月華後宮伝

織部ソマリ

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虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う

虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う-3

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 ◆


 昼を少し過ぎた頃、凛花たちは朔月宮へ移動して皆で昼食を取った。
 そして紫曄と双嵐の参加はここまで。晴嵐は水路の整備が楽しかったようで、生乾きのまま疲れも見せずに帰っていった。
 それから雪嵐も、意外なことに「また手伝いにきます」と麗麗に告げていた。

「さて。主上らは帰ったが我らはもう少しやるぞ、兎杜」
「はい! 老師! 小花園へ戻りましょう!」

 爺曽孫じじひまご組は、この機会にしっかり記録を付け、見本として各区画の薬草を採取していくそうだ。この調査の後、輝月宮の書にあった『隠し庭の植栽図しょくさいず』ともしっかり見比べてもらう予定だ。

「朱歌さま、霜珠さま。お手伝いありがとうございました。午後からは小花園付きの者たちだけで手が足りそうですので、お二人にお茶をご馳走させてください」

 これは暁月宮、薄月宮の体力自慢の侍女じじょたちが張り切ってくれたおかげだ。思った以上に作業が進んだので、午後は刈った草の片付けだけで済む。

「まあ。ありがとうございます、凛花さま。わたくし、お二人ともっとお話しをしたかったんです」
「それは嬉しいな。麗麗、美味しいお茶を淹れられるようになったと聞いている。楽しみにしているよ」
「はい! 本日は、秋の始まりらしく金桂花茶を用意しております。お着替えをお済ませになりましたら、庭までお越しくださいませ」

 泥と汗で汚れたままの姿でお茶に招くのは申し訳ない。一旦解散にして、あらためてお茶の時間に二人を招待することにした。
 と言っても、凛花は二人の侍女じじょたちに、どうか気軽に来てくれとお願いをした。通常、月妃同士のお茶会となればある程度の礼儀が求められる。しかし小花園で泥にまみれた仲だ。きっと二人ともさっぱりした装いで再訪してくれるだろう。

「朱歌さま、霜珠さま。またあとで、お待ちしておりますね!」

 凛花は手を振り、二人をひとまず見送った。そして凛花だけでなく、麗麗と明明も大急ぎで湯を浴びる。お茶会の準備をしなければ。少し遅めの時間に約束したので、朱歌や霜珠には少し昼寝をする時間もある。

(でも、あのお二人も体力がありそうだし心配ないかな)

 まだ乾かぬ髪をかしながら、凛花はいつもの庭で風に当たっていた。

「……金桂花の香り? 小花園にもあったわね」

 今は蕾の時期。花が咲くにはまだ早い。
 しかし凛花の鋭い嗅覚は、微かなその香りにも気が付いた。金桂花は秋を代表する花で、濃い黄色の小さな花を咲かせる、強くて華やかな香りが特徴の樹だ。
 金桂花――金木犀きんもくせいとも呼ばれるが、月には『桂花けいか』の巨木が生えているという伝説がある。その月から落ちた花が種となり、根付いたのが月魄国の金桂花だと言われている。

「だから月華宮には金桂花が多いのかな」

 月魄国は月の女神を崇める国だ。神月殿に薬院やくいんがあるのも、『月に住むうさぎが薬を作っている』という伝説があるからだ。

(でも金桂花は、私にはあまり馴染みがない香りね)

 凛花の故郷、雲蛍州では、金桂花はあまり見られない。気候が違うせいか土地のせいなのか、雲蛍州に多いのは同じ桂花でも『銀桂花ぎんけいか』のほうだ。
 銀桂花は、金桂花とは違い淡く涼やかな香りを持つ花だ。同じく樹木で花の形も似ているが、色は白っぽい。
 だから金桂花とついをなすように桂花と呼ばれるのだと思う。

「今頃、薬草畑の周りでいい香りをさせているのかな……」

 懐かしい。普通は花が咲くまでその香りを楽しむことはできない。これは鼻が利く凛花だけの特権だ。膨らんでいく蕾を愛でながら、ひとり香りも密かに楽しんでいた。
 凛花はまだ馴染まぬ金桂花の香りを嗅ぎ、物思いにふける。すると遠くから、早足で歩く麗麗の足音が聞こえてきた。

「凛花さま! お待たせしました。さあ、髪を拭きましょう」
「ふふ。麗麗もしっかり乾かさなくてはだめよ。お客様をお迎えするんだから」
「あっ、そうですね。では凛花さまを先に!」

 麗麗はよく水を吸う手拭いを何枚も用意して、凛花の髪をき丁寧に拭いていく。まだ日が高く、風もあるので、しばらくここにいれば乾く。

「ねえ、麗麗? 月華宮ここって金桂花が多いのね?」
「はい。月妃の各宮にも必ず植えられていますし、中央の御花園ぎょかえんにも沢山ございます。もう少しすると咲きはじめますね」
「銀桂花はないの?」
ですか? ……申し訳ございません。どういった花でしょう? 金桂花なら街にも、それこそ国中にあると思うのですが……銀ですか。銀……桂花?」

 むむ? と麗麗は眉根を寄せて首を捻る。一生懸命、記憶の中を探しているようだ。

「私の勉強不足のようです……。侍女じじょ失格……申し訳ございません」
「えっ、そんなことないわ!? 大丈夫よ、誰にだって知らないことはある。私なんてほら、麗麗が得意な武術のことはよく知らないし、得手不得手っていうやつね!」 

 月華宮には、金桂花はあるのに銀桂花はない?
 それとも同じ時期に咲くけれど、地味なほうは目立たず知られていない可能性もある。金桂花は色も香りも派手だが、銀桂花はどちらも控えめだ。

「銀桂花はね、雲蛍州には沢山あるの。金桂花と似ているけれど、香りはあまり強くなくて、白く可愛らしい花を付けるんだけど……。ここにはないのかしらね」
「似ている白い花……? あ、もしかしたら神月殿にあったかもしれません。神月殿にも金桂花が沢山あるのですが、奥の庭に金桂花とついになる花があると聞いたことがあります」
「それは銀桂花かもしれないわね。神月殿に行くことがあったら見せてもらえるかしら」
「それでしたら、この秋にきっと見られますよ!」
「え?」
「来月には秋の『月祭つきまつり』があります。凛花さまは主上とご一緒に、おそらく神月殿へ行くことになるでしょう。月祭つきまつりでは、神月殿の奥の宮で儀式があると聞いています。金桂花と対の花はその周辺にあるのではないでしょうか」
「儀式か……」
(神月殿の奥で儀式をやる場所といったら、この前の神月殿詣で泊まったあの宮じゃない?)

 あの日は薬草園にばかり気を取られていたので、凛花の記憶の中には金桂花も銀桂花もない。まだ蕾が付く前だったせいもあるが、青々と茂る木々に紛れてしまっていたようだ。

「凛花さま、故郷ではどのように月祭つきまつりを祝うのですか?」
「雲蛍州ではね、銀桂花酒と金桂花餅をお供えして、皆でお月見をするのよ」

 月祭つきまつりは、月と秋の収穫に感謝するお祭りだ。
 だから金桂花餅の入れ物は、天星花てんせいかつるで編んだかごと決まっている。そして銀桂花酒のほうは、月が綺麗に映るよう、白い杯に注ぎ祭壇へ供える。
 月が一番綺麗な中秋の名月、十五夜を楽しむお祭りだ。ちょうど秋の収穫とも重なるので、月の加護に感謝を捧げるのだ。

「まあ。雲蛍州らしいですね!」
「……ん? もしかして、月華宮の月祭つきまつりは違うの?」

 ふふ! と笑う麗麗の声に、凛花は星祭の祝い方も、故郷とは違っていたことを思い出す。

「そうですね。収穫という意味合いはあまりありません。皇都こうと月祭つきまつりは、儀式としての意味合いが強くなっています。平たく言うと、皇帝の威信を見せるため、月の加護を称え、感謝を捧げる祝祭です」
「そうなのね!?」

 聞いておいてよかった。
 また皆と祭りの内容が噛み合わないところだった……!

「それじゃあ月妃の役割は? 星祭のように何か準備することはある? あっ、もしかして麗麗はもう準備を始めていた!?」

 もしそうだったなら、小花園の『仕舞い準備会』などやっている場合ではなかったのでは? 朱歌や霜珠にも実は迷惑をかけてしまっていたり……

「いえいえ、大丈夫です! 星祭とは違い、月祭つきまつりでは月妃のお役目は特にありません。主上が祭壇で祈りを捧げる時に参列するだけですよ。民に広場を解放することもありませんし、星祭と比べたら準備は楽なものです」
「あっ、そうなのね。よかった……」

 星祭のような賑やかさはないが、皇都こうと中に金桂花の花や酒、茶、菓子などなどが溢れるそうだ。民はそれぞれに月を称え、感謝の月見をする。皇都こうとと月華宮の月祭つきまつりは、本当に儀式と祈りの祭りのようだ。
 そして金桂花酒には、その年の出来で皇帝の治世を占う――なんて話もあるとか。金桂花酒は月の加護が溶けている酒。月の女神の祝福を分け与えてもらう特別な酒だそう。

(雲蛍州では、月祭つきまつりのお酒は銀桂花酒だけど、皇都こうとでは金桂花酒なのね)

 そんなところも違うのだなと、凛花は銀桂花の香りがしない月祭つきまつりを少し寂しく思う。

月祭つきまつりは、神月殿で皇帝が行う金桂花酒の奉納ほうのうです。十五夜の夜に特別な奥宮で行う儀式だそうです。……多分、今回は凛花さまがご同行されることになると思います」
「ああ、さっき言っていたやつね?」

 凛花は後ろを振り返る。髪はもう随分乾いてきた。

「はい。神月殿での儀式には、望月妃、もしくは最上位の妃が同行する決まりだそうです」
「それは……私ではないんじゃない?」

 凛花は望月妃ではないし、最上位どころか最下位の朔月妃だ。その条件には当てはまらない。

「まあ、凛花さま。寵姫ちょうきというのは、事実上、最上位の月妃です。主上にも望まれているのですから、もっと自信をお持ちください」
「ああ……。ええ、そうね」

 紫曄にそう望まれているのは分かっている。凛花も嫌なわけではない。
 だけど凛花には、それを受け入れ難い事情がある。

(麗麗には、『小花園に近いから』『こぢんまりとした朔月宮が性に合っているから』『改造した庭畑に愛着があるから』なんて言っているけど……)

 でも、本当のところは違う。虎の血を繋いでしまうことが怖くて、凛花は本当の意味で紫曄の妃になれていないし、望月妃になる決心もまだついていない。

「ごめんなさいね、麗麗」
「いいえ、私こそ出過ぎたことを申しました。いくら主上が凛花さまを望んでいても、弦月妃さまの後ろ盾の力が衰えぬ限り、望月妃になることは現状まだ難しいでしょうし……」
「うん」

 それが現実だ。紫曄の一言で強硬することは可能だが、それでは月華宮の表も裏も、真っ二つに割れてしまう。弦月妃の後ろ盾――董宦官の一派は、官吏だけでなく神月殿とも繋がっているのだ。
 皇帝と官吏が働く表、皇后こうごう・望月妃と宦官が支配する後宮、月を奉る月官げっかんたちの神月殿。この三つが互いに支え合い、均衡を保っているのが月魄国だ。
 どこか一つが力を持ちすぎてもいけないし、その力を喰われてもいけない。等しく力を持ち、正しく振るい、協力し合うのが理想の姿だ。

(今は逆ね。互いに喰らい合って、ギリギリのところで均衡を保っている)
「……私はこの朔月宮が好きだけど、でも、寵姫ちょうきがそれを言うのは我儘わがままだということも理解しているわ」

 凛花は少し俯き加減で言う。寵愛をいただく妃として相応しい位があるのは当然だ。
 凛花は最下位の『朔月妃』だが、通常、寵姫ちょうきには高い位が用意されるもの。
 出身や後ろ盾の強さも影響するが、とはいえ月の女神を敬う月魄国において、寵姫ちょうきが『一番細い月』の名で呼ばれるのは異例中の異例。
 皇帝の威厳にかかわると、そんな声があるのも事実だ。

「いっそのこと、凛花さまに特別な寵姫ちょうきの称号でも授けてくださればいいのに。それなら朔月妃のままでも問題ないのではありませんか?」

 いやでも、特別な称号は余計に嫉妬しっとを買うか? 麗麗は首を傾げて呟く。
 寵姫ちょうき。神託の妃。皇帝の抱き枕。薬草姫。
 凛花は様々な呼び名で呼ばれているが、公的な立場はあくまでも『最下位の月妃・朔月妃』だ。後宮で一番軽く、価値の低い妃の名である。

(称号か。『神託の妃』がそれに近いことは近いけど……)

 凛花を後宮へ誘い、紫曄と出会わせた神託。
 ――月の女神さま。『白銀の虎が膝から下りる時、月が満ちる』とは、あなたはどのような意味でおっしゃったのですか?
 月祭つきまつりで、そんな風に月の女神に訊ねることができたらいいのに。凛花は思う。
 月の女神の口が軽くなるのは、金桂花酒だろうか? それとも銀桂花酒だろうか。

(私はすっきりとした銀桂花酒のほうが飲みやすいけど……)

 といっても、凛花はあまり酒に強くないので舐める程度だが。皇都こうと月祭つきまつりで供されるのは、華やかで甘い金桂花酒だ。月の女神の好みも、そちらかもしれない。

(そういえば、主上とお酒を飲んだことってないな)

 不眠がちな紫曄にとって、就寝前の酒はよくない。だけど月祭つきまつりでは、お供えの酒を必ず飲むことになる。さて。紫曄の好みは銀と金、どちらだろうか?
 凛花はさらりと揺れる銀糸を指で弄び、月祭つきまつりの夜をほんのり楽しみに思った。


 ◆


 朔月宮を再訪した朱歌と霜珠は、月妃のお茶会にしては控えめの装いと化粧。
 凛花は素直に受け止めてくれた二人に微笑むと、こぢんまりとした朔月宮の素朴な庭に案内した。

「お二人とも、ようこそいらっしゃいました!」

 麗麗が用意したお茶は、予告通りの金桂花茶だ。香り高くほんのり甘いお茶に合わせる菓子も並んでいる。もう少ししたら、芋や栗など秋らしい素材の菓子も加わるのが楽しみだ。

「うん。麗麗、おいしいよ」
「ああ、いい香り。もうこんな季節ですのね」  

 朱歌は麗麗に笑顔を向けた。元神月殿衛士えじながら、畑違いの侍女じじょ仕事に励む昔馴染みを褒める。霜珠も同様だ。彼女の侍女じじょも、麗麗と似た経歴を持つ者が多い。
 だからこそ、麗麗の淹れたお茶の味が胸を打ち、自然と顔がほころぶ。

「金桂花の季節といえば月祭つきまつりだな。まあ、私などは神月殿で月官げっかんをしていた時より暇だろうが、星祭も終わったばかりというのにここは忙しないな」
「そうですね。それに月祭つきまつりでは何事もなければよいのですが……。弦月妃さまのお気持ちも分からなくはありませんけど、やり方がいけませんわ」

 霜珠は眉をひそめ、ぽそりと言った。霜珠が知っていることは、弦月妃が奉納ほうのうの花輪を隠し、他にも何かしたらしい……ということだけ。朱歌はもう少し踏み込んで、碧が何かをやらかしたことまでは知っている。

「あのような卑怯なやり方、わたくしは好きではありませんわ。やるのならば、正々堂々でなくては!」

 愛らしくはかなげな容姿だが、さすが陸家の娘だ。やはりそういう考え方なんだなと凛花はクスリと笑う。

「はは! そうだな。しかし月祭つきまつりでは、正々堂々も何も、そんな心配はいらないさ。儀式をするのは主上だし、その場は神月殿の奥。宦官や弦月妃さまの手出しは困難だよ」

 それに……と、朱歌は神月殿の情報も凛花たちに話す。
 明明の拉致らちと星祭をきっかけに、神月殿での副神月殿長一派の力は低下したらしい。碧を手引きしたのは弦月妃を推す宦官だ。表沙汰にならなくとも、何人かが地方に飛ばされ、碧は薬院やくいんで謹慎をしているという。
 凛花には、研究三昧を楽しんでいる碧が目に浮かぶが。

「霜珠さまと凛花さまだから言ってしまうけど、物理的に首が飛んだ者もいるからね。さすがに弦月妃さまでも、謹慎継続で月祭つきまつりは欠席じゃないかな」

 朱歌がニヤリと笑い、意味ありげな視線を凛花に向けた。

「まあ。しばらくは大人しくお籠りしてくださるといいですね、凛花さま」
「ええ。本当に」
「弦月妃さまは、ご自身が謹慎程度で済んだことに感謝をするべきですわ」

『首が飛んだ』と血生臭い言葉が出たが、霜珠は全く気にしていない。それどころか、随分と甘い処分だと思っているよう。こういうところも、武の名門出身なのだなと感じさせる。しかし朱歌は、凛花の返しに対して穏やかに微笑むだけ。
 そして凛花は、そっと目を伏せ深く頷く。

(そうね。隙を見せてしまった私にも責任はある)

 弦月妃があんな杜撰ずさんな暴挙に出たのは、結局は凛花が舐められていたということだ。
 月妃のせいで人生が変わった者がいる。朱歌はそれを『分かっているよね?』と凛花に伝えている。

寵姫ちょうき――望月妃とはそういうもの)

 朔月妃とは段違いの、重い責任が伴う立場だ。もちろん朔月妃にも、州候しゅうこうの娘にも責任はある。だけどその重さも、種類も、向けられる視線も、期待の大きさも違う。
 紫曄に望まれたから望月妃になる。『望月宮の書』が見たいから位に就く。そんな軽い気持ちでなってはいけないと、凛花はあらためて思った。
 皇帝に添う皇后こうごう・望月妃とは、そのような軽い気持ちで耐えられる位ではないのだ。

(弦月妃さまは、それを分かっているのかな……)

 凛花はそんなことを思い、ふんわり香る金桂花茶を飲み干した。


 ◆◆◆


 三人はしばらくお茶とお喋りを楽しみ、日が傾く前にお開きとした。
 凛花が二人を朔月宮の門まで案内し、それでは……と朱歌と霜珠を見送ろうとしたところで、耳に軽い足音が届きそちらに目を向けた。

「――……さま! お待ちくださいー!」

 兎杜だ。小花園から走ってきたらしい兎杜がぱたぱたと駆け寄ってくる。よく見れば、両手に何かを抱えているがあれは何だろうか。
 年齢のわりにしっかりしている兎杜が、月妃の宮の前を走るなんて珍しいこと。
 三人の月妃と侍女じじょたちは、走る兎杜が目の前に来るのを待つ。

「ハアッ、朔月妃さま、皆さま、失礼いたします! どなたかこちらをお忘れではないかと……っ!」

 兎杜は息を切らし走りながら、いくつかの笠と、泥のついた上衣を掲げて見せた。いずれかの妃のものだろうと、急いで届けにきてくれたようだ。

「あら! 薄月宮わたくしのものですわ!」

 小花園を出る時に外して、うっかり置いてきてしまったようだ。侍女じじょの一人が失態に慌てた顔をしている。
 それにしても、まだ少年の兎杜が抱えているものだから、顔が半分隠れているし、今にも落としてしまいそうで危なっかしい。 薄月宮の侍女じじょが駆け寄ろうとしたが、霜珠がやんわり留めて兎杜に駆け寄った。と、その時、ふわっと風が吹いた。兎杜が抱える上衣の袖が生垣に引っ掛かり、しかし兎杜は気付かず――ビリリッ。

「えっ?」
「あら」

 見上げる先、枝に引っ掛かった上衣が裂けてしまった。
 兎杜は思いもよらない失敗に硬直し、腕からぽとりと笠を落としてしまう。

「あらあら」

 霜珠は落ちた笠を拾うと、少し腰を屈めて兎杜と目線を合わせて微笑む。小柄な霜珠だが、まだ兎杜よりは背が高い。

「も、申し訳ございません! 僕、なんてことを……!」

 慌てて頭を下げようとすれば、ポトリ、ポトリ。また笠が腕から零れ落ちていく。

「あっ、えっ!」

 兎杜の手が空回る。滅多に失敗などしない兎杜の、いつも落ち着き大人びている顔が強張っていく。
 どうして、よりによって月妃たちの前でこんな失敗をしてしまうのか。兎杜は霜珠を目の前にして、どこにでもいる普通の子供のように立ち尽くしてしまう。

「いいのよ。上衣はわたくしが取りましょう」

 霜珠は微笑み、まず笠を拾って侍女じじょに手渡すと、背伸びをして枝に手を伸ばした。そして――
 ビリッ。

「あら?」

 今度は霜珠の袖が枝に引っ掛かり、袖が派手に破れてしまった。

「あらあら。やってしまいましたわ」
「ああ!? 僕のせいで……! あっ、薄月妃さま、う、腕が……!」

 見上げる兎杜の目には、霜珠の白い腕が晒されていた。傷こそついていないが、豪快に破れた袖は肩まで裂けていた。
 兎杜は大慌てで自分の上衣を脱ぐと、つま先立ちで霜珠の肩に掛けその肌を隠す。抱えていた笠は全て落としてしまったが、そんなことは気にしていられない。

「まあ、兎杜殿。お気遣いありがとうございます」
「い、いいえ! 僕こそ……!」

 兎杜が一瞬見てしまったその肌は、本来なら絶対に目にするはずのないもの。そして、兎杜が決して見てはならないものだ。だけど兎杜の目には、すっかり焼き付いてしまった。小花園で日に晒され少し赤くなった手の甲と、真っ白なままの腕の差に目がチカチカしてしまう。 

「本当に、僕、大変失礼いたしました‼」

 兎杜は深々頭を下げると、足下に散らばった笠をかき集め、その場から走り去っていった。

「あら?」
「おやおや。可愛らしいじゃないか」
「兎杜ったら、笠を持って行ってしまったわね。麗麗、悪いけどあとで取りに行ってくれる?」
「かしこまりました。しかし、あんな兎杜は珍しいですね?」

 月妃たちは不思議そうな顔で小さな背中を見送り、霜珠は肩に掛けられた気遣いに、ほころぶような笑顔を浮かべていた。


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