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第三章
3-15(了)
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炎の中に映る姉の姿は、リオの記憶の中の彼女と大きくは変わらない。派手さはないが優しく美しい顔立ちにも、年頃の令嬢としては質素に過ぎる堅実な装いにも、荒んだ様子は見当たらない。
リオの看病の負担がなくなったからだろうか。リオの額を冷やすために、冷たい水に幾度もさらされ、冬にはいつもあかぎれていた白い指はふっくらと滑らかだった。
(少し……頬は、痩せてしまったような)
暖炉の炎の照り返しを映すその顔色は、決して悪くはなかったけれど。いつも朗らかな笑顔を浮かべていた、リオの記憶の彼女よりも、どこか元気がないように見えて。不安になったリオが胸元をきゅっと握り締めながら炎の面を見つめていると、ふと、画面に映り込んだ誰かの手が、姉の肩に触れる。
続けて現れた年若い青年の、特徴的な亜麻色の髪を見て。そして、彼に柔らかく微笑み返した――姉の、その笑顔を見て。リオは心から安堵した。
(よかった)
じわりと溢れてしまった涙に、視界は歪んでしまったけれど。彼女のその笑顔だけで理解できる。
亜麻色の髪に、灰色の瞳。どこか寂しげで、どこか優しげな瞳の、年上の幼馴染。――姉の、初恋の相手。
そう、リオがいなければ、姉が家を継ぐしかない。父方である王家から、損得の利権絡みで提案される、不本意な縁談など。彼女はもう、受けなくていいのだ。
(結婚できたんだ……)
そう知ってしまえば、姉の手の中で編み途中になっているものが、途端に赤子の産着のように思えて。もしかして、と。嬉しい気持ちで、ますます身を乗り出そうとしたリオが、ぴたりと動きを止める。
最愛のはずの夫と言葉を交わした姉が流した、一粒の涙と。――リオ、と。呟いた、その唇の動きを見て。
(……あ)
姉上、と。聞こえないと知りながら、呼びかけそうになったリオの目前で、炎が揺れて面が壊れる。
たちまちの内に、空気に溶け込むように掻き消えたその炎が浮かんでいた場所を見つめたまま、リオは茫然と瞬いた。
「……駄目ですね、安定しない」
燃やすものがあればもう少しは、と。そう口にするアルトに、十分だと。ありがとう、と。言いたいのに、声が出ない。
不器用に漏れた息の音だけを聞き取ったのか、アルトがリオに眼差しを向けて。そうして、驚いたように目を丸くした。
「リオ? 申し訳ありません、何か粗相が」
「う、ううん」
違うよ、と。それだけの単語を音にすることもできずに、リオが言葉に詰まる。咄嗟に押さえた口からは、それでも抑え切れなかった泣き声がこぼれ出て、瞳からも流れた涙が暖かく手を濡らした。
ますます慌てたようなアルトが、リオの頭を抱き寄せてくれる。彼の体温を感じてしまったら、もうダメで。リオは子供のようにぼろぼろと涙を流して彼の懐に顔を埋めた。
「よかった……」
――本当はずっと、気に病んでいた。優しい魔法使いたちに、優しくしてもらえる度に。故郷よりもずっと暖かな、実り多い土地で、お腹をいっぱいにしてもらう度に。
本来、この場所で、幸せを感じるのは。姉であったのではないだろうかという気持ちが、どうしても消えなくて。
(よかった)
優しかった姉が、幸せそうで。幸せに、なっていてくれて。本当によかった。心から、よかったと思う。
そして、これは、ひどい話かもしれないけれど。……彼女が、リオを思って、涙を流してくれることが嬉しかった。
泣かないで欲しい、悲しまないで欲しい。でも、リオの不在を、悲しく思ってくれる人が。リオが生まれて育った場所にも、いてくれたことが嬉しい。
(ああ助かったと、嗤っていると)
生け贄になる前に、面白半分に。誰ともなく、リオの耳に吹き込まれたそんな悪意を、リオは信じなかったけれど――それは、正しかったのだと。証明してもらえた。
寒くて、冷たくて。苦しい時間の方が多かった故郷も、思い出せば懐かしく愛しかった。優しい人たちがたくさんいた。そんなことを、思い出せた。思い出せたことが嬉しくて、涙が止まらない。
「ありがとう……」
不器用に、感謝の言葉を口にすることが精一杯で。涙の理由さえ説明することができないでいるリオを、ただ抱き締めて。何も聞かないでいてくれる優しい魔法使いに、心からの感謝を囁く。
何もできないリオに、無償の愛を注いでくれた、全ての人のために。――リオは今度こそ、本当に。今目の前にいる、優しい彼のために。どんなことでもしてあげたいと。ありったけの想いを込めて、そう願った。
※ ※
ありがとう、と。繰り返して涙を流す、清い青い瞳の美しさに。アルトは何も気の利いた言葉をかけられない自分を恥じながら、ただただ腕の中の温もりを抱き締めていた。
純真を映すその青い瞳に、白薔薇の清さに。小鳥のような、可愛らしさに。一度は死んだとまで思っていた自分の心には、もう温かな血が通ってしまっている。
(……あの男への、復讐に)
こんなに優しい、愛しい人を。足掛かりにしようとしている己への嫌悪と、何年も燃やし続けた憎悪の炎がぶつかり合って、眩暈がした。
準備はいつでもできている。最後の仕込みも、もう指示を出してしまった。この一度の機会で、必ずあの男の首を――と。強く念じても、身体は炎を生み出さない。……この腕に抱き締める彼に、少しでも害の及ぶことを嫌がって。
「ありがとう。……アルトくん」
「……リオ」
名前を呼ばれれば、血の通った胸が痛む。自分が何を考えているかなど、知る由もない無垢な彼の声はどこまでも優しくて、余計に罪悪感が増した。
少し落ち着いたのか、彼は頬に流れた涙の跡を、恥ずかしそうに拭っていく。まだ柔らかなその指先はあまりにも穢れがなくて、それがまた一層アルトを苦しめた。
「僕は、君の心が痛まないためなら、何だってできるよ。……今なら本当に、そう思うよ」
だから、何をして欲しいか教えて、と。囁くその瞳を直視できずに強く抱き寄せれば、小さな声でリオが笑う。アルトを信じ切った、その声が愛しく悲しい。
気高い竜の魔法使い。己が演じた、お伽噺の魔法使い。愛しいもの、大切なもの、守るべきもの。――そんな、愛の対象を。アルトだって、知っていたつもりでいたけれど。
「リオ」
名前を呼べば、何度でも。一途なほどの信頼を映した青い瞳が、アルトを映す。彼が自分を選んでくれている間は――絶対に、彼を傷付けまいと。誓いを新たに、アルトはリオを抱く手に力を込めた。
本当は、このままずっと。こうして、暖かな彼を抱きしめたままでいたいとさえ思ってしまうけれど。
(今の私に、そんな資格はない)
だからこそ、この手で決着をつける必要がある。
アルトは罪悪感に揺れる臆病な胸を押さえつけると、努めて冷静に。アルトの願いを待つリオの瞳を見つめ返した。
リオの看病の負担がなくなったからだろうか。リオの額を冷やすために、冷たい水に幾度もさらされ、冬にはいつもあかぎれていた白い指はふっくらと滑らかだった。
(少し……頬は、痩せてしまったような)
暖炉の炎の照り返しを映すその顔色は、決して悪くはなかったけれど。いつも朗らかな笑顔を浮かべていた、リオの記憶の彼女よりも、どこか元気がないように見えて。不安になったリオが胸元をきゅっと握り締めながら炎の面を見つめていると、ふと、画面に映り込んだ誰かの手が、姉の肩に触れる。
続けて現れた年若い青年の、特徴的な亜麻色の髪を見て。そして、彼に柔らかく微笑み返した――姉の、その笑顔を見て。リオは心から安堵した。
(よかった)
じわりと溢れてしまった涙に、視界は歪んでしまったけれど。彼女のその笑顔だけで理解できる。
亜麻色の髪に、灰色の瞳。どこか寂しげで、どこか優しげな瞳の、年上の幼馴染。――姉の、初恋の相手。
そう、リオがいなければ、姉が家を継ぐしかない。父方である王家から、損得の利権絡みで提案される、不本意な縁談など。彼女はもう、受けなくていいのだ。
(結婚できたんだ……)
そう知ってしまえば、姉の手の中で編み途中になっているものが、途端に赤子の産着のように思えて。もしかして、と。嬉しい気持ちで、ますます身を乗り出そうとしたリオが、ぴたりと動きを止める。
最愛のはずの夫と言葉を交わした姉が流した、一粒の涙と。――リオ、と。呟いた、その唇の動きを見て。
(……あ)
姉上、と。聞こえないと知りながら、呼びかけそうになったリオの目前で、炎が揺れて面が壊れる。
たちまちの内に、空気に溶け込むように掻き消えたその炎が浮かんでいた場所を見つめたまま、リオは茫然と瞬いた。
「……駄目ですね、安定しない」
燃やすものがあればもう少しは、と。そう口にするアルトに、十分だと。ありがとう、と。言いたいのに、声が出ない。
不器用に漏れた息の音だけを聞き取ったのか、アルトがリオに眼差しを向けて。そうして、驚いたように目を丸くした。
「リオ? 申し訳ありません、何か粗相が」
「う、ううん」
違うよ、と。それだけの単語を音にすることもできずに、リオが言葉に詰まる。咄嗟に押さえた口からは、それでも抑え切れなかった泣き声がこぼれ出て、瞳からも流れた涙が暖かく手を濡らした。
ますます慌てたようなアルトが、リオの頭を抱き寄せてくれる。彼の体温を感じてしまったら、もうダメで。リオは子供のようにぼろぼろと涙を流して彼の懐に顔を埋めた。
「よかった……」
――本当はずっと、気に病んでいた。優しい魔法使いたちに、優しくしてもらえる度に。故郷よりもずっと暖かな、実り多い土地で、お腹をいっぱいにしてもらう度に。
本来、この場所で、幸せを感じるのは。姉であったのではないだろうかという気持ちが、どうしても消えなくて。
(よかった)
優しかった姉が、幸せそうで。幸せに、なっていてくれて。本当によかった。心から、よかったと思う。
そして、これは、ひどい話かもしれないけれど。……彼女が、リオを思って、涙を流してくれることが嬉しかった。
泣かないで欲しい、悲しまないで欲しい。でも、リオの不在を、悲しく思ってくれる人が。リオが生まれて育った場所にも、いてくれたことが嬉しい。
(ああ助かったと、嗤っていると)
生け贄になる前に、面白半分に。誰ともなく、リオの耳に吹き込まれたそんな悪意を、リオは信じなかったけれど――それは、正しかったのだと。証明してもらえた。
寒くて、冷たくて。苦しい時間の方が多かった故郷も、思い出せば懐かしく愛しかった。優しい人たちがたくさんいた。そんなことを、思い出せた。思い出せたことが嬉しくて、涙が止まらない。
「ありがとう……」
不器用に、感謝の言葉を口にすることが精一杯で。涙の理由さえ説明することができないでいるリオを、ただ抱き締めて。何も聞かないでいてくれる優しい魔法使いに、心からの感謝を囁く。
何もできないリオに、無償の愛を注いでくれた、全ての人のために。――リオは今度こそ、本当に。今目の前にいる、優しい彼のために。どんなことでもしてあげたいと。ありったけの想いを込めて、そう願った。
※ ※
ありがとう、と。繰り返して涙を流す、清い青い瞳の美しさに。アルトは何も気の利いた言葉をかけられない自分を恥じながら、ただただ腕の中の温もりを抱き締めていた。
純真を映すその青い瞳に、白薔薇の清さに。小鳥のような、可愛らしさに。一度は死んだとまで思っていた自分の心には、もう温かな血が通ってしまっている。
(……あの男への、復讐に)
こんなに優しい、愛しい人を。足掛かりにしようとしている己への嫌悪と、何年も燃やし続けた憎悪の炎がぶつかり合って、眩暈がした。
準備はいつでもできている。最後の仕込みも、もう指示を出してしまった。この一度の機会で、必ずあの男の首を――と。強く念じても、身体は炎を生み出さない。……この腕に抱き締める彼に、少しでも害の及ぶことを嫌がって。
「ありがとう。……アルトくん」
「……リオ」
名前を呼ばれれば、血の通った胸が痛む。自分が何を考えているかなど、知る由もない無垢な彼の声はどこまでも優しくて、余計に罪悪感が増した。
少し落ち着いたのか、彼は頬に流れた涙の跡を、恥ずかしそうに拭っていく。まだ柔らかなその指先はあまりにも穢れがなくて、それがまた一層アルトを苦しめた。
「僕は、君の心が痛まないためなら、何だってできるよ。……今なら本当に、そう思うよ」
だから、何をして欲しいか教えて、と。囁くその瞳を直視できずに強く抱き寄せれば、小さな声でリオが笑う。アルトを信じ切った、その声が愛しく悲しい。
気高い竜の魔法使い。己が演じた、お伽噺の魔法使い。愛しいもの、大切なもの、守るべきもの。――そんな、愛の対象を。アルトだって、知っていたつもりでいたけれど。
「リオ」
名前を呼べば、何度でも。一途なほどの信頼を映した青い瞳が、アルトを映す。彼が自分を選んでくれている間は――絶対に、彼を傷付けまいと。誓いを新たに、アルトはリオを抱く手に力を込めた。
本当は、このままずっと。こうして、暖かな彼を抱きしめたままでいたいとさえ思ってしまうけれど。
(今の私に、そんな資格はない)
だからこそ、この手で決着をつける必要がある。
アルトは罪悪感に揺れる臆病な胸を押さえつけると、努めて冷静に。アルトの願いを待つリオの瞳を見つめ返した。
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