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虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う
虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う-3
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◆
昼を少し過ぎた頃、凛花たちは朔月宮へ移動して皆で昼食を取った。
そして紫曄と双嵐の参加はここまで。晴嵐は水路の整備が楽しかったようで、生乾きのまま疲れも見せずに帰っていった。
それから雪嵐も、意外なことに「また手伝いにきます」と麗麗に告げていた。
「さて。主上らは帰ったが我らはもう少しやるぞ、兎杜」
「はい! 老師! 小花園へ戻りましょう!」
爺曽孫組は、この機会にしっかり記録を付け、見本として各区画の薬草を採取していくそうだ。この調査の後、輝月宮の書にあった『隠し庭の植栽図』ともしっかり見比べてもらう予定だ。
「朱歌さま、霜珠さま。お手伝いありがとうございました。午後からは小花園付きの者たちだけで手が足りそうですので、お二人にお茶をご馳走させてください」
これは暁月宮、薄月宮の体力自慢の侍女たちが張り切ってくれたおかげだ。思った以上に作業が進んだので、午後は刈った草の片付けだけで済む。
「まあ。ありがとうございます、凛花さま。わたくし、お二人ともっとお話しをしたかったんです」
「それは嬉しいな。麗麗、美味しいお茶を淹れられるようになったと聞いている。楽しみにしているよ」
「はい! 本日は、秋の始まりらしく金桂花茶を用意しております。お着替えをお済ませになりましたら、庭までお越しくださいませ」
泥と汗で汚れたままの姿でお茶に招くのは申し訳ない。一旦解散にして、あらためてお茶の時間に二人を招待することにした。
と言っても、凛花は二人の侍女たちに、どうか気軽に来てくれとお願いをした。通常、月妃同士のお茶会となればある程度の礼儀が求められる。しかし小花園で泥にまみれた仲だ。きっと二人ともさっぱりした装いで再訪してくれるだろう。
「朱歌さま、霜珠さま。またあとで、お待ちしておりますね!」
凛花は手を振り、二人をひとまず見送った。そして凛花だけでなく、麗麗と明明も大急ぎで湯を浴びる。お茶会の準備をしなければ。少し遅めの時間に約束したので、朱歌や霜珠には少し昼寝をする時間もある。
(でも、あのお二人も体力がありそうだし心配ないかな)
まだ乾かぬ髪を梳かしながら、凛花はいつもの庭で風に当たっていた。
「……金桂花の香り? 小花園にもあったわね」
今は蕾の時期。花が咲くにはまだ早い。
しかし凛花の鋭い嗅覚は、微かなその香りにも気が付いた。金桂花は秋を代表する花で、濃い黄色の小さな花を咲かせる、強くて華やかな香りが特徴の樹だ。
金桂花――金木犀とも呼ばれるが、月には『桂花』の巨木が生えているという伝説がある。その月から落ちた花が種となり、根付いたのが月魄国の金桂花だと言われている。
「だから月華宮には金桂花が多いのかな」
月魄国は月の女神を崇める国だ。神月殿に薬院があるのも、『月に住む兎が薬を作っている』という伝説があるからだ。
(でも金桂花は、私にはあまり馴染みがない香りね)
凛花の故郷、雲蛍州では、金桂花はあまり見られない。気候が違うせいか土地のせいなのか、雲蛍州に多いのは同じ桂花でも『銀桂花』のほうだ。
銀桂花は、金桂花とは違い淡く涼やかな香りを持つ花だ。同じく樹木で花の形も似ているが、色は白っぽい。
だから金桂花と対をなすように銀桂花と呼ばれるのだと思う。
「今頃、薬草畑の周りでいい香りをさせているのかな……」
懐かしい。普通は花が咲くまでその香りを楽しむことはできない。これは鼻が利く凛花だけの特権だ。膨らんでいく蕾を愛でながら、ひとり香りも密かに楽しんでいた。
凛花はまだ馴染まぬ金桂花の香りを嗅ぎ、物思いにふける。すると遠くから、早足で歩く麗麗の足音が聞こえてきた。
「凛花さま! お待たせしました。さあ、髪を拭きましょう」
「ふふ。麗麗もしっかり乾かさなくてはだめよ。お客様をお迎えするんだから」
「あっ、そうですね。では凛花さまを先に!」
麗麗はよく水を吸う手拭いを何枚も用意して、凛花の髪を梳き丁寧に拭いていく。まだ日が高く、風もあるので、しばらくここにいれば乾く。
「ねえ、麗麗? 月華宮って金桂花が多いのね?」
「はい。月妃の各宮にも必ず植えられていますし、中央の御花園にも沢山ございます。もう少しすると咲きはじめますね」
「銀桂花はないの?」
「銀ですか? ……申し訳ございません。どういった花でしょう? 金桂花なら街にも、それこそ国中にあると思うのですが……銀ですか。銀……桂花?」
むむ? と麗麗は眉根を寄せて首を捻る。一生懸命、記憶の中を探しているようだ。
「私の勉強不足のようです……。侍女失格……申し訳ございません」
「えっ、そんなことないわ!? 大丈夫よ、誰にだって知らないことはある。私なんてほら、麗麗が得意な武術のことはよく知らないし、得手不得手っていうやつね!」
月華宮には、金桂花はあるのに銀桂花はない?
それとも同じ時期に咲くけれど、地味なほうは目立たず知られていない可能性もある。金桂花は色も香りも派手だが、銀桂花はどちらも控えめだ。
「銀桂花はね、雲蛍州には沢山あるの。金桂花と似ているけれど、香りはあまり強くなくて、白く可愛らしい花を付けるんだけど……。ここにはないのかしらね」
「似ている白い花……? あ、もしかしたら神月殿にあったかもしれません。神月殿にも金桂花が沢山あるのですが、奥の庭に金桂花と対になる花があると聞いたことがあります」
「それは銀桂花かもしれないわね。神月殿に行くことがあったら見せてもらえるかしら」
「それでしたら、この秋にきっと見られますよ!」
「え?」
「来月には秋の『月祭』があります。凛花さまは主上とご一緒に、おそらく神月殿へ行くことになるでしょう。月祭では、神月殿の奥の宮で儀式があると聞いています。金桂花と対の花はその周辺にあるのではないでしょうか」
「儀式か……」
(神月殿の奥で儀式をやる場所といったら、この前の神月殿詣で泊まったあの宮じゃない?)
あの日は薬草園にばかり気を取られていたので、凛花の記憶の中には金桂花も銀桂花もない。まだ蕾が付く前だったせいもあるが、青々と茂る木々に紛れてしまっていたようだ。
「凛花さま、故郷ではどのように月祭を祝うのですか?」
「雲蛍州ではね、銀桂花酒と金桂花餅をお供えして、皆でお月見をするのよ」
月祭は、月と秋の収穫に感謝するお祭りだ。
だから金桂花餅の入れ物は、天星花の蔓で編んだ籠と決まっている。そして銀桂花酒のほうは、月が綺麗に映るよう、白い杯に注ぎ祭壇へ供える。
月が一番綺麗な中秋の名月、十五夜を楽しむお祭りだ。ちょうど秋の収穫とも重なるので、月の加護に感謝を捧げるのだ。
「まあ。雲蛍州らしいですね!」
「……ん? もしかして、月華宮の月祭は違うの?」
ふふ! と笑う麗麗の声に、凛花は星祭の祝い方も、故郷とは違っていたことを思い出す。
「そうですね。収穫という意味合いはあまりありません。皇都の月祭は、儀式としての意味合いが強くなっています。平たく言うと、皇帝の威信を見せるため、月の加護を称え、感謝を捧げる祝祭です」
「そうなのね!?」
聞いておいてよかった。
また皆と祭りの内容が噛み合わないところだった……!
「それじゃあ月妃の役割は? 星祭のように何か準備することはある? あっ、もしかして麗麗はもう準備を始めていた!?」
もしそうだったなら、小花園の『仕舞い準備会』などやっている場合ではなかったのでは? 朱歌や霜珠にも実は迷惑をかけてしまっていたり……
「いえいえ、大丈夫です! 星祭とは違い、月祭では月妃のお役目は特にありません。主上が祭壇で祈りを捧げる時に参列するだけですよ。民に広場を解放することもありませんし、星祭と比べたら準備は楽なものです」
「あっ、そうなのね。よかった……」
星祭のような賑やかさはないが、皇都中に金桂花の花や酒、茶、菓子などなどが溢れるそうだ。民はそれぞれに月を称え、感謝の月見をする。皇都と月華宮の月祭は、本当に儀式と祈りの祭りのようだ。
そして金桂花酒には、その年の出来で皇帝の治世を占う――なんて話もあるとか。金桂花酒は月の加護が溶けている酒。月の女神の祝福を分け与えてもらう特別な酒だそう。
(雲蛍州では、月祭のお酒は銀桂花酒だけど、皇都では金桂花酒なのね)
そんなところも違うのだなと、凛花は銀桂花の香りがしない月祭を少し寂しく思う。
「月祭の本番は、神月殿で皇帝が行う金桂花酒の奉納です。十五夜の夜に特別な奥宮で行う儀式だそうです。……多分、今回は凛花さまがご同行されることになると思います」
「ああ、さっき言っていたやつね?」
凛花は後ろを振り返る。髪はもう随分乾いてきた。
「はい。神月殿での儀式には、望月妃、もしくは最上位の妃が同行する決まりだそうです」
「それは……私ではないんじゃない?」
凛花は望月妃ではないし、最上位どころか最下位の朔月妃だ。その条件には当てはまらない。
「まあ、凛花さま。寵姫というのは、事実上、最上位の月妃です。主上にも望まれているのですから、もっと自信をお持ちください」
「ああ……。ええ、そうね」
紫曄にそう望まれているのは分かっている。凛花も嫌なわけではない。
だけど凛花には、それを受け入れ難い事情がある。
(麗麗には、『小花園に近いから』『こぢんまりとした朔月宮が性に合っているから』『改造した庭畑に愛着があるから』なんて言っているけど……)
でも、本当のところは違う。虎の血を繋いでしまうことが怖くて、凛花は本当の意味で紫曄の妃になれていないし、望月妃になる決心もまだついていない。
「ごめんなさいね、麗麗」
「いいえ、私こそ出過ぎたことを申しました。いくら主上が凛花さまを望んでいても、弦月妃さまの後ろ盾の力が衰えぬ限り、望月妃になることは現状まだ難しいでしょうし……」
「うん」
それが現実だ。紫曄の一言で強硬することは可能だが、それでは月華宮の表も裏も、真っ二つに割れてしまう。弦月妃の後ろ盾――董宦官の一派は、官吏だけでなく神月殿とも繋がっているのだ。
皇帝と官吏が働く表、皇后・望月妃と宦官が支配する後宮、月を奉る月官たちの神月殿。この三つが互いに支え合い、均衡を保っているのが月魄国だ。
どこか一つが力を持ちすぎてもいけないし、その力を喰われてもいけない。等しく力を持ち、正しく振るい、協力し合うのが理想の姿だ。
(今は逆ね。互いに喰らい合って、ギリギリのところで均衡を保っている)
「……私はこの朔月宮が好きだけど、でも、寵姫がそれを言うのは我儘だということも理解しているわ」
凛花は少し俯き加減で言う。寵愛をいただく妃として相応しい位があるのは当然だ。
凛花は最下位の『朔月妃』だが、通常、寵姫には高い位が用意されるもの。
出身や後ろ盾の強さも影響するが、とはいえ月の女神を敬う月魄国において、寵姫が『一番細い月』の名で呼ばれるのは異例中の異例。
皇帝の威厳にかかわると、そんな声があるのも事実だ。
「いっそのこと、凛花さまに特別な寵姫の称号でも授けてくださればいいのに。それなら朔月妃のままでも問題ないのではありませんか?」
いやでも、特別な称号は余計に嫉妬を買うか? 麗麗は首を傾げて呟く。
寵姫。神託の妃。皇帝の抱き枕。薬草姫。
凛花は様々な呼び名で呼ばれているが、公的な立場はあくまでも『最下位の月妃・朔月妃』だ。後宮で一番軽く、価値の低い妃の名である。
(称号か。『神託の妃』がそれに近いことは近いけど……)
凛花を後宮へ誘い、紫曄と出会わせた神託。
――月の女神さま。『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』とは、あなたはどのような意味でおっしゃったのですか?
月祭で、そんな風に月の女神に訊ねることができたらいいのに。凛花は思う。
月の女神の口が軽くなるのは、金桂花酒だろうか? それとも銀桂花酒だろうか。
(私はすっきりとした銀桂花酒のほうが飲みやすいけど……)
といっても、凛花はあまり酒に強くないので舐める程度だが。皇都の月祭で供されるのは、華やかで甘い金桂花酒だ。月の女神の好みも、そちらかもしれない。
(そういえば、主上とお酒を飲んだことってないな)
不眠がちな紫曄にとって、就寝前の酒はよくない。だけど月祭では、お供えの酒を必ず飲むことになる。さて。紫曄の好みは銀と金、どちらだろうか?
凛花はさらりと揺れる銀糸を指で弄び、月祭の夜をほんのり楽しみに思った。
◆
朔月宮を再訪した朱歌と霜珠は、月妃のお茶会にしては控えめの装いと化粧。
凛花は素直に受け止めてくれた二人に微笑むと、こぢんまりとした朔月宮の素朴な庭に案内した。
「お二人とも、ようこそいらっしゃいました!」
麗麗が用意したお茶は、予告通りの金桂花茶だ。香り高くほんのり甘いお茶に合わせる菓子も並んでいる。もう少ししたら、芋や栗など秋らしい素材の菓子も加わるのが楽しみだ。
「うん。麗麗、おいしいよ」
「ああ、いい香り。もうこんな季節ですのね」
朱歌は麗麗に笑顔を向けた。元神月殿衛士ながら、畑違いの侍女仕事に励む昔馴染みを褒める。霜珠も同様だ。彼女の侍女も、麗麗と似た経歴を持つ者が多い。
だからこそ、麗麗の淹れたお茶の味が胸を打ち、自然と顔がほころぶ。
「金桂花の季節といえば月祭だな。まあ、私などは神月殿で月官をしていた時より暇だろうが、星祭も終わったばかりというのにここは忙しないな」
「そうですね。それに月祭では何事もなければよいのですが……。弦月妃さまのお気持ちも分からなくはありませんけど、やり方がいけませんわ」
霜珠は眉をひそめ、ぽそりと言った。霜珠が知っていることは、弦月妃が奉納の花輪を隠し、他にも何かしたらしい……ということだけ。朱歌はもう少し踏み込んで、碧が何かをやらかしたことまでは知っている。
「あのような卑怯なやり方、わたくしは好きではありませんわ。やるのならば、正々堂々でなくては!」
愛らしく儚げな容姿だが、さすが陸家の娘だ。やはりそういう考え方なんだなと凛花はクスリと笑う。
「はは! そうだな。しかし月祭では、正々堂々も何も、そんな心配はいらないさ。儀式をするのは主上だし、その場は神月殿の奥。宦官や弦月妃さまの手出しは困難だよ」
それに……と、朱歌は神月殿の情報も凛花たちに話す。
明明の拉致と星祭をきっかけに、神月殿での副神月殿長一派の力は低下したらしい。碧を手引きしたのは弦月妃を推す宦官だ。表沙汰にならなくとも、何人かが地方に飛ばされ、碧は薬院で謹慎をしているという。
凛花には、研究三昧を楽しんでいる碧が目に浮かぶが。
「霜珠さまと凛花さまだから言ってしまうけど、物理的に首が飛んだ者もいるからね。さすがに弦月妃さまでも、謹慎継続で月祭は欠席じゃないかな」
朱歌がニヤリと笑い、意味ありげな視線を凛花に向けた。
「まあ。しばらくは大人しくお籠りしてくださるといいですね、凛花さま」
「ええ。本当に」
「弦月妃さまは、ご自身が謹慎程度で済んだことに感謝をするべきですわ」
『首が飛んだ』と血生臭い言葉が出たが、霜珠は全く気にしていない。それどころか、随分と甘い処分だと思っているよう。こういうところも、武の名門出身なのだなと感じさせる。しかし朱歌は、凛花の返しに対して穏やかに微笑むだけ。
そして凛花は、そっと目を伏せ深く頷く。
(そうね。隙を見せてしまった私にも責任はある)
弦月妃があんな杜撰な暴挙に出たのは、結局は凛花が舐められていたということだ。
月妃のせいで人生が変わった者がいる。朱歌はそれを『分かっているよね?』と凛花に伝えている。
(寵姫――望月妃とはそういうもの)
朔月妃とは段違いの、重い責任が伴う立場だ。もちろん朔月妃にも、州候の娘にも責任はある。だけどその重さも、種類も、向けられる視線も、期待の大きさも違う。
紫曄に望まれたから望月妃になる。『望月宮の書』が見たいから位に就く。そんな軽い気持ちでなってはいけないと、凛花はあらためて思った。
皇帝に添う皇后・望月妃とは、そのような軽い気持ちで耐えられる位ではないのだ。
(弦月妃さまは、それを分かっているのかな……)
凛花はそんなことを思い、ふんわり香る金桂花茶を飲み干した。
◆◆◆
三人はしばらくお茶とお喋りを楽しみ、日が傾く前にお開きとした。
凛花が二人を朔月宮の門まで案内し、それでは……と朱歌と霜珠を見送ろうとしたところで、耳に軽い足音が届きそちらに目を向けた。
「――……さま! お待ちくださいー!」
兎杜だ。小花園から走ってきたらしい兎杜がぱたぱたと駆け寄ってくる。よく見れば、両手に何かを抱えているがあれは何だろうか。
年齢のわりにしっかりしている兎杜が、月妃の宮の前を走るなんて珍しいこと。
三人の月妃と侍女たちは、走る兎杜が目の前に来るのを待つ。
「ハアッ、朔月妃さま、皆さま、失礼いたします! どなたかこちらをお忘れではないかと……っ!」
兎杜は息を切らし走りながら、いくつかの笠と、泥のついた上衣を掲げて見せた。いずれかの妃のものだろうと、急いで届けにきてくれたようだ。
「あら! 薄月宮のものですわ!」
小花園を出る時に外して、うっかり置いてきてしまったようだ。侍女の一人が失態に慌てた顔をしている。
それにしても、まだ少年の兎杜が抱えているものだから、顔が半分隠れているし、今にも落としてしまいそうで危なっかしい。 薄月宮の侍女が駆け寄ろうとしたが、霜珠がやんわり留めて兎杜に駆け寄った。と、その時、ふわっと風が吹いた。兎杜が抱える上衣の袖が生垣に引っ掛かり、しかし兎杜は気付かず――ビリリッ。
「えっ?」
「あら」
見上げる先、枝に引っ掛かった上衣が裂けてしまった。
兎杜は思いもよらない失敗に硬直し、腕からぽとりと笠を落としてしまう。
「あらあら」
霜珠は落ちた笠を拾うと、少し腰を屈めて兎杜と目線を合わせて微笑む。小柄な霜珠だが、まだ兎杜よりは背が高い。
「も、申し訳ございません! 僕、なんてことを……!」
慌てて頭を下げようとすれば、ポトリ、ポトリ。また笠が腕から零れ落ちていく。
「あっ、えっ!」
兎杜の手が空回る。滅多に失敗などしない兎杜の、いつも落ち着き大人びている顔が強張っていく。
どうして、よりによって月妃たちの前でこんな失敗をしてしまうのか。兎杜は霜珠を目の前にして、どこにでもいる普通の子供のように立ち尽くしてしまう。
「いいのよ。上衣はわたくしが取りましょう」
霜珠は微笑み、まず笠を拾って侍女に手渡すと、背伸びをして枝に手を伸ばした。そして――
ビリッ。
「あら?」
今度は霜珠の袖が枝に引っ掛かり、袖が派手に破れてしまった。
「あらあら。やってしまいましたわ」
「ああ!? 僕のせいで……! あっ、薄月妃さま、う、腕が……!」
見上げる兎杜の目には、霜珠の白い腕が晒されていた。傷こそついていないが、豪快に破れた袖は肩まで裂けていた。
兎杜は大慌てで自分の上衣を脱ぐと、つま先立ちで霜珠の肩に掛けその肌を隠す。抱えていた笠は全て落としてしまったが、そんなことは気にしていられない。
「まあ、兎杜殿。お気遣いありがとうございます」
「い、いいえ! 僕こそ……!」
兎杜が一瞬見てしまったその肌は、本来なら絶対に目にするはずのないもの。そして、兎杜が決して見てはならないものだ。だけど兎杜の目には、すっかり焼き付いてしまった。小花園で日に晒され少し赤くなった手の甲と、真っ白なままの腕の差に目がチカチカしてしまう。
「本当に、僕、大変失礼いたしました‼」
兎杜は深々頭を下げると、足下に散らばった笠をかき集め、その場から走り去っていった。
「あら?」
「おやおや。可愛らしいじゃないか」
「兎杜ったら、笠を持って行ってしまったわね。麗麗、悪いけどあとで取りに行ってくれる?」
「かしこまりました。しかし、あんな兎杜は珍しいですね?」
月妃たちは不思議そうな顔で小さな背中を見送り、霜珠は肩に掛けられた気遣いに、ほころぶような笑顔を浮かべていた。
昼を少し過ぎた頃、凛花たちは朔月宮へ移動して皆で昼食を取った。
そして紫曄と双嵐の参加はここまで。晴嵐は水路の整備が楽しかったようで、生乾きのまま疲れも見せずに帰っていった。
それから雪嵐も、意外なことに「また手伝いにきます」と麗麗に告げていた。
「さて。主上らは帰ったが我らはもう少しやるぞ、兎杜」
「はい! 老師! 小花園へ戻りましょう!」
爺曽孫組は、この機会にしっかり記録を付け、見本として各区画の薬草を採取していくそうだ。この調査の後、輝月宮の書にあった『隠し庭の植栽図』ともしっかり見比べてもらう予定だ。
「朱歌さま、霜珠さま。お手伝いありがとうございました。午後からは小花園付きの者たちだけで手が足りそうですので、お二人にお茶をご馳走させてください」
これは暁月宮、薄月宮の体力自慢の侍女たちが張り切ってくれたおかげだ。思った以上に作業が進んだので、午後は刈った草の片付けだけで済む。
「まあ。ありがとうございます、凛花さま。わたくし、お二人ともっとお話しをしたかったんです」
「それは嬉しいな。麗麗、美味しいお茶を淹れられるようになったと聞いている。楽しみにしているよ」
「はい! 本日は、秋の始まりらしく金桂花茶を用意しております。お着替えをお済ませになりましたら、庭までお越しくださいませ」
泥と汗で汚れたままの姿でお茶に招くのは申し訳ない。一旦解散にして、あらためてお茶の時間に二人を招待することにした。
と言っても、凛花は二人の侍女たちに、どうか気軽に来てくれとお願いをした。通常、月妃同士のお茶会となればある程度の礼儀が求められる。しかし小花園で泥にまみれた仲だ。きっと二人ともさっぱりした装いで再訪してくれるだろう。
「朱歌さま、霜珠さま。またあとで、お待ちしておりますね!」
凛花は手を振り、二人をひとまず見送った。そして凛花だけでなく、麗麗と明明も大急ぎで湯を浴びる。お茶会の準備をしなければ。少し遅めの時間に約束したので、朱歌や霜珠には少し昼寝をする時間もある。
(でも、あのお二人も体力がありそうだし心配ないかな)
まだ乾かぬ髪を梳かしながら、凛花はいつもの庭で風に当たっていた。
「……金桂花の香り? 小花園にもあったわね」
今は蕾の時期。花が咲くにはまだ早い。
しかし凛花の鋭い嗅覚は、微かなその香りにも気が付いた。金桂花は秋を代表する花で、濃い黄色の小さな花を咲かせる、強くて華やかな香りが特徴の樹だ。
金桂花――金木犀とも呼ばれるが、月には『桂花』の巨木が生えているという伝説がある。その月から落ちた花が種となり、根付いたのが月魄国の金桂花だと言われている。
「だから月華宮には金桂花が多いのかな」
月魄国は月の女神を崇める国だ。神月殿に薬院があるのも、『月に住む兎が薬を作っている』という伝説があるからだ。
(でも金桂花は、私にはあまり馴染みがない香りね)
凛花の故郷、雲蛍州では、金桂花はあまり見られない。気候が違うせいか土地のせいなのか、雲蛍州に多いのは同じ桂花でも『銀桂花』のほうだ。
銀桂花は、金桂花とは違い淡く涼やかな香りを持つ花だ。同じく樹木で花の形も似ているが、色は白っぽい。
だから金桂花と対をなすように銀桂花と呼ばれるのだと思う。
「今頃、薬草畑の周りでいい香りをさせているのかな……」
懐かしい。普通は花が咲くまでその香りを楽しむことはできない。これは鼻が利く凛花だけの特権だ。膨らんでいく蕾を愛でながら、ひとり香りも密かに楽しんでいた。
凛花はまだ馴染まぬ金桂花の香りを嗅ぎ、物思いにふける。すると遠くから、早足で歩く麗麗の足音が聞こえてきた。
「凛花さま! お待たせしました。さあ、髪を拭きましょう」
「ふふ。麗麗もしっかり乾かさなくてはだめよ。お客様をお迎えするんだから」
「あっ、そうですね。では凛花さまを先に!」
麗麗はよく水を吸う手拭いを何枚も用意して、凛花の髪を梳き丁寧に拭いていく。まだ日が高く、風もあるので、しばらくここにいれば乾く。
「ねえ、麗麗? 月華宮って金桂花が多いのね?」
「はい。月妃の各宮にも必ず植えられていますし、中央の御花園にも沢山ございます。もう少しすると咲きはじめますね」
「銀桂花はないの?」
「銀ですか? ……申し訳ございません。どういった花でしょう? 金桂花なら街にも、それこそ国中にあると思うのですが……銀ですか。銀……桂花?」
むむ? と麗麗は眉根を寄せて首を捻る。一生懸命、記憶の中を探しているようだ。
「私の勉強不足のようです……。侍女失格……申し訳ございません」
「えっ、そんなことないわ!? 大丈夫よ、誰にだって知らないことはある。私なんてほら、麗麗が得意な武術のことはよく知らないし、得手不得手っていうやつね!」
月華宮には、金桂花はあるのに銀桂花はない?
それとも同じ時期に咲くけれど、地味なほうは目立たず知られていない可能性もある。金桂花は色も香りも派手だが、銀桂花はどちらも控えめだ。
「銀桂花はね、雲蛍州には沢山あるの。金桂花と似ているけれど、香りはあまり強くなくて、白く可愛らしい花を付けるんだけど……。ここにはないのかしらね」
「似ている白い花……? あ、もしかしたら神月殿にあったかもしれません。神月殿にも金桂花が沢山あるのですが、奥の庭に金桂花と対になる花があると聞いたことがあります」
「それは銀桂花かもしれないわね。神月殿に行くことがあったら見せてもらえるかしら」
「それでしたら、この秋にきっと見られますよ!」
「え?」
「来月には秋の『月祭』があります。凛花さまは主上とご一緒に、おそらく神月殿へ行くことになるでしょう。月祭では、神月殿の奥の宮で儀式があると聞いています。金桂花と対の花はその周辺にあるのではないでしょうか」
「儀式か……」
(神月殿の奥で儀式をやる場所といったら、この前の神月殿詣で泊まったあの宮じゃない?)
あの日は薬草園にばかり気を取られていたので、凛花の記憶の中には金桂花も銀桂花もない。まだ蕾が付く前だったせいもあるが、青々と茂る木々に紛れてしまっていたようだ。
「凛花さま、故郷ではどのように月祭を祝うのですか?」
「雲蛍州ではね、銀桂花酒と金桂花餅をお供えして、皆でお月見をするのよ」
月祭は、月と秋の収穫に感謝するお祭りだ。
だから金桂花餅の入れ物は、天星花の蔓で編んだ籠と決まっている。そして銀桂花酒のほうは、月が綺麗に映るよう、白い杯に注ぎ祭壇へ供える。
月が一番綺麗な中秋の名月、十五夜を楽しむお祭りだ。ちょうど秋の収穫とも重なるので、月の加護に感謝を捧げるのだ。
「まあ。雲蛍州らしいですね!」
「……ん? もしかして、月華宮の月祭は違うの?」
ふふ! と笑う麗麗の声に、凛花は星祭の祝い方も、故郷とは違っていたことを思い出す。
「そうですね。収穫という意味合いはあまりありません。皇都の月祭は、儀式としての意味合いが強くなっています。平たく言うと、皇帝の威信を見せるため、月の加護を称え、感謝を捧げる祝祭です」
「そうなのね!?」
聞いておいてよかった。
また皆と祭りの内容が噛み合わないところだった……!
「それじゃあ月妃の役割は? 星祭のように何か準備することはある? あっ、もしかして麗麗はもう準備を始めていた!?」
もしそうだったなら、小花園の『仕舞い準備会』などやっている場合ではなかったのでは? 朱歌や霜珠にも実は迷惑をかけてしまっていたり……
「いえいえ、大丈夫です! 星祭とは違い、月祭では月妃のお役目は特にありません。主上が祭壇で祈りを捧げる時に参列するだけですよ。民に広場を解放することもありませんし、星祭と比べたら準備は楽なものです」
「あっ、そうなのね。よかった……」
星祭のような賑やかさはないが、皇都中に金桂花の花や酒、茶、菓子などなどが溢れるそうだ。民はそれぞれに月を称え、感謝の月見をする。皇都と月華宮の月祭は、本当に儀式と祈りの祭りのようだ。
そして金桂花酒には、その年の出来で皇帝の治世を占う――なんて話もあるとか。金桂花酒は月の加護が溶けている酒。月の女神の祝福を分け与えてもらう特別な酒だそう。
(雲蛍州では、月祭のお酒は銀桂花酒だけど、皇都では金桂花酒なのね)
そんなところも違うのだなと、凛花は銀桂花の香りがしない月祭を少し寂しく思う。
「月祭の本番は、神月殿で皇帝が行う金桂花酒の奉納です。十五夜の夜に特別な奥宮で行う儀式だそうです。……多分、今回は凛花さまがご同行されることになると思います」
「ああ、さっき言っていたやつね?」
凛花は後ろを振り返る。髪はもう随分乾いてきた。
「はい。神月殿での儀式には、望月妃、もしくは最上位の妃が同行する決まりだそうです」
「それは……私ではないんじゃない?」
凛花は望月妃ではないし、最上位どころか最下位の朔月妃だ。その条件には当てはまらない。
「まあ、凛花さま。寵姫というのは、事実上、最上位の月妃です。主上にも望まれているのですから、もっと自信をお持ちください」
「ああ……。ええ、そうね」
紫曄にそう望まれているのは分かっている。凛花も嫌なわけではない。
だけど凛花には、それを受け入れ難い事情がある。
(麗麗には、『小花園に近いから』『こぢんまりとした朔月宮が性に合っているから』『改造した庭畑に愛着があるから』なんて言っているけど……)
でも、本当のところは違う。虎の血を繋いでしまうことが怖くて、凛花は本当の意味で紫曄の妃になれていないし、望月妃になる決心もまだついていない。
「ごめんなさいね、麗麗」
「いいえ、私こそ出過ぎたことを申しました。いくら主上が凛花さまを望んでいても、弦月妃さまの後ろ盾の力が衰えぬ限り、望月妃になることは現状まだ難しいでしょうし……」
「うん」
それが現実だ。紫曄の一言で強硬することは可能だが、それでは月華宮の表も裏も、真っ二つに割れてしまう。弦月妃の後ろ盾――董宦官の一派は、官吏だけでなく神月殿とも繋がっているのだ。
皇帝と官吏が働く表、皇后・望月妃と宦官が支配する後宮、月を奉る月官たちの神月殿。この三つが互いに支え合い、均衡を保っているのが月魄国だ。
どこか一つが力を持ちすぎてもいけないし、その力を喰われてもいけない。等しく力を持ち、正しく振るい、協力し合うのが理想の姿だ。
(今は逆ね。互いに喰らい合って、ギリギリのところで均衡を保っている)
「……私はこの朔月宮が好きだけど、でも、寵姫がそれを言うのは我儘だということも理解しているわ」
凛花は少し俯き加減で言う。寵愛をいただく妃として相応しい位があるのは当然だ。
凛花は最下位の『朔月妃』だが、通常、寵姫には高い位が用意されるもの。
出身や後ろ盾の強さも影響するが、とはいえ月の女神を敬う月魄国において、寵姫が『一番細い月』の名で呼ばれるのは異例中の異例。
皇帝の威厳にかかわると、そんな声があるのも事実だ。
「いっそのこと、凛花さまに特別な寵姫の称号でも授けてくださればいいのに。それなら朔月妃のままでも問題ないのではありませんか?」
いやでも、特別な称号は余計に嫉妬を買うか? 麗麗は首を傾げて呟く。
寵姫。神託の妃。皇帝の抱き枕。薬草姫。
凛花は様々な呼び名で呼ばれているが、公的な立場はあくまでも『最下位の月妃・朔月妃』だ。後宮で一番軽く、価値の低い妃の名である。
(称号か。『神託の妃』がそれに近いことは近いけど……)
凛花を後宮へ誘い、紫曄と出会わせた神託。
――月の女神さま。『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』とは、あなたはどのような意味でおっしゃったのですか?
月祭で、そんな風に月の女神に訊ねることができたらいいのに。凛花は思う。
月の女神の口が軽くなるのは、金桂花酒だろうか? それとも銀桂花酒だろうか。
(私はすっきりとした銀桂花酒のほうが飲みやすいけど……)
といっても、凛花はあまり酒に強くないので舐める程度だが。皇都の月祭で供されるのは、華やかで甘い金桂花酒だ。月の女神の好みも、そちらかもしれない。
(そういえば、主上とお酒を飲んだことってないな)
不眠がちな紫曄にとって、就寝前の酒はよくない。だけど月祭では、お供えの酒を必ず飲むことになる。さて。紫曄の好みは銀と金、どちらだろうか?
凛花はさらりと揺れる銀糸を指で弄び、月祭の夜をほんのり楽しみに思った。
◆
朔月宮を再訪した朱歌と霜珠は、月妃のお茶会にしては控えめの装いと化粧。
凛花は素直に受け止めてくれた二人に微笑むと、こぢんまりとした朔月宮の素朴な庭に案内した。
「お二人とも、ようこそいらっしゃいました!」
麗麗が用意したお茶は、予告通りの金桂花茶だ。香り高くほんのり甘いお茶に合わせる菓子も並んでいる。もう少ししたら、芋や栗など秋らしい素材の菓子も加わるのが楽しみだ。
「うん。麗麗、おいしいよ」
「ああ、いい香り。もうこんな季節ですのね」
朱歌は麗麗に笑顔を向けた。元神月殿衛士ながら、畑違いの侍女仕事に励む昔馴染みを褒める。霜珠も同様だ。彼女の侍女も、麗麗と似た経歴を持つ者が多い。
だからこそ、麗麗の淹れたお茶の味が胸を打ち、自然と顔がほころぶ。
「金桂花の季節といえば月祭だな。まあ、私などは神月殿で月官をしていた時より暇だろうが、星祭も終わったばかりというのにここは忙しないな」
「そうですね。それに月祭では何事もなければよいのですが……。弦月妃さまのお気持ちも分からなくはありませんけど、やり方がいけませんわ」
霜珠は眉をひそめ、ぽそりと言った。霜珠が知っていることは、弦月妃が奉納の花輪を隠し、他にも何かしたらしい……ということだけ。朱歌はもう少し踏み込んで、碧が何かをやらかしたことまでは知っている。
「あのような卑怯なやり方、わたくしは好きではありませんわ。やるのならば、正々堂々でなくては!」
愛らしく儚げな容姿だが、さすが陸家の娘だ。やはりそういう考え方なんだなと凛花はクスリと笑う。
「はは! そうだな。しかし月祭では、正々堂々も何も、そんな心配はいらないさ。儀式をするのは主上だし、その場は神月殿の奥。宦官や弦月妃さまの手出しは困難だよ」
それに……と、朱歌は神月殿の情報も凛花たちに話す。
明明の拉致と星祭をきっかけに、神月殿での副神月殿長一派の力は低下したらしい。碧を手引きしたのは弦月妃を推す宦官だ。表沙汰にならなくとも、何人かが地方に飛ばされ、碧は薬院で謹慎をしているという。
凛花には、研究三昧を楽しんでいる碧が目に浮かぶが。
「霜珠さまと凛花さまだから言ってしまうけど、物理的に首が飛んだ者もいるからね。さすがに弦月妃さまでも、謹慎継続で月祭は欠席じゃないかな」
朱歌がニヤリと笑い、意味ありげな視線を凛花に向けた。
「まあ。しばらくは大人しくお籠りしてくださるといいですね、凛花さま」
「ええ。本当に」
「弦月妃さまは、ご自身が謹慎程度で済んだことに感謝をするべきですわ」
『首が飛んだ』と血生臭い言葉が出たが、霜珠は全く気にしていない。それどころか、随分と甘い処分だと思っているよう。こういうところも、武の名門出身なのだなと感じさせる。しかし朱歌は、凛花の返しに対して穏やかに微笑むだけ。
そして凛花は、そっと目を伏せ深く頷く。
(そうね。隙を見せてしまった私にも責任はある)
弦月妃があんな杜撰な暴挙に出たのは、結局は凛花が舐められていたということだ。
月妃のせいで人生が変わった者がいる。朱歌はそれを『分かっているよね?』と凛花に伝えている。
(寵姫――望月妃とはそういうもの)
朔月妃とは段違いの、重い責任が伴う立場だ。もちろん朔月妃にも、州候の娘にも責任はある。だけどその重さも、種類も、向けられる視線も、期待の大きさも違う。
紫曄に望まれたから望月妃になる。『望月宮の書』が見たいから位に就く。そんな軽い気持ちでなってはいけないと、凛花はあらためて思った。
皇帝に添う皇后・望月妃とは、そのような軽い気持ちで耐えられる位ではないのだ。
(弦月妃さまは、それを分かっているのかな……)
凛花はそんなことを思い、ふんわり香る金桂花茶を飲み干した。
◆◆◆
三人はしばらくお茶とお喋りを楽しみ、日が傾く前にお開きとした。
凛花が二人を朔月宮の門まで案内し、それでは……と朱歌と霜珠を見送ろうとしたところで、耳に軽い足音が届きそちらに目を向けた。
「――……さま! お待ちくださいー!」
兎杜だ。小花園から走ってきたらしい兎杜がぱたぱたと駆け寄ってくる。よく見れば、両手に何かを抱えているがあれは何だろうか。
年齢のわりにしっかりしている兎杜が、月妃の宮の前を走るなんて珍しいこと。
三人の月妃と侍女たちは、走る兎杜が目の前に来るのを待つ。
「ハアッ、朔月妃さま、皆さま、失礼いたします! どなたかこちらをお忘れではないかと……っ!」
兎杜は息を切らし走りながら、いくつかの笠と、泥のついた上衣を掲げて見せた。いずれかの妃のものだろうと、急いで届けにきてくれたようだ。
「あら! 薄月宮のものですわ!」
小花園を出る時に外して、うっかり置いてきてしまったようだ。侍女の一人が失態に慌てた顔をしている。
それにしても、まだ少年の兎杜が抱えているものだから、顔が半分隠れているし、今にも落としてしまいそうで危なっかしい。 薄月宮の侍女が駆け寄ろうとしたが、霜珠がやんわり留めて兎杜に駆け寄った。と、その時、ふわっと風が吹いた。兎杜が抱える上衣の袖が生垣に引っ掛かり、しかし兎杜は気付かず――ビリリッ。
「えっ?」
「あら」
見上げる先、枝に引っ掛かった上衣が裂けてしまった。
兎杜は思いもよらない失敗に硬直し、腕からぽとりと笠を落としてしまう。
「あらあら」
霜珠は落ちた笠を拾うと、少し腰を屈めて兎杜と目線を合わせて微笑む。小柄な霜珠だが、まだ兎杜よりは背が高い。
「も、申し訳ございません! 僕、なんてことを……!」
慌てて頭を下げようとすれば、ポトリ、ポトリ。また笠が腕から零れ落ちていく。
「あっ、えっ!」
兎杜の手が空回る。滅多に失敗などしない兎杜の、いつも落ち着き大人びている顔が強張っていく。
どうして、よりによって月妃たちの前でこんな失敗をしてしまうのか。兎杜は霜珠を目の前にして、どこにでもいる普通の子供のように立ち尽くしてしまう。
「いいのよ。上衣はわたくしが取りましょう」
霜珠は微笑み、まず笠を拾って侍女に手渡すと、背伸びをして枝に手を伸ばした。そして――
ビリッ。
「あら?」
今度は霜珠の袖が枝に引っ掛かり、袖が派手に破れてしまった。
「あらあら。やってしまいましたわ」
「ああ!? 僕のせいで……! あっ、薄月妃さま、う、腕が……!」
見上げる兎杜の目には、霜珠の白い腕が晒されていた。傷こそついていないが、豪快に破れた袖は肩まで裂けていた。
兎杜は大慌てで自分の上衣を脱ぐと、つま先立ちで霜珠の肩に掛けその肌を隠す。抱えていた笠は全て落としてしまったが、そんなことは気にしていられない。
「まあ、兎杜殿。お気遣いありがとうございます」
「い、いいえ! 僕こそ……!」
兎杜が一瞬見てしまったその肌は、本来なら絶対に目にするはずのないもの。そして、兎杜が決して見てはならないものだ。だけど兎杜の目には、すっかり焼き付いてしまった。小花園で日に晒され少し赤くなった手の甲と、真っ白なままの腕の差に目がチカチカしてしまう。
「本当に、僕、大変失礼いたしました‼」
兎杜は深々頭を下げると、足下に散らばった笠をかき集め、その場から走り去っていった。
「あら?」
「おやおや。可愛らしいじゃないか」
「兎杜ったら、笠を持って行ってしまったわね。麗麗、悪いけどあとで取りに行ってくれる?」
「かしこまりました。しかし、あんな兎杜は珍しいですね?」
月妃たちは不思議そうな顔で小さな背中を見送り、霜珠は肩に掛けられた気遣いに、ほころぶような笑顔を浮かべていた。
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