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第二部 五章

いつまでも慕う 2

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 程なくして、レオンが部屋にやってきた。

「お迎えが遅くなってしまい、申し訳ごさいません。……少し、いさかいがあったもので」

 レオンはやや息を乱しながら言った。

「そんな、急がなくてもいいのに。水……は無いな。紅茶いるか……? もしくは座って」

 アルトは慌てて予備のカップを渡そうと立ち上がったが、それよりも早くレオンが手で制したことで中途半端な体勢になる。

「……いえ、大丈夫、です。お気遣い、ありがとうございます」

 それから何度か深呼吸を繰り返し、やっと落ち着いたのかレオンは普段通りの低い声で言った。

「本日限定ではありますが、何があろうと貴方様をお守り致しますのでご安心くださいませ」

「へ」

 放たれた言葉の意味が分からず、アルトは素っ頓狂な声を出す。

(俺を守る、ってどういうことだ……? それに、なんで急いで来たんだ)

 ノアが退室してから一時間ほどだが、レオンの慌てようではあまり時間がないように聞こえた。

 今は十四時を少し過ぎたところで、夕方から始まるものと思っていたため、ますます分からなくなってしまう。

 何も言えず固まったままでいると、レオンはアルトの手を取ってゆっくりと続けた。

「あまり時間がありませんので、歩きながらご説明致します。お早く」

「あ、ああ」

 半ば急かされる形でレオンに手を引かれるまま立ち上がる。

 身長差があるためアルトはやや小走りになりながら、レオンの後ろ姿を見つめてひっそりと胸の内で呟く。

(一瞬だけミハルドさんかと思った)

 背格好があまり変わらないというのもあるが、兄弟というのもあってかアルトは時々間違えてしまう事があった。

 レオンは普段から長い銀髪を結い上げているが、今日ばかりは低い位置で青いリボンを結んでいる。

 ミハルドは何日かに一度の頻度で髪型が変わるため、それもあるのかもしれなかった。

 アルトと同じ黒を基調とした上下の衣装には装飾がないため地味だが、長身というのを抜きにしてもレオンは容姿が目立つ。

 普段の側近としてのきっちりとした装いはなりを潜めており、加えてあまり見ることのない正装に、違う人間を見ているような錯覚を覚えてしまう。

「──本日ですが」

 ぽつりとレオンが前を見ながらゆっくりと言った。

「殿下のご命令で、貴方様をお守りするようにと仰せつかりました」

 部屋に迎えに来てくれた時と同じ言葉をもう一度口にし、やがてレオンは立ち止まるとこちらを振り向いた。

 赤く、ほんのりと黒さの混じった瞳がじっとこちらを見据えている。

(なん、だ……?)

 アルトはその瞳に少し空恐ろしさを感じたが、空いている手の平をぎゅうと握り締めて耐える。

 ここで逃げ出す素振りを見せれば、それこそエルからも逃げているようで嫌だった。

 レオンは一度小さく息を吸い込むと、いつにも増して無表情のまま低い声で囁く。

「第二王妃様が本日中……早ければパーティーの最中、何かを仕掛けるようです」

「レティシア様、が……?」

 アルトは無意識にその名を口にしていた。

 驚きがないわけではないが、公爵邸から戻った時にレティシアと鉢合わせた時の事を思い出す。

 エルに向かって何か含みのある笑みを見せていたが、その時には既に何事かを計画していたのだろうか。

 エルを亡き者にする、という考えたくはない予想が頭に浮かぶ。

(いや、まさか……な)

 そうだとすればレオンやミハルドが守るべきは王太子であるエルで、己にはいらないはずだ。

 しかし、仮に予想が当たっていたとしたら理性を保てる自信がなかった。

「ええ。ですが、あまり気を張り詰めませんよう。私達がお側に控えるのは、何かあった時のための保険ですので」

 アルトが不安に思っているのを察したのか、レオンが先回りするように口を開く。

「保険、って」

 ならばレティシアは本当に事を起こすつもりなのか、と目線だけで尋ねると、レオンは一瞬だけ考える素振りをする。

「……殿下は誰よりも、王配殿下の御身を案じていらっしゃいます。もし視界に入るのがお嫌であれば、それとなく距離を取っておりますのでご心配なく」

 ほんの少しだけ口元が笑みの形を作っており、レオンなりに気遣ってくれているのだと分かる。

(俺のため、に)

 一ヶ月ほど顔を合わせない間、エルはずっと己を想ってくれていたのだろう。

 レオンの口振りから、ここにはいない男の顔が見えた気がした。

 その優しさが身に染みると同時に、一瞬でもエルを嫌おうとした自分を殴りたくなった。

 エルからの手紙を読んだ三日前から自責の念にさいなまれており、そう考えるのは何度目になるのか数えていないのだが。

「──参りましょう、アルト様」

「っ!」

 不意に聞こえた声に顔を上げると、レオンが柔らかな瞳を向けていた。

 常に無表情を貫いているレオンには珍しく、紛れもない笑顔を浮かべている。

「……なんでしょうか」

 しかしそれも一瞬で、じっと見ていることに気付いたのかすぐに感情が消えた。

「いや、なんでも」

 アルトはくすりと小さく笑い、首を振る。

(初めて名前呼ばれた)

 きっと無意識だろうが、普段は『王配殿下』と敬称を付ける男に少し認められた気がして、嬉しかった。

「おかしな方ですね」

 ぽつりと呟かれたレオンの言葉に聞こえない振りをしながら、パーティー会場に続く廊下を歩いていく。

 やがて一際煌びやかな大扉が見え、そこでレオンは立ち止まると振り向いた。

「……何があろうとお守りしますが、あまり彷徨うろついてはいけませんよ」

 まるで幼子に言い聞かせるような言葉に、やや違和感を覚えつつもアルトは頷く。

 するとレオンが一歩下がり、少し開いている扉に手を掛ける。

「わぁ……」

 厳かな音を立てて開いた扉の向こうには、視界いっぱいに大勢の貴族や貴婦人で溢れていた。

 アルトは広間に一歩足を踏み出すと、その背後からレオンが付き従ってくる気配がする。

 あまり褒められたものではないと理解しているが、きょろきょろと視線を動かす。

 皆が皆思い思いに談笑しており、ふわりと食欲を唆る匂いが漂ってくる。

 つい数時間前に昼食を摂ったばかりだが、匂いにつられて小腹が空いてくる気がした。

「──お酒は飲まれますか、王配殿下」

「っ……ミハルド、さん」

 唐突に少し高い声が背後から聞こえ、驚いて振り向くとレオンの隣りにはいつの間にかミハルドが立っていた。

 アルトやレオンとは違って白い衣装に身を包んでおり、その容姿も相俟って神々しさすら感じるほどだ。

 髪は三つ編みにして後ろに垂らしているためか、衣装以外でも区別がつくのは幸いだった。

 ミハルドはにこりと微笑むと、ぱちぱちと淡い音を立てる飲み物をこちらに向けて差し出してくる。

「あ、ありがとう」

 アルトは誘われるままそれを受け取り、小さく礼を述べる。

 そっと口を付けると、甘く爽やかな香りが口いっぱいに広がった。

「……美味しいでしょう。貴方はこういうのが気に入るだろうから、とアルト様を見つけたら飲ませてくれと……あの方が仰っておりました」

「エル、が?」

 ミハルドの言葉にアルトは目を瞬かせ、小声で訊ねた。

 この広間のどこかにエルが居るのは分かるが、それと同時に簡単に側に来られないのだと察する。

 エルの名を呼ばないのにも理由があるのか、ミハルドがやや申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「ええ。けれど、早くお会いしたいと私に零していたので……もう少し辛抱ください」

「へ、え、ああ」

 よもやミハルドにそんなことを言っているとは思わず、アルトは羞恥でいたたまれなくなり目を泳がせる。

(もしかしなくても、俺より会いたいって思ってくれてるのか……?)

 そうだとしたら嬉しいが、どんな顔をしてエルの顔を見ればいいのか今から分からなくなった。

 たった一度だが信用できなくなって嫌ってしまい、合わせる顔がないと言った方が正しい。

 しかしエルは許してくれる、という確信にも似た不思議な感覚があった。

(いや、こんなの言い訳だ。ちゃんと話さないと……じゃないと、今度こそ嫌われる)

 エルから突き放され、嫌悪されるのは嫌だ。

 そのためにもパーティーを無事に終え、最中かどこかでレティシアと話し終えた後が本当の正念場だった。

 アルトはそろりと周囲に視線を巡らせる。

 招待客だけでなく給仕する使用人らで広間は混雑しており、人の顔など満足に確認できない。

 第二王妃の姪が来た、というだけでここまでするかと思ったが、王族というものはこれが普通なのだろうか。

「王配殿下」

 ふとレオンの声が側から聞こえ、アルトは隣りを見る。

「兄と共に控えておりますので、何かありましたらなんなりと仰ってください」

「そちらにケーキなどのスイーツがあるのですが、取って参りましょうか?」

 レオンの言葉に被せるように、ミハルドが言う。

 手で指し示された先にはワゴンがあり、使用人がにこやかに給仕しているのが見えた。

 ここからは見えないが、ミハルドの言う通り甘いものがあるのだろう。

「言ってる側から貴方は……王配殿下が肥えてしまったらどうするのです」

「その時はその時だ。それに、少々丸くなってしまってもエル様は変わらず愛されるだろう。──アルト様、共に参りましょう」

 レオンの呆れた声に混じり、ミハルドが何か聞いてはいけない言葉を放った気がした。

「……ああ、少しだけもらうよ」

 突っ込んだら負けだ、と心の中で唱えつつアルトはやんわりと微笑む。

 身内だけにする口調なのだろうが、あまりにも普段のミハルドからは想像できない声音に知らず身震いしてしまう。

「はぁ……私は待っておりますからね」

 小さく溜め息を吐き、レオンがやや砕けた口調で言った。

「二人とも仲良いんだな」

 小さなケーキを数種類とクッキー、スコーンにマドレーヌを皿に載せてレオンの元に戻りながら、アルトは隣りを歩くミハルドを見上げた。

 その手にはアルトの二倍はあろうかというほどの菓子が載せられており、自分が言えたことではないが少し引いてしまう。

「あまり顔は合わせませんが、仲は良い方かなと。慣れると分かりやすい人間ですよ、レオンハルトは」

 にこにことさも上機嫌に言うミハルドは、その容姿に反していつもより可愛らしく見える。

(甘党なのかな)

 自分も大概だが、確かに王宮で作られるケーキから始まる菓子は、どれもが飛び抜けて美味い。

 店で売られていても遜色ないほどで、元の世界にもあればな、とふと思いを馳せる。

「あ、すみません」

 前からやってくる男とぶつかりそうになり、アルトは反射的に謝罪の言葉を口にした。

「いえ」

 男はこちらの姿を見留めるとぺこりと会釈し、すぐに人混みに紛れていく。

(さっきの人、見たことある、ような……?)

 アルトは一度立ち止まり、そっと周囲に目を向ける。

 見知った騎士の顔が多いように思うと同時に、違和感が頭をもたげた。

「なぁ、ミハルドさん」

「はい?」

「──本日は我が姪のパーティーに脚をお運びくださり、ありがとうございます」

 三歩ほど前を歩くミハルドが振り返ったと同時に、どこかから女性特有の高い声が聞こえた。

 その声音は甘く、ともすれば毒にでもなり得るようなものには聞き覚えがある。

 アルトは声がした真正面──広間の階段に目を向けた。

 そこは王族専用なのか、遠目からでも分かるほど豪奢な椅子が一脚置かれており、宝飾品をふんだんに着けた煌びやかな女性が座っていた。

 椅子の傍には女性が立っており、その表情はこちらからは少しも見えないが、亜麻色の髪でソフィアーナだと理解する。

「早速ですが、皆様に大切なご報告があるのです。──さぁ、ご挨拶をなさい」

 レティシアが軽く手を広げると、背後からエルが姿を現した。

 ソフィアーナと同じく表情は見えないが、どこか緊張した面持ちだというのは感じ取り、アルトは無意識にそちらに向けて脚を踏み出す。

「アルト様」

 静かな、けれど鋭い声が背後から聞こえた。

 こちらを止めようとする口調に、こんな時だというのに苛立ちが募る。

「──私がしっかりと持っておりますので、どうぞお行きください」

 ふっと手の平の重さが無くなると同時に、別の静かな声が聞こえる。

 そちらに視線を向けると、レオンが少し眉根を寄せていた。
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