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(七)神谷館の車丹波
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車氏の本貫地である車城や満願寺よりもさらに北、常陸との国境を越えた南陸奥の神谷の地に、現在の車氏の本家が在する神谷館がある。
ここは、今でこそ佐竹家の領地であるが、元々は岩城家の領分に属している。
北の守りを任されたというよりは、本領を召し上げられた車家が身柄を預けられた、といった方が実態に近いのかもしれない。
車氏はこの近辺一万六千石余りを拝領したという話もあるが、疑わしい。
その神谷館の主である車丹波守義照は、斯忠と同い年の次兄である。
同年生まれではあるが双子ではなく、斯忠とは母が違う。
義照の母は正室で、斯忠の母は側室でかつ身分が低かったため、出生は斯忠のほうがわずかながら先であるにも関わらず、斯忠は三男扱いとなっていた。
天正三年(一五七五年)、長兄である義英が、父・義秀よりも先に亡くなった。
義英の没後、義照は自ら丹波守を称するようになった。
丹波守の受領名は、車家の歴代当主がしばしば名乗りに用いてきたものであり、己が後継者であると宣言したと考えてよい。
義照が世継である事実は斯忠も受け入れていたが、殊更に嫡子として兄貴面をすることには持ち前の反骨の気性が騒がずにはおれない。
思案の結果、斯忠は敢えて同じ丹波守を自称することを決めた。
官途名や受領名を自称する行為は戦国の世にあって当たり前のように行われているが、同じ家中で同じ名を名乗らないのは不文律である。
それは、一つの官位に複数の人間が任じられることはないから、という建前論というよりも、単純に区別がつかなくなるからだろう。まして一族が代々受け継ぐような名を、兄弟が同時に名乗るなど、ややこしくて仕方がない。
当然、義照は言うまでもなく、義秀も怒りを露わにして斯忠に撤回を求めたが、耳を貸すような男ではない。
加えて、斯忠を重用している当時の佐竹家当主・義重がこの御家騒動とも言えぬ喧嘩に介入し、斯忠に肩入れして丹波守の名乗りを許したため、話は複雑になった。
義照は斯忠の丹波守を取り消させることが出来なくなったが、かといって自ら引き下がるつもりもない。
結局、「車丹波守」が同時期に二人、同じ家中で並び立つ結果になった。
佐竹家中で書状などに書き記す時は丹波守と書いても、口頭で呼ぶときは斯忠を綽名の「虎」と呼んで区別する慣例が出来たのは、そのためだった。
義秀・義照父子は、いずれも蒲柳の質であったため、合戦で華々しく活躍することもなく、あまり世に名を知られていない。
対照的に、元服前に佐竹氏に人質同然に差し出された斯忠は頑健そのもので、佐竹義重の小姓として仕え、元服後は車家の陣代として度々出陣し、耳目を集める戦功をあげていた。
世間的には、斯忠こそ世継と思われている風潮もあり、義秀・義照父子と斯忠の折り合いがさらに悪くなる一因となっていた。
従って、斯忠としても出来ることならば知らぬ顔をして会津に向かいたいところではあるが、この手のけじめは付けないと気が済まないのが、車丹波という男である。
斯忠は率いてきた人数を、神谷館の東に建つ一山寺の境内に入れる。
この寺は、義照が満願寺に代わる新たな菩提寺として開いたものだ。
一山寺の僧侶たちは満願寺の有借上人と異なり、時ならぬ珍客に露骨に嫌な顔をみせたが、同時に後難を恐れてか腰が引けている。
斯忠も、ここでいちいち喧嘩するつもりはない。
「我が兄に、別れの挨拶をしに参っただけじゃ。すぐに立ち去るゆえ、しばし勘弁願いたい」
と、住職に向かって斯忠なりに丁寧に詫びを入れ、後を嶋左源次に託す。
そして、団吉に大黒の轡を取らせた斯忠は、わずかな供を連れて数年ぶりに神谷館の門をくぐった。
「水戸での話は聞いておる。この期に及んでお屋形様から勘気を被るとは、下手を打ったものじゃな」
書院で斯忠と向かい合った義照は、嘲りを含んだ口ぶりで切って捨てる。
生来、体質が虚弱であるため、顔は青白く、声も細い。
「面目次第もございません。これより人数を率いて会津に向かいますゆえ、暇乞いのため参上した次第」
これが最後だと思えば、年の差はわずかとはいえ「年下の兄」を相手に、下手に出ることもさほど苦痛ではなかった。
「あまり面倒を起こして、車の名を汚してくれるなよ」
「無論のこと。されど、此度は佐竹の御家にとっても切所にござる。お屋形様の真意は定かではありませぬが、もし徳川を敵とするならば、持てる兵を全て動員して立ち向かう事になりますでしょう。その時は兄上こそ、車家の名に恥じぬ戦さ働きをせねばなりますまいな」
斯忠なりの皮肉である。
車家は長らく、佐竹家に従って参陣する際は、斯忠に軍配を預け、手勢の采配を任せるのが慣習となっていた。従って、戦場の経験は乏しい。
佐竹を相手どった無謀な挙兵をした父・義秀があっけなく討たれた際にも、義照は車城の奥深くで震えていただけだったのだ。
それ故に、車城が佐竹氏に取り上げられても命までは奪われることなく、この神谷館に移封されるだけで済んだとも言える。
要するに、義照は戦さの采配についてはまったくの未経験なのだ。
「もちろん儂とて、やるとなれば相応の働きをしてみせよう」
義照は胸を張ったが、その表情には怯えの色が伺えた。
「会津の地から、御健闘をお祈りいたします。出来れば、戦場でまみえたくはございませぬな」
どうしても義照を前にすると、斯忠も憎まれ口になりがちだった。
元より、誰とでも判りあえるなどとは思っていないが、腹違いとはいえ実の兄弟同士で、最後まで和解できないのは斯忠としても寂しい思いがした。
そんな斯忠の思いを知ってか知らずか、義照は青白い顔に不敵な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「その時は容赦せぬ、といちおう言うておこう。あと、言うまでもないが、お主の長男を連れていくことはまかりならぬぞ。お屋形様から責めを受けたのは、お主だけなのじゃからな」
本来であれば、積もる話はいくらでもあるのだろうが、お互いに旧交を温める必要を感じていなかった。
さっさと腰を上げた斯忠は、書院を出たところで、廊下の隅で待っていた彼の長男・車新左衛門と顔を合わせた。
「父上。お久しゅうございます」
母の血が濃いのか、新左衛門は細面の持ち主で、斯忠とは似ていない。
「うむ。とは申せ、すぐに出立いたすゆえ、お主と話をしている間はないのじゃ。許せよ」
実のところ、斯忠は会津行きを決めてから今日まで、新左衛門の存在をほぼ忘れていた。
幼少の頃から証人、つまり人質として義照の元に預けられていたため、どう接してよいか判らない部分がある。
「それがしは、どうすれば良いのでしょうか。本当は、御本家様の言葉を振り切ってでも、父上に従うべきなのでしょうか」
不安げな表情をみせる新左衛門の頭を、斯忠は不意にこみ上げるものがあり、それをごまかすように乱暴に撫でまわした。
「なにをなさいます」
新左衛門が戸惑った声をあげる。
「あのな、お前さんの出処進退に、正しいも間違いもねぇんだ。胸を張って、自分の決めたとおりにやるだけじゃねえか」
斯忠はそう言いながらも、新左衛門はついて来るまいと思った。
線の細い面立ちは斯忠には似ていないが、新左衛門からみれば伯父にあたる義照や、祖父の義秀には似ている気がした。
ならば気性も近いのだろう。戦さで命を捨てて敵中に飛び込んでいける性分ではない。
「それがしは……」
新左衛門はうつむいて黙り込む。
自ら牢人となって父と共に会津に向かうことを父子としてあるべき姿として頭の中では思い描きつつ、それを決断できない自分を恥じている。
そんな感情の動きが、斯忠には手に取るように感じられた。
(どうにかして、もっと会う機会を作っておくべきだったなぁ)
内心で後悔はするものの、気の利いた言葉は、斯忠も口に出来ない。
結局、その口から発せられたのは、「達者で暮らせよ」の一言だけだった。
「はい」
新左衛門は小さくうなずく。
斯忠は、別れの合図のように新左衛門の肩を軽く叩いてその場を去り、足を止めることなく門の外に出た。
団吉が曳いてきた大黒に跨り、配下が待つ一山寺へと向かう。
その間、一度たりとも神谷館を振り返ることはなかった。
ここは、今でこそ佐竹家の領地であるが、元々は岩城家の領分に属している。
北の守りを任されたというよりは、本領を召し上げられた車家が身柄を預けられた、といった方が実態に近いのかもしれない。
車氏はこの近辺一万六千石余りを拝領したという話もあるが、疑わしい。
その神谷館の主である車丹波守義照は、斯忠と同い年の次兄である。
同年生まれではあるが双子ではなく、斯忠とは母が違う。
義照の母は正室で、斯忠の母は側室でかつ身分が低かったため、出生は斯忠のほうがわずかながら先であるにも関わらず、斯忠は三男扱いとなっていた。
天正三年(一五七五年)、長兄である義英が、父・義秀よりも先に亡くなった。
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義照が世継である事実は斯忠も受け入れていたが、殊更に嫡子として兄貴面をすることには持ち前の反骨の気性が騒がずにはおれない。
思案の結果、斯忠は敢えて同じ丹波守を自称することを決めた。
官途名や受領名を自称する行為は戦国の世にあって当たり前のように行われているが、同じ家中で同じ名を名乗らないのは不文律である。
それは、一つの官位に複数の人間が任じられることはないから、という建前論というよりも、単純に区別がつかなくなるからだろう。まして一族が代々受け継ぐような名を、兄弟が同時に名乗るなど、ややこしくて仕方がない。
当然、義照は言うまでもなく、義秀も怒りを露わにして斯忠に撤回を求めたが、耳を貸すような男ではない。
加えて、斯忠を重用している当時の佐竹家当主・義重がこの御家騒動とも言えぬ喧嘩に介入し、斯忠に肩入れして丹波守の名乗りを許したため、話は複雑になった。
義照は斯忠の丹波守を取り消させることが出来なくなったが、かといって自ら引き下がるつもりもない。
結局、「車丹波守」が同時期に二人、同じ家中で並び立つ結果になった。
佐竹家中で書状などに書き記す時は丹波守と書いても、口頭で呼ぶときは斯忠を綽名の「虎」と呼んで区別する慣例が出来たのは、そのためだった。
義秀・義照父子は、いずれも蒲柳の質であったため、合戦で華々しく活躍することもなく、あまり世に名を知られていない。
対照的に、元服前に佐竹氏に人質同然に差し出された斯忠は頑健そのもので、佐竹義重の小姓として仕え、元服後は車家の陣代として度々出陣し、耳目を集める戦功をあげていた。
世間的には、斯忠こそ世継と思われている風潮もあり、義秀・義照父子と斯忠の折り合いがさらに悪くなる一因となっていた。
従って、斯忠としても出来ることならば知らぬ顔をして会津に向かいたいところではあるが、この手のけじめは付けないと気が済まないのが、車丹波という男である。
斯忠は率いてきた人数を、神谷館の東に建つ一山寺の境内に入れる。
この寺は、義照が満願寺に代わる新たな菩提寺として開いたものだ。
一山寺の僧侶たちは満願寺の有借上人と異なり、時ならぬ珍客に露骨に嫌な顔をみせたが、同時に後難を恐れてか腰が引けている。
斯忠も、ここでいちいち喧嘩するつもりはない。
「我が兄に、別れの挨拶をしに参っただけじゃ。すぐに立ち去るゆえ、しばし勘弁願いたい」
と、住職に向かって斯忠なりに丁寧に詫びを入れ、後を嶋左源次に託す。
そして、団吉に大黒の轡を取らせた斯忠は、わずかな供を連れて数年ぶりに神谷館の門をくぐった。
「水戸での話は聞いておる。この期に及んでお屋形様から勘気を被るとは、下手を打ったものじゃな」
書院で斯忠と向かい合った義照は、嘲りを含んだ口ぶりで切って捨てる。
生来、体質が虚弱であるため、顔は青白く、声も細い。
「面目次第もございません。これより人数を率いて会津に向かいますゆえ、暇乞いのため参上した次第」
これが最後だと思えば、年の差はわずかとはいえ「年下の兄」を相手に、下手に出ることもさほど苦痛ではなかった。
「あまり面倒を起こして、車の名を汚してくれるなよ」
「無論のこと。されど、此度は佐竹の御家にとっても切所にござる。お屋形様の真意は定かではありませぬが、もし徳川を敵とするならば、持てる兵を全て動員して立ち向かう事になりますでしょう。その時は兄上こそ、車家の名に恥じぬ戦さ働きをせねばなりますまいな」
斯忠なりの皮肉である。
車家は長らく、佐竹家に従って参陣する際は、斯忠に軍配を預け、手勢の采配を任せるのが慣習となっていた。従って、戦場の経験は乏しい。
佐竹を相手どった無謀な挙兵をした父・義秀があっけなく討たれた際にも、義照は車城の奥深くで震えていただけだったのだ。
それ故に、車城が佐竹氏に取り上げられても命までは奪われることなく、この神谷館に移封されるだけで済んだとも言える。
要するに、義照は戦さの采配についてはまったくの未経験なのだ。
「もちろん儂とて、やるとなれば相応の働きをしてみせよう」
義照は胸を張ったが、その表情には怯えの色が伺えた。
「会津の地から、御健闘をお祈りいたします。出来れば、戦場でまみえたくはございませぬな」
どうしても義照を前にすると、斯忠も憎まれ口になりがちだった。
元より、誰とでも判りあえるなどとは思っていないが、腹違いとはいえ実の兄弟同士で、最後まで和解できないのは斯忠としても寂しい思いがした。
そんな斯忠の思いを知ってか知らずか、義照は青白い顔に不敵な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「その時は容赦せぬ、といちおう言うておこう。あと、言うまでもないが、お主の長男を連れていくことはまかりならぬぞ。お屋形様から責めを受けたのは、お主だけなのじゃからな」
本来であれば、積もる話はいくらでもあるのだろうが、お互いに旧交を温める必要を感じていなかった。
さっさと腰を上げた斯忠は、書院を出たところで、廊下の隅で待っていた彼の長男・車新左衛門と顔を合わせた。
「父上。お久しゅうございます」
母の血が濃いのか、新左衛門は細面の持ち主で、斯忠とは似ていない。
「うむ。とは申せ、すぐに出立いたすゆえ、お主と話をしている間はないのじゃ。許せよ」
実のところ、斯忠は会津行きを決めてから今日まで、新左衛門の存在をほぼ忘れていた。
幼少の頃から証人、つまり人質として義照の元に預けられていたため、どう接してよいか判らない部分がある。
「それがしは、どうすれば良いのでしょうか。本当は、御本家様の言葉を振り切ってでも、父上に従うべきなのでしょうか」
不安げな表情をみせる新左衛門の頭を、斯忠は不意にこみ上げるものがあり、それをごまかすように乱暴に撫でまわした。
「なにをなさいます」
新左衛門が戸惑った声をあげる。
「あのな、お前さんの出処進退に、正しいも間違いもねぇんだ。胸を張って、自分の決めたとおりにやるだけじゃねえか」
斯忠はそう言いながらも、新左衛門はついて来るまいと思った。
線の細い面立ちは斯忠には似ていないが、新左衛門からみれば伯父にあたる義照や、祖父の義秀には似ている気がした。
ならば気性も近いのだろう。戦さで命を捨てて敵中に飛び込んでいける性分ではない。
「それがしは……」
新左衛門はうつむいて黙り込む。
自ら牢人となって父と共に会津に向かうことを父子としてあるべき姿として頭の中では思い描きつつ、それを決断できない自分を恥じている。
そんな感情の動きが、斯忠には手に取るように感じられた。
(どうにかして、もっと会う機会を作っておくべきだったなぁ)
内心で後悔はするものの、気の利いた言葉は、斯忠も口に出来ない。
結局、その口から発せられたのは、「達者で暮らせよ」の一言だけだった。
「はい」
新左衛門は小さくうなずく。
斯忠は、別れの合図のように新左衛門の肩を軽く叩いてその場を去り、足を止めることなく門の外に出た。
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(2022.04.04)
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