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7)ユーリアと呼ばれる前の記憶②

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 頭がすごくガンガンする。

 ……えーと、何をしてたんだっけ。

 歩いてたら滑って……そこは修道院で……

 女の子がいて、

 盗んで逃げようとしたら……
 
 頭の遠くで声がする。
 
 
  「……ユーリア様、あなたを襲ったのですよ。それは神も……。」

「私は大丈夫です。それより兄様には……。」
 
  「……それはお約束できません。」


 わたしはまたベットに寝ているのだろうか。
 目の前は真っ暗だ。
 声が頭の奥から聞こえる。言い争っているようだ。

 
 意識が遠ざかる。


 次に聞こえたのは女の子の声ではなかった。



「この子は栄養失調です――感染症にもかかっていて……。」
 


 しばらくシーンとした空気が流れる。
 


 人の気配が近づいた。その人が、冷たい手でわたしの顔に触れた。最初は触れる程度だったが、すぐに力強くギュウッと頬を掴み、男の声が耳元で囁く。


 
 「……あの子を傷つけたんだ……このまま死んでもかまわない。でも起きた時は――。」

 

 再び意識が闇に落ちる。

 
 夢か現実かわからないところを行ったり来たりしている。身体を見ると黒い深い沼に取られて身動きがとれない。叫ぼうとしても、声が空に吸い込まれるのうに音がしない。


 このまま死ぬのだろうか。

 それもいいかもしれない。
 
 とくにしたいこともないし。


 その時、頭にぬくもりを感じた。誰かが頭をやさしく撫でてくれるようだった。
 その手は温かく心地よかった。初めての感覚だった。

 
 その心地よさに身を委ねて、再び意識は眠りについた。

 





 どれくらい時間が経っただろうか。
 目を開けると、そこは前見た時と同じ天井で、桃色に染まっていた。
 頭はずいぶんスッキリして、身体も軽くなっていた。

 左手を見ると、女の子はわたしの手をぎゅっと握ったままベットの脇に頭を伏せ寝ていた。
 サイドテーブルにはわたしが盗もうとした十字架は戻され、すぐ隣には水が入ったタライが置いてあった。

 
 目を女の子に戻し、ぼんやりと彼女を見続けた。

 
 ピクッと女の子の手が動き、頭を左右に動かし、ゆっくりと顔を上げた。彼女の薄翠の瞳がわたしを捉える。大きな瞳をさらに大きく見開き、驚いた顔をする。

 
 「起きてる……!よかった……。本当に……。」

 
 彼女は形の良い眉毛をハの字にして、目尻を下げ、満面の笑顔になった。瞳にはうっすらと涙がにじみ、頬は薄く赤色に染まっていた。

 

 ――その顔は本当に美しかった。

 

 何かを美しいと思うのはいつぶりだろうか。


 
 目の奥がジーンとする。出る何かを堪えるように口を一文字に引き締めた。

 
 そして何とか口を開いてわたしは小さい小さい声を振り絞った。



「ごめん…なさい……。」

 

 —————


 女の子の名前はユーリアと言った。

 
 わたしは自分の年齢がよく分からないが、やはり年は近そうだ。貴族の家の出で、身体が弱く小さい頃から修道院にいる。家族はいろいろ不幸が重なり、今は兄1人だそうだ。

 
 そしてその兄の幸せが自分の幸せなのだと。


 「お兄様は私のために無理をなさるからすごく心配なの。」
 
 「ユーリアはお兄さんが大好きなんだね。」

 ユーリアはニコッと笑った。


 わたしは、
「家族ってそんなものなんだね。わたしは親も知らないからよくわからない。これくらいしか。」
 そう言って胸にかかってる小さい十字のネックレスを持ち上げる。


 ユーリアはじっとわたしのネックレスを見て微笑んだ。


「きれいな翠色。素敵だね。」


「そんないいもんじゃないよ。薄汚れてるし。しかもこれも親からのものかはわからないけど。」


「そんなことないよ!すごく素敵!」
 ユーリアはぐっとわたしに近づいてきて、真面目な顔をした。


「……近すぎ。」


 わたしの顔が真っ赤になった。彼女の瞳に見つめられるとどうも調子が狂う。



 身体が動くようになってからは、なんとなくユーリアに連れたって一緒にお勤めを果たした。
 ユーリアはなんだか嬉しそうだった。
 


 わたしがユーリアを傷つけて、護衛を呼ぼうとした初老の女性はそれを快くは思っていなさそうだったが、ユーリアのおかげか、教会の方針なのか邪険に扱われることはなかった。

 

 わたしが落ちた庭は、彼女が世話をしているようだった。野花が咲き乱れる素朴な庭だったが、美しかった。ここに落ちた時は気にも留めなかったが――。







 

 初めてユーリアの兄に会ったのはしばらく経ってからだった。

 





 
 ユーリアがちょうどいない時だった。
 彼女の兄は笑顔を浮かべながらも冷ややかな目をしていた。

 
 深い緑のマントを翻し、ツカツカと私の方に歩み、クイッとわたしのあごを持った。


 私を見下ろす目は鋭く、ユーリアと同じ薄翠色だった。怒りも含んでいたのかゆらゆらと目の奥底が揺れていた。

 

「あー殺したいねえ。……うん、殺したい。」
 ユーリアと同じ顔で彼はニコッと笑う。
 


「でも、ユーリアが君と一緒にいると楽しそうだからねえ。……だからいいことを思いついたんだ。」



 彼は私の顎から手を下ろすと、近くにあった椅子にどかっと座った。長いスラッとした足を組み、笑顔のまま彼は話した。



「僕はシュナイン家の当主として、格式高い領主に身内を嫁がせることが使命なんだ。」


 よくある話だった。娘を高貴な家へ嫁がせ、さらに自分の家を繁栄させる。

 
「だけど、あの子を下衆ゲス渡すわけいかないだろう?」


 わたしを見る翠色の瞳があやしくひかる。


「あの子はいつまでもこの鳥籠の中、大切に、なんの苦しみもなく育たないといけないんだよ。」


 ユーリアの兄を見てわたしは身震いをした。
 いままでたくさん怖い目にあったが、今ほど恐ろしいと思ったことがない。

 

「だから代わりが必要なんだよ。」


 屈託のない笑顔をわたしに向ける。

 

 確かに私はユーリアと年も近いし、背格好も似ている。あと同じ栗色の髪を持っていた。それにしてもわたしはユーリアと違って汚なく、ギスギスしてるし、何より問題は心が腐ってる。

 

 ユーリアの兄の顔をまじまじと見る。歪んでる…。彼は妹を心底愛しているのだろうか。



「わたしが断ったらどうなるんですか?」

 
「そうだね。……それはそれでめんどうだな。君を殺せるけど、代わりも見つけないといけない。」
 

 全く困った様子もないように上を仰いで微笑む。
 ユーリアの兄が座る椅子の後ろには大きな十字架が掛けられていた。


 
 いままでただなんとなく生きてきた。
 だから自分がどうなろうとどうでもいいけど……。

 これから誰かのために生きてもいいかもしれない。
 兄の幸せを願う彼女のために。


 
 
「……代わりになってもユーリアに会える?」


 
 彼は少し眉をひそめたが、すぐに微笑んで答える。

 
 
「もちろんだよ。君がユーリアである間はいくらでも。」

 
 
 
 
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