊細で、琴線を刺激するような細やかさがある。
見惚れていた月裏だが、置いてあった紙の下にもう一枚紙があるのに気付いた。二つ折りにされている同じ材質の紙だ。
開くと、そこには文字が綴られていた。
¨いつもお疲れ様、色々世話をかけます。たくさんびっくりさせたり、無理させてしまってすみません。
それでも俺を見捨てずに、家族になりたいって言ってくれてありがとう。とても嬉しかったです。俺も家族になりたいです。すごく難しい事かもしれないけれどなりたいです。
あの後、自分なりに自分の他に好きなものを考えてみたけど、よく分かりませんでした。
でもこうやって絵を描くのは本当に大好きです。月裏さんに褒めてもらえて、もっと好きになりました。
これから先も、たくさん迷惑かけてしまう事と思います。ですがどうか、これからも宜しくお願いします。¨
月裏は鉛筆で書かれたメッセージを、何度も繰り返し目で追った。
始めて知る譲葉の真っ直ぐな思いに、嬉しくて嬉しくて感極まってしまう。
譲葉の言葉には本音か建前か分からない部分があって、よく小さな疑念と共に受け取ってしまっていたが、恐らくこれは紛れもない本物だ。
態々、紙に残すくらいなのだから。
譲葉の手紙は、深く心を揺るがせる。
その内容が、自分の抱く物とそっくりだったからだ。
いつも無理をさせてしまって申し訳なくて、それでも厭きずに居てくれた事が嬉しくて、家族になりたいとの願望を馬鹿にせず受け止めてくれたのも嬉しくて―――。
押さえ切れない気炎が上がり、月裏は引き出しの中から使えそうな紙と鉛筆を探した。
昨日は、食事時以外は別部屋で過ごした為、あまり話はしなかった。
寄り添いたい気持ちはあったが、感染したら一週間も欠勤しなくてはならないのだ。病気で否応無く欠勤した経験が無い訳ではないが極力避けたい。
今朝も、譲葉の部屋に顔だけ出して仕事に向かった。
自部署へ向かう途中、顔見知りの同僚達が秘密の会話をしているのが目に付いた。
まだコート等を着ていて、部屋に入る前だと思われる。
ひそひそ話というのはあまり気持ちの良い物では無いが、この場所に限っては違和感にもならなかった為、月裏は通り過ぎて部屋に入った。
部屋内は静かだ。皆、仮面が張り付いているかの如く変哲の無い表情をしている。
それはあの上司も変わらず、早々から苛立ち含みの顔だ。
月裏は目立たないよう呼吸を浅くしながら、指定席に腰掛けて業務を開始した。
しかし内容上、絶対に接しなくてはならない場面が出てくる。加えて、常に疲れきっている月裏はよく小さなミスをしてしまい、結果、過剰な叱責が降ってしまうといったサイクルがある。
その度に心が大打撃を受ける。幾ら他の場面で希望を見出そうとも、無残に掻き回されてしまう。
心ごと奪い去ってしまうのだ。
色濃く気付いてはいたが、この環境が整わない限り精神異常は無くならないだろう。
会社が潰れるか、勇気を出して辞めるか、移動か転勤になるか。
可能性として一番高いのは三番目だが、平社員である月裏に話が来る可能性自体が低く、望めないと思われる。
辞職は、やはり勇気が出ない。
弱い自分が次の職場で遣っていけるか、もし次の仕事が見つからなかったらどうしたらいいのか――などと言う不明瞭な未来を憂慮してしまうのだ。
それより、心を守る方を優先するべきだと頭では分かるのに。辞める時は死ぬ時だ、なんて想像の方がすっぽり当て嵌まってしまうなんて。
月裏は心を殺す努力を注ぎながらも、長い長い一分一秒を乗り越えた。
声を出す気にもなれない程、疲弊しきってしまっている。とは言え、その中でも声掛けは欠かさない。
「ただいまー、今帰ったよ。このまま服の部屋で寝ちゃうね、また明日」
シュミレーションして作った言葉を一字一句違わず並べ、譲葉の動きだけ見て扉を閉めた。
数日だけ就寝所として設定した衣類部屋を開くと、暖かな空気が溢れ出て来た。
咄嗟に暖房器具を見ると、稼働中の光が見えた。
確か今朝切った筈だったが……と一瞬記憶を疑ったが、直ぐ譲葉が温めておいてくれたのだろうと考え直す。
箪笥の上に裏向きで置かれた、見慣れない紙がそうさせた。
形や大きさから、直ぐにスケッチブックの一枚だと悟る。
指先で捲り裏返すと、そこには花の絵があった。月裏が一瞬にして魅了された、美しく咲く花の絵だ。
多種の色が使われてはいるが、それが紫掛かった青い造花――最近買った新しい花だと直ぐに分かった。
相変わらず美しく繊細で、琴線を刺激するような細やかさがある。
見惚れていた月裏だが、置いてあった紙の下にもう一枚紙があるのに気付いた。二つ折りにされている同じ材質の紙だ。
開くと、そこには文字が綴られていた。
¨いつもお疲れ様、色々世話をかけます。たくさんびっくりさせたり、無理させてしまってすみません。
それでも俺を見捨てずに、家族になりたいって言ってくれてありがとう。とても嬉しかったです。俺も家族になりたいです。すごく難しい事かもしれないけれどなりたいです。
あの後、自分なりに自分の他に好きなものを考えてみたけど、よく分かりませんでした。
でもこうやって絵を描くのは本当に大好きです。月裏さんに褒めてもらえて、もっと好きになりました。
これから先も、たくさん迷惑かけてしまう事と思います。ですがどうか、これからも宜しくお願いします。¨
月裏は鉛筆で書かれたメッセージを、何度も繰り返し目で追った。
始めて知る譲葉の真っ直ぐな思いに、嬉しくて嬉しくて感極まってしまう。
譲葉の言葉には本音か建前か分からない部分があって、よく小さな疑念と共に受け取ってしまっていたが、恐らくこれは紛れもない本物だ。
態々、紙に残すくらいなのだから。
譲葉の手紙は、深く心を揺るがせる。
その内容が、自分の抱く物とそっくりだったからだ。
いつも無理をさせてしまって申し訳なくて、それでも厭きずに居てくれた事が嬉しくて、家族になりたいとの願望を馬鹿にせず受け止めてくれたのも嬉しくて―――。
押さえ切れない気炎が上がり、月裏は引き出しの中から使えそうな紙と鉛筆を探した。
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