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(八)直江兼続
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神谷館を出立した斯忠は、街道を西に進んで上杉領との国境に設けられた関所に差し掛かった。
さすがに斯忠も緊張を覚えるが、善七郎による先触れがあったとはいえ、いきなり五百もの兵に押しかけられた関所の番卒のほうが緊張の度合いは高かったに違いない。
いくら国境の関所でも、戦さも始まっていないのに軍勢五百に対抗できるだけの人数が常に駐在している訳ではないのだ。
「御役目ご苦労。元佐竹家中、車丹波守以下五百、会津中納言様に加勢したく参上した!」
腹巻の上に陣羽織を羽織る、いつもの戦装束に身を固めた斯忠は手勢の最前列に立って、大音声を発して名乗りを上げる。
「元」の部分を口にするときは若干声が小さくなっていたが、嘘は言っていない。
なお、会津中納言とは上杉景勝を指す。
徳川家康が主導する上杉討伐が実施されるとなれば、北の伊達や最上はほぼ上杉の敵に回ることが確実である。
南の大国である佐竹が味方してくれるかどうかは、国境に在する一介の番卒達にとっても重大な関心事である。
車丹波守が佐竹家を召し放ちになり、兵を募っていたことは、この関所にまで噂が届いていたようだ。
斯忠らには形ばかりの詮議が行われただけで、すぐさま関所を通されることになった。
わざわざ「佐竹の援軍」の来着を知らせる早馬が用意されて、鶴ヶ城に向けて走り去るのがみえた。
***
無事に関所を抜けた斯忠達が街道をさらに西進し、郡山を経由して会津入りしたのは三月十八日。
満願寺を出立して以来、都合六日を要する軍旅となった。
単身であれば四日でも着く距離であるが、相応の人数による行軍となると、一日の移動距離は半分ほどにも減少する。
誰か一人でも腹を下したり足を挫いたりするだけでも、脱落者を出さないための措置が必要となるためだ。
もちろん、戦さが近いかもしれないとの緊張が高まる中、上杉領内にすんなりと通される筈もない。
ちなみに、会津に引き連れた人数は、軍記物や史料によって三百名であったり五百名であったりと差異がみられる。
それはさておき。
上杉の会津移封から二年が経ち、既に多くの牢人者が仕官をしており、その意味では斯忠は出遅れたともいえる。
しかし、それら牢人者のほとんどは、身一つにわずかな従者を連れただけで仕官している筈である。
斯忠としては、三百なり五百なりの人数こそが、己を売り込む際の切り札であり、どれだけ大所帯になろうが打ち揃って仕官することが大事だった。
そのため斯忠は当初、上杉家の居城である鶴ヶ城に参じようと考えていたが、直江兼続は神指城の普請現場で陣頭指揮を執っているらしいと、先行した善七郎が聞き及んできた。
「鶴ヶ城下で、いつ戻ってくるか判らぬ直江殿を待っているのも時の無駄ってものだ。こっちから会いに行くか」
そう決断した斯忠は、手勢を率いたまま神指城に向かった。
実のところ、満願寺を出立して以来、五百の兵を養うための兵糧と金銭の支出が想像以上に厳しく、少しでも早く仕官を認められたいという本音もあった。
万余の軍勢がぶつかるであろう戦さの前では五百の兵などたいした数ではないが、それでも飯を喰わせ続けるのは大変な負担なのである。
「道理で、誰も俺みたいに兵を集めたりしない訳だよ」
今更ながらその事実を思い知り、仕官が決まる前から少々後悔しはじめている斯忠である。
上杉氏の新たな居城となる神指城の築城は、雪解けを待ちかねるように三月の頭から始まっていた。
普請にあたっては、現在の居城である鶴ヶ城から北西およそ一里の神指村とその周囲の十三の村を立ち退かせたとも言われる。
会津はもとより、他国からも呼び寄せた人足は八万とも十二万とも言われる大規模な普請であり、城の周囲では同時に町割も進められていた。
斯忠らが到着した日は折しも、本丸と二の丸の二十間堀の縄張りが済み、本丸の普請が始まった日でもあった。
「前田慶次殿は五千石だそうな」
「いや、上泉主水殿は既に一万石を扶持しているとか聞いたぞ」
道々で仕入れてきた情報を声高に言い合っている配下連中の声が、斯忠の耳にも届く。
彼らにどれだけの俸禄を与えられるかは、直江兼続が斯忠にどれだけの値を付けるかによって決まる。
その事実にあらためて直面して、さしもの斯忠も頬のあたりがひくつく感触を覚えた。
(柄にもなく緊張なんぞしたって、仕方ねぇ。なるようになれ、だ)
多くの人夫が動員されて神指城の普請にあたっている様子を横目に、斯忠は直江兼続が普請の陣頭指揮を執るために建てたという陣屋に案内された。
「何かと立て込んでおるのでな。この様な場所で相済まぬ」
板間で平伏した斯忠と向かい合った兼続の態度は、言葉とは裏腹に、申し訳なさをまるで感じさせないものだった。
若い頃はさぞ女性の耳目を集めたであろう整った面立ちに、上杉家を一身に背負う自負がみなぎっている。
永禄三年(一五六〇年)生まれの直江兼続は、この時四十一歳。
斯忠と兼続の歳の差は、親子に近いほどもある。
若いくせに威張りやがって、という本音が斯忠の中になくもない。
その手の考えがつい顔に出てしまいがちなのが、車丹波という男である。あるのだが、なんとか平静を装う。
もっとも、そのような心の動きすら、知謀の士である兼続には見透かされているだろうとも思う。
「常陸侍従様より、これをお渡しするようにと預かってござります」
顔をあげて膝を進めた斯忠は、佐竹義宣からの書状を兼続に差し出した。既に己の主君ではないので、他人行儀な表現にならざるを得ない。
「拝見いたす」
受け取った兼続が、書状の封を開いて、記された内容を目で追い始める。
黙って返事を待つ斯忠は、その時になってはじめて、書状に何が書かれているのか気になった。
本当に、車斯忠を召し抱えてくれるように頼む文面を、義宣が書いてくれているとは限らないのだ。
(迂闊だったかな)
斯忠は、膝の上においた掌がじっとりと汗ばむのを感じた。
例えば、「この書状を持ってきた男は佐竹と上杉の間に害を為す者であるから斬っていただきたい」などと記されていれば、一巻の終わりである。
だが、今更じたばたしてもはじまらない。斯忠は、ただ息を詰めて兼続の反応を待つ。
ややあって、兼続が口を開いた。
「随分と人数を引き連れての御参陣であるが、この書状には、貴公お一人のことしか書かれておらぬ。これは如何に」
口先だけの言い逃れは許さぬ、とばかりに鋭い眼光が斯忠に向けられる。
並の者であれば、圧倒されて言葉も出なくなりそうなところであるが、斯忠とて胆力ならそう引けを取るものではない。
「出来る限り、人数を連れてきたほうがお役に立つと存じましたゆえ、独断で募った者どもにござります」
斯忠は腹に力を込めて言い切る。
もっとも内心では、兼続の言葉から、引き連れた人数をそのまま自分の配下として扱ってくれるとは限らない可能性を感じて、焦りを覚えていた。
兵五百に対する指揮権は取り上げられて、同列の一騎駆けの武者として扱われる可能性も充分に考えられるのだ。
(なんでそういうことは先に気づかねぇかな)
自分で自分の頭を小突きたくなる。
大人数で乗り込めば、その分高い俸禄が与えられるのでは、との自分の考えが甘かったと思わざるを得ない。
だが、兼続が次に口にしたのは、斯忠の予想とは異なる言葉だった。
「他に、常陸侍従様からの口伝はござらぬのかな」
「いえ、そのようなものはございませぬ。なにしろ、お屋形様……、もとい、常陸侍従様は正月の年賀のために大坂に上って以来、国に戻っておりませぬゆえ」
「つまり、此度の会津入りは、あくまでも佐竹家を召し放ちとなり、牢人となったが故のことである、そう申される訳じゃな」
念押しを受けて、斯忠にも兼続が何を確かめようとしているのか理解できた。
「残念ながら、常陸侍従様が御家へに御味方すると決意して、先んじて拙者を送り込んだなどという話はございませぬ。巧言を弄したくはございませぬゆえ、そこははっきりと申し上げておきますぞ」
口だけならなんとでも言えるのだが、ぬか喜びさせて後で恨みを買うのも面白くない。
そう考えた斯忠は、あえて突き放す様な言葉を口にした。
兼続はわずかに眉を寄せたものの、それ以上は恨み事の一つも口にしなかった。
すぐに表情を消して、斯忠を見据えて口を開く。
「……なるほど。では車殿はあくまでも牢人者として組外衆に加わるとのことでよろしいな」
「組外衆とは、また存外な言われ様」
他所者を下に見る思惑を兼続の言葉に感じた斯忠は、場もわきまえずに声を荒げて言い返してしまった。
だが、兼続は涼しい顔のままだ。
「当家には、越後以来の家臣は幾つかの組のいずれかに属しておる。新たに仕官した者はみな、組外御扶持方、いわゆる組外衆と呼ばれておる。他意はござらぬ」
「左様でございましたか。そういう習わしなら致し方ないですが、どうにも尻の座りが悪い呼び名にござるな」
照れ隠しと嫌味を込めて、そんな軽口を叩く斯忠に対し、兼続はにこりともしない。
(どうにも、やりにくいね)
斯忠は内心で呟く。
和田照為を相手にするときよりも、さらに反りがあわないのではないかと感じてしまう。
「して車殿は、いかほどの扶持をご所望かな」
兼続の問いは、まさに斯忠にとって最も大事なところである。
「もらえるのならばいくらでも、などとは申しませぬ。ただ、引き連れた五百名を喰わせるため、一万石は頂戴したいと考えてござる」
身を乗り出し、力んで発した斯忠の言葉に、兼続は薄く笑みを浮かべた。
「それだけの人数を養うとなれば、確かに一万石は必要であろう。ではあるが、遺憾ながらそこまでお渡しは出来かねる。とりあえずは、長井郡に一千石と考えておる」
希望の十分の一である。斯忠は思わず腰を浮かせかけた。
「それは、いくらなんでも」
「まあ、聞かれよ。当家が会津の地に入ってまだ二年。領内の仕置きも十分に行えておらぬ。車殿ほどの武勇の士が、領民の宣撫などに刻を費やすなどということがあっては、当家にとって損失にござる」
そのため、当分の間は実際には所領を与えない代わりに、一千石相当の給金を支給する。
屋敷や陣屋、また衣服なども上杉家から供給したい、と兼続は一千石の意味を説明した。
蔵米ではなく、給金であることにも斯忠は不満である。
戦さが近いことを思えば、兵糧米は少しでも備蓄したいとの思惑は理解できなくもないが、年貢米を手にしてこそ武士だ、との昔からの考えが斯忠の頭から抜けない。
ともあれ、一千石分の給金で、五百人分の人夫を雇う体裁を整える、というのが兼続の提案だった。
不慣れな地を与えられて年貢の取り立てを行うのに四苦八苦して、石高相応の兵を動員するのに汲々とするよりも、最初から兵を引き連れているのなら人数相応の給金を貰うほうが手間がかからない。
そういう話だと斯忠は理解する。
確かに、衣食住のうち衣と住の面倒を上杉家に見てもらううえ、給金が支給されるのであれば、日々の暮らしは成り立つであろう。
だが、既に組頭や小頭を任命して陣立てを整えているにも関わらず、全員が人夫並の給金しか得られない、となれば不満を持つ者も出てくるのは明らかだった。
(さて、どうするかな)
斯忠はしばし、口をへの字に引き結んで考え込む。
万石取りの武士になるとの目論みには程遠い。
だが、ここで食い下がってみたところで良い方向には向かいそうもなかった。
嫌なら結構、と兼続に追い払われておしまいである。
(自分一人ならなんとでも啖呵を切って尻をまくれるが、五百人も連れてきちまった以上は、どうにもならねぇ)
大人数でおしかけて大領をせしめようとする算段は浅はかだった、と後悔しても後の祭りである。
「よろしくお願いいたしまする」
斯忠は覚悟を決めて、頭を下げるしかなかった。
なお、後世に残された「慶長五年直江山城守支配長井郡分限帳」という史料には、車丹波守の禄高は組外衆の筆頭である前田慶次と並んで一千石と記されているという。
一千石が与えられているのは、彼ら二人を含めて三人しかいないため、斯忠が組外衆の中でも大物として扱われていたことが伺える。
もっとも、あくまでも長井郡の分限帳であるから、他の地に所領を持つ者は当然のことながら出ていない。
そのためか、この分限長には組外衆の全員は網羅されていないようである。
組外衆のまとめ役である上泉主水泰綱や、四千二百石とも一万石とも言われる大領を与えられたといわれる岡左内定俊など、組外衆の猛者として後世に名を残す男達の名は見られない。
しかしいずれにせよ、所領がを与えられたところで、その経営に勤しんでいられる余裕など、今の上杉家にはなかった。
戦雲は、会津のすぐ傍まで近づいていた。
さすがに斯忠も緊張を覚えるが、善七郎による先触れがあったとはいえ、いきなり五百もの兵に押しかけられた関所の番卒のほうが緊張の度合いは高かったに違いない。
いくら国境の関所でも、戦さも始まっていないのに軍勢五百に対抗できるだけの人数が常に駐在している訳ではないのだ。
「御役目ご苦労。元佐竹家中、車丹波守以下五百、会津中納言様に加勢したく参上した!」
腹巻の上に陣羽織を羽織る、いつもの戦装束に身を固めた斯忠は手勢の最前列に立って、大音声を発して名乗りを上げる。
「元」の部分を口にするときは若干声が小さくなっていたが、嘘は言っていない。
なお、会津中納言とは上杉景勝を指す。
徳川家康が主導する上杉討伐が実施されるとなれば、北の伊達や最上はほぼ上杉の敵に回ることが確実である。
南の大国である佐竹が味方してくれるかどうかは、国境に在する一介の番卒達にとっても重大な関心事である。
車丹波守が佐竹家を召し放ちになり、兵を募っていたことは、この関所にまで噂が届いていたようだ。
斯忠らには形ばかりの詮議が行われただけで、すぐさま関所を通されることになった。
わざわざ「佐竹の援軍」の来着を知らせる早馬が用意されて、鶴ヶ城に向けて走り去るのがみえた。
***
無事に関所を抜けた斯忠達が街道をさらに西進し、郡山を経由して会津入りしたのは三月十八日。
満願寺を出立して以来、都合六日を要する軍旅となった。
単身であれば四日でも着く距離であるが、相応の人数による行軍となると、一日の移動距離は半分ほどにも減少する。
誰か一人でも腹を下したり足を挫いたりするだけでも、脱落者を出さないための措置が必要となるためだ。
もちろん、戦さが近いかもしれないとの緊張が高まる中、上杉領内にすんなりと通される筈もない。
ちなみに、会津に引き連れた人数は、軍記物や史料によって三百名であったり五百名であったりと差異がみられる。
それはさておき。
上杉の会津移封から二年が経ち、既に多くの牢人者が仕官をしており、その意味では斯忠は出遅れたともいえる。
しかし、それら牢人者のほとんどは、身一つにわずかな従者を連れただけで仕官している筈である。
斯忠としては、三百なり五百なりの人数こそが、己を売り込む際の切り札であり、どれだけ大所帯になろうが打ち揃って仕官することが大事だった。
そのため斯忠は当初、上杉家の居城である鶴ヶ城に参じようと考えていたが、直江兼続は神指城の普請現場で陣頭指揮を執っているらしいと、先行した善七郎が聞き及んできた。
「鶴ヶ城下で、いつ戻ってくるか判らぬ直江殿を待っているのも時の無駄ってものだ。こっちから会いに行くか」
そう決断した斯忠は、手勢を率いたまま神指城に向かった。
実のところ、満願寺を出立して以来、五百の兵を養うための兵糧と金銭の支出が想像以上に厳しく、少しでも早く仕官を認められたいという本音もあった。
万余の軍勢がぶつかるであろう戦さの前では五百の兵などたいした数ではないが、それでも飯を喰わせ続けるのは大変な負担なのである。
「道理で、誰も俺みたいに兵を集めたりしない訳だよ」
今更ながらその事実を思い知り、仕官が決まる前から少々後悔しはじめている斯忠である。
上杉氏の新たな居城となる神指城の築城は、雪解けを待ちかねるように三月の頭から始まっていた。
普請にあたっては、現在の居城である鶴ヶ城から北西およそ一里の神指村とその周囲の十三の村を立ち退かせたとも言われる。
会津はもとより、他国からも呼び寄せた人足は八万とも十二万とも言われる大規模な普請であり、城の周囲では同時に町割も進められていた。
斯忠らが到着した日は折しも、本丸と二の丸の二十間堀の縄張りが済み、本丸の普請が始まった日でもあった。
「前田慶次殿は五千石だそうな」
「いや、上泉主水殿は既に一万石を扶持しているとか聞いたぞ」
道々で仕入れてきた情報を声高に言い合っている配下連中の声が、斯忠の耳にも届く。
彼らにどれだけの俸禄を与えられるかは、直江兼続が斯忠にどれだけの値を付けるかによって決まる。
その事実にあらためて直面して、さしもの斯忠も頬のあたりがひくつく感触を覚えた。
(柄にもなく緊張なんぞしたって、仕方ねぇ。なるようになれ、だ)
多くの人夫が動員されて神指城の普請にあたっている様子を横目に、斯忠は直江兼続が普請の陣頭指揮を執るために建てたという陣屋に案内された。
「何かと立て込んでおるのでな。この様な場所で相済まぬ」
板間で平伏した斯忠と向かい合った兼続の態度は、言葉とは裏腹に、申し訳なさをまるで感じさせないものだった。
若い頃はさぞ女性の耳目を集めたであろう整った面立ちに、上杉家を一身に背負う自負がみなぎっている。
永禄三年(一五六〇年)生まれの直江兼続は、この時四十一歳。
斯忠と兼続の歳の差は、親子に近いほどもある。
若いくせに威張りやがって、という本音が斯忠の中になくもない。
その手の考えがつい顔に出てしまいがちなのが、車丹波という男である。あるのだが、なんとか平静を装う。
もっとも、そのような心の動きすら、知謀の士である兼続には見透かされているだろうとも思う。
「常陸侍従様より、これをお渡しするようにと預かってござります」
顔をあげて膝を進めた斯忠は、佐竹義宣からの書状を兼続に差し出した。既に己の主君ではないので、他人行儀な表現にならざるを得ない。
「拝見いたす」
受け取った兼続が、書状の封を開いて、記された内容を目で追い始める。
黙って返事を待つ斯忠は、その時になってはじめて、書状に何が書かれているのか気になった。
本当に、車斯忠を召し抱えてくれるように頼む文面を、義宣が書いてくれているとは限らないのだ。
(迂闊だったかな)
斯忠は、膝の上においた掌がじっとりと汗ばむのを感じた。
例えば、「この書状を持ってきた男は佐竹と上杉の間に害を為す者であるから斬っていただきたい」などと記されていれば、一巻の終わりである。
だが、今更じたばたしてもはじまらない。斯忠は、ただ息を詰めて兼続の反応を待つ。
ややあって、兼続が口を開いた。
「随分と人数を引き連れての御参陣であるが、この書状には、貴公お一人のことしか書かれておらぬ。これは如何に」
口先だけの言い逃れは許さぬ、とばかりに鋭い眼光が斯忠に向けられる。
並の者であれば、圧倒されて言葉も出なくなりそうなところであるが、斯忠とて胆力ならそう引けを取るものではない。
「出来る限り、人数を連れてきたほうがお役に立つと存じましたゆえ、独断で募った者どもにござります」
斯忠は腹に力を込めて言い切る。
もっとも内心では、兼続の言葉から、引き連れた人数をそのまま自分の配下として扱ってくれるとは限らない可能性を感じて、焦りを覚えていた。
兵五百に対する指揮権は取り上げられて、同列の一騎駆けの武者として扱われる可能性も充分に考えられるのだ。
(なんでそういうことは先に気づかねぇかな)
自分で自分の頭を小突きたくなる。
大人数で乗り込めば、その分高い俸禄が与えられるのでは、との自分の考えが甘かったと思わざるを得ない。
だが、兼続が次に口にしたのは、斯忠の予想とは異なる言葉だった。
「他に、常陸侍従様からの口伝はござらぬのかな」
「いえ、そのようなものはございませぬ。なにしろ、お屋形様……、もとい、常陸侍従様は正月の年賀のために大坂に上って以来、国に戻っておりませぬゆえ」
「つまり、此度の会津入りは、あくまでも佐竹家を召し放ちとなり、牢人となったが故のことである、そう申される訳じゃな」
念押しを受けて、斯忠にも兼続が何を確かめようとしているのか理解できた。
「残念ながら、常陸侍従様が御家へに御味方すると決意して、先んじて拙者を送り込んだなどという話はございませぬ。巧言を弄したくはございませぬゆえ、そこははっきりと申し上げておきますぞ」
口だけならなんとでも言えるのだが、ぬか喜びさせて後で恨みを買うのも面白くない。
そう考えた斯忠は、あえて突き放す様な言葉を口にした。
兼続はわずかに眉を寄せたものの、それ以上は恨み事の一つも口にしなかった。
すぐに表情を消して、斯忠を見据えて口を開く。
「……なるほど。では車殿はあくまでも牢人者として組外衆に加わるとのことでよろしいな」
「組外衆とは、また存外な言われ様」
他所者を下に見る思惑を兼続の言葉に感じた斯忠は、場もわきまえずに声を荒げて言い返してしまった。
だが、兼続は涼しい顔のままだ。
「当家には、越後以来の家臣は幾つかの組のいずれかに属しておる。新たに仕官した者はみな、組外御扶持方、いわゆる組外衆と呼ばれておる。他意はござらぬ」
「左様でございましたか。そういう習わしなら致し方ないですが、どうにも尻の座りが悪い呼び名にござるな」
照れ隠しと嫌味を込めて、そんな軽口を叩く斯忠に対し、兼続はにこりともしない。
(どうにも、やりにくいね)
斯忠は内心で呟く。
和田照為を相手にするときよりも、さらに反りがあわないのではないかと感じてしまう。
「して車殿は、いかほどの扶持をご所望かな」
兼続の問いは、まさに斯忠にとって最も大事なところである。
「もらえるのならばいくらでも、などとは申しませぬ。ただ、引き連れた五百名を喰わせるため、一万石は頂戴したいと考えてござる」
身を乗り出し、力んで発した斯忠の言葉に、兼続は薄く笑みを浮かべた。
「それだけの人数を養うとなれば、確かに一万石は必要であろう。ではあるが、遺憾ながらそこまでお渡しは出来かねる。とりあえずは、長井郡に一千石と考えておる」
希望の十分の一である。斯忠は思わず腰を浮かせかけた。
「それは、いくらなんでも」
「まあ、聞かれよ。当家が会津の地に入ってまだ二年。領内の仕置きも十分に行えておらぬ。車殿ほどの武勇の士が、領民の宣撫などに刻を費やすなどということがあっては、当家にとって損失にござる」
そのため、当分の間は実際には所領を与えない代わりに、一千石相当の給金を支給する。
屋敷や陣屋、また衣服なども上杉家から供給したい、と兼続は一千石の意味を説明した。
蔵米ではなく、給金であることにも斯忠は不満である。
戦さが近いことを思えば、兵糧米は少しでも備蓄したいとの思惑は理解できなくもないが、年貢米を手にしてこそ武士だ、との昔からの考えが斯忠の頭から抜けない。
ともあれ、一千石分の給金で、五百人分の人夫を雇う体裁を整える、というのが兼続の提案だった。
不慣れな地を与えられて年貢の取り立てを行うのに四苦八苦して、石高相応の兵を動員するのに汲々とするよりも、最初から兵を引き連れているのなら人数相応の給金を貰うほうが手間がかからない。
そういう話だと斯忠は理解する。
確かに、衣食住のうち衣と住の面倒を上杉家に見てもらううえ、給金が支給されるのであれば、日々の暮らしは成り立つであろう。
だが、既に組頭や小頭を任命して陣立てを整えているにも関わらず、全員が人夫並の給金しか得られない、となれば不満を持つ者も出てくるのは明らかだった。
(さて、どうするかな)
斯忠はしばし、口をへの字に引き結んで考え込む。
万石取りの武士になるとの目論みには程遠い。
だが、ここで食い下がってみたところで良い方向には向かいそうもなかった。
嫌なら結構、と兼続に追い払われておしまいである。
(自分一人ならなんとでも啖呵を切って尻をまくれるが、五百人も連れてきちまった以上は、どうにもならねぇ)
大人数でおしかけて大領をせしめようとする算段は浅はかだった、と後悔しても後の祭りである。
「よろしくお願いいたしまする」
斯忠は覚悟を決めて、頭を下げるしかなかった。
なお、後世に残された「慶長五年直江山城守支配長井郡分限帳」という史料には、車丹波守の禄高は組外衆の筆頭である前田慶次と並んで一千石と記されているという。
一千石が与えられているのは、彼ら二人を含めて三人しかいないため、斯忠が組外衆の中でも大物として扱われていたことが伺える。
もっとも、あくまでも長井郡の分限帳であるから、他の地に所領を持つ者は当然のことながら出ていない。
そのためか、この分限長には組外衆の全員は網羅されていないようである。
組外衆のまとめ役である上泉主水泰綱や、四千二百石とも一万石とも言われる大領を与えられたといわれる岡左内定俊など、組外衆の猛者として後世に名を残す男達の名は見られない。
しかしいずれにせよ、所領がを与えられたところで、その経営に勤しんでいられる余裕など、今の上杉家にはなかった。
戦雲は、会津のすぐ傍まで近づいていた。
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橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
忠義の方法
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
冬木丈次郎は二十歳。うらなりと評判の頼りないひよっこ与力。ある日、旗本の屋敷で娘が死んだが、屋敷のほうで理由も言わないから調べてくれという訴えがあった。短編。完結済。
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。
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