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第二部 五章

いつまでも慕う 1

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 それから三日が経ち、パーティー当日になった。

「……高そうだな」

 アルトは鏡の前に立ち、前や後ろを確認しつつぽつりと呟く。

 黒を基調としたコートは、後ろに金糸銀糸で刺繍がされているのかアルトが動く度にきらきらと輝いているのが見えた。

「よくお似合いですよ、アルト様」

 衣装を持ってきてくれただけでなく、着るのを手伝ってくれた使用人──アルト付き侍従であるノアがにこりと微笑む。

「あ、ありがとう」

 あまりこうした服装をするのは慣れず、アルトは頬を掻きつつも小さく礼を述べた。

 エルかららしい手紙を読んでから、なぜか動悸がしてその日は一日のほとんどを寝て過ごした。

 フィアナが朝食を持ってきたのがそれからすぐで、迅速に適切な処置をしてくれたため大事にはならなかったが、未だ脳裏には涙を流す女性の顔がこびりついている。

『もうっ、本当に……本当に、心配したんですからね! 貴方様までお倒れになってしまわれたら、私は……』

 どんなに宥めてもフィアナは少しも傍を離れてくれず、最終的に『殿下にも報告させて頂きますから』と言われてしまった。

(エルになんて言われるんだろう……)

 異性が泣くところを見たくないのはもちろんだが、それ以上にエルを悲しませてしまう事が怖かった。

 これまで何度となく心配させてしまい、要らぬ世話も掛けてしまっている自覚がある。

 それらを悶々と考えているうちに当日になってしまい、あと数時間も経てばレティシア主催のパーティーが始まるのだが。

「──殿下が自ら生地や装飾品を選ばれていたようなのですが、やはりお目が良い方ですね。アルト様の良さを分かっていらっしゃる」

 ノアはアルトに細かな装飾品を付けながら、しみじみと言った。

「エルが……?」

 殿下という言葉に、無意識に肩が揺れる。

「動かないでください。手元が狂ってしまう」

「ご、ごめん」

 軽く怒気を滲ませた声で諫められ、アルトは反射的に背筋を伸ばす。

 普段は穏やかで笑顔を絶やさない男だが、ノアはアルトが知る限り誰よりも怖い人間だった。

 初めてノアと対面した時は可愛らしいという感想と共に、庇護欲が擽られたものだ。

 耳の下で切り揃えられた黒髪に、やや垂れ目で大きな黒い瞳はきらきらと輝いている。

 身長は目線より少し下だが、華やかな顔立ちをしているからか存在感がある。

 アルトより二つ年下のノアは人の一挙手一投足をよく見ており、その人に対して常に的確な指摘をするためか、少し空恐ろしさを感じていた。

 ふとノアが顔を上げ、眩しいものを見るように目を眇める。

「お一人の時やお仕事をされている時、早く会いたいと嘆いておられた、とレオンハルト様が言っておりました。せっかくの衣装を一番に見られないのが残念だ、とも仰っていたそうです」

 ふふ、とノアはコートの襟部分に、瞳と同じ青いブローチを付けながら続けた。

「アルト様は誰よりも殿下に愛されておりますよ。……ですので安心して、今日のパーティーを楽しまれてください」

「っ」

 その言葉がどういう意図で言われたのか分からないほど、アルトとて馬鹿ではない。

「ノア、は」

 まっすぐに鏡を見つめながら、アルトは小さく男の名を呼んだ。

「優しいんだな」

「……はい?」

 予想していなかった言葉だったのか、間近で見るノアの黒い瞳が困惑に揺れている。

 その表情に気付かないふりをし、アルトは目を伏せてゆっくりと声に出した。

「俺が落ち込んでると思ったんだろ? さっきから何も言ってないのに、俺が欲しい言葉をくれるから」

 普通の使用人ならば、一言も発さず自身の仕事をする場合がほとんどだ。

 単にこちらを元気付けたり諫める言葉一つ取っても、主が気分を害さないかを常に念頭に置いているという。

 だというのに、ノアは恐れることなくすべてを言葉にしてくれる。

 貴族、特に王族というのは相手が気に入らなければ、言葉一つですぐにいとまを出すことも出来る。

 我が身可愛さのために大それたことを言い、主の怒りを買って王宮での勤めを棒に振るなどという人間は、アルトの周囲にはいない。

 それもこれも、エルが信頼のおける者を側に置いてくれているからなのだろう。

(エルにはつくづく助けられてばかりだな)

 正直なところ、エルがいない間寂しかったのは事実だ。

 しかしその度にノアやフィアナを始めとした、世話をしてくれる使用人らがアルトの好むものを持ってきてくれ、時として息抜きにと庭に連れ出してくれた。

 アルトが知る限りでしかないが、ここまでしてくれる人間はきっと王宮の外にはいないだろうと思う。

「……ふっ」

 アルトの言葉にノアは何度か瞬きを繰り返し、やがて小さく声を漏らした。

(あ)

 やや眉を八の字にして笑う表情は、何か悪いことを考えている時のノアの癖だった。

「やっぱり貴方は面白い方ですね」

「え、おも……なんで?」

 なぜ笑われたのか分からず、しかし先程動くなと言われた手前、アルトは鏡に視線を向けたままノアの後ろ姿を見るしかできない。

「いいえ、何も。──出来ましたよ」

 ぽんと軽く肩を叩かれ、はぐらかされたと思うと同時に支度が終わったのだと理解する。

「あ、ありが……」

「こちらを」

 礼を述べる前にノアが差し出してきたものは、黒い手袋だった。

 手の甲部分には、銀糸で薔薇の花が左右に三つ刺繍されていた。

「これもエルが選んだのか」

 ぽつりと呟くように言うと、ノアの黒い瞳がこちらを向いた。

「はい、レオンハルト様がいらっしゃった後に。なんでも、必ず付けて来て欲しいと仰せでした」

「……そうか、ありがとう」

 持ってきた衣装の中に入れ忘れたのかと納得した反面、なぜエルが自ら持って来たのか疑問もある。

 しかし今更聞くのも悪い気がして、アルトは手袋を受け取るとそっとはめた。

 明かりに向けて両手をかざすと、光の反射で刺繍がきらきらと輝いており、目を楽しませる。

「この後ですが、もうしばらく時間があるのでお部屋でお待ちください。レオンハルト様が迎えに来るそうです」

「レオンさんが?」

 ふと背後から聞こえたノアの言葉に、ややあってアルトは振り返る。

 見ればいつの間にか扉の前に立っており、このまま退室してしまいそうな勢いだ。

「ええ、私はあくまでアルト様のお世話を任されているに過ぎませんから」

 ノアはやんわりと微笑むと、ふと何かを思い出したのか懐から何かを取り出す。

「お衣装の中にこちらが入っていたのですが」

 それは空色をした小さな箱だった。

「なんだこれ」

 アルトはいぶかしみつつも受け取り、箱を開ける。

「指輪……?」

 元の世界では希少価値の高いであろう、深く青い宝石が嵌め込まれている。

 それはアルトの小指の爪ほどあり、ひと目見て分かるほど高価なものだった。

「えっ、と……これは、どうしたら」

 指輪とノアとを交互に見つめ、アルトは震えそうな声のまま言った。

「よし、付けましょう」

「聞いた俺が言うのもなんだけど決めるの早いな!? もっとこう、普通は慌てるとか……何かあるだろ!?」

 間髪入れずにノアの声が響き、アルトは反射的に声を荒らげる。

 いつ頃から王宮に勤めているのか分からないが、ノアは可愛らしい顔に似合わず時として豪快なところがある。

 それはアルトが知る中でもノアの最大の長所であり、また短所でもあった。

 はっきりと言ってくれるのはありがたいが、時々感情の奥深くを突いてくる場合もあるため油断ならないのだ。

「悩んでいても仕方ないではありませんか。それに、これは私の勘ですが……殿下が贈ってくださったものだと思うのです」

「……でもこんな高そうなの、俺には」

 似合わないし、釣り合わない。

 たとえアルトを想ってくれたものであっても、受け取れなかった。

(直接渡してくれてもいいのに)

 脳裏にエルの顔が浮かび、我儘にも似た行き場のない苛立ちが支配する。

 こちらのことを思ってくれ、贈ろうとしてくれた気持ちはとても嬉しい。

 もう一つ我儘を言うのならば、互いの顔を見てエルの心から言葉を伝えられる方がずっとよかった。

 我ながら女々しいと思いこそすれ、一ヶ月もの間ろくに顔を合わせていなかったため、早く会いたいという気持ちも募っていく。

 図書室でソフィアーナに向けていた笑みが偽りであれば、と何度も思い浮かんだ。

 けれど冷静になってみると、何か考えがあっての事なのだと理解出来る自分がいる。

 その『何か』を王配である己にすら打ち明けない、エルの性格はあまり好きではないのだが。

「アルト様」

「っ」

 唐突に近くから声が聞こえ、やや俯けていた顔を上げる。

 ノアがいつの間にか扉の前から人ひとり分の距離を空けて、真正面に立っているのに気付いた。

「私が言うのですから、そのままパーティーへ出席してください」

 大きな黒い瞳はまっすぐにアルトを見つめており、少しも逸らす気配は無かった。

 むしろこちらの心の奥深くまでも見透かされているような気がして、目を逸らしたくなる。

 けれどアルトは手の平を握り締め、ノアを見つめ返す。

 逃げ出す素振りを少しでも見せれば、たちまち飲み込まれてしまう気がした。

「先程、貴方様は誰よりも殿下に愛されている、と申し上げました」

 にこりと可愛らしい笑みを浮かべ、ノアは胸に手をあてるとゆっくりと頭を下げた。

「その言葉通り、指輪は貴方様に相応しいものです。どうか、そのままパーティーにご出席くださいませ」

 今一度、ノアは同じ言葉を唇に乗せる。

(……結局はぐらかされたけど、俺からしたらノアも十分優しい)

 己を気遣ってくれるこの男には、エルとは別の意味でただただ頭が下がってしまう。

 同時に、あれこれと悩んでは一喜一憂する己が情けなくなった。

「……そう、だな」

 アルトは小さく笑い、ノアに向けて囁くように続けた。

「でもパーティーが終わったら、すぐには戻れないかもしれない。それでも大丈夫か……?」

 王族主催のパーティー自体は初めてだが、レティシアが主催するとなると何が起こるのか分からないのだ。

 それこそ何か悪いことを計画している気がして、またエルが無理をしないか心配でならない。

 何事もなく終わるのが一番いいが、パーティーのどこかでレティシアと話したかった。

 どれほどの規模か分からないが、貴族も招いているならば必然的に二人きりで話す事は困難になる。

 それを抜きにしても、レティシアはこの国の第二王妃としての地位があり、おいそれと話せないだろう。

 パーティー中は無理でも終わってからの方が話せるだろうが、それすら予想できないところが気がかりだった。

「構いませんよ。……そもそも、貴方様はあまりこちらに寄り付きませんが」

 ノアは小さく息を吐き、どこか憂いを帯びた瞳を向けてくる。

「うっ」

 確かに与えられた自室にはほとんど脚を運ばず、何かがない限り一日のほとんどをエルの部屋や執務室、もしくは図書室で過ごしている状態だ。

 それ以外でも食事はフィアナを中心としたメイドが運んでくれるため、ノアの出番はアルトが自室で寝起きする時だけ。

 従僕は本来ならばもっと仕事があるらしいが、アルトは出来る限り一人でこなしてしまう。

 孤児院へ向かうにしても護衛の一人着けないため、ノアは普段から手持ち無沙汰なのだろう。

「で、でも何も用がないのに呼ぶのも……その、悪いし」

 もごもごと口の中で言葉にすると、ノアは先程よりも笑みを深くした。

「悪いなどととんでもない。ただ、何かお困り事がある時は一番に私をお呼びください。貴方様のためならば、いつでも参りますので」

(ちょっと、いやかなり怖いんだが……!?)

 やや首を傾げて言うさまは、傍目から見れば可愛らしい。

 しかしノアの背後から何か黒いものが見えた気がして、知らず背筋が寒くなった。

「あ、ああ。分かった」

 少しでも指摘してしまえば最後、己の何かが終わる気がしてしまい、アルトは小さく頷く。

「──では、私はこれにて。じきにレオンハルト様がお迎えに来ますので、今しばらくお待ちください」

 ノアはぺこりとお辞儀をし、退室していった。

「はぁ……」

 アルトは側にあった椅子に腰掛け、短く息を吐く。

 背もたれにもたれながら考えるのはエルのことだ。

 手紙の内容からは申し訳なさが滲み出ていて、裏切られたと思い込んだ挙句。勝手に嫌おうとしていた自分に嫌悪した。

 それを抜きにしても、少しでもエルを憎んだ事に変わりはなかった。

(会ったら……なんて言おう)

 あと数時間でエルと顔を合わせることを思うと、言いたいことや聞きたいことがたくさんあり過ぎて考えがまとまらない。

「でも、全部聞いてくれるよな」

 そっと口の中で紡いだ言葉は、静寂の中にゆっくりと消えていく。

 自身と同じくらい、エルも顔を合わせることを待ち望んでいてほしい。

 そしてレティシアと話し終えた後、エルとも今一度話し合わなければいけない。

 アルトは未だ箱の中に納まっている指輪に視線を向け、手に取ると指に嵌めた。

 それは左手の薬指にぴったりだった。
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