宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第三章・自称:悪役たちの依頼

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「そんなに大変なものなの? 飲みこまれた文字を取りだすって」

「お前の場合は飲みこまれた文字が、精神に関わっている。下手したら廃人だ。念には念を入れる」

 廃人。千代はごくりと喉を鳴らす。
 文字屋が綺麗な半紙を見つめ、小筆に墨を吸わせる。半紙の右側に千代の名前、左側に陽ノ下神胡白ひのもとしんこはくと続けて書き、小刀で右親指の腹をぷつりと突いた。真っ赤な鮮血が流れる右親指を、半紙の自分の名前に垂らしていく。

天狐帝てんこていである陽ノ下神玄之丞ひのもとしんげんのすけに、息子である陽ノ下神胡白ひのもとしんこはくが問う。右の者を飲みこんだ文字を取りだす許可をいただきたい」

 ぎゅっと最後に指腹を半紙に押しつけ、文字屋が口を閉ざす。沈黙が続く。千代も細く白い息を吐きながら、じっと何かが起こるのを待った。

『許可する』

 四体の狐像が地の底から震えるような声をだし、部屋の空気をもびりびりと震わせる。心臓をぎゅっと掴むような声の力に、千代は思わず姿勢を正した。

『条件だ。娘に瞳を晒せ』

 文字屋がぎゅっと両手を握りしめる。ふっと短く息を吐くと、瞳をおおっていた包帯をしゅるしゅると解く。長い前髪を左右に避けると、右眼は夜を飲みこんだ暗い漆黒、左の狐眼きつねめに金の明かりが灯った。
 半妖──紙屋のお鶴が言っていた言葉が、千代の脳裏で蘇る。

「これでいいか」

 低く唸る笑い声で室内を揺らし、再度『許可する』の声が響き渡ると、四体の狐像は黙りこくった。
 文字屋が新しい半紙を取りだし、下敷きの上に置き、文鎮を乗せる。穂先まで茶色な筆を手に取り、墨を吸わせる。

「今回使うのは馬の毛で作られた筆だ。書道初心者が扱いやすい筆であり、この筆から全てが始まると言ってもいい。
 千代。お前を飲みこんだ文字は既に分かっている。お前自身、何か思い当たることはないのか」

「……文字屋くんが教えてくれなかったから、いじめの漢字を勝手に調べたの。文字屋くんがお風呂に入っている間に、文字屋くんの仕事部屋にある辞書で。二つあった片方だと思う。
 一つはわたしでも分かる【ぎゃく】。しいたげるとか、虐待とか。読めなかったもう一つだと思う」

 今すぐにでも腕をかきむしりたい。真っ赤な血がでてもかきむしりたい。けれども、見据えてくる金の狐眼がそれを許さない。
 千代が葛藤している最中、文字屋が楷書体で一文字を書いた。

【苛】

「読み方も意味も多々あるが、お前の場合は【いらつ】だ。苛立いらだつ、物事を早くするよう急がせる。そして」

 文字屋が再度筆を取り、新しい半紙に【苛苛】と書く。
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