月華後宮伝

織部ソマリ

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虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う

虎猫姫は冷徹皇帝と花に酔う-2

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 難しい顔をしていることが多い雪嵐が微笑んでいる。あれは気安い朱歌にだからこそ向ける顔なのかもしれない。ふと、凛花が周囲を見ると、何人かの宮女が雪嵐の珍しい笑顔にぽーっと見惚れていた。だがそこで、きゃっと小さな悲鳴が上がった。さっそく水路に入りたい晴嵐が、ぽんぽん靴を脱ぎ、衣を脱ぎ始めているではないか。

「ちょっ、晴嵐さま!?」

 凛花と麗麗はぎょっとして、朱歌は馬鹿だなと笑い飛ばし、霜珠は光の消えた目で遠くを見つめた。霜珠は武の名門である実家で、大柄で筋肉と語らう暑苦しい一族の男たちに囲まれ育った。そのため男性の上半身など見慣れており、むしろうんざりなのだ。
 しかし、小花園付きの宮女たちは違う。明明も皆も男性に慣れていない妙齢みょうれいの女性だ。彼女たちは顔を真っ赤に染め、顔を逸らしつつチラチラ視線を向けている。

「晴嵐! ここは後宮ですよ、もう少し自重しなさい」
「ん? ああ」

 いつもの感覚でつい脱いでしまったが、そういえばここは女だらけの場所だったか――そんなことを呟いて、晴嵐は肩を抜いた衣を大人しく直す。

「でも全員、紫曄の嫁みたいなものだろう?」

 たしかに形式上はその通りなのだが、嫁とは随分違う。皇帝によっては、月妃だけでなく、日替わりで宮女を召し上げていたと聞くが、『女嫌い』とも言われた紫曄は違う。月妃でさえ、凛花以外には指一本触れていないのだから。

「まぁったく、晴嵐は相変わらずじゃなあ。主の嫁のような女人というなら、もっと礼を尽くさなければならんぞ?」
「そうですよ、晴嵐さま! もし誰かが覗いてたりして、朔月妃さまに要らぬ嫌疑がかかったりしたらどうするのですか!」

 老師は呆れ半分に茶化し、兎杜は小さな体で大きな体の晴嵐を叱る。いつものことなのだろう、晴嵐は気分を害した様子もなく、「そうだな」と頷きその叱責を受け止めている。
 たしかに兎杜の指摘はもっともだ。少し前、ここには董家派の宦官と月官げっかんが視察に訪れた事実がある。後宮とはいえ、外部の目がないとは言い切れない。
 噂とは恐ろしい。くだらない噂でも、馬鹿にはできない強い力を持っているものだ。
 この場面だって、『余人の立ち入りが禁止されている小花園で、朔月妃が半裸の皇帝の側近と密会していた』と、面白おかしい噂に仕立て上げられたとしたら。
 それを耳にした何割かの人々はそれを信じたり、真偽は別として面白半分に広めたりするだろう。もちろんその中には、噂を広める目的を持つ者もいるのだが。

「――凛花が俺以外の抱き枕になるとは思わんが、晴嵐はもっときっちり着なおせ。宮女たちには目の毒だ」

 紫曄は凛花の肩をぐいと抱き、晴嵐の肌から目を逸らさせる。
『俺以外の抱き枕になるとは思わん』とは言っても、他の男に少しでも関心を持つことすら許したくない。皇帝とは思えないなんて可愛らしい嫉妬しっとなのか。
 凛花はつい、クスリと笑ってしまった。すると紫曄は、む、と小さく拗ねたような顔を見せ、次いでニヤリと笑う。

「凛花。他の男の肌を見る必要などないだろう? 朝まで一緒だったが、物足りなかったか?」

 そう凛花の耳元で呟いたが、幸か不幸か紫曄の声はよく通る。
 いいや、これはワザとだ。皇帝にその側近、月妃と高位の者が揃っている。いつもはお喋りをしながら作業をする宮女たちも、口を閉じ、いつ何を命じられてもいいように耳も澄ませているのだから。

「宮へ戻るか? それとも隠し庭に籠ろうか」
「主上……!」

 凛花は紫曄の艶のあるこの声が好きだが、今はやめてほしい。

(恥ずかしいでしょう……!?)

 今朝まで一緒だったのは本当だ。
 でも物足りなかったのは紫曄のほうだろうと凛花は思う。昨晩から今朝に掛けては、少し肌寒かった。朔月宮を訪れた紫曄は、凛花の寝衣をさっさとほどき、虎となった凛花をすぐに抱きしめたくらい。
 そして朝は朝で、裸体の凛花をこれでもかと抱き込んでいた。紫曄は寒がりなのだ。
 それに……と凛花が周囲を見回すと、双嵐や兎杜は『またそういう誤解させることを言って』と呆れ顔で、宮女たちは再び顔を真っ赤に染め、しかし目を輝かせている。

『噂には聞いていましたが、眼福を通り越し本当に目の毒です』
『昼間から刺激が強すぎて困ってしまいます……』
『宮の房室へやに戻ったら、皆にこの話をしなくっちゃ……!』

 そんなことを考えているであろう顔だ。決して大きな声では言えないが、仲睦まじい主たちの刺激的な噂話は、朔月宮の宮女たちにとって密かな楽しみになっている。

「もう、主上! どうしてそういう言い方ばかりされるんですか……っ」
「照れるお前を見るのが楽しいからだが?」

 何が悪い、と紫曄は意地悪な顔でニヤリと笑う。

「も、もう寝かしつけてあげませんよ……!?」
「ん? お前こそ、撫でられるのが好きなくせにいいのか? 凛花」

 それは虎の時ですから! と、凛花はますます頬を赤らめる。

(無駄に艶っぽい声で囁かないで……!)

 虎の聡耳さとみみにその声は毒だ。だが紫曄のこれは、もしかしたら無意識に欲求不満を訴えているのかもしれない。
 凛花という、柔らかな極上の抱き枕を手に入れ、悩まされていた不眠症を治すどころか快眠まで得た。食欲も戻り、食事を楽しむこともできている。
 だけど、睡眠と食欲に次ぐ、もう一つの欲が満たされていない。それを満たす前に凛花を横取りされたくない。
 だから『誰も取ったりしませんよ』という視線にまで、自分のものだと主張し、子虎のように威嚇いかくをしてしまっているようにも思える。

(……だとしたら、やっぱりちょっと可愛いかも)

 凛花は鳩尾みぞおちにくすぐったさを感じて、笠の下の耳をじわりと赤くした。


「ところで凛花。隠し庭のほうはどうなっている?」

 割り当てられた作業に向かう皆を気にしながら、紫曄はこそりと凛花に耳打ちした。

「まだ手を付けていません」

『隠し庭』とは、生垣の奥にある、神月殿にあったのとそっくりなのことだ。
 小花園自体の整備はほぼ終わり、薬草畑としてやっと活用できそうなところまできている。しかし、あの場所は別だ。
 後宮では栽培・所持が禁止されている植物があり、希少であっても正直、凛花の手に余るものばかり。中には存在自体が信じられないものまである。

「たぶん雑草が生い茂っていると思うんですよね……。どうしましょう」

 あの場所の手入れができるのは、薬草、毒草の知識があり、秘密を守ることができる人間でなければならない。すでに『隠し庭』の存在を知っているのは、凛花と紫曄、それから発見時、凛花と一緒にいた明明だけ。
 と言っても、明明もあの庭がどういうものなのかまでは知らない。彼女は薬屋の娘だし、薬草や毒草に関する知識、経験もある。後宮の負の部分に触れてしまう怖さも知っているので、迂闊に首を突っ込んだり、誰かに話したりもしないだろう。自分自身の体質以外にも秘密を抱えてしまった凛花にとって、なかなか理想的な侍女じじょだ。

「明明……いいえ、駄目ね」

 明明は隠し庭の『骨芙蓉こつふよう』の件で、神月殿に連れ去られるという怖い思いをしている。これ以上、危険な目に遭わせる可能性のあることは避けてあげたい。
 あれは星祭の準備に追われている頃だった。
 小花園の調査を進める中で、天星花てんせいかが絡んだ木々に囲われた、奇妙な場所を見つけた。そこには小さなほこらと荒れた畑があり、後に神月殿の隠された薬草園――『隠し庭』とそっくりだということも判明する。
 その小花園の『隠し庭』で見つかったのが、薬草の神、瑶姫ようひめが創り出したといわれている薬草で、猛毒を持つ『骨芙蓉こつふよう』だ。非常に珍しい薬草である骨芙蓉こつふようは、雲蛍州よりも北方の険しい崖で僅かに採れるもの。それが皇都こうとの畑で栽培されていたなんてと、凛花には二重の驚きだった。
 だが骨芙蓉こつふようは、後宮で『禁止薬』とされている薬の材料となる、『禁止薬草』のひとつに含まれている。禁止薬とは具体的に、『媚薬びやく』『避妊薬ひにんやく』『堕胎薬だたいやく』など、生殖という人の本能にかかわる部分に作用する薬だ。
 そして、月夜に虎化する『本能』を抑え込みたい凛花にとって、鍵となりそうな薬草でもある。

「――隠し庭を任せられそうな麗麗は双嵐のお二人と水路だし、どうしよう」

 高く伸びているだろう雑草の処理をするなら、背が高く力もある麗麗に協力してもらうのがいい。それに、後宮において、凛花の一番の味方は彼女だ。
 もちろん紫曄も一番の味方と言えるが、凛花の感覚的では、味方というよりも共犯者に近い。凛花の全ての秘密を知っているのは、紫曄だけだ。

(でも、麗麗には虎化のことを秘密にしているし、隠し庭をどう説明すればいい?)
「うーん……」
「凛花。ひとまず隠し庭に手を入れるのは俺がやろう」
「えっ」
「老師が早く見たがっているし、仕事を割り振られていないのは俺だけだろう? 一人だけのんびりする気はないしな」

 紫曄は立て掛けてあった鎌を手にし、むこうで薬草観察をしている老師と兎杜を呼ぶ。

「そうですね。ひとまず老師に見ていただきましょう! よし。では主上、こちらもどうぞ」

 凛花は背伸びで腕を伸ばし、用意しておいた笠を紫曄にかぶせた。顎下で結ぶ紐は少し長めに継いである。

「ふふ! 意外と似合いますね。主上も日除けの笠しっかりかぶらないといけませんよ? あ、首周りに手拭いも巻きましょうか。主上って肌が白いから日焼けには弱そう」
「そうでもない。お前こそしっかり巻いておけ」

 緩んでいた凛花の手拭いを紫曄が巻き直してやる。

「ああ、ありがとうございま――」
「これを巻けと言ったのは麗麗か?」
「はい。私もいつも自分で巻くんですけど、今日は麗麗がしっかり巻けって……」

 ハッと首の後ろ、うなじを手でなぞる。手触りでは分からないが、ここは凛花からは見えない場所だ。

「主上、また悪戯しましたね……!?」
「ははは、お前の肌は赤くなりやすいからな」

 そこにあるのは昨晩、抱き枕に残した口づけの痕だ。紫曄は恨めしげに見上げる凛花の頬に、ちゅと唇を寄せ「しっかり隠しておけ」と言う。
 それぞれ作業をはじめている面々の表情は、『ああ、またやってる』と苦笑する側近たちと、『本当に仲がいいな』と笑う侍女じじょたち、頬を染める宮女たちと様々だ。
 この分では今夜、それぞれの宮で二人の睦まじい様子が語られ、新しい噂話が後宮を巡ることになりそうだ。

「主上! だから皆の前ではほどほどに……!」
「程々ならいいんだな?」

 ニヤリと笑う紫曄は本当に上機嫌だ。
 朝まで朔月宮にいて、午前のうちにまた凛花の顔を見られることなど滅多にない。
 この月華宮は、表も裏もまだ平穏ではなく、紫曄のもとには不穏な報告が次々と届いている。届くだけマシかもしれないが、そのどれもが正しい知らせとは限らない。罠や嫌がらせが混じっているものとして対処するのが正解だ。
 今、紫曄が気を抜ける場所は、凛花の傍だけなのだろう。双嵐とは幼馴染でお互い信頼し合っているが、立場と仕事は付いて回る。
 月華宮を離れ他国にお忍びにでも行かない限り、完全に肩の力を抜くのは難しい。
 そんな事情があるにしても、今日の紫曄はやりすぎだ。凛花に意地悪を仕掛け、揶揄からかい半分に触れたいのは分かるがこれでは作業が進まない。

「これ、主上。息抜きは構わんが、意地悪も程々にせんと凛花殿に嫌われますぞ!」
「そうですよ! さあ、僕たちもお仕事をはじめましょう。朔月妃さま!」

 目ぼしい薬草観察を終えたらしい爺曽孫じじひまごが、じゃれる二人の後ろでそう言った。


 ◆


「おお! これが『隠し庭』か……!」
「うわぁ……すごいですね」

 以前、見つけた木戸から庭に入った。だが予想通り、夏のあの夜よりも随分雑草が茂っている。真夏の盛りに手をいれなかったのだから当然だ。

「老師、兎杜も口覆いを。それからできるだけ肌の露出は避けてください。手袋もしましたね?」

 頷く二人を確認して、凛花は紫曄と共に道を作るべく雑草を刈って進む。
 すでに凛花はここに何度か一人で入り、生えている植物の調査をしている。その時にそれぞれの畑を縄で囲っておいた。それに地面には、剥がれて壊れているが石畳いしだたみの痕跡がある。それらを目印にぐんぐん雑草を刈っていけば、道を作るのはそれほど難しい作業ではない。

「ふう。こんなもんですね」

 凛花は袖で汗を拭って言った。先頭に立ち草むらを進んだ凛花は、頬に泥汚れを付けている。最初は紫曄が先頭に立っていたのだが、紫曄は鎌を使い慣れていなかった。だからまず、大きい通路を凛花が切り拓き、紫曄は小さな通路を担当した。

「随分と汚れたな? ああ、擦り傷も作ってるじゃないか。すまない。コツは掴んだから次からは任せろ」
「ふふっ。いいんですよ、主上。私は慣れてますから!」

 鎌を使い慣れている皇帝がいたらおかしいのだ。それに凛花は、泥汚れも擦り傷も気にしていない。こんなものは土仕事をしていれば当たり前だからだ。
 けれども、少し落ち込む紫曄が妙に可愛らしくて、凛花は笑みをこぼす。入り口付近で観察しながら待っている老師と兎杜は、道ができたことにまだ気付いていない。

「……主上。今日、この後のご予定は?」
「夕刻手前には仕事に戻って、会議がひとつ。あといくつか報告を聞いて……まあ、そのくらいか」
「それでは……今夜も朔月宮にいらっしゃいますか?」

 凛花の言葉に紫曄は目を見開いた。こんなふうに、凛花が紫曄を誘う言葉を口にするのは今までにないことだ。紫曄の視線を感じるが、凛花は俯き笠でその顔を隠す。この頬の熱さはきっと、日差しのせいではない。こんな照れた顔を見せるなんてできるはずがない。すると見えない笠の陰から、フッという忍び笑いが聞こえた。

「行く」
「……っ! はい。とっておきの薬草湯を用意しておきます」

 凛花がそろりと見上げると、柔らかな笑顔を浮かべる紫曄が見えた。
 そして笠に紫曄の指が掛かり、凛花の顔にその影が落ちた時――

「朔月妃さまー! もうそちらへ行ってもよろしいでしょうかー?」

 兎杜から大きな声で呼ばれてしまった。

「あっ、ええ! どうぞー!」

 凛花は紫曄からパッと離れ、大きな声でそう返した。紫曄からは「兎杜め……」と少々恨めしげな声が聞こえたが、そろそろ気を引き締めなければいけない。
 この場所は、まだ気を抜ける場所ではないのだ。凛花が少しずつ見て回っていたとはいえ、本格的な調査はこれから。

(ここ、雑草は伸びていたけど、長年放置されていたにしてはそれ程でもないのよね。たぶん生い茂っては自然に枯れ、また芽吹いては茂るの繰り返しだったせいだわ)

 土の栄養が少なくなっていて、ある程度までしか繁殖はんしょくできなくなっているのか。それとも、もしかしたら生えている毒草が強すぎるせいで、雑草すらあまり繁殖はんしょくできないのかもしれない。凛花は研究者ではない。薬草を育ててきた経験だけでは、分からないことが多すぎる。ここは専門家に任せるのがいい。

「さて、どんな曲者くせものと出会えるか楽しみじゃな」
「黄老師。突然のお願いでしたのに、快くお受けくださりありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「よいよい。主上と凛花殿が何やらコソコソ探っているのは気付いておったからの」

 さっそく見て回る老師は度々足を止め、険しい顔で薬草を見つめている。
 後ろを付いていく兎杜は、老師に呼ばれる度に驚いた顔を見せ、その都度、手元の帳面に筆を走らせる。

「……老師。俺たちの隠し事に気が付いていたのか」
「あっはは! 主上よ、馬鹿にするんでない。爺だけじゃないぞ? 雪嵐と晴嵐、それに麗麗は随分心配しているようじゃ」

 凛花はぐっと眉根を寄せた。
 やはり麗麗に余計な心配をさせてしまっていた。麗麗には世話ばかり掛けているのに、隠し庭のことだけでなく、紫曄との夜のこと、虎化の秘密も明かしていない。
 尽くしてくれる大切な侍女じじょに対して、秘密が増えていくのは心苦しい。

「まあ、話せないのも分からなくはないがの。爺にもまだ全ては話しておらんじゃろう?」

 黄老師は『神仙と薬草の研究者』で『大書庫の主』だ。前皇帝や、その前の皇帝のもとでも重用されていたと聞く。この小花園を作った大昔の望月妃についても、何か知っていてもおかしくない。

(もし大昔の望月妃が人虎じんこで、老師がそれを知っていたら……)

 だとしても、やっぱり秘密を人に明かすのは怖い。凛花はそう思う。隠し庭はまだ、凛花の秘密そのものではない。だがその一端が垣間見える重要な場所ではある。

(少しずつ、信用できる人の手を借りていけたらとは思うけど……)
「全てをお話しできず申し訳ございません。老師」
「老師、兎杜。この庭のことは決して口外しないよう頼む」

 深く頭を下げる凛花に寄り添い、紫曄も言葉を重ねる。

「はい」
「分かっておるよ。爺は二人の味方じゃ。しかしここは……何を目的に作られた庭か。ほこらも気になるし、これは月官げっかんの意見も聞きたいところじゃなあ」

 老師は二人に意味ありげな視線を向ける。
 ――月官げっかんといえば、へきだ。
 星祭で得てしまった凛花のおかしな崇拝者、月官げっかんで薬師でもある碧をここに招けば話が早いし、進展も望めそうではある。だが、ここは後宮だ。外部の者を招き入れることはかなり難しい。それにだ。紫曄が許すわけがない。
 白虎の凛花を崇拝しているらしいが、碧にとって『白虎』と『白虎に変化する凛花』のどちらがより大切なのかがまだよく分からない。研究と称して何をしでかすか不明で危険でもある。
 彼を星祭中に一時保護した朱歌も、神月殿である程度長く付き合ってきたが、『碧は所謂変人なのでよく分からない』と言っているくらい。
 出会ったばかりの凛花や紫曄にはもっと訳が分からない男だ。
 虎化の謎を解き明かすために重要な人物であることは確かだが、どのように関わっていくべきか、どの程度信用していいものか、凛花はその塩梅をまだ掴めずにいる。

「ま、ここはじじいと兎杜が調査を進めてやろう。後で月官げっかんに意見を求めても遅くはない。信用できる月官げっかんが見つかったなら、爺の研究仲間ということにして招くがいい」

 凛花と紫曄は頷く。有り難い申し出だ。
 老師は紫曄の太傅たいふ。その影響力は強い。それに星祭での一件も話せることは話してある。紫曄の大事な相談役は、いまだ月華宮を掌握しょうあくしきれていない紫曄のたてであり、ほこであり、耳の一人でもあるだろう。

(長く皇帝に仕えてきた老師は、私や主上が知らないことも知っている)

 老師の信を得て、その知識を全て貸してもらうことができたらと思う。
 しかし、老師はそんなに甘くない。

(老師にとっては、私も碧と同じね。師事を受けていても、全幅の信頼を得るまでにはいっていない)

 星祭の一件も、その他の出来事も、きっと紫曄の妃として相応しいか、試されているのだとも思う。

「黄老師。ここをお任せいたします」
「おうよ。楽しみじゃ! 一体どんな植物があるのか、調べ甲斐があるわ」
「ふふ、頼もしい限りです。兎杜もよろしくね」
「はい! 記録は僕にお任せください! 朔月妃さま。秘密もしっかり守ります。ご安心ください!」

 凛花は微笑み頷いた。

(うん。私も自分にできることをやらなくちゃ)

 凛花には、ずっと気になっていたことがある。
 この月華宮の皇帝と望月妃、それから神月殿には、虎化の謎を解き明かすための手掛かりが存在していた。それも三冊の書物に分けられ、秘密を隠すように、守るように残されていたのだ。

(雲蛍州の虞家うちにも、何か残っているかもしれない。ううん、残っているはず)

 たぶん虞家は、月魄国げっぱくこくで唯一、虎化を受け継いでいる一族だ。
 明日にでも、当主である父に古文書を探し送ってくれと文を送ろう。

(それにしても、どうして皇帝だけに閲覧が許された『輝月宮きげつきゅうの書』に、白い虎が描かれていたのか――)

 凛花は星祭の後、紫曄に見せてもらったあの書物のことがずっと引っ掛かっていた。
 三冊揃え、比べてみなければきっと本当の意味は分からない。
 どうしてそこまでするのだろう。あの書物は、どんな目的で記され、何を残し、何を隠そうとしていたのか。それにもし、虞家にも書物が伝わっていて、四冊に増えたなら、謎が深まるのか、それとも解明できるのか。

(……分からないことだらけだわ)

 隠し庭の毒薬草たちが、さわさわと揺れている。風に乗り香っているのは、また蕾の金桂花だ。凛花の鼻だけに届くその香りが妙な胸騒ぎを感じさせ、凛花は紫曄の袖をそっと握った。


 紫曄と共に隠し庭を出た凛花は、水路で双嵐を手伝っている麗麗に駆け寄った。

「麗麗、ご苦労さま! 作業はどう?」
「凛花さま! いけません、濡れてしまいます」
「いいの。水路は大変でしょう? 麗麗と一緒に作業をしたいし、主上も少し涼みたいそうだし」

 ね、と凛花は紫曄を見上げる。

「そうだな。お前たちだけでは手が足りていなそうだし、やるか」

 凛花と紫曄は、共に裾を捲り上げ、腕まくりをして水路に入る。小花園を潤すこの湧き水は、思ったよりも冷たくて気持ちがいい。
 ふと見れば、水遊びがてらと水路を選んだ晴嵐は、ずぶ濡れになりながら、楽しそうに崩れた水路を補修している。あれでは脱いだほうがよかったかもしれないと凛花は笑い、麗麗は呆れた顔をしていた。

「紫曄は晴嵐から離れて作業をしたほうがいいですよ。こうなりますから」

 ずぶ濡れでそう言った雪嵐は、珍しく眼鏡を外している。うっかり割られては困ると用心してのことだろう。泥が跳ねている顔はうんざりしている。

「はは! 晴嵐にやられたのか。相変わらずだなあ」
「まあ、いい息抜きになっているようですが……」

 こんな酷いなりでどうやって戻りましょう。雪嵐は、はぁ~と溜息を吐いた。


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